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エピソード

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日露戦争後の国際関係V(日英同盟、日露協商、石井・ランシング協定)
 1895(明治28)年、ドイツ皇帝のウィルヘルム2世は、黄禍論を提唱しました。その意味は、「黄色人種の成長は西欧文明=キリスト教文明に脅威を与える」というものです。
 1905(明治38)年、日露戦争後、再び、黄禍論が再燃しました。
 7月29日、桂太郎首相は、韓国・フィリピン問題につき、来日中のアメリカ陸軍長官タフトと会談しました。これを桂・タフト覚書といいます。
(1)アメリカは、「日本の韓国における指導権を承認する」と約束しました。
(2)日本は、「アメリカのフィリピンにおける指導権を承認する」と約束しました。
 8月12日、第二回日英同盟協約に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)イギリスは、「日本の韓国保護国化を承認する」。
(2)適用範囲をインドまで拡大し、期間は10年とする攻守同盟とする。
 9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)に調印しました。その内容は、ロシアは、「日本の韓国の指導権を承認する」というものです。
 10月12日、桂太郎首相は、アメリカの鉄道資本家ハリマンと、南満州鉄道に関する日米シンジケート組織につき呼び協定覚書を交換しました。その内容は、「長春〜旅順間の鉄道を共同で経営する」というものです。
 10月23日、小村寿太郎外相の反対で、ハリマンに覚書中止を通告しました。
 11月17日、第二次日韓協約(乙巳保護条約)に調印しました。
 1906(明治39)年10月11日、サンフランシスコ市は、日本人学童隔離命令を出しました。
 11月1日、駐米上野季三郎領事は、アメリカの商務長官と、日本人学童隔離命令に関して会談しました。
 1907(明治40)年3月13日、サンフランシスコ市の学務局は、日本人学童隔離命令を取り消し、日本学童の復学を許可しました。
 6月10日、日仏協約に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)清国における両国の勢力範囲を確定しました。
(2)フランスはインドシナ半島、日本は福建省を勢力範囲とする。
 7月24日、第三次日韓協約および秘密覚書に調印しました。
 7月30日、第一回日露協約に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)目的は、アメリカ・清国の要求は抑圧する。
(2)日本が韓国を保護化することを、ロシアは承認する
(3)秘密条約で、次のことを取り決める。
 @満蒙勢力範囲を日本は南満州、ロシアは北満州とする。
 A満州に鉄道・電信利権に関する分界線を設置する。
(4)ロシアが西アジア・バルカン半島へ転進することを、日本は妨げない。
 11月16日、アメリカ大使は、林薫外相に対し、書簡で、さらに厳重な労働者渡航制限の励行を要請しました。これを日米紳士協約第1号といいます。その背景・内容は、次の通りです。
(1)日本人移民は、「勤勉・低賃金・長時間労働」に耐えるので、アメリカ人労働者の職場を奪う。
(2)AFLアメリカ労働総同盟)は、日本人移民の排斥を決議しました。
 1908(明治41)年2月18日、林薫外相はアメリカ提案の移民制限の実行方法につき回答しました。これを日米紳士協約第7号といいます。その内容は、「日本政府は対米移民を自主規制する」というものです。
 10月25日、小村寿太郎外相は、駐米大使の高平小五郎に対し、太平洋問題および清国における機会均等主義に関する日米協商案を訓令しました。
 12月2日、太平洋方面に関する日米交換公文を公示しました。その内容は、次の通りです。
(1)太平洋方面における現状維持と清国の領土保全を確認する。
(2)商業上の機会均等主義を確認する。
 1909(明治42)年11月6日、アメリカ国務長官のノックスは、満州鉄道中立化案をイギリスの提議しました。イギリスは、その提議に賛成しました。その目的・内容は、次の通りです。
(1)目的は、日本の南満州権益の独占に対して、門戸開放を唱えて反対する
(2)内容は、清国に資金を援助して満鉄を買収するか、又は満鉄平行線をひく。
