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エピソード

200_02

日露戦争後の国際関係W(孫文、辛亥革命、中華民国、袁世凱)
 1879(明治12)年、孫文(14歳)は、兄のいるハワイに行き、カトリックの学校で英語を学びました。クリスチャンとなったため、兄に、本国へ送還されました。
 1885(明治18)年、孫文は、清仏戦争で、政治に関心を持ちました。
 1892(明治25)年、孫文は、香港医科大学で医学博士の学位を得ました。
 1894(明治27)年、孫文は、李鴻章に「西洋の技術をとりいれ富国強兵をはかる」という改革を訴えました。しかし、認められなかったので、再び、兄のいるハワイに渡り、興中会を組織しました。その時の会員は20人でした。
 1895(明治28)年、香港でも興中会を組織し、幹部の陸皓東らは、広州で蜂起を計画しましたが、失敗しました。孫文は、日本に密航し、辮髪を切りました。孫文は、陳少白を日本に残して外国に出発しました。
 1896(明治29)年、孫文は、ロンドンで清国公使館に捕えられましたが、香港時代の恩師カントリーの助力で釈放されました。この時の体験を『倫敦被難記』として発表しました。
 1897(明治30)年、孫文は日本にやって来ました。そして、陳少白の紹介で宮崎滔天と会いました。
 1898(明治31)年5月、義和団(義民会)は、河北・山東省境で排外運動を開始しました。
 6月11日、清の光緒帝は、康有為を招き、変法自強を宣布しました。これを百日維新といいます。
 9月21日、西太后は、クーデタをおこし、光緒帝を幽閉し、実権を握りました。康有為・梁啓超は、日本に亡命しました。これを戊戌の政変といいます。
 1899(明治32)年3月、山東で義和団が蜂起しました。これが義和団事件団匪事件北清事変)の発端です。
 1900(明治33)年6月20日、義和団は、北京の各国公使館を包囲しました。
 6月21日、清国は、北京出兵の8国に宣戦を布告しました。
 10月8日、孫文らの興中会は、恵州で蜂起しましたが、失敗しました。これを恵州起義といいます。この時、孫文らは、日本人の宮崎滔天から武器を譲り受けたことが分かっています。
 1901(明治34)年、慶親王・李鴻章は義和団事件最終議定書辛丑和約)に調印しました。その内容は@賠償金4億5000万円海関両を支払うA各国軍隊駐留などを承認するというものです。
 清朝は、洋式軍隊である新軍を創設したり、日本に、1万人という大量の留学生を派遣するようになりました。この時、袁世凱は、直隷総督兼北洋大臣という最高実力者の地位に就き、7万5000人の兵を保持しました。この結果、北洋軍閥が形成されました。
 1902(明治35)年1月7日、西太后・光緒帝は、西安より北京に帰りました。
 4月、蔡元培章炳麟らは、「中国教育会」の名で上海に革命宣伝機関を結成し、『蘇報』で清朝を攻撃しました。
 1903(明治36)年6月29日、『蘇報』は「反清朝的論文」として発行を停止され、章炳麟らは投獄されました。
 12月、黄興宋教仁らは、長沙で黄興会を結成しました。
 1904(明治37)年2月10日、日露戦争が始まりました。
 7月3日、宋教仁らは、武昌に「科学補習所」を結成し、革命を鼓吹しました。
 12月、蔡元培の光復会は、上海で、浙江人を中心に復活されました。
 1905(明治38)年8月20日、日露戦争における日本の勝利に刺激された孫文らの興中会は、三民主義により、華興会(黄興宋教仁ら湖南省系)・光復会(章炳麟・蔡元培ら浙江省系)と合同して、中国革命同盟会を結成しました。
 9月2日、清朝は、科挙を廃止しました。
