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エピソード

211_01

教育の普及U(国定教科書制度、小学校就学率100%)
 今、かなりの人が、日本国憲法教育基本法をアメリカから押し付けられ、日本をダメにしたとして攻撃の中心においています。その中には行政に携わる人もいます。
 教育基本法の中身も知らず、その風潮に同調する人も増えて来ています。
 教育基本法の第10条では教育行政について、第一項では、こう規定されています。
 「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」
 戦前、教育は不当な支配に服していたと指摘しています。国民に責任を負うと指摘しています。
 第二項では、こう規定されています。
 「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」
 教育行政は、教育目的を達成するため、少人数授業などの条件整備をすると指摘しています。
 それでは、どう不当な支配に服していたのでしょうか。
 教育勅語には「一旦緩急アレハ、義勇公ニ奉シ、以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ、是ノ如キハ、獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン」とあります。
 「国家にとって重要な事があれば、正しい勇気をもって国のため尽くし、それによって天地無限の天皇・皇室の運を助力してお守りすべきである。これは、天皇の忠良である臣民としての国民だけでなく、祖先の気持ちを公明にすることでもある」と現代語訳されます。
 その結果、戦前には死を前に、次のような遺書を書くような若者が誕生しました。
「天皇陛下に対し奉りては、無上の恐懼を感じ、その職責の重大を痛感する者でありまして、おめおめ生還するが如きは男子の本懐とせざる所であります」とか「和子(娘の名)よ、父は君国のため喜んで戦場の露と消えました。父は笑って死にました」、「皇国よ悠久に泰かれと願ひつゝ桜花と共に靖国に咲く」、「我は最も皇国に生をうけし男子の花と散りたるぞ。そちのほこりの泪たれ」、「自分の事は、如何なる時にも御心配しないで下さい。そして、小生を御国の為に働かして下さい。自分も良き死場所を見つけて、御国に御奉公するつもりです」(小林よしのり著『靖国論』より)。
 1886(明治19) 年、小学校令・中学校令が制定され、検定教科書制度がスタートしました。
 1890(明治23) 年、教育勅語が発布されました。修身教科書を国定にすべきとの議論がが帝国議会で行われました。
 1902(明治35) 年、教科書の採択権をもつ各府県の審査委員と教科書出版社との間で教科書疑獄事件がおこりました。そこで、政府は、国定教科書制度に踏み切りました。
 1903(明治36) 年、小学校令を改正し、国定教科書制度がスタートしました(「小学校ノ教科用図書ハ文部省二於テ著作権ヲ有スルモノタルべシ」)。国が著作権を有する教科書を、学校教育において用いることを定めた制度を国定教科書制度といいます。
 歴史教科書のサンプルがなかったので、国語・修身の教科書を例示します。
 1904(明治37) 年、「尋常小学読本」(巻1〜巻8)を使用しました。通称は「イエ・スシ読本」と言われます。「児童ノ学習シ易キ片仮名ヨリ入リ」と指導の要点を記し、単語の前にカタカナの単音と絵とを組み合わせています。
 1910(明治43) 年、「尋常小学読本」(巻1〜巻12)を使用しました。通称は「ハタ・タコ読本」(ハタ・タコ・コマ)と言われます。 歴史的かな づかいを使用し、漢字数を増加させました。童話・伝説・神話などの教材も多くとり入れ、読本的に編集しています。しかし、「広瀬中佐」「日本海海戦」など国家主義的精神の高揚を意図した教材も採用しています。
 1911(明治44) 年、南北朝正閏論争が発生しました。
 1918(大正7) 年、「尋常小学読本」(巻1〜巻12)を使用しました。「ハタ・タコ読本」の修正本で、評判が悪く、採用はあまりありませんでした。
 1918(大正7) 年、「尋常小学国語読本」(巻1〜巻12)も使用しました。通称「ハナ・ハト読本」(ハナ・ハト・マメ・マス・ミノ・カサ・カラカサ)と言われます。この「尋常小学国語読本」は、自由な編集で、児童生活を中心にしています。内容を見ると、児童自身を主人公にしたものや、童話・童謡などの文学教材をはじめ、外国人の主人公などを扱った教材が多く採用されています。そのため、先生は勿論、児童や保護者にも親しまれ殆どの地域でで使用されました。
 1930(昭和5) 年、「尋常小学校修身書巻一」を使用しました。。そこには以下の記述があります。
 「セイキチハ エンピツ ヲ ヒロイマシタ ガ、オトシタ コドモニ ソレ ヲ カヘシテ ヤリマシタ」
