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エピソード

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桂園時代(桂太郎、西園寺公望、日本社会党)
 桂園時代とは、桂太郎西園寺公望が情意投合して、交互に内閣を組織した時代をいいます。情意投合とは、政友会の協力を得るため、桂太郎が、円満の政権授受を黙契したことをいいます。
 西園寺公望の基盤は、政党の立憲政友会伊藤博文系)で、鉄道の国有化・拡充と河川・港湾拡充を主な政策にしています。今で言う公共投資型政治家といえます。
 他方、桂太郎の基盤は、藩閥・官僚・陸軍・貴族院勢力(山県有朋系)で、超然主義内閣です。
 西園寺公望(きんもち)は、名前から判断出来るように公家出身の政治家です。西園寺公望(1849年誕生)は、明治天皇(1852年誕生)とも3歳違いということもあり、親しい間柄でした。弟は住友財閥の養子でした。宮中・財閥ともに密接な関係のある政治家であったことが分かります。
 西園寺公望は、戊辰戦争では、主戦論を主張し、会津口征討の大参謀に任命されています。これはびっくりする履歴です。
 パリに公費留学した西園寺公望は、パリ=コミューンを体験しています。帰国後、中江兆民らと『東洋自由新聞』を創刊するなど、かなり、リベラルな一面も持っています。西園寺公望は、国木田独歩幸田露伴島崎藤村田山花袋森鴎外らとも交流をもっています。
 明治十四年の政変後、伊藤博文が憲法調査のためヨーロッパ視察をする時、岩倉具視から「伊藤博文を援助せよ」と指示され、同行しています。帰国後、オーストリア・ドイツなどの公使を歴任します。こうして政治家としての実績を積んで、立憲政友会の創立にかかわり、伊藤博文の後継者となります。
 桂太郎は、長州閥に属する政治家です。
 戊辰戦争では、奥羽地方鎮撫総督の参謀添役に任命されています。その軍功により得た賞金で、ドイツに私費留学し、兵制を勉強します。
 長州閥のドン山県有朋に目をかけられ、兵制改革に貢献し、陸軍次官・台湾総督などをへて、第三次伊藤・第一次大隈・第二次山県の三内閣の陸軍大臣を務めました。陸軍一筋という考えが、山県有朋の琴線に合ったのでしょう。
 1900(明治33)年9月15日、立憲政友会が発会しました。総裁は伊藤博文で、代議士は152人に擁します。
 10月19日、伊藤博文は、総理大臣に就任しました。これを@10第四次伊藤博文内閣といいます。立憲政友会を基礎とする政党内閣です。
 12月25日、第15通常議会が開かれました。これを第15議会といいます。
 1901(明治34)年6月2日、桂太郎が総理大臣に就任しました。これが@11桂太郎内閣です。非政党・超然主義内閣ですが、日露戦争を遂行するため、立憲政友会と妥協します。
 12月10日、第16通常議会が開かれました。これを第16議会といいます。
 1902(明治35)年8月、*7衆議院議員総選挙が行われました。政友会190人、憲政本党95人、帝国党17人、無所属74人でした。投票率は88.39%でした。山県有朋・貴族院は、伊藤博文の反対勢力を結集します。
 12月9日、第17通常議会が開かれました。これを第17議会といいます。
 1903(明治36)年3月、*8衆議院議員総選挙が行われました。政友会175人、憲政本党85人、帝国党17人、無所属99人でした。投票率は86.17%でした。
 12月10日、第19通常議会が開かれました。これを第19議会といいます。
 1904(明治37)年2月10日、日本は、ロシアに宣戦を布告しました。これを日露戦争といいます。
 3月1日、*9衆議院議員総選挙が行われました。政友会133人、憲政本党90人、帝国党19人、無所属137人でした。投票率は86.06%でした。
 3月20日、第20臨時議会が開かれました。これを第20議会といいます。
 8月22日、第一次日韓協約に調印しました。内政権を奪いました
 11月28日、第21通常議会が開かれました。これを第21議会といいます。
 1905(明治38)年1月1日、非常時特別税法を改正しました。その内容は、次の通りです。
(1)地価以下の諸税を増徴する。
(2)通行税・織物消費税・米および籾輸入税などを新設する。
 1月1日、臨時事件費支弁に関する法律を改正しました。その内容は、「制限額を4億5500万円に引き上げる」というものです。
 1月1日、臨時軍事費予算7億円追加を公布し、合計10億8000万円としました。
 7月29日、桂太郎首相は、韓国・フィリピン問題につき、来日中のアメリカ陸軍長官タフトと会談しました。これを桂・タフト覚書といいます。
 8月12日、第二回日英同盟協約に調印しました。
 8月14日、桂太郎首相は、原敬と会談しました。その内容は、次の通りです。
(1)桂太郎は、「講和締結の後、総辞職し、西園寺公望を後継に推薦する」と約束しました。