 9月5日、日露講和条約ポーツマス条約が調印されました。
 1906(明治39)年8月7日、清朝は、留日学生派遣を停止しました。この段階で、学生数は1万3000人でした。
 8月12日、北洋大臣の袁世凱は、立憲準備を上奏しました。清朝は、数年後には立憲政治を実施と宣言しました。
 12月4日、萍郷の炭鉱労働者6000人が蜂起に参加しました。これを萍醴革命といいます。
 12月13日、萍郷・醴陵らの蜂起軍は、清軍に敗北しました。
 1907(明治40)年5月22日、中国革命同盟会は、広東省の黄崗で蜂起しましたが、清軍に撃破されました。
 6月2日、中国同盟会は、広東省恵州の七女湖で蜂起しましたが、失敗しました。
 7月6日、光復会は、安徽省安慶で蜂起しましたが、失敗しました。
 9月1日、中国革命同盟会は、広東省の欽州・廉州で蜂起しましたが、清軍に撃破されました。
 12月2日、孫文・黄興らの中国革命同盟会は、広西省の鎮南関で蜂起しましたが、清軍に撃破されました。
 1908(明治41)年4月29日、中国革命同盟会は、雲南省の河口で蜂起しましたが、清軍に撃破されました。
 8月27日、清朝は、憲政施行の順序を決定しました。その内容は@9年以内の憲法発布A議会召集です。
 9月22日、憲法大綱・議院選挙綱要を発表しました。この憲法大綱には、大日本帝国憲法をモデルに、清朝皇帝の万世一系や神聖不可侵などが規定されていました。
 11月14日、清朝の光緒帝(38才)が亡くなりました。翌日、西太后(63歳)が亡くなりました。
 12月2日、光緒帝の甥である溥儀(3歳)が宣統帝として即位しました。溥儀の父醇親王が摂政となりました。
 1909(明治42)年1月2日、摂政の醇親王は、軍機大臣の袁世凱を罷免しました。
 7月15日、清朝は、軍政統一の詔を下し、皇帝を陸海軍の大元帥としました(摂政が代行する)。
 1910(明治43)年2月12日、中国革命同盟会の黄興らは、広東の新軍を中心に蜂起しましたが、失敗しました。
 4月2日、汪兆銘は、摂政の醇親王を暗殺しようとして失敗し、北京で逮捕されました。
 4月13日、改革推進に増税を強化したため、抗税蜂起という新たな農民暴動が、中国各地で、おこりました。
 9月23日、清朝は、資政院議員を招集しました。
 10月22日、資政院は、国会の即時開設を決議しました。
 11月4日、清朝は、「宣統帝5年(1913年)に国会を開設する」と頒示しました。
10  1911(明治44)年4月27日、中国革命同盟会の黄興らは、華僑と新軍を中心に蜂起し、両広総督の衙門を急襲しましたが、清軍に鎮圧されました。これを黄花岡事件といいます。
 5月、軍機処を廃止して、責任内閣制を採用しました。国務大臣13人のうち、8人は満州人、漢人は4人、しかもそのうちの5人が皇族という構成でした。
 5月、鉄道国有令を公布しました。
 8月24日、成都で、鉄道国有化反対の保路大会が開かれ、1万人が参加しました。商店・学堂もストを決行し、税糧不納を決議しました。
 9月3日、広東でも保路大会が開かれました。
 9月8日、哥老会指導の保路同志軍は、成都に侵攻しました。その結果、四川各地に蜂起が続発しました。
 10月10日、武昌の新軍と中国革命同盟会が武装蜂起しました。これを武昌起義といい、辛亥革命の発端です。新軍とは、清朝の洋式軍隊のことです。新軍1万5000人のうち、5000人が湖北の革命派の影響下にありました。
 10月11日、革命軍は、武昌・漢陽を占領しました。新軍の黎元洪を都督として、中華民国軍政府を組織しました。
