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エピソード

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明治期の思想T(民権論、国権論、国粋主義、国民主義、日本主義)
 思想を字源的に考えて見ます。思想の「」の上部の田は頭を表し、「思」の下は心(心臓)を表しています。つまり、おもうという働きが頭脳と心臓を中心として行われることを意味しています。
 思想の「」の相は「木+目」からなり、向こうにある木を対象として見ることで。つまり、ある対象に向かって心で考えることを意味します。要するに、思想とは、ある対象を頭脳と心臓を使って考えることです。
 思想を考えるということは、他の人の「社会・人生についてのまとまった考えや考え方」を理解することですから、なかなか難解です。教える側が分からないと、教わる方はもっと分かりません。自分の言葉で話せるようになるまで、何回も何回も繰り返し読んで、理解する必要があります。
 明治の思想を整理すると、文明開化時代の入来した近代西洋思想には、自由主義個人主義天賦人権思想功利主義などがあり、これらを武器にした民権思想(民権論)があります。
 民権論は、国利を伸張し、生活を向上させることが、国家と社会発展の基礎であるという考えです。
 征韓論を経て自由民権運動の初期(明治7年頃)には、国権論が民権論に優越します。
 国権論は、独立国家として諸外国と対等関係を保ち、さらに家の力を拡張し、国力の充実をはかろうとする考えです。
 自由民権運動の高揚期(明治11年)頃には、民権論が国権論に優越します。
 自由民権運動の退潮期(明治17年)頃には、国権論が台頭します。
 国権論には、国粋主義国粋保存主義平民的欧化主義国民主義日本主義などがあります。
 1887(明治20)年2月、徳富蘇峰は、民友社を設立し、雑誌『国民之友』で「平民的欧化主義」を主張しました。その内容は、次の通りです。
(1)鹿鳴館に代表される貴族的・表面的な欧化主義や保守的な国粋主義を排除し、平民(地方の実業家)による生産的社会の建設と近代化(欧化)を達成する。
(2)一般国民の生活向上と自由拡大の観点から欧化主義の必要を主張する。
 1887(明治20)年4月、西村茂樹は、日本弘道会を設立し、雑誌『弘道』で「国粋主義」を主張しました。字源的に国粋を見ると、「粋」の右の卒は「衣+十」の会意文字で、はっぴを着た十人の小さい者がそろいの姿をした意味です。粹は「米+音符卒」で、小さい米がそろっていてまじりけのないことす。つまり日本固有の純なものをいいます。
 その背景・内容は、次の通りです。
(1)欧化政策に対する批判として、明治20年代から盛んになりました。
(2)日本国固有で純粋な伝統・美意識を大切にする。
 1888(明治21)年4月3日、、三宅雪嶺志賀重昂杉浦重剛政教社を設立し、雑誌『日本人』で、「国粋保存主義」を主張しました。その内容は、次の通りです。
(1)西欧文化の無批判な模倣に反対し、日本固有の伝統の中に価値ある基準(真・善・美)を求め、それを基盤に国民国家を形成する。
(2)民族文化を尊重し、国民(個)の幸福の前提として国家(全体)の独立を重視する。つまり、個より全体を重視する考えが、初めて登場しました。
 1888(明治21)年4月9日、陸羯南は、新聞『日本』を創刊し、「国民主義」を主張しました。
その内容は、次の通りです。
(1)国民の幸福の前提として、国家の独立・国民の統一・公共の利益が必要である。個より公共を優先する。
(2)国民主義とはナショナリズム(National)(Izm)のことです。初めてナショナリズムを言及しました。
 1890(明治23)年、ドイツから帰国した井上哲次郎は、東京帝国大学文科大学教授に昇進し、ドイツの新カント派を導入してドイツ観念論中心のアカデミズム哲学を確立しました。初めて、ドイツ流国家主義が導入されました。