 「コノコハ タビタビ『オホカミ が キタ』ト イツテ 人ヲ ダマシマシタ ソレデ ホンタウニ オホカミ ガ デテキタ トキ ダレ モ タスケテ クレマセン デシタ」
 1933(昭和8) 年、「小学国語読本」(巻1〜巻12)を使用しました。通称は「サクラ読本」(サイタ サイタ サクラ ガサイタ)と言われます。単語からではなく「サイタ サイタ・・・」「コイ コイ シロ コイ」の文で始まっています。国定教科書のなかも、劇的教材など文学的精神が豊富と言われています。 しかし、「東郷元帥」などの軍事教材や「神武天皇」などの神話教材が採用されています。また、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」という記述からも分かるように、軍国主義的な内容も露骨になってきます。
 1936(昭和11) 年、「尋常小学校修身書巻一」を使用しました。そこには「キグチコヘイハ、イサマシク イクサ ニ デマシタ。テキ ノ タマニ アタリマシタガ、シンデ モ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」という有名な文章が登場してきました。この頃から、「国家に対して死をもって奉ずる」という概念が強くなっています。昭和11年というと、二・二六事件があった年です。
 1941(昭和16) 年、「国民学校令」が公布されました。従来の国語・修身・地理・歴史が統合して国民科となりました。通称は「アサヒ読本」(アカイ アカイ アサヒ アサヒ)と言われます。教育目的は『皇国民の練成』であり、軍国主義的・忠君愛国的教科書が特徴です。
 こうした国定教科書では、日本人は軍国主義的・忠君愛国的精神に洗脳されていきました。
 1941(昭和16) 年、陸軍大臣東条英機は「戦陣訓」を出し、軍国教育の総仕上げを行いました。その第7では「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。…従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」と説き、第8では有名は「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と書いています。
 日本人の精神構造は、戦死者は英雄として扱われるが、生きて捕虜になった場合、「非国民」扱いされて、親や兄弟・親戚・周囲から非難されるように追い込まれて行きました。
 1932年から1941年の日米開戦まで駐日大使であったジョセフ・C・グルーは、『日本と太平洋』(1944年4月号)で、次のような文章を書いています。
 「日本の教育の要となっている軍事教練は、小学校に始まり、大学においても最優先されている。…”危険思想”のレッテルを貼られ、獄中や監視下にある者も少なくない」
 「日本の士官は”眠らない訓練”」と称して兵士に29時間も行進させた後、平気でさらに訓練をさせる」
 プライスは、『知られざる日本』(1942年8月号)で、次のような文章を書いています。
 「日本ではキリスト教的な個人の価値・尊厳が欠けており、これが集団行動にたけ、一方で死を厭わない日本人を生む。人命軽視は”死して虜囚の辱めを受けず”の戦陣訓ばかりでなく、過酷な労働時間や劣悪な労働環境にも反映されている。また、日本には”良心の呵責”が欠けている。その代わり”国のためになることは何でも正しい”という強力な倫理が働いている」
 私の知っている陸軍歩兵第143連隊第4中隊員だった兵隊(86歳)さんの証言です。
 1942(昭和17)年2月、ビルマ(今のミャンマー)戦線での体験です。「私たちの合言葉は”死して虜囚の辱めを受けず”です。捕まりそうになった戦友は手榴弾で自爆しました。怪我や病気で歩けなくなった戦友は、手榴弾を腰に巻いて自爆しました。助けようにも助けることが出来ませんでした」。
 「北部のビルマの戦闘では、1万7166人が死亡し、それに対し捕虜は142人でした。その理由は、生きて捕虜になるより、手榴弾を手に米軍に突っ込み、集団自決の道を選んだからです」。
10  1944(昭和19)年7月、米海兵隊2個師団がサイパン島に上陸しました。日本の守備隊は、必死に抵抗し、軍と民間人合わせて6万人が死亡しました。
 7月8日、多数の兵士と民間人は、サイパン島北端の80メートルもある絶壁から子どもを携え「天皇陛下万歳」を叫びながら、海中に身を投じました。ここをバンザイクリフといいます。
教育勅語と戦陣訓、南北朝正閏論争
 私の周囲でも、「今の教育はなっとらん。昔の教育勅語の方が良かった」というお年寄りがいます。
 私も今の若者の態度・言動には不満を持っていますが、安直に、「教育勅語」がいいとも思っていません。むしろ問題が多いと思っています。
 下記に「教育勅語」の本文と、それを受けた文部大臣の訓示と、教育勅語の口語文(国民道徳協会の訳文)を載せました。
「○文部省訓令第八號
今般教育ニ關シ勅語ヲ下タシタマヒタルニ付其謄本ヲ頒チ本大臣ノ訓示ヲ發ス管内公私立學校ヘ各一通ヲ交付シ能ク聖意ノ在ル所ヲシテ貫徹セシムヘシ