 10月18日、革命軍は、漢口を占領しました。この結果、武漢三鎮を制圧し、湖北軍政府を樹立しました。その後、湖南・陜西・江西・山西・江蘇・浙江・広東省で革命派が蜂起し、24省のうち14省(中国本土の3分の2)が清の支配から独立しました。
 10月28日、黄興・宋教仁・北一輝らは、上海から武昌に到着しました。
 11月1日、清朝は、袁世凱を呼び戻し、総理大臣に任命しました。袁世凱は、憲法新庄9か条を発表しました。
 11月29日、イギリスの駐清公使は、両軍の停戦を提議しました。
 11月30日、漢口のイギリス租界で、各省代表会議を開き、袁世凱は「清朝を裏切り、孫文と提携する」ことを条件に、臨時大総統に内定しました。
 12月25日、孫文は、上海に帰着しました。
 12月29日、南京の17省代表会議で、孫文を中華民国臨時大総統に選出しました。
11  1912(明治45)年1月1日、南京臨時政府が成立がしました。孫文臨時大総統に就任しました。
 2月12日、孫文は、中華民国政府を維持するために、清朝の皇帝宣統帝(8歳)の退位と袁世凱の共和政体賛同を交換条件に、袁世凱に臨時大総統の座を譲る決心を固めました。その結果宣統帝溥儀は退位し、1616年から約300年続いた清朝が滅亡しました。
 3月10日、袁世凱は、中華民国政府臨時大総統に就任すると、袁世凱は、北京に中華民国政府移しました。そして、袁世凱は、孫文との「共和政体賛同」という約束を破り、独裁を強化しました。
 8月25日、袁世凱の独裁に反対する宋教仁らは、中国革命同盟会を改組して、群小政党を合併して国民党を結成しました。その結果、中国では、国民党と袁世凱らの軍閥の中華民国政府が対立することになりました。
12  1913(大正2)年2月、中国で最初の国会選挙が行われました。その結果、国民党は45%以上の議席を獲得し、立憲君主派に圧勝しました。
 3月20日、国民党の宋教仁は、上海で袁世凱の刺客により襲撃をうけ、その傷がもとで死亡しました。
 4月27日、袁世凱は、国会を無視して、5カ国の借款団と「善後借款協定」に調印しました。
 7月12日、江西都督の李烈釣は、糊口で、反袁世凱の兵を挙げました。その後、安徽・湖南・広東・福建・四川でも討袁軍が組織されました。これを第二革命の始まりといいます。
 8月8日、広東の独立が失敗し、孫文は、福建より台湾、台湾より日本の門司に亡命しました(第二革命の失敗)。
 10月6日、イギリス・ドイツ・ロシア・日本など13カ国は、袁世凱の中華民国政府を承認しました。
 10月10日、孫文が海外に亡命したので、袁世凱は、国会を包囲して、大総統選出を強要し、大総統に就任しました。副総統は黎元洪です。
 11月4日、袁世凱は、国民党に解散令を出し、議員400人を追放しました。
13  1914(大正3)年5月1日、袁世凱は中華民国約法を交付し、大総統に独裁的権限を付与しました。
 7月8日、孫文は、東京で、中華革命党を結成しました。
 7月28日、第一次世界大戦が始まりました。
 8月、日本は、日英同盟を口実にドイツに宣戦を布告しました。
 10月、日本海軍は、赤道以北ドイツ領南洋諸島の一部を占領しました。
 11月、日本陸軍は、ドイツ領山東省の青島を占領しました。
 12月29日、袁世凱は、大総統選挙法を修正し、「任期10年、重任も可能」としました。
14  1915(大正4)年1月18日、大隈重信内閣は、袁世凱に、対華21か条を要求しました。
 2月3日、馮国璋張作霖ら19人の将軍は、日本の21か条要求に断固反対を表明しました。
 2月20日、アメリカ政府は、日本政府に、「第五号の存在は真実なりや」と質問してきました。
 2月25日、日本から帰国した留学生らが上海で、国民対日同志会を結成し日貨排斥運動がおこしました。漢口・広東にもその運動は拡大しました。
