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エピソード

202_01

産業革命の進展T(金融政策)
 昔の不景気な時代のことです。料理屋で、友人と飲んでいると、隣の部屋の1人が「戦争でもしてもらわんと、景気がようならんわい」と叫んで、大いに盛り上がっていました。多分中小企業の経営者のグループだったのでしょう。
 この話には解説が入ります。「自分(日本)は、戦わないで、どこかの国が戦争をしてもらいたい」ということです。そうすれば、戦争中は、戦争に関係のある物が売れます。戦後は、復興用の物が売れます。これが戦争特需です。
 実際、戦争は否定すべきものですが、戦争特需で経済を発展させてきた事実もあるのです。
 日清戦争後、清国からの賠償金3.6億円(歳入の3.6倍)を基金に、軍拡・産業振興などの経営を行いました。日清経営なので、戦後経営といいます。
 産業振興のために、産業上の資金を用立てる(金融政策金融政策といいます。金融政策の基本が銀行です。
 1879(明治12)年末、国立銀行開業数は151行になり、免許数153行に達しました。その資本金は4061万円です。政府は、22万9450円を起業基金にして、イギリスより2000錘紡機10基を購入し、無利息・10ケ年賦で払い下げました。当時公務員の初任給が50円の時代です。
 1880(明治13)年11月、工場払下げ概則を定めました。
 1881(明治14)年7月、開拓使官有物払下げ事件が暴露されました。
 1882(明治15)年7月、日本銀行条例が定められました。資本金は1000万円で、政府が半額出資します。
1879年 1880年 1881年 1882年 1883
私立銀行数(行) 10 43 90 169 197
資本金(万円) 383 1832
 1884(明治17)年5月、兌換銀行券条例を定め、日銀に銀貨兌換の日銀券を発行させました。
 7月3日、日銀は、公定歩合を2厘上げ、2銭としました。
 7月22日、日銀は、横浜正金銀行の外国人為替取組手続を定め、紙幣整理のために、正貨獲得を目的とした資金を運用するように指令しました。この横浜正金銀行が後の東京銀行で、現在は、三菱銀行と合併して、東京三菱銀行となっています。2005年、UFJと合併して三菱UFJ銀行になりました。
 1885(明治18)年末、紙幣整理による不況がその極に達しました。これを松方デフレといいます。
 1886(明治19)年末、紡績業・鉱山業などに新規会社設立の気運がおこりました。これを企業勃興といいます。
 1887(明治20)年7月、東京火災保険会社(後の安田火災海上保険会社)が設立されました。最初の火災保険会社です。
 1888(明治21)年末、銀行数本店348、支店254、資本金9800万円となっています。
 1889(明治22)年末、凶作による物価騰貴を契機として、企業計画に破綻を生じ、物価・株価の下落が始まりました。これを日本最初の経済恐慌といいます。1890年恐慌の開始です。
 1890(明治23)年6、大日本綿糸紡績同業連合会は、第1次操業短縮を開始しました。1か月のうち8昼夜休業しました。これを1890年恐慌といいます。
 1891(明治24)年1月、鉄道庁長官の上勝は野義真(日本鉄道会社副社長)・崎弥之助(三菱社長)の援助で、牧畜中心の小岩井農場(3622町歩)を設立しました。創業者3人の名を取って小岩井といいます。
 3月、山陽鉄道三石・岡山間が開通し、神戸から岡山まで鉄道が延長しました。私が利用する相生駅(当時は那波駅)がここにあります。
工場数 水 力 蒸気力 人 力
1892年 413 524 1135
1894年 837 72 875
 1893(明治26)年9月、京都・大阪・東京の株式取引所を株式会社組織に改組しました。
