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エピソード

206_01

社会運動の発生T(田中正造、足尾銅山鉱毒事件、高島炭坑問題)
 別な項で説明しましたが、社会問題とは、多くの人が集合することで発生する問題です。その問題を解決するための働き社会運動といいます。
 では、この時代にどのような問題が発生したのでしょうか。
 資本主義工場制機械工業)が発達したことで、賃金労働者が増加しましました。
 1900(明治33)年の熟練労働者の数を調べると、鉱山では14万8461人、造船では10万5000人、鉄道・通信6万人を数えます。
 飯場制度・納屋制度とか、監獄部屋、納屋頭、囚人労働という言葉があります。
 飯場制度とは、工事現場に合宿所(飯場・納屋)を設け、飯場頭(納屋頭)が労働者の管理を行い、労働を強制したり、賃金の代受などの飯場経営を行う制度です。九州では、納屋制度といいます。
 囚人労働とは、明治前期、監獄部屋を設け、鉱山や土木工事に囚人を強制使役しました。江戸時代では、佐渡金山での囚人労働が有名です。北海道では、樺戸・空知・釧路の集治監囚人を道路・開墾や幌内炭鉱でありました。九州では、三池三井炭坑でありました。
 労働時間は、1日11時間で、休暇は月2日間、日給は30銭(今の1000円)でした。時給ではありません。
 1874(明治7)年、イギリス人のグラバー商会と佐賀藩の合弁会社である高島炭坑は、後藤象二郎に払い下げられました。高島炭鉱は、長崎県彼杵郡深堀の小島にあります。深さ45メートル下の海底炭田を掘る立坑です。
 1877(明治10)年、古河市兵衛は廃鉱同然の栃木県にある足尾銅山精錬所を払下げを受けました。その後、銅の大鉱脈が発見され、苛酷な囚人労働で、生産を上げました。
 1880(明治13)年、栃木県令は、「渡良瀬川の魚族は衛生に害あるにより一切捕獲することを禁ず」という布告を出しました。既に魚は捕れなくなっていたので、住民は不思議に思ったそうです。公害問題の最初といわれる足尾銅山鉱毒事件の発生です。
 1881(明治14)年、高島炭坑は、後藤象二郎が経営に失敗したため、岩崎弥太郎に譲渡されて、三菱の所有となりました。
 1883(明治16)年、足尾銅山の製銅額は、洋式機械を導入して生産に励んだので、6年前の10倍に達しました。
 1885(明治18)年、渡良瀬川の鮎が大量に死んで浮上しました。『朝野新聞』は「足尾銅山が原因かもしれない」という書き方をしています。
 1888(明治21)年6月、松岡好一は、『日本人』に「高島炭坑の惨状」を掲載し、高島炭坑批判のキャンペーンを開始しました。世論はこれを知って沸騰しました。これを高島炭坑問題といいます。
 概略すると「坑夫の就業時間は12時間で、昼の方の坑夫1500人は午前4時に坑内に下り午後4時に納屋に帰る。夜の方の坑夫1500人は午後4時に坑内に下り翌日の午前4時に納屋に帰る。坑内の有様は、地下4里(4キロ)か2里(8キロ)のところで、重さ20貫(75kg)を這うように1町(100メートル)離れた蒸気軌道まで運ぶ。休ませて欲しいと言うと、納屋頭は、皆が見ているところで、後ろ手に縛って天上からぶら下げ、殴りつける」とあります。原文は、プリント日本史の史料を参照して下さい。
 政府の清浦奎吾警保局長は、納屋制度の改良を勧告しましたが、あまり改良されませんでした。 
 1888(明治21)年、栃木県足尾村・松木では、桑の樹木が煙害(亜硫酸ガス)により全滅しました。
 1889(明治22)年、洪水にあった沿岸の田畑から作物がとれなくなったり、枯死しました。以前は、洪水の後は、上流から運ばれた肥沃な土で、収穫が増えていました。
 1890(明治23)年、「渡良瀬川の魚が死に絶え、沿岸漁民は失業」という記録があります。銅山による被害が沿岸部に拡大していることがわかります。
 1891(明治24)年、足尾銅山の産銅量が全国1位になりました。
 1891(明治24)年12月18日、改進党代議士の田中正造(51歳)は、「足尾銅山鉱毒加害之儀に付質問書」を衆議院に提出しました。そこには、「日本坑法には、…公益に害ある時は、農商務大臣は…許可を取り消す事を得とあり。数年政府の之を緩慢に付し去る理由如何」などとありました。
 12月25日、樺山資紀蛮勇演説により解散・総選挙となり、その後、答弁書が発表されました。そこには「被害あるは事実なれども、被害の原因確実ならず」とありました。