 3月13日、アメリカの国務長官ブラウンは、抗議書を日本に送りつけました。
 3月中旬、日本は、山東・漢口・満州方面の日本軍を増強し、袁世凱に圧力をかけました。
 5月4日、日本では、元老会議が開かれ、山県有朋と松方正義は、第五号を最後通牒に含めることには反対しました。
 5月4日、イギリスは、日本政府に「第五号が日華間の国交を破裂させる原因となった場合には、イギリスの世論は、これを日英同盟の精神の違反と考えるであろう」と抗議しました。
 5月7日、日本政府は、「回答期限を5月9日午後6時」として、第五号をのぞいた最後通牒を袁世凱政府に突きつけました。
 5月9日、袁世凱は、やむなく、対華21か条を承認を受け入れました。
 5月9日、中国は、この日を国恥記念日として、以後、抗日運動に発展していきました。
 6月16日、再び、日貨排斥運動がおこりました。
 12月12日、中国参政院は、袁世凱を皇帝に推戴し、袁世凱は、帝位を受けました。
 12月25日、帝政に反対し、雲南・四川・貴州・広東で進撃を開始しました。これが第三革命です。国体擁護運動とか護国運動とか護国戦争ともいわれます。 
15  1916(大正5)年4月18日、護国軍(南方)政府は、袁世凱大総統の失格・黎元洪の昇格を布告しました。
 4月22日、段祺瑞内閣が誕生しました。
 6月6日、袁世凱が病死しました。黎元洪が臨時大総統に就任しました。
 6月29日、黎元洪臨時大総統は、国会再開を宣布しました。
 10月30日、段祺瑞の安徽系軍閥に対抗し、直隷系軍閥は馮国璋を副総統に選出しました。
16  1917(大正6)年5月7日、段祺瑞政府は、対独参戦案を衆議院に提出しました。しかし、国民党系の5派は反対で結束しました。
 5月10日、そこで、黎元洪臨時大総統は、段祺瑞を罷免しました。
 5月29日、安徽・河南・奉天・山西・陝西・浙江・福建各省軍閥は、独立を宣言しました。
 6月12日、黎元洪臨時大総統は、国会を解散しました。
 7月1日、安徽督軍張勲は、紫禁城で清朝復辟を宣言しました。黎元洪は、日本公使館に避難しました。
 7月12日、段祺瑞は、紫禁城を攻略し、張勲はオランダ公使館に避難しました。
 7月18日、第二次段祺瑞内閣が誕生し、馮国璋は大総統に就任しました。
 7月20日、日本政府は段祺瑞内閣を財政援助し、南方派は援助せずとの対華政策を決定しました。
 8月25日、広州で非常国会が開かれました。
 9月10日、孫文は、大元帥に就任し、広東軍政府樹立を宣言しました。。これを護法運動の開始といいます。
 9月13日、孫文の広東軍政府は、ドイツに宣戦布告しました。
 11月2日、石井・ランシング協定に調印しました。
 11月7日、ボリシェビキは、ケレンスキー政府を転覆し、ソビエト政権の樹立を宣言しました(ロシア10月革命)。
 11月9日、中国は、日米両国に対し、「石井・ランシング協定」に関し拘束を受けずと通告しました。 
17  1918(大正7)年3月25日、本野一郎外相は、中国公使の張宗祥と日華共同防敵の覚書を交換しました。その内容は、次の通りです。
(1)シベリア方面での共同防敵のため日本軍は派兵する。
(2)それに対して、中国の果たすべき協力・義務を規定する。
 5月15日、李烈釣らは、馮国璋大総統に日華軍事協定調印反対と南北和平会議開催を要請しました。
 5月19日、日華陸軍共同防敵軍事協定に調印し、日華海軍共同防敵軍事協定にも調印しました。
 7月5日、南北軍閥が妥協して、広東改組軍政府成立を宣言しました。孫文の護法運動は失敗しました。
 9月5日、北京国会は、徐世昌を大総統に選出しました。広東軍政府は、反対を通告しました。