(2)原敬は、「政友会はいかなる講和条件にも賛成する」と言明しました。
 9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)に調印しました。
 9月5日、日比谷で講和反対国民大会を開き、交番などを焼き打ちしました。これが日比谷焼打ち事件です。
 11月17日、第二次日韓協約(乙巳保護条約)に調印しました。外交権を奪いました
 12月21日、桂太郎内閣が総辞職しました。
 12月28日、第22通常議会が開かれました。これを第22議会といいます。
10  1906(明治39)年1月7日、@12西園寺公望内閣が誕生しました。内務大臣は原敬です。「社会主義もまた世界の一大風潮であり、みだりに弾圧すべきでなく、その穏健なものは善導して、国家の推運に貢献さすべきである」との社会主義取り締まりの新方針を発表しました。
 1月14日、「光」派の社会主義者は、「普通選挙の期成を図るを目的とする」を綱領に日本平民党の結社届を提出して、受理されました。
 1月28日、堺利彦らは、日本社会党の結社届を提出して、受理されました。
 2月12日、臨時事件費支弁に関する法律を改正しました。その内容は、「制限額を3億6300万円に引き下げる」というものです。
 2月24日、堺利彦・西川光二郎らは、「国法の許す範囲内において社会主義を主張す」として、日本平民党と日本社会党が合同して、日本社会党の結成届けを提出し、受理されました。これは、以前、社会民主党が即日結社禁止になったことを反省しての行動でした。日本で初めての合法的な社会主義政党が誕生しました。
(1)綱領は、社会主義を主張する。
(2)評議員は、片山潜幸徳秋水・堺利彦・西川光二郎・田添鉄二大杉栄ら13人です。党員は200人でした。
11  3月15日、日本社会党の直接行動派は、東京市電値上げ反対運動を組織して、1600人が市庁・電鉄会社を襲撃し、軍隊が出動して鎮圧しました。西川光二郎・大杉栄ら10人が逮捕・起訴されました。その結果、市電の値上げは撤回され、市街鉄道を市有化する決議案が東京市会で可決されました。これは、社会主義政党が指導した最初の大衆運動といえます。
 3月31日、鉄道国有法案に反対して、外相の加藤高明が辞職しましたが、衆議院で成立・公布されました。90%の鉄道が国有化されました。その目的・内容は、次の通りです。
(1)目的は、軍事・財政上及び経営不振に陥った私鉄を救済する。
(2)政府は10年以内に日本鉄道以下17私設鉄道会社所属の鉄道および京釜鉄道を買収する。
(3)地方的な鉄道を除く全鉄道を国有化する。
12  6月23日、こうした状況下に、幸徳秋水は、アメリカから急遽帰国しました。
 6月28日、幸徳秋水は、日本社会党の帰国歓迎会で、議会主義か直接行動かの問題を提示し、党内対立のきっかけとなりました。
(1)議会主義(片山潜ら)とは、普通選挙制を獲得して、議会に多数を占めることで政権を握り、社会主義革命を遂行する立場です。
(2)直接行動(幸徳秋水ら)とは、クロポトキンが提唱した「直接行動の思想」をルーツとし、無政府主義的な労働組合主義ゼネスト)を遂行する立場です。幸徳秋水は「爆弾か、合口か、竹槍か、筵旗か。否、これらは皆十九世紀前半の遺物のみ。将来革命の手段として欧米の同志の執らんとする所は、しかく乱暴の物に非ざるなり。ただ労働者全体が手を拱して何事も為さざること、数日もしくは数週、もしくは数月なれば即ち足れり。而して社会一切の生産交通機関の運転を停止せば即ち足れり。換言すれば、いわゆる総同盟罷工(ゼネラル・ストライキ)を行うにあるのみ」と述べています。
 10月、山県有朋は、帝国国防方針案を上奏しました。その内容は、次の通りです。
(1)陸軍は、仮想敵国をロシア・フランスとし、現在の17個師団を25個師団とする。
(2)海軍は、八八艦隊、つまり戦艦8隻・巡洋艦8隻とする。
 12月28日、第23通常議会が開かれました。これを第23議会といいます。
13  1907(明治40)年、この頃、戦後恐慌となり、鉄道港湾拡充政策が行き詰りました。
 2月5日、幸徳秋水は、『平民新聞』で直接行動を主張しました。その内容は、次の通りです。
 「真に社会革命を断行し労働者階級の地位、生活を向上し保存せんと欲せば、議会の勢力よりもむしろ全力を労働者の団結訓練に注がねばならぬ。労働者自身も議員、政治家などに頼らず、自身の直接行動でその目的を貫く覚悟がなければならぬ」
 2月7日、足尾銅山で大暴動がおこり、事務所など65棟が破壊されました。軍隊が出動し、600人を検挙しました。
 2月10日、堺利彦は、『平民新聞』で「社会党運動の方針」を発表し、直接行動を議会主義には必要な手段であるという併用論を主張しました。その内容は、次の通りです。
 「議会をして真に平民労働者の噴火口たらしめるためには、我々は実力を持って政府と政党に肉薄して、普通選挙権を獲得しなければならぬ。そこに直接行動の必要がある」
