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エピソード

209_01

明治期の思想U(浦上信徒弾圧事件、内村鑑三不敬事件)
1878 1882 1885 1886 1888 1890
教会数 44 93 168 193 206 300
信徒数 1,617 4,367 11,000 13,000 23,000 34,000
 1859(安政6)年、アメリカ人ヘボンが来日し、ヘボン式ロ−マ字を伝え、明治学院を創立しました。
 1859(安政6)年、オランダ人でプロテスタント宣教師であるフルベッキが来日し、大隈重信が師事しました。
 1861(文久元)年、ロシア人宣教師ニコライが来日し、ギリシャ正教のハリストス正教会を伝えました。
 1865(慶応元)年1月、日仏通商航海条約の締結後、フランス人宣教師のフューレベルナールは、長崎にフランス人専用の教会を完成させました。これを大浦天主堂どいいます。26聖人聖殉教者堂と命名しました。
 3月、杉本ユリら浦上の潜伏キリシタン15人は、フランス人の主任司祭であるプチジャンを恐る恐る訪ねました。そこで、プチジャンが聖母マリア像の前に連れて行くと、浦上のかくれ切支丹は公然と信仰を表明しました。その後、九州各地から数千人ものキリスト教信者がやってきて名のりをあげました。これを切支丹の復活といいます。
 1867(慶応3)年、浦上の信徒は、仏式葬儀を拒否したので、1村総流罪が決まり、津和野に流されました。これを浦上四番崩れといいます。
 1868(明治元)年3月、五榜の高札(切支丹邪宗門など5種の禁制)を掲示しました。
 4月、御前会議には、三条実美木戸孝允伊達宗城大隈重信らが出席し、潜伏キリシタンを逮捕して、7年間諸藩に配流することを決定しました。
 閏4月、新政府は、長崎・五島列島の潜伏キリシタン3394人を逮捕し、金沢・名古屋・鹿児島・山口・和歌山・三重など諸藩34家に分付するよう命じました。これを浦上信徒弾圧事件といいます。
 6月、萩に66人、津和野に28人、福山に29人が移送されました。これを旅といい、彼らの証言を旅の話といいます。
 1869(明治2)年11月、残りが移送されました。
 1871(明治4)年、アメリカ人のジョーンズは、熊本藩立の熊本洋学校を設立しました。生徒には、海老名弾正徳富蘇峰小崎弘道らがいました。
 1872(明治5)年、ブラウンは、プロテスタントの日本基督教会を設立しました。
 1873(明治6)年1月、列国は、岩倉遣欧使節に浦上信徒弾圧事件につき抗議しました。
 2月、新政府は、禁制の高札撤去を命令し、外務卿副島種臣は「耶蘇教禁制の高札除去」の口上覚書をアメリカとイタリアの公使に手交しました。
 3月、許されて帰郷した者の内信仰を守り抜いた者は1900人、改宗した者は1011人でした。配流先で死亡した者は613人でした。改宗者の多くは帰郷後、再びキリシタンに戻ったといいます。
 1876(明治9)年、熊本洋学校の生徒である海老名弾正・浮田和民らは熊本バンドを結成しました。
 1880(明治13)年、植村正久・浮田和民・小崎弘道らは、東京キリスト教青年会を設立しました。
 1889(明治22)年、大日本帝国憲法を制定し、信教の自由を認めました
 原文は「第28条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」です。
 1890(明治23)年4月、内村鑑三は、第一高等中学校の嘱託教員となりました。
 10月、教育に関する勅語を発布しました。
 1891(明治24)年1月、第一高等学校の始業式で教育勅語奉戴式がありました。式場中央には御真影、その前の卓上には明治天皇の親筆・署名の教育勅語が置かれていました。参加教員や学生らは、教育勅語に対して、最敬礼をしましたが、内村鑑三のみは、敬礼をしました。