 別紙
   勅 語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ知能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
    明治二十三年十月三十日」
「   訓 示
…謹テ勅語ノ謄本ヲ作リ普ク之ヲ全國ノ學校ニ頒ツ凡ソ教育ノ職ニ在ル者須ク常ニ聖意ヲ奉體シテ研磨薫陶ノ務ヲ怠ラサルヘク殊ニ學校ノ式日及其他便宜日時ヲ定メ生徒ヲ會集シテ勅語ヲ奉讀シ且意ヲ加ヘテ諄々誨告シ生徒ヲシテ夙夜ニ佩服スル所アラシムヘシ」
「口語文
 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や,秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります
 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります」(国民道徳協会訳)
 以下は、原文の「一旦緩急アレハ…顯彰スルニ足ラン」を訳した私の文章です。
 「国家にとって重要な事があれば、正しい勇気をもって国のため尽くし、それによって天地無限の天皇・皇室の運を助力してお守りすべきである。これは、天皇の忠良である臣民としての国民だけでなく、祖先の気持ちを公明にすることでもある」
 しかし、「教育勅語」を称賛する人々は、「西欧文明の絶対価値観抜きの流入から来る社会荒廃を防いだ教育勅語の精神は、今の時代にこそ必要な物であると思えます」と主張しています。しかし、彼らの訳文は「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります」となっており、原文とは非常に乖離しています。
 本当に自信があるなら、国民に迎合する訳文を止めて、原文どおり訳して、PRすべきです。そうなっていないのは、「やましい気持ちがあるからではないか」と言われても反論できません。
 今(2005年)、話題の扶桑社の中学校教科書では、『教育勅語』をどう紹介しているでしょうか。
 本文では、「父母への孝行や、学問の大切さ、そして非常時には国のためにつくす姿勢など、国民としての心得を説いた教えで、1945(昭和20)年の終戦にいたるまで各学校で用いられ、近代日本人の人格の背骨をなすものとなった」と記述しています。
 史料では、一部要約として「国民は…学問を修め、技術を学び、かくして知能を向上させ、人格を完成し、進んで国家・社会の利益を拡大し、(中略)国家や社会に危急のことがおこったときは、進んで公共のためにつくさなければならない」としています。
 この本文・史料を読んだ人は、「教育勅語はいいことを書いてあるじゃん」と思うでしょう。私も、その通りなら、文句の付けようもありません。
 しかし、教育勅語の一番のポイントは、「一旦緩急アレハ…顯彰スルニ足ラン」の部分です。この部分をあえて省略したのは、「衣の下に鎧の意図が隠されている」と指摘されても、文句の付けようもありません。
 次に「小学校儀式唱歌用歌詞及楽譜」を掲示しました。
「  勅語奉答の歌
   あやにかしこき天皇の あやにたふとき天皇の
   あやに尊くかしこくも くだしたまへる大勅語
   これぞめでたき日本の 国の教へのもとゐなる
   これぞめでたき日本の 人の教へのかがみなる
   あやにかしこき天皇の 勅語のままにいそしみて
   あやにたふとき天皇の 大御心にたたへまつらん」
 この歌には「教育勅語」の本質が示されています。
「戦陣訓(1941年、陸軍大臣東条英機)
本 訓  其の1
第1 皇  国
 大日本は皇国なり。万世一系の天皇上に在しまし、肇国の皇謨を紹継して無窮に君臨し給ふ。皇恩万民に遍く、聖徳八紘に光被す。臣民亦忠孝勇武祖孫相承け、皇国の道義を宣揚して天業を賛し奉り、君民一体以て克く国運の隆昌を致せり。
 戦陣の将兵、宜しく我が国体の本義を体得し、牢固不抜の信念を堅持し、誓つて皇国守護の大任を完遂せんことを期すべし。
第2 皇  軍
 軍は天皇統帥の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し皇運の扶翼に任ず。常に大御心を奉じ、正にして武、武にして仁、克く世界の大和を現ずるもの是神武の精神なり。武は厳なるべし仁は遍きを要す。苟も皇軍に抗する敵あらば、烈々たる武威を振ひ断乎之を撃砕すべし。
 仮令峻厳の威克く敵を屈服せしむとも、服するは撃たず従ふは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言ひ難し。武は驕らず仁は飾らず、自ら溢るるを以て尊しとなす。皇軍の本領は恩威並び行はれ、遍く御綾威を仰がしむるに在り。
第3 皇  紀
 皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。
