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エピソード

207_01

社会運動の発生U(治安警察法、特別高等警察、女工哀史)
 1900(明治33)年には、繊維産業に従事する労働者は23万7000人(61%)になります。その内女子が20万9000人(88%)です。
 女子労働者は、農村から出稼ぎに出た紡績・製糸女工が大半です。紡績業の労働時間は、昼夜2交替の12時間、製糸業の労働時間は15〜18時間です。休日は隔週1回です。日給で7〜25銭で、当時米1升が15銭、大卒の初任給が月50円の時代です。
 1886(明治19)年6月12日、この頃、生糸の相場が下がり、企業の利潤が低下しました。そこで、甲府の雨宮製糸紡績工場では、1日の14時間労働を30分延長し、1日の33銭5厘の賃金を22銭3厘に引き下げるという提案をしました。100人の女工は、リーダーの「普段でも、私らは長糞、長小便はもとより、水1杯飲む暇もない。この上労働時間延長して、賃金は3分の1減らすなんて…」という呼びかけに同調して、近くのお寺に立て籠もりました。その他にも、取締りの過酷・遅刻早退による大幅賃金引下げなども取り上げました。これが日本最初の女性ストライキです。
 6月16日、雨宮製糸紡績の工場主は、譲歩してストライキは終了しました。その後各地でストライキが発生しました。
 1900(明治33)年2月、田中正造は、足尾鉱毒被災民の請願運動弾圧につき、衆議院で質問演説を行い、憲政本党を脱党すると宣言しました。
 3月10日、治安警察法を公布しました。その内容は、次の通りです。
(1)政治結社・集会・示威運動を取り締まる。
(2)労働運動・農民運動を取り締まる。
 1910(明治43)年5月25日、長野県警は、宮下太吉らを爆発物製造の嫌疑で逮捕しました。これが大逆事件検挙の始まりです。
 6月1日、幸徳秋水を湯河原で逮捕しました。以後、容疑者が大量に逮捕されました。堺利彦山川均荒畑寒村らは、赤旗事件で投獄されていたので、難を免れました。
 1911(明治44)年3月29日、日本最初の労働立法である工場法が公布されました。その内容は、次の通りです。
(1)12歳未満の就業を禁止する。
(2)15歳未満及び女子に対する1日12時間以上の就業と深夜業を禁する。
(3)休日は月2回を必要とする。
(4)但し、15人未満の工場は除外し、当分の間は14時間労働・深夜業を認める。
 8月21日、警視庁は、特別高等課特高)を設置しました。その任務は同盟罷業、爆発物、新聞・雑誌・出版物・碑文の検閲などを専門に取り扱います。
 11月2日、工場法の施行が延期されました。
 1916(大正5年)年9月1日、工場法が施行されました。条件付きで実施を15年間猶予する例外規定を設ける。
 1925(大正14)年3月2日、衆議院は、普通選挙法案を可決しました。
 3月7日、衆議院は、治安維持法案を可決しました。
 5月12日、細井和喜蔵は、『女工哀史』を刊行しました。
 1929(昭和4年)年7月1日、改正工場法が施行され、15歳未満と女子の深夜業が完全に禁止されました。
 この項は、『近代日本史総合年表』などを参考にしました。
『女工哀史』を読んで
 私の手元に、細井和喜蔵著『女工哀史』(岩波文庫)があります。昭和29年7月発行ですが、私の蔵書印を見ると、昭和43年10月となっています。大学時代から「1日1冊主義」でしたから、読んだ本も膨大な数になります。本屋さんから中元や歳暮が来るぐらいですから、買った本もたくさんあります。その都度、賞味期限が切れた本は廃棄してきましたが、基本的には「史料的価値」のある本を購入し、「概略的」な本は購入していなかったので、今も、納戸や子供たちの勉強部屋が、本置き場になっています。
 『女工哀史』は、そういう状況でも一度で探せました。それほど、印象に残った本だったのです。
 女工の労働条件が過酷だということが口コミで伝わると、会社は様々な募集を考えました(新漢字表記に変更)。
 ●東京モスリン亀戸工場は…大工場です。
 ●工場内には、新築の寄宿舎、学校、病院が設けてあり、総べて無料です。病気にかかっても、御心配はありませぬ。学校は、普通教育の外、裁縫、生花、茶の湯、礼儀作法、割烹などを丁寧に教えて居ります
 ●入社の年齢は満十二歳から三十歳までで、身体壮健で、父兄の承諾ある方に限ります。
 ●支度金は、年齢により相違ありますが、事情によって、充分に会社からお貸しする事に、御相談致します。
 ●上京旅費は、実費を会社から差上げます。今度入社せられる方には、反物代として別に三円差上げます。