 その結果、新聞・雑誌は「内村鑑三不敬事件」・「第一高等中学校不敬事件」として大々的に報道しました。その記事・論説の数は143、掲載新聞の数は56種の達しましたが、そのほとんどは、「不忠の臣」・「外教の奴隷不敬漢」というものでした。
 生徒の中には、封筒の中にカミソリを入れ、「不敬者、これで腹を切れ」という手紙を出した者もいました。これを内村鑑三不敬事件といいます。
 2月、内村鑑三は、依願解嘱し、その後、病床に就きました。看病した妻は、心身の疲れから、亡くなりました。
 11月、井上哲次郎は、『大日本教育会雑誌』で「教育と宗教に就いて」を発表し、内村鑑三の不敬事件について、キリスト教は教育勅語の趣旨に反し、日本の国体と相容れない宗教であると攻撃しました。これが教育と宗教の衝突論争のきっかけとなりました。
 1893(明治26)年2月、内村鑑三は、井上哲次郎に反論する形で、『基督信徒の慰め』を出版しました。「死にて活き、捨てて得る」という福音の意味が理解できたといいます。内村鑑三は、孤立してでも自分の信仰を守ることを主張しています。
 3月、植村正久は、『日本評論』で「今日の宗信論及び徳育論」を発表し、教会の中で組織と信仰を育てるべきだと主張しました。
 3月、大西祝は、『教育時論』で「私見一束」を発表し、「教育勅語と倫理説」・「耶蘇教問題」を展開しました。大西祝は、キリスト教と教育勅語の衝突ではなくて、キリスト教と保守主義との衝突であると主張しました。
 4月、井上哲次郎は、『六合雑誌』で「教育ト宗教ノ衝突」を発表しました。
 1895(明治28)年、信仰を許された浦上信徒は、浦上天主堂を着工します。
 1945(昭和20)年、原子爆弾が投下され、浦上天主堂は一瞬にがれきとなり、浦上信徒1万2000人の内8500人が命を失ないました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
キリスト教と受難、不敬事件
 キリスト教には、殉教という考え方があります。「キリスト教を信じて死んだものは、神に愛される」というものです。多神教であった日本人には、なかなか理解できない考えです。
 その結果、世界史のみならず、日本史でもたくさんの受難の話があります。今回は、江戸末期から明治初期の受難の話、明治中期の受難の話、昭和になってからは敗戦時との受難の話を取り上げます。
 江戸末期から明治初期の受難の話です。
(1) 湿っぽい土間に丸太を並べ、その上に板を置き、ムシロを1枚しいてある。窓は高い狐格子で、日の目など夢にも見られない。室内には蚊帳もなく、灯火もなく、蒲団もない。著のみ着のまま、暑い夏も寒い冬もすごさねばならなかった。食物といえば、海水につかって腐りはてた南京米2合5勺が一人一日分で、副食物は梅干一個か、塩一つまみである。
(2)私は裸にされ池に入れられました。時に、寒さは針で突き刺すごとくでありましたので、私は大声でオラショ(祈り)をいたしましたら、役人が怒って四方から水をくりかけました。私が死にそうになったので、役人は、「早くあげよ」といって池からあげられ、もとの責め揚(拷問室)に据えられて、「これでもかんべんせぬか」と申されたので、「とてもかんべんなりません」と申しました。それから吟味をうけまして、焚火で暖められたので身体じゅうがうずき、つぎに悪感、戦慄がきて、歯も抜けるかと思いました。
(3)その時、警固の役人「早くあがれ」と申したれど、「いま宝の山に登りておるからは、この池よりあがられん」と、いうておるうちに、三間(5・5m)ばかりの竹の先に鈎をつけ、鈎の先に髪毛を巻きつけ、カにまかせてひき寄せました。
 それから氷の中よりひき上げ雪を掃き、柴束二つ、焚つけとして枯木を立てて燃や、二人の体を6人で抱え、その火にあぶり、ぬくめ入れ、気付けを飲ませ、本づかせ(正気)ました。その時の苦しさは、何とも申されませぬ。
 この津和野の池での氷ぜめは言語に絶する厳しい責め苦であったことが、この甚三郎の手記でよくわかる。
(4)「改心すれば役人にしちゃる。こげな牢(ろう)に住まんでも、ぴちっとした家に住めるとぞ」。両手を鎖で縛られたてるは、氷の池に投げ込まれた。皮膚が破れ、やけどのような跡は死ぬまで生々しかったという