 1892(明治25)年、選挙干渉にも負けず当選した田中正造は、鉱毒問題を追及しました。農商務大臣は、答弁書で「足尾銅山より流出する鉱毒(が)被害の一原因たる事は、之を認めたり。然れ共此被害たる公共の安寧を危殆ならすむるものにあらざる。且其損害たる足尾銅山の鉱業を停止せしむべきの程度にあらざる」と答えています。
 1894(明治27)年、日清戦争が始まりました。国内政争は「休戦」となりました。
 1896(明治29)年、渡良瀬川の大洪水により、1府5県で稲が立ち枯れるという被害が発生しました。
 1897(明治30)年3月3日、足尾銅山鉱毒被害住民ら2000人は、徒歩で東京に出発し、館林などで警官に阻止されました。
 3月3日、被害住民ら800人は日比谷に集結し、農商務省を囲み、興業停止を強力に請願しました。
 3月23日、農商務大臣の榎本武揚は、鉱毒被害地を視察しました。
 5月、政府は、足尾銅山鉱毒調査委員会を設置し、37項目の鉱毒予防工事令を出し、排水の濾過池・沈殿池と堆積場の設置や煙突への脱硫装置の設置を命じました。古河市兵衛は、昼夜突貫工事で、期限内に37項目を完成させました。これを監督した南挺三は、その後、古河鉱業の重役になります。
 7月、アメリカ帰りの高野房太郎(30歳)・片山潜(39歳)らは、職工義友会労働組合期成会と改称しました。
 1898(明治31)年、大暴風雨による洪水で、突貫工事で完成させた排水の濾過池・沈殿池はもろくも決壊し、鉱毒が流出しました。請願や議会活動に絶望した被害住民1万人は、足尾銅山の鉱業停止を求めて東京に上訴しようとしました。これが押出しです。田中正造は、犠牲者を出さないためにも総代を残して帰村するよう説得しました。
 1898(明治31)年、アメリカから帰国した安部磯雄(40歳)・幸徳秋水(28歳)・片山潜らは、社会主義研究会を結成し、社会主義の立場から労働者の生活を擁護する運動を始めました。
 1899(明治32)年、調査にあたった群馬県・栃木県の鉱毒事務所は、鉱毒による死者・死産は1064人と報告し、その原因は、足尾銅山との因果関係に言及せず、鉱毒水が井戸水に混入したとしています。
 1900(明治33)年1月、労働者の生活状態は生産の悪化がもたらすという立場から、一部の資本家は工場法の制定を提案しましたが、多くの資本家の反対で、延期されました。
 2月11日、被害地の代表が雲竜寺に集まり、毎日1000人を連日上京させて、請願させることを決定しました。これを知った警察は、1500人を動員して警戒に当りました。
 2月12日、館林警察署は、雲竜寺の集会に対し解散を命じました。これを聞いた被害住民は続々雲竜寺に集合して気勢をあげました。
 2月13日、被害住民3000人が川俣に着いた時、警備の300人の警察官と衝突しました。重軽傷が300人も出ました。これを川俣事件といいます。この事件で、逮捕されたものは100人で、起訴されたものは51人に及びました。
 2月15日、田中正造は、足尾鉱毒被災民の請願運動弾圧につき、衆議院で質問演説を行い、質問書を提出し、憲政本党を脱党すると宣言しました。質問書には、「院議を無視し、被害民を毒殺し、其請願者を撲殺する儀に付質問書」「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀に付質問書」などがありました。それに対し、政府は、「質問の旨趣、其要領を得ず。依て答弁せず。右及答弁也。内閣総理大臣、侯爵、山県有朋」と答弁書を送りました。
 3月10日、集会および政社法を廃止し、治安警察法を公布しました。その内容は、次の通りです。
(1)政治結社・集会・示威運動を取り締まる。
(2)労働運動・農民運動を取り締まる。
 1901(明治34)年5月、安部磯雄・片山潜・幸徳秋水・木下尚江(33歳)らは、社会民主党を結成しました。最初の社会主義政党です。彼らは社会主義の立場から、8時間労働・普選・階級制と軍備全廃・土地と資本の公有化などを主張しましたが、即日禁止されました。
 12月、田中正造は、議会開院式より帰途の明治天皇に直訴しました。この時の直訴状は幸徳秋水が書きました。
 1902(明治35)年、内務省は、秘密裡に栃木県谷中村と埼玉県利島村・川辺村の遊水池計画案を決定しました。内務省の意向を受けた埼玉県は、川辺村・利島村の買収を決定しました。
 1903(明治36)年1月、栃木県議会は、遊水池化のための谷中村買収案を否決しました。