 12月8日、アメリカ大使は、日本とロシアに対し、清国とイギリス・アメリカ間に錦愛鉄道(錦州〜愛琿間)敷設借款予備協定の成立を通告しました。
 12月8日、アメリカ大使は、日本・イギリス・フランス・ドイツ・ロシアに対し、満州における鉄道の中立に関する提議を行いました。
 12月18日、ロシア外相は、満州鉄道中立に関するアメリカの提議につき、日本との共同打合わせを希望しました。
 12月31日、日本は、日本の対米回答案を内示しました。
 1910(明治43)年1月21日、日露両国は、「アメリカの満州鉄道中立提議には不同意である」と回答しました。
 3月2日、閣議は、錦愛鉄道敷設に対する態度を決定しました。その内容は、次の通りです。
(1)アメリカ・イギリス・清国の錦愛鉄道計画には参加する。
(2)他方、ロシアの代替線である張家口・恰克図鉄道敷設の要求をも支援する。
 7月4日、第二回日露協約に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)満州の現状維持と鉄道に関しては相互に協力する。
(2)秘密協約で第一回協約の利権分界線をもって特殊利益地域を分ける。
 1911(明治44)年2月21日、日米新通商航海条約に調印しました。初めて関税自主権を確立しました。
 4月5日、閣議は、日英同盟改訂の方針を決定しました。その内容は、次の通りです。
(1)日英同盟は期限を延長する。
(2)米英仲裁裁判条約との関連でアメリカを同盟の適用外におく。
 7月13日、第三回日英同盟協約に調印しました。その内容は、「アメリカを同盟の適用外におく」というものです。
 1912(明治44)年1月16日、閣議は、「満州の利益分界線の延長および内蒙古の勢力範囲分割に関し、ロシアと交渉を開始すること」を決定しました。
 2月12日、清朝が滅亡しました。
 7月8日、第三回日露協約に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)秘密協定のみを改定する。
(2)特殊利益地域の分界線を内蒙古まで延長し、東側を日本、西側をロシアとする。
10  1913(大正2)年5月9日、駐米大使の珍田捨巳は、カリフォルニア州の外国人土地所有禁止法制定に関し、アメリカ国務長官のブライアンに抗議しました。
11  1914(大正3)年7月28日、第一次世界大戦が始まりました。
 8月7日、イギリス大使のグリーンはドイツ武装商船撃破のため、日本の対独戦参加を要請しました。
 8月9日、加藤高明外相は、イギリス大使に対して、東アジアのドイツ勢力一掃のため参戦すると説明しました。
 8月12日、イギリスは、戦地局限を条件として日本の参戦に同意しました。
 8月15日、政府は、ドイツに対し、膠州湾租借地の交付を要求する期限付き最後通牒を発しました。
 8月23日、日本は、ドイツに宣戦布告しました。
 10月14日、日本海軍は、赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領しました。その後、青島も占領しました。
 12月3日、加藤高明外相は駐華公使の日置益に対し、対華要求(21か条の要求)を訓令しました。
12  1915(大正4)年1月7日、袁世凱の中国政府は、中華公使の日置益に対し、戦争区域廃止を通告し、山東省よりの日本軍隊の撤退を要求しました。
 1月18日、日置益公使は、中国大総統の袁世凱に対し、5号21か条の要求を提出しました。その内容は、次の通りです。
(1)旅順・大連の租借期限を延長する。
(2)山東省ドイツ利権の譲渡など膨大な利権を要求する。
 1月22日、日本政府は、対華要求を、中国全土にかかわる第5号を除いて、イギリス・フランス・ロシア・アメリカに通告しました。
 2月20日、アメリカ大使は、日本の対華要求中の第5号について問い合わせたので、日本政府は、各国に第5号の内容を告示しました。
 3月16日、アメリカ国務長官のブラウンは、駐米大使の珍田捨巳に対し、「日本の対華要求の一部に不同意」の覚書を手交しました。
 5月4日、閣議は、元老の意見やイギリス外相のグレーの通告を考慮し、第5号を削除した対華最後通牒案を決定しました。
 5月9日、日置益公使は、中国外交総長の陸徴祥に対して、最後通牒を交付しました。中国は、この要求をすべて承認しました。のち、中国ではこの5.9を中国国恥記念日としました。
 5月13日、アメリカは、日華両国に対し、「日華条約に関し、中国の領土保全と門戸開放に違反すれば不承認とする」と通告しました。