(5)身重でありながら首に鉄の輪(咽喉輪)をはめられ、4歳の娘とともに祈りの毎日を送っていましたが、6月20日難産のため母子とも死亡。咽喉輪は鉄製で幅2.4cm、厚さ0.6cmで錠がついている。改心して真宗門徒になれば、開錠して咽喉輪を外し、家族の面会を許し、仕事も与え、帰郷にも配慮するとした。
 授業が終わった時、数人の生徒が教卓に回りにやっていて、「先生、キョンキョン知ってる?」と尋ねます。私は「キャンキャンやキョロキョロは知っているが、キョンキョンは初耳やなー」というと、「違う違う、小泉今日子のことや。今日、キョンキョンが浦上信徒の恋人役で出るから、見てね」と生徒と約束させられました。
 大学の学園祭では、一番人気のアイドルで、京都大学の学園祭にも出演するとありました。目元が愛くるしいキョンキョンが、津和野に流される恋人を帰ってくるまで待っている百姓娘で主演していました。内容は、かなり以前の話で忘れましたが、キョンキョンと浦上信徒弾圧事件だけは記憶にあります。
 次に、明治中期の受難の話です。
 明治23年に、内村鑑三は学校の先生になります。当然4月です。その10月に教育勅語が発布されました。
 明治24年の1月に始業式です。この間、勅語の奉読式はなかったのでしょうか。私は、発布されて、第一高等学校に配布された時か12月の終業式に、奉読式は行われたと思っています。その時、問題にならず、始業式で問題になったのは、なぜだろうとこだわっていました。やっとその理由が分かりました。
 始業式の時、休んでいた校長に代わって奉読式を執り行なったのが教頭でした。教頭は、先生から順番に演壇の上げ、御親署の勅語に最敬礼をさせました。次に生徒が勅語に最敬礼しました。全員が見ている中での儀式で、内村鑑三は、最敬礼でなく敬礼に見えました。
 その理由を、偶像崇拝を認めないクリスチャンだからという説が多いですが、教会では、イエスの像やマリアの像に祈っていますから、「偶像崇拝…」説は意味がありません。
 私は、明治24年頃というと、国家主義が大きな潮流となっていたころで、日本の国家主義と相容れない異国の思想(ここではキリスト教)を敵視して、あぶりだそうという心理が教頭にあったのではないかと思います。
 それにしても、最敬礼か敬礼かで辞職に追い込む状態を想像すると、全体の中の個人を否定するパターンが読み取れます。恐い恐い日本人の体質を感じます。
 樋口一葉は、日記で「此ごろかしましきもの」として「教育宗教衝突事件。新聞に雑誌に議論かなへの沸く様也」と書いています(1893年7月5日)。
 昭和になってからは敗戦時の受難です。
 昭和20年8月9日午前11時2分、原子爆弾が長崎市投下され、9万3966人(厚生省)が亡くなりました。爆心地は浦上天主堂から200メートルの所です。浦上天主堂は一瞬にがれきとなり、浦上信徒1万2000人の内8500人が命を失ないました。
 木下恵介監督は、永井隆博士の生涯を主題にして、映画『この子を残して』(昭和58年)を制作しました。出演は、加藤 剛・十朱幸代・大竹しのぶさんらです。
 私も見ました。この中で印象に残っているのは、クリスチャンで長崎医科大学物理的療法科部長である永井隆博士に、他のクリスチャンが「この世に神はいないのでしょうか」と問う場面です。しかし、博士は何も答えず、2畳1間の家を「如己堂」(汝の近きものを己の如く愛すべし)と名づけたり、自分の病魔と闘いながら、黙々と医療活動を続けました。
 桜の苗木1000本を浦上天主堂や小学校などに贈りました。これが永井千本桜です。
 こうした奉仕活動が、周囲の人々の心をうち、自力へのエネルギーになって行きました。
 昭和26年、永井隆博士が亡くなりました。時に43歳でした。辞世の句は次の通りです。
 「白ばらの 花より香り 立つごとく この身をはなれ 昇りゆくらむ」

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