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エピソード

205_01

資本主義の発達U(第二次産業革命、八幡製鉄所、播磨造船所)
 日露戦争前後、日本は重工業が発展しました。これを第二次産業革命といいます。
 岩倉具視遣欧使節が欧米を視察して、目を見張った現象が、日本で実現したのです。今回は、重工業の発展を見ます。
 1885(明治18)年、釜石製鉄所が、田中長兵衛に払下げられました。現在の「新日本製鉄釜石製鉄所」です。
 1889(明治22)年、池貝鉄工所が、国産第1号の旋盤を完成しました。その後、民間の工作機械の生産が増大しました。現在の「株式会社池貝」です。
 1893(明治26)年、芝浦製作所(三井系)が設立され、工作機械の生産が増大しました。現在の「東芝」です。
 1896(明治29)年、造船奨励法が公布され、鋼鉄製汽船建造(700総トン以上)に助成金を与えました。
 1897(明治30)年、軍備拡張の基礎となる鉄鋼の国産化を目的として、八幡製鉄所が設立されました。現在の「新日本製鉄八幡製鉄所」です。
 1901(明治34)年、八幡製鉄所は、銑鉄生産5万トン・鋼材6000トンを生産するまでになりました。
 1906(明治39)年、八幡製鉄所は、本格的生産を開始します。
(1)横浜正金銀行を窓口として、中国の漢冶萍公司に借款を与える。
(2)そのみかえりに、中国大冶鉄山の鉄鉱石を安価に入手する。
(3)撫順炭田・筑豊炭田の石炭を燃料として利用する。
 1906(明治39)年、鉄道国有法を公布し、日本・山陽・九州の鉄道など民営鉄道17社を国有化しました。その結果1905年の国鉄2413千km<私鉄5284kmに対し、1907年の国鉄7166km(90%)>私鉄717kmとなりました。
 1907(明治40)年、造船技術は世界第1位となり、1万頓級鋼鉄船の国内自給率は60%に達しました。
 1907(明治40)年、民間の鉄鋼会社である日本製鋼所室蘭工場が完成しました。兵器の国産化を目的として、三井とイギリスのア−ムストロング兵器会社・ヴィッカ−ス兵器会社が提携し、国家的事業をスタートさせました。
 1907(明治40)年、駒橋水力発電所ができました。
 1913(大正2)年、八幡製鉄所は、銑鉄生産24万トン・鋼材25万トンを生産するまでになりました。
 1915(大正4)年、猪苗代水力発電所が建設され、大都市に電灯が普及するようになりました。
造船の歴史
 明治29年、造船奨励法が公布され、鋼鉄製汽船建造(700総トン以上)に助成金を与えました。
 明治40年に造船技術は世界第1位となり、1万頓級鋼鉄船の国内自給率は60%に達しました。戊辰戦争で活躍したのは、オランダの船やアメリカのであったり、日清戦争(明治27年)で中国の北洋艦隊を撃破したのはオランダ製の高速艦隊でした。
 それから、僅かにして、日本の造船技術は世界1位となり、ほぼ戦艦を自給できるようになりました。
 1857(安政4)年、長崎製鉄所が設立されました。
 1865(慶応元)年、横須賀製鉄所が設立されました。
 1871(明治4)年、長崎製鉄所は長崎造船所に、横須賀製鉄所は横須賀造船所になりました。
 1881(明治14)年、イギリス人のハンターは、大阪安治川岸に大阪鉄工所(造船所)を設立しました。
 1887(明治20)年、長崎造船所は、三菱に払い下げられました。これが現在の三菱重工業長崎造船所です。
 1907(明治40)年3月、播磨船渠株式会社が兵庫県相生市に設立されました。これが後の播磨造船所です。現在は関東の石川島重工業と合併し、石川島播磨重工業相生工場となっています。
 1910(明治43)年、久原鉱業所日立鉱山付属修理工場が設立されました。
 1920(大正9)年、久原鉱業所日立鉱山付属修理工場は、日立工場・亀戸工場を持つ日立製作所となりました。
 1921(大正10)年、日立製作所は、日本汽船より笠戸造船所を譲受しました。
 1940(昭和15)年、大阪鉄工所は、日立製作所向け5.000トン水圧プレスを完成しました。
 1943(昭和18)、大阪鉄工所は、日立製作所の笠戸造船所と合併し、日立造船株式会社となりました。
企業城下町相生市の変遷
 私は、兵庫県の赤穂市で生まれ育ち、相生市に住んでいます。近代相生の変遷を紹介します。
 @は旧相生町と旧那波村の人口(国勢調査)です。
 Aは旧相生町と旧那波村と那波野と若狭野と矢野の人口(国勢調査)です。
 Bは戦後から現在の人口動態です。
 Cは石川島播磨重工業相生工場の従業員数の推移です。
@相生市の人口(旧相生町と那波村の人口)
1920年 1930年 1940年 1942年 1944年 1947年
1万9565人 1万3727人 2万4110人 3万4275人 4万0000人 2万6191人
最初の国勢調査 戦後不況の結果 造船業の活況 戦争の影響 徴用工・動員学徒 終戦の打撃
A相生市の人口(旧相生町と那波村と那波野と若狭野と矢野の人口)
1955 1960 1965 1970 1980 1985 1990 1995 2000
35,905 36,521 38,921 40,657 41,498 39,868 36,871 36,103 34,320
B人口動態 C石川島播磨重工業相生工場の従業員数の推移
  1963 1966 1967 1969 1978 1980 1985   1963 1967 1970 1973 1975 1978 1980

1,842 2,456 2,039 2,779 1,339 1,247 1,192 正規
採用
3,325 3,689 4,622 4,614 4,663 4,282 3,294