13  1916(大正5)年2月18日、駐露大使の本野一郎は、東支鉄道支線の譲渡を条件として、兵器提供および日露同盟の締結を申し入れました。
 3月30日、イギリス外相は、インド洋・シンガポール方面への軍艦派遣を要請しました。日本は、この要請により軍艦8隻をシンガポール方面に派遣しました。
 7月4日、第四回日露協約に調印しました。その内容は、秘密協定で「中国が第三国の政事的掌握に陥るのを防ぐために相互軍事援助を行う」というものです。
 8月21日、アメリカ大使は、石井菊次郎外相に対し、日露協約に関し中国の独立・領土保全・機会均等につき申し入れをしました。
14  1917(大正6)年2月上旬、日本海軍は、イギリスの「日本軍艦の地中海派遣要請」を受け、地中海に向け、出発しました。
 2月13日、イギリス外相は、駐英大使の珍田捨巳に対し、「講和会議で山東省のドイツ権益ならびに赤道以北のドイツ領諸島に関する日本の要求を支持する」と回答しました。その後、フランス・ロシアも支持を回答しました。
 3月15日、ニコライ2世が退位して、ロシアのロマノフ王朝が滅亡しました。これをロシア2月革命といいます。
 3月16日、ドイツの無制限潜水艦戦により、アメリカ船3隻が撃沈されました。
 4月6日、アメリカ大統領のウィルソンは、ドイツの宣戦布告しました。
 4月6日、駐米大使の佐藤愛麿は、アメリカ国務長官のランシングとの間に、新移民法と日米紳士協約との関係につき書簡を交換しました。
 6月13日、アメリカ派遣特命全権大使に石井菊次郎を任命しました。その任務は、次の通りです。
(1)アメリカにおける日本人の地位を安定化する。
(2)中国における日本の特殊権益に関し商議を行う。
 10月24日、ロシアは、帝国主義時代の条約として、日露通商航海条約の破棄を通告しました(1年後失効)。
 11月2日、日米両国は中国に関する公文を交換しました。これを石井・ランシング協定といいます。その内容は次の通りです。
(1)アメリカは、「日本が領土の近接する中国において特殊権益を有することを認める」。
(2)日米両国は、「中国の独立・門戸開放・機会均等の尊重を約束する」。
 11月7日、ソビエト政権が樹立されました。これをロシア10月革命といいます。
15  1918(大正7)年11月11日、第一次世界大戦が終了しました。、
 この項は、『近代日本史総合年表』などを参考にしました。
国際世論は、日本の軍事行動を承認
 私が、授業で「日露戦争後、日本とロシアは、4回も協定を結んで、両国の利害を調整しました」と説明しました。過去にこの説明で、激怒してきた生徒が何人かおります。生徒は「ロシアと日本が話し合うはずがない。取り消してもらいたい」というのです。
 私は、教科書や資料を見せて説明しましたが、生徒は「それが間違っている」と手に取ることもせず、立ち去っていきました。人間には、光と影があります。人間の歴史にも光と影があります。影ばかりの歴史もよくありません。光ばかりの歴史もよくありません。私の授業の基本です。
 このことを物語る体験でした。彼らはいったい、今、どうしているのでしょうか。
 日露協定は、遅れてきた強国アメリカの格好いいスローガン(門戸開放・領土保全・機会均等)に対抗するために調印されました。ロシアは「日本が韓国を保護化することを承認」しましす。
 桂・タフト覚書では、日本は「アメリカがフィリピンを領有する」代償として、アメリカは「日本の韓国における指導権を承認」しました。
 日英同盟では、日本は「イギリスの戦略を支持する」代償として、イギリスは「日本の韓国保護国化を承認」しました。
 つまり、ロシア・イギリス・アメリカという国際世論は、日本の韓国保護国化を承認したのです。
 日露戦争後、日露は接近し、英米も接近し、一時日米間で、冷たい関係がありました。
 第一次世界大戦により、再び、日英は接近し、ロシア革命により、日米は接近しました。
 つまり、イギリス・アメリカ・フランス・ロシアという国際世論は、日本の対華21か条を承認したのです。
 紳士の国イギリスも、自由の国アメリカも、文学の国ロシアも、武士道の国日本も、帝国主義国だったのです。
 勝てば官軍は、歴史の教訓です。この時代の日本外交は、国際世論を味方にしていることが分かります。国際世論を敵にしたとき、日本の破滅が始まったといえます。

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