 10月13日、アメリカ大統領のウィルソンは、徐世昌に南北統一を勧告しました。北京政府も、広東軍政府も停戦を命令しました。
 11月11日、第一次世界大戦が終りました。
18  1919(大正8)年1月18日、パリ講和会議が開かれました。
 1月28日、中国代表は、山東の中国還付を要求しました。
 5月4日、北京の学生3000人が、山東問題に抗議して示威運動をおこしました。これを五・四運動といいます。
 5月4日、講和会議で、日本全権は、「山東還付を声明」しました。但し、経済的特権および青島に専管居留地設置の権利は留保すると述べました。
 5月7日、北京・上海で国民大会が開かれ、青島還付を要求しました。
 6月3日、北京学生連合会は、市民・労働者との共闘を呼びかけ、反帝愛国デモを行い、逮捕者を1000人を出しました。その結果、各地に波及し、上海の日系紡績工場では2万人がストに参加しました。
 6月28日、 ベルサイユ条約が調印されましたが、北京政府は調印を拒否しました。
 10月10日、孫文らは、中華革命党を改組して中国国民党を結成しました。
 11月16日、日本浪人100人は、福州の抗日学生に暴行を働きました。これを福州事件といいます。福州・北京・上海の学生の抗議運動に発展しました。
19  1920(大正9)年1月10日、国際連盟が発足しました。
 7月14日、日本が後援する安徽派(段祺瑞)と英米が後援する直隷派(呉佩孚)の両軍が戦闘を開始しました。これを安直戦争といいます。
 7月19日、安徽派が敗れて、段祺瑞は首相を辞職しました。
 8月、陳独秀らは、上海に中国社会主義者青年団を結成しました。
 10月、毛沢東は、湖南で社会主義青年団を結成しました。
20  1921(大正10)年5月5日、孫文は、非常大総統に就任し、広東新政府が誕生しました(第二次広東政府)。
 7月1日、毛沢東ら12人は、上海で、中国共産党創立大会を開きました。
 11月12日、ワシントン会議が開かれました。
21  1922(大正11)年4月、孫文は、第一次北伐を開始しました。
 4月26日、張作霖の奉天軍は、呉佩孚の直隷軍と長辛店で開戦しました。これを第一次奉直戦争といいます。
 6月16日、北伐軍の幹部が、呉佩孚と通じ、孫文の広東政府を攻撃しました。
 6月17日、奉天軍と直隷軍が和解し、第一次奉直戦争が終わりました。
 8月9日、孫文は、上海に逃れました。第一次北伐は失敗に終わりました。
22  1923(大正12)年1月26日、孫文は、上海で、トロツキーの友人であるヨッフェと共同宣言を発表しました(孫文・ヨッフェ共同宣言)。この中で、ソ連は、中国革命軍を支援すると表明しました。
 2月21日、孫文は、広東に帰り、大元帥に就任しました。これを第三次広東政府といいます。
 3月10日、中国は、日本に21か条条約廃棄を通告しました。
 6月1日、長沙学生の排日運動に対し、日本海軍陸戦隊は上陸しました。これが長沙事件です。
 6月、中国共産党3全大会が広州で開かれました。革命統一戦線樹立国共合作を決定しました。
 11月8日、ヒトラーによるミュンヘン一揆が失敗に終わりました。
 11月、孫文は、「連ソ・容共・扶助工農」の3大政策を決定し、中国国民党の改組宣言を発表しました。
23  1924(大正13)年1月20日、中国国民党第1回全国代表大会(1全大会)を開き、「連ソ・容共・扶助労農」の政策を採用しました。これを第一次国共合作といいます。
 5月31日、中・ソ間で協定に調印し、中ソ外交関係が樹立されました。これにともない、ソ連は、旧ロシアの在華特殊権益・治外法権・義和団賠償金などを放棄しました。
 6月16日、孫文は、黄埔軍官学校を開校し、校長に蒋介石、国民党代表に廖仲ト、政治部主任に周恩来、顧問にロシア人のガレンを任命しました。