 6月、第二次鉱毒調査会は、鉱毒予防工事令後の鉱毒は減少したとし、洪水を防ぐために渡良瀬川下流に鉱毒沈殿用の大規模な遊水池を作るべきとする報告書を提出しました。
 1904(明治37)年2月、日露戦争が始まりました。
 12月、栃木県議会は、秘密会を開き、災害復旧費の名目で、谷中村買収を案可決しました。これを知った田中正造は、谷中村に移住しました。
10  1906(明治39)年1月、西園寺公望首相は、古河鉱業副社長の原敬を内務大臣に任命しました。
 7月、谷中村の村長である鈴木豊三は、村会の決議を無視して、450戸の谷中村を藤岡町と合併させました。
 1907(明治40)年2月、足尾銅山で大暴動がおこり、事務所など65棟が破壊されました。軍隊が出動し、600人を検挙しました。
 6月、栃木県は、谷中村の堤内の残留して最後まで抵抗していた16戸を強制的に破壊しました。抵抗の中心に田中正造がいました。
 1909(明治42)年、渡良瀬川の改修案は、関係四県の県議会で可決されました。
 1910(明治43)年、谷中村を遊水地にし、渡良瀬川の流れの向きを変えるなど、大規模な河川工事が行われました。
 1911(明治44)年4月、谷中村の16戸137人は、北海道サロマベツ原野に移住しました。
 1913(大正2)年9月、田中正造が亡くなりました。時に73歳でした。葬儀には5万人が参列しました。
11  1973(昭和48)年、足尾銅山の採掘が中止され、閉山となりました。
 この項は、『近代日本史総合年表』などを参考にしました。
国策と人権、田中正造とは?
 囚人労働を描いた映画『いびき』の舞台は江戸の佐渡でした。同じく『北の蛍』の舞台は明治の北海道でした。
 いくら酷使しても、スペア(予備)はいくらでもあるという設定でした。日本人の人権を考える上で重要な話です。
 洪水の後は、稲を植えても成長せず、井戸水は有毒で飲めない状態でした。しかし、地元の人は、昔からある風土病と考えていました。
 鉱山の銅が少しずつ流失して、付近の住民の生活を脅かしていたので、その原因が理解できなかったのです。
 有害な銅イオンは、鉱山廃水・工場排水・農薬から発生します。人体への影響については、数グラムを摂取しただけで、嘔吐・下痢・肝細胞壊死・腎障害などの症状があります。
 政府は、殖産興業・富国強兵をスローガンとし、全てに優先させました。古河鉱業の社長である古河市兵衛は、政府の政策を忠実に実行して、成長してきた政商です。古河市兵衛は、農商務大臣の陸奥宗光の息子である陸奥潤吉を養子にしています。
 潤吉が社長になると、陸奥宗光農商務相の秘書官である原敬を、古河鉱業の副社長に任用しました。
 古河鉱業を行政指導する立場の東京鉱山監督署長の南挺三は、鉱毒予防工事令を出した後、古河鉱業の重役になっています。
 その上、日清戦争・日露戦争のさなかです。政府の対応は、後手後手になるのは当然です。
 1841(天保12)年、田中正造は、小中村の名主の家に生まれ、19歳のときに名主になりました。
 1868(明治元)年、田中正造は、小中村の旧領主六角家の用人筆頭である林三郎兵衛の汚職に対し、農民を組織して、勝利を収めましたが、投獄されました。出獄後、岩手に出て役人になりました。しかし、ここでも上司と対立し、暗殺容疑で投獄されました。
 1874(明治7)年、4年後、出獄した田中正造は郷里に帰りましたが、戸籍簿には死亡扱いになっていました。
 1883(明治16)年、県令三島通庸が栃木県令として着任しました。県会議員になっていた田中正造は、反対運動の先頭に立ち、投獄されました。三島通庸が転任すると、田中正造は出獄し、県会議長になりました。
 1890(明治23)年、田中正造は、第一回総選挙で衆議院議院に初当選し、連続6回当選しました。
 1901(明治34)年、鉱毒問題で万策尽きた田中正造は、議員を辞職し、明治天皇に直訴しました。これを知った学生や、安部磯雄・内村鑑三らのクリスチャン、幸徳秋水らの社会主義者が支援運動に立ち上がりました。
 古河市兵衛の妻は、川に身を投じました。志賀直哉の祖父は、足尾銅山の共同経営者だったので、彼は、現地調査に出かけようとして、父と対立しました。
 今も、毎年4月4日、谷中村が合併した藤岡町の田中正造霊祠で、慰霊祭が行われています。

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