1,650 1,879 2,095 3,352 2,059 1,905 1,791 期間
採用
1,011 991 996 915 866 635 365

192 577 -56 -573 -720 -658 -599 合計 4,336 4,680 5,618 5,529 5,529 4,913 3,659
 「現在の日本において市制を施行しているようなところは、江戸時代においてすでに城下町、宿場町のような『まち』が形成され、にぎわっていたところが。多い西播磨の四市についてみても、姫路と赤穂と龍野では、江戸時代にすでに城下町の市街地が形成され」ていた。「それに対し相生では、明治になるまで、『まち』とよべるようなものは存在しなかった」。兵庫県21市で、「まち」を欠くのは、相生市・芦屋市・宝塚市だけである。
 相生市の市街地の成立と拡大とは、造船所の発展を背景にしています。典型的な企業城下町です。
 1895年、相生は、人口3948人の相生(ほとんどが漁村)と人口1151人の那波(農村・港町)と山陽道や山陽鉄道が走る新興の陸とで構成されていました。 
 1907年、播磨船渠株式会社が誕生しました。
 1915年、造船所で働く人のために、相生の東側に上町社宅が作られました。
 1916年、播磨船渠株式会社は鈴木商店に買収されて、株式会社播磨造船所となりました。
 1917年、極東硝子工業会社の工場ができ、1万6000坪の埋立地を所有していました。
 1918年、造船所で働く人のために、那波駅(今の相生駅)と相生の中間、苧谷川東岸の水田を埋め立て藪谷社宅が作られました。さらに南側の海も埋め立てられ、弁天社宅が作られました。藪谷社宅街の中央部には、造船所で働く人のために、藪谷売店組合(今の本町商店街)が作られました。那波でも、集落の西に丘ノ台社宅・西出社宅が作られました。
 1921年、播磨造船所は、神戸製鋼に買収されて、神戸製鋼所播磨造船工場となりました。相生湾西岸に埋立地を含め4万5600坪を所有していました。
 1929年、神戸製鋼より分離して、株式会社播磨造船所となりました。
 1939年、相生(おお)町と那波町が合併し、相生(あいおい)町が誕生しました。
 1942年、播磨造船所は、極東硝子埋立地を併合しました。
 1942年、相生町は相生市となり、山陽本線那波駅も相生駅となりました。
 1943年1月、播磨造船所は、磯際山の南方の埋立地(今の旭1丁目)に松ノ浦工場を建設しました。
 1943年6月、造船所から松ノ浦工場へ、幅8メートル・長さ15メートルの箱船をつないだ全長208メートルの大桟橋を架けました。海軍監督官は、この橋を「皆勤橋」な命名しました。長く親しまれた来た皆勤橋も、造船不況とともに、今はありません。
 1944年、造船所で働く人は、徴用工・勤労動員学徒・捕虜・刑務所服役者を含め2万2000人に達しました。これは相生市の人口の55%になります。
 1950年、朝鮮動乱、大型タンカーブームによって、播磨造船所は活況を迎えました。
 1951年、相生市は、揖保郡揖保川町那波野を合併しました。
 1951年、国鉄赤穂線は、有年・赤穂間を廃止し、相生・赤穂間を開通しました。
 1954年、相生市は、赤穂郡若狭野村と矢野村を合併し、現在の相生市が誕生しました。
 1957年、播磨造船所は、桜ヶ丘に厚生施設として野球場や陸上競技場を建設しました。造船所の社員だった父に連れられ、「巨人:阪神」のオープン戦を見に行った記憶があります。駅伝でも強い川上選手を応援に行きました。
 1958年、松ノ浦工場の跡地の北方の南北の残っていた苧谷川筋は埋め立てられ、相生駅・相生線の一部として整備され、中央通として賑わうことになります。
 1960年、播磨造船所は、石川島重工業と合併して、石川島播磨重工業相生工場となりました。
 1962年、この年から1964年までの3年間、相生工場は、単一工場として建造量世界一を記録し、世界の造船業界をリードしました。この頃より、相生市の人口は増加の一途をたどりました。
 1962年、松ノ浦工場の跡地の北半部には、市役所が竣工しました。
 1966年、造船世界一の影響で、山陽新幹線の相生駅設置が決定されました。
 1970年、造船世界一の影響で、相生市の人口がピーク近くに達しました。人口4万0657人です。従業員数はピークで5618人です。
 1971年、市役所の西には、市民会館が竣工しました。
 1972年、山陽新幹線の新大阪・岡山間が開通し、相生駅が新装改築されました。
 1973年、市役所の西には、市民体育館が竣工しました。
 1975年、高度経済成長の影響で、相生市の人口がピークに達しました。人口4万2008人です。
 1980年、造船不況で、相生市の人口が減少を始めました。人口4万1498人です。従業員数はピーク時より2000人減少の3659人です、
 2004年、相生市の人口はついに戦前の水準に戻りました。人口は3万2874人です。
10  最近(2005)の理系大学生の就職したい企業のベストスリーに石川島播磨重工業が入っています。企業城下町相生から見ると、信じられない現象です。しかしよく検討すると、石川島播磨重工業の魅力は航空機製造にあるのです。
 相生工場が造船世界一で稼いだ金を、東京本社に上納し、その金が航空機開発の貴重な資金になっていたのです。相生工場のリーダーが、造船不況を予知し、自分たちが稼いだ金を、「海がダメなら空か陸に…」という発想があれば、もう少し、企業城下町相生の現在も違っていたことでしょう。
 この項は、『相生市史ー第三巻ー』などを参考にしました。

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