 9月18日、孫文は、呉佩孚など打倒の北伐開始を宣言しました(第二次北伐宣言
 9月18日、張作霖の奉天軍と呉佩孚の直隷軍とが、全面的交戦を開始しました(第二次奉直戦争)。
 10月13日、日本政府は、中国に対し、「内政不干渉と満蒙擁護権」の覚書を交付しました。
 10月23日、呉佩孚の部下である馮玉祥は、クーデタで北京を占領し、国民軍を組織しました。これを北京政変といいます。
 11月3日、呉佩孚が敗走し、第二次奉直戦争が終了しました。
 11月5日、馮玉祥は、紫禁城からの溥儀追放を命令しました。
 11月12日、孫文は、北京の善後会議出席のため広東を出発し、日本経由で、北京に向かいました。
 11月24日、孫文は、広東より北京に向かう途中、神戸に立ち寄り、「大アジア主義」と題して講演をおこない、日本の対華政策に警鐘をならしました。その内容は、次の通りです。
(1)欧米の侵略主義にたいし、東洋は王道平和たるべきである。
(2)アジアの全民族が連合して、全アジアの民族独立運動に従事すべきである。
(3)日本と中国は、この運動の原動力たるべきである。
 11月29日、溥儀は、日本公使館に避難しました。
24  1925(大正14)年3月1日、段祺瑞の善後会議に対抗し、共産党・国民党左派は、国民会議促進大会を北京で挙行しました。
 2月9日、上海の日本内外綿紡績工場労働者4万人のストライキがありました。
 3月12日、孫文(59歳)は、北京で、病死しました。「失敗の英雄」といわれた孫文の遺言は「革命未だならず」でした。
 4月19日、青島の日本紡績工場の労働者1万8000人がストに参加しました。
 5月15日、上海の日本内外綿紡績工場のストに参加した労働者が、日本人に殺傷され、2万人が抗議ストに参加しました。
 5月28日、青島の日本紡績工場の第2ストで、日本と奉天軍閥は、ストを弾圧し、死者8人を出しました(青島虐殺事件)。旅順より日本海軍の駆逐艦2隻を派遣しました。
 5月30日、上海の共同租界で学生2000人は、日本内外綿紡績工場の労働者虐殺に抗議し、「租界回収・打倒帝国主義」を叫びました。イギリス警官隊は中国人デモ隊に発砲し、死者が11人出ました(5.30事件)。
 7月1日、広東国民政府が成立しました。汪兆銘・蒋介石らの合議制を採用しました。
 11月22日、奉天派の郭松齢は、馮玉祥に通じて張作霖に反旗をひるがえしました。
 12月15日、日本軍は、郭松齢軍の進撃を阻止しました。そのため、郭松齢軍は張作霖軍に敗北しました。これを郭松齢事件といいます。この結果、排日運動が激化しました。
 12月23日、国民党右派は、北京西山に会合し、西山派を結成しました。そして、共産党員を除名したり、顧問のボロジンを解雇しました。
 この項は、『近代日本史総合年表』などを参考にしています。
孫文・魯迅と日本
 私は、日露戦争後の国際関係の中国史項では、孫文の三民主義、辛亥革命、中華民国などを取り上げました。
 しかし、自由主義史観の立場の人が、今の教科書を自虐的と攻撃するので、今回は、孫文の14歳の時から死亡した59歳までの45年間を詳細に調べてみました。
 清朝(ツングース族)は、300年間、中国(漢民族)を異民族支配していました。異民族のヘア・ファッションである弁髪をしなければ、学校にも行けない、就職も出来ませんでした。孫文が弁髪を切ったのは、20歳の時でした。
 孫文を中国では、「失敗の英雄」と言われていました。
 孫文は、日本と、ゆかりの深い人です。
(1)孫文は、宮崎滔天の勧めで、神楽坂にある中華料理店の鳳楽園で、黄興と会いました。黄興は、飯田河岸の富士見楼に、留学生を召集して、孫文の歓迎会をしました。その縁で、中国同盟会が結成されました。