 1894(明治27)年11月、大蔵省は、軍事公債3000万円の募集を公布しました。応募額は9030万円で、実収額は4763万円でした。当時公務員の初任給が50円の時代です。
 1895(明治28)年10月、清国より軍事賠償金2億両(テール)の第一回振込金5000万ポンドをロンドンで受領しました。
 11月、清国より遼東半島還付賠償金3000万両をロンドンで受領しました。
 1896(明治29)年3月、航海奨励法造船奨励法を公布しました。
 1897(明治30)年3月、貨幣法を公布しました。賠償金により金本位制(金2分(0.75g)=金1円)を確立し、銀貨兌換を金貨兌換に改めました。ようやく世界の仲間入りが出来ました。
 6月、日本勧業銀行(資本金1000万円)が、農工業の改良の為の長期貸付銀行として設立されました。
 11月、静岡県農工銀行が設立されました。その後北海道を除く各地に農工銀行が設立されました。
 1898(明治31)年末、全国手形交換所の交換高総計が初めて11億8606万円に達しました。
 1899(明治32)年7月、台湾銀行(資本金500万円)が、台湾における中央発券銀行として設立されました。
 1900(明治33)年2月、北海道拓殖銀行(資本金300万円)が設立されました。
 1901(明治34)年末、普通銀行数が史上最高(1867行)となりました。1893年が545行でした。
 1902(明治35)年3月、日本興業銀行(資本金1000万円)が、産業資本の長期融資銀行として設立されました。
 1909(明治35)年7月、韓国銀行が、韓国政府の中央金融機関として、設立されました。
 1911(明治44)年3月、韓国銀行を朝鮮銀行と改称しました。
 この項は、『近代日本史総合年表』などを参考にしています。
銀行の変遷T
 銀行は、その役割から、信用が第一です。ここに登場して、現在も残っている銀行はあるでしょうか。
 横浜正金銀行は東京銀行となり、現在は東京三菱銀行となっています。いずれ三菱銀行に統一されるでしょう。
 日本勧業銀行は第一銀行と合併し、第一勧銀となりました。現在は、富士銀行と合併し、みずほ銀行となり、その名もなくなりました。
 北海道拓殖銀行は1997年11月に経営破綻し、北海道内の営業は北洋銀行、本州での営業は中央信託銀行(現在の中央三井信託銀行)に譲渡された。
 日本興業銀行は、富士銀行と合併し、みずほ銀行となり、その名もなくなりました。
 富士銀行は、安田財閥系の安田銀行が日本商業銀行・根室銀行ら11行と合併して、改称した銀行です。五大銀行とは、三菱・三井・住友・富士・第一をいいます。現在残っている名称は、東京三菱と三井住友だけです。財閥系の銀行の合併は信じられないことです。しかし、今信じられない時代なのです。まさに「歴史は移る」です。
 次に韓国銀行に関してです。その覚書を紹介します。
「  韓国中央銀行ニ関スル覚書
 日韓両国政府ハ韓国銀行ノ設立ニ関シ左ノ条款ヲ協定ス
第一条 韓国政府ハ韓国銀行ヲ設立シ之ニ兌換銀行券ヲ発行スルノ権ヲ与ヘ韓国中央金融機関タルノ業務ニ従事セシムルノ外日本銀行ノ委託アルトキハ日本国国庫金ノ取扱ヲ為サシムヘシ
第二条 株式会社第一銀行ノ発行シタル銀行券ハ韓国銀行ノ発行シタルモノト看做シ韓国銀行ハ其ノ銷却(返済)ノ義務ヲ承継スルモノトス
第三条 韓国銀行ノ株式ハ日韓両国人ニ限リ之ヲ所有スルコトヲ得
第四条 韓国銀行ノ重役ハ当分ノ中日本人ヲ以テ之ニ充ツヘシ
第五条 韓国銀行ハ韓国政府持株以外ノ株式ニ対シテ為スヘキ利益配当カ年百分ノ六ノ割合ニ達スル迄ハ韓国政府持株ニ対シ利益配当ヲ為スコトヲ要セス
第六条 韓国銀行ハ韓国銀行ノ創立後五箇年間ハ同国政府持株以外ノ株式ニ対シ年百分ノ六ノ割合ノ利益配当ヲ保証スルモノトス」

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