 上下斉しく統帥の尊厳なる所以を感銘し、上は大意の承行を謹厳にし、下は謹んで服従の至誠を致すべし。尽忠の赤誠相結び、脈絡一貫、全軍一令の下に、寸毫紊るるなきは、是戦捷必須の要件にして、又実に治安確保の要道たり。
 特に戦陣は、服従の精神実践の極致を発揮すべき処とす。死生困苦の間に処し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり。
本 訓 其の2
第7 生死 観
 死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
 生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。
第8 名を惜しむ
 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。
「教育基本法 
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
(教育の目的)第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育の方針)第2条 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。
 私は戦争体験をよく聞きます。彼らは、いつの間にか、自分たちの正当性を主張したり、手柄話になります。
 最後に、私は「では、日本は戦争に勝っていた方が良かったと思いますか」と質問します。彼らは例外なく「日本は戦争に負けたほうが良かった」といいます。「あんな時代は真っ平だ」とも言います。
 教育勅語、戦前の教育、戦陣訓を調べ、教育基本法を読み直して見ると、明るさがはじけています。
 今(2005年)、80歳前後の人は「教育勅語」で育った人です。その精神が今も通用するなら、戦後60年間何をしてきたのでしょうか。子供社会は大人社会の鏡です。その尺度からすると、一方的に教育基本法に責任を負わせることは如何でしょうか。
 卒業生から、「戦陣訓を作った東条英機さんは、捕虜にはならなかったのですか」というメールがありました。
 東条英機は、GHQに逮捕される前にピストル自殺を図りましたが、失敗しています。その理由として手元が狂ったという同情説と、22口径のピストルでは自殺はできないので、狂言だという説があります。
 「多くの人命を奪った張本人が、この始末では、戦陣訓を信じて死んでいった人は浮かばれない」という戦争体験者の怒りの声をよく聞きました。
10  私は忠臣蔵(赤穂事件)を研究・調査しています。家臣(赤穂浪士)が主君(浅野内匠頭)に忠義をつくして討ち入りしました。
 戦前、これを小義と規定されました。大名への忠義は小義といって、軽視された歴史があります。
 大義とは、天皇への忠義と規定されました。
 江戸時代の大義は、戦前は小義だったのです。ここに政治に利用された教育の悲劇を感じます。
11  戦前で、最初に思いつくのが、「南北朝正閏論争」です。
 1909(明治42)年、国定教科書『小学日本歴史』が改定され、実証主義史学派の喜田貞吉は、「南北朝並立論」を採用しました。
 1910(明治43)年、大逆事件がおこりました。
 1911(明治44)年1月19日付けの読売新聞は、「国定教科書の『尋常小学日本歴史』が南北両朝を並立させて正邪・順逆を誤らしめている」という記事を掲載しています。大義名分史学派の牧野兼次郎らが同調しました。
 それを聞いた大阪出身の藤沢元造は、議会に質問趣意書を提出しました。それには「文部省の編纂にかかる尋常小学校用日本歴史は、国民をして順逆・正邪を誤らしめ、皇室の尊厳を傷つけ奉り、教育の根底を破壊する憂いなきか」とありました。
 桂太郎首相は、事の重大さに驚き、色々圧力をかけて、藤沢元造の質問を撤回させました。しかし、藤沢元造が質問予定日に辞任の演説を行ったことで世論が紛糾し、その事実が暴露されました。その結果、「月に正・閏があるように、一方を正統、他方を閏位とすべし」とか「歴史事実を重んじて正閏・真偽の別を設けず両朝並立とすべし」などの南北朝正閏論争が噴出しました。
12  そこで、桂太郎内閣は、上奏して、明治天皇の勅裁を得ました。その結果、「南朝を正統と定め、北朝の天皇を歴代表に記載しないこと」に決定しました。訓令により、国定教科書を「吉野の朝廷」と改定し、教科書を執筆した実証主義史学派の喜田貞吉を休職処分にしました。学問的には、攻撃した側には、名分論的史学派の学者が利用されていました。
 学問上のことがどうして政治問題化したのでしょうか。
 1910(明治43)年の大逆事件の裁判のとき、幸徳秋水は「現在の天皇は南朝から皇位を奪った北朝の子孫ではないか」と述べて、裁判長ら関係者を驚愕させたといいます。そこで、政治的理由からどうしても、「南朝正統」とする風潮が必要だったのです。
 学問を政治が圧力をかけたり、利用する場合には、深い深い理由があることが分かりました。

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