 8月、穂積八束は、『法学雑誌』に「民法出テヽ忠孝亡フ」を発表し、民法典論争が始まりました。
 10月、教育に関する勅語を発布しました。
 1891(明治24)年9月、文部省の委嘱を受けた井上哲次郎は、『勅語衍義』を刊行して、教育勅語を儒教的傾向に基づく国家主義として積極的に流布・宣伝しました。
 1894(明治27)年12月、徳富蘇峰は、日清戦争が始まると、『大日本膨張論』を発表して、国権主義に転じて、日本の対外膨脹の帝国主義・国家主義を主張し、日本の大陸進出を肯定しました。
 1897(明治30)年6月、高山樗牛は、雑誌『太陽』に、「日本主義を賛す」を発表して、国粋主義を主張しました。
その背景・内容は、次の通りです。
(1)欧化主義の反動としておこる。
(2)日本古来の伝統を重視し、国民精神の発揚を唱える国粋的な考えです。
10  1903(明治36)年5月、第一高等学校生徒の藤村操は、「厳頭の感」の一文に「不可解」という文字を残して、日光華厳の滝に投身自殺しました。個を犠牲にして国家を重視することに疑問をもつ風潮が表面化し、青年の関心が外から内へと向き始めました。
11  1908(明治41)年10月、自由主義・個人主義を悪化として是正を諭す戊申詔書が発布されました。
この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
国粋主義と高山樗牛
 国粋とは、日本固有で純なものをいいます。しかし、本当に国粋は存在するのでしょうか。
 「花は桜木、人は武士」の代表が楠木正成で、 その純粋な生き様は、武士の理想像として、長く日本人の心に生きつづけたということで、有名です。桜の花は、パッと散ります。その散り際の美を、武士の死と引っ掛けているのでしょうが、花は散っても、桜木はまた、来年も桜の花を咲かせます。桜木は、しぶとく、生き続けています。
 漢字にしても、ルーツは中国です。言葉の上では、国粋は存在しても、現実には、ありえません。私は「美しい言葉にはトゲがあり、勇ましい言葉には裏がある」と思っています。
 美しい言葉である「日本主義」を唱えた高山樗牛は、どんな人でしょうか。
 東京帝国大学文科大学哲学科に在学中に、読売新聞の懸賞小説に応募した『滝口入道』が入選し、それが新聞に連載されて有名になりました。齋藤瀧口時頼は、建礼門院の侍女横笛に1000通の恋文を送りましたが、返事がなかったので、仏門に入りました。次は、『滝口入道』の最後の場面です。
 「次の日の朝、和歌の浦の漁夫、磯邊に來て見れば、松の根元に、腹掻切りて死せる一個の僧あり。流石汚すに忍びでや、墨染の衣は傍らの松枝に打ち懸けて、身に纏へるは練布の白衣、脚下に綿津見の淵を置きて、刀持つ手に毛程の筋の亂れも見せず、血汐の糊に塗れたる朱溝の鞘卷逆手てに握りて、膝も頽さず端坐せる姿は、何れ名ある武士の果ならん。
 嗚呼是れ、戀に望みを失ひて、世を捨てし身の世に捨てられず、主家の運命を影に負うて二十六年を盛衰の波に漂はせし、齋藤瀧口時頼が、まこと浮世の最後なりけり」。
 純粋な恋に殉死します。美文調で、ジーンときます。しかし、いまならストーカーです。
 この美文作家が、徴兵忌避のため、本籍を北海道に移したことは余り知られていません。人間とはそんなものです。
 明治34年、高山樗牛は、文部省から美学研究のため海外留学を命じられましたが、送別会の後で血は吐き、入院してしまいます。入院中の明治35年、『文明批評家としての文学者』ではニーチェの思想を個人主義の立場から紹介し、『美的生活を論ず』では、人間の本能を肯定します。
 死の直前には、日蓮に帰依し、静岡県の清水港にある龍華寺に葬られました。
 子供たちが小学生の時、富士登山をしました。その途中に、高山樗牛の墓に参りました。

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