(2)孫文が宋慶齢と結婚したのは、東京の新宿区百人町にある梅田庄吉(日活興行主)の家でした。
(3)孫文が死ぬ前年に、神戸に来て「大アジア主義」という演説をしました。今も神戸には南京街があり、にぎやかです。神戸には孫文記念館もあります(JR舞子駅から徒歩20分)。
(4)孫文を色々な面で援助したのが、宮崎滔天です。辛亥革命の年、デンバー号の船の上で、宮崎滔天は、孫文との感激の対面をしました。
 明治37年9月に魯迅は、仙台医学専門学校(今の東北大学医学部)に入学しました。日露戦争があった年です。
 明治39年3月に魯迅は、仙台医学専門学校(今の東北大学医学部)を突如自主退学し、東京に移って、文筆活動に入りました。魯迅が医者になる道を断った理由を調べてみました。東北大学では触れられたくない事実がありました。 魯迅は次のように記録しています。「細菌学の講義のあとで見せられた幻灯(日本軍による中国人の銃殺場面)をきっかけとして、中国人民のためには精神の改造こそが必要で、そのためには文芸が第一という考えに至った」
 魯迅は、日本人の教師から「今日はいい物が手に入ったから見せたやろう」といわれて、日本軍が中国人を銃殺するスライドを見せられます。日本人の学生はヤンノヤンノと大騒ぎです。魯迅は、つらくて目をつむり、耳を覆ったに違いありません。下宿に帰った魯迅は、考えました。「医者は、清国でもエリートである。私が診た患者は治せる。でも、私には治せない患者の方が多い。それなれば、多くの人の心を治せる小説家になろう」と決意したのだと、私は推測します(推測し過ぎでしょうか)。
 明治42年8月に魯迅は、中国に帰りました。西太后が亡くなった翌年です。
 大将10年に魯迅は、『阿Q正伝』を書きました。失敗の英雄である孫文が広東新政府を樹立した年です。『阿Q正伝』は私にとっても、印象深い小説です。阿Qは皆からバカにされていました。弁髪を切った革命家が英雄視されるので、阿Qは弁髪を切りました。しかし、そのために、革命家として逮捕されます。そして、処刑場に運ばれる荷馬車の上で、自分を見る大衆を描いています。
 「輿論の方面からいうと未荘では異議が無かった。むろん阿Qが悪いと皆言った。ぴしゃりと殺されたのは阿Qが悪い証拠だ。悪くなければ銃殺されるはずが無い! しかし城内の輿論はかえって好くなかった。彼等の大多数は不満足であった。銃殺するのは首を斬るより見ごたえがない。その上なぜあんなに意気地のない死刑犯人だったろう。あんなに長い引廻しの中に歌の一つも唱わないで、せっかく跡に跟いて見たことが無駄骨になった」(青空文庫より)
 私が30歳の頃、中国の文部省(中国教育学会)と日本の文部省との交流で、2回中国へ行きました。個人旅行が許されていない時代です。多忙な予定を割いて魯迅の亡くなった部屋を見学しました。亡くなった時間を示す掛時計がありました。特に印象に残っているのは、日本人形と日本の本がたくさんあったことです。現地のガイドに聞くと、魯迅を経済的に支援したのが、日本の出版社の内山書店の社長内山完造という人でした。
 大正6年、内山完造が32歳のとき、妻の美喜が上海に内山書店を開き、ここが日中文化サロンになりました。田漢・郭沫若らがメンバーでした。
 昭和2年、内山完造が42歳のとき、魯迅と会い、以後、長い交流が続きます。
 昭和6年、危険が迫った魯迅を保護しました。その間、内山完造が魯迅に紹介した日本人は、長谷川如是閑・金子光晴・鈴木大拙・横光利一・林芙美子・武者小路実篤・岩波茂雄らでした。

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