 ●給料は年齢に依りまして、最初は一日金六十銭から金七十銭まで差上げます。六ヶ月になれば五、六十円以上に増加します。
 ●冗費せぬ方が一年に百円や二百円の貯金は楽に出来ます。
 ●食事は、会社から多額の補助金を出して、白飯と、おいしい副食物を、一日僅か、金十二銭で、賄います。他は一銭も掛りません。
 上の文章で気になることは、貧しいために学校にやれない子供に、会社が勉強や裁縫・礼儀作法を教えてくれるというのです。親への殺し文句です。
 入社の年齢が満十二歳ということは、今の小学校を卒業して就職したということです。
 支度金は前払い制で、受け取る親は極楽ですが、支度金を払い終わるまで働く子供は地獄という構図です。
 白飯とおいしい副食物というのが、麦飯を常食している子供への殺し文句です。
 労働の内容を書きます。大正5年の工場法では、昭和4年までは子女の14時間労働・深夜業を認められました。
 ●「工場は地獄よ、主任が鬼で、廻る運転、火の車」「籠の鳥より、監獄よりも、寄宿ずまひは、尚ほ辛い」「寄宿流れて、工場が焼けて、門番コレラで、死ねばよい」(女工が歌った小歌)
 ●休憩時間は九時、十二時、三時の合計一時間だ。その休憩時間に食事をする。運転は止めるが、台の掃除や次の段取りとかでほとんど休憩が無いも同様である。
 ●不良品を出すと、女工は罰金をとられた上に、大きな文字で人前へ掲示されるのであった。「二十五銭、三幅二等品、八部の本田セキ」「織賃没収、三幅四等品破れ、九部の森田イオキ」
映画『あゝ野麦峠』を観て
 山本茂実著の『あゝ野麦峠』は、1972年に朝日新聞社から発売されました。
 細井和喜蔵著の『女工哀史』(岩波文庫)は、当時の貴重な資料を丹念に記録していましたが、高校生にはなかなか難解の書籍でした。
 『あゝ野麦峠』は、副題に「ある製糸工女哀史」とありましたが、たくさんの製糸女工の聞き取りを記録していたので、読みやすく、当時の生々しさが迫力をもって迫ってきました。高校生にも読みこなせる書籍でした。
 「”ああ、飛騨が見える・・・”。厳しい冬将軍があたりを蔽い尽くそうとする頃、野麦峠の頂上でみねという名の製糸工女が、小さくつぶやきながら死んだ。口べらしのために岡谷の製糸工場(キカヤ)へ出かせぎに行き、病のため貧農の実家へ連れ戻される途中だった。」
 この部分が映画化されて、最後の部分の情景です。ここには、現在、兄の背で飛騨を見る妹の像が立っています。 
 映画の『あゝ野麦峠』は、1979年に山本薩夫監督の手で製作されました。主人公・政井みねには大竹しのぶ、兄・政井辰次郎には地井武男が扮しました。みねのライバル・篠田ゆきには原田美枝子、工場主の若旦那・足立春夫には森次晃嗣が扮しました。
 時は明治36年2月、多くの少女たちは、僅かな契約金の身代りに、飛騨(岐阜県)から野麦峠を越えて信州(長野県)・諏訪の製糸工場(キカヤ)に向かいました。
 激しい労働に耐え、素晴らしい生糸を紡いだ最も優秀な工女は百円工女と言われ、社長からも褒められ、家にも仕送りが出来て、工女のあこがれの的です。
 明治37年1月、工女たちは、1年間の給金を持って実家に帰ります。しかし、帰る家のないみねのライバル・篠田ゆきは、「玉の輿」を夢見て、工場主の若旦那・足立春夫に身を任せ、妊娠します。しかし、春夫には許嫁がいることを知った篠田ゆきは、逃れるように工場を去り、野麦峠で流産します。彼女のような運命の女工が多かったのか、この峠を地元の人は「野産(のうみ)峠」と呼んだそうです。
 明治41年、劣悪な労働条件・環境で働き続けた主人公・政井みねは、結核になります。百円工女も病気になると厄介ものです。やせ細った妹を見た兄・政井辰次郎は、涙しながら、背負子(せおいこ、しょいこ)に乗せます。
 野麦峠にやって来ました。前方には、「みね」が遊んだ故郷の飛騨の山々が広がっています。「兄さ、飛騨が見える」。これが「みね」の最後の言葉でした。
 明治政府は、富国強兵政策を推進しました。国を豊かにして、兵(軍隊)を強くする。世界列強に追いつけ、追い越せを猛烈に推進しました。
 当時、経済後進国の日本にとって、外貨を稼ぐのは生糸しかありませんでした。生糸の生産を支えたのが『女工哀史』・『あゝ野麦峠』に出てくる工女たちです。彼女たちの働き・苦労があって、日清戦争に勝利し、日露戦争に勝って、日本は世界列強に追いついたのです。
 この事実を冷静に理解したいと思います。
 今の繁栄は、彼女たちの苦労の上にあることを、しみじみと感じました。

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