 2月12日、福田英子菅野スガらは、治安警察法第5条改正案(女子の政治結社・集会への参加を認める)を衆議院に提出しました。衆議院で可決され、貴族院で否決されました。
 2月14日、田添鉄二は、『平民新聞』で「議会政策論」を発表し、直接行動を批判しました。
 2月17日、日本社会党第二回大会で、議会政策派(田添鉄二・片山潜ら)と無政府主義的直接行動派(幸徳秋水・山川均・大杉栄ら)と中間派(堺利彦ら)ら3派が論争しました。採決の結果、50票対2票で、綱領の「本党は国法の範囲内に於いて社会主義を主張し」という文言を「本党は社会主義の実行を目的とす」と改めました。
 2月22日、政府は、安寧秩序を害するとして、日本社会党の結社を禁止しました。
14  3月2日、夕張炭鉱の運搬夫ら700人は、賃上げを求め同盟罷業しました。
 3月27日、山口孤剣の「父母を蹴れ」、大杉栄訳のクロポトキン著「青年に訴う」が『平民新聞』に掲載されました。その結果、発行人の石川三四郎は禁錮6ヶ月、山口孤剣は禁錮3ヶ月、新聞は発売が禁止されました。
 4月28日、幌内炭鉱の坑夫ら1500人は、暴動をおこしました。
 6月1日、直接行動派(硬派)の森近運平宮武外骨らは、『大阪平民新聞』を創刊しました。
 6月2日、議会政策派(軟派)の片山潜・田添鉄二・西川光二郎らは、『社会新聞』を創刊しました。
 6月6日、別子銅山の坑夫らが暴動をおこし、軍隊が出動して鎮圧しました。
 7月24日、第三次日韓協約および秘密覚書に調印しました。韓国軍隊を解散しました。
 7月30日、第一回日露協約に調印しました。
 10月、陸軍は、2個師団を増設し、19師団30万人となりました。尚、陸軍は、「戦争時に必要なるは50個師団である」と主張しました。
 12月28日、第24通常議会が開かれました。これを第24議会といいます。
 この項は、『近代日本史総合年表』などを参考にしました。
西園寺公望と桂太郎、幸徳秋水・片山潜・堺利彦
 西園寺公望は、公家の出身で、天皇とも親しく、財閥とも関係があります。パリに官費留学し、パリ=コミューンを体験して、中江兆民らと交流するかと思うと、国木田独歩・幸田露伴・島崎藤村・田山花袋・森鴎外ら超一流文化人とも付き合っています。政治では、伊藤博文の後継者として、政党政治に腐心します。後任には、原敬を育てます。
 大正8年のパリ講和会議では、全権大使となり、山県有朋・松方正義亡き後は、一人元老として全権を握ります。政界の実力者は、西園寺の別荘である坐漁荘(静岡県興津)を度々訪れたので、「興津詣で」といわれました。
 日本が日中戦争に邁進する状況の昭和7年、西園寺公望は、次のように述べています。
 「東洋の問題にしても、やはり英米と協調してこそ、その間におのずから解決しうるのである。亜細亜主義とか亜細亜モンロー主義とか言っているよりも、その方が遥かに解決の捷径(近道)である。もっと世界の大局に着眼して、国家の進むべき方向を考えねばならない」
 昭和15年、西園寺公望は92歳で亡くなりました。
 西園寺公望のバランス感覚は、欧米といいながら、ヨーロッパで若い青春を過ごしただけに、ヨーロッパ的な物の考え方が背景にあるのかもしれません。戦後、日本は、大国アメリカとの同盟関係を維持してきました。ヨーロッパの感覚を身につけると、外交戦略は、自ずと変わったかもしれませんね。
 政党政治の西園寺公望は、超然主義の桂太郎とのライバル関係にあったから、精進出来たのかもしれません。2人のライバル争いに、薩摩が入ってこれません。西南戦争で、若い才能を犠牲にした結果です。
 ライバルの桂太郎のエピソードを色々探しましたが、西園寺さんの人脈の深さ・広さにはとても及びません。やっと見つけた1つが、家の前の川に船を浮かべ、近所の子供たちと月夜に横笛を吹くのが楽しみででした。
 桂太郎は、ニコニコしながらポンと肩をたたいては、相手の気持ちをつかんだので、ニコポン宰相をいわれました。
 ポーツマス講和条約を結んで帰国した小村寿太郎外相を待っていたのは、険悪な雰囲気でした。新橋駅に出迎えた桂太郎首相と山本権兵衛海相は、小村外相を真ん中にして、「死なばもろとも」と腕を組んで歩いたといいます。
 桂太郎の遺言は、「墓は松陰墓所近くに」だったので、墓所は、遺言どおりの場所にあります。
 石川三四郎という人がいます。初見のときは、石川i木のことかと勘違いしました。田添鉄二・宮武外骨は、最近の教科書では出てきませんが、難関私大では登場します。西川光二郎は半数近くの教科書で取り扱います。
 そこで、今回は、年表で、経過と同時にどういう主義・立場の人かも調べました。
 議会政策派の代表が片山潜です。直接行動(アナーキスト)派の代表が幸徳秋水です。中間派が堺利彦です。イデオロギーの対立は、部外者には分かり難いものです。

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