print home

エピソード

212_01

お雇い外国人
 明治新政府は、「欧米に追いつき追いこせ」をフローガンに、教育に熱意を注ぎました。このエネルギーに圧倒されるばかりです。
 御雇外国人を招聘しています。月給を調べてみました。フルベッキ(600円)、ベルツ(500円)、ナウマン(350円)、フェノロサ(370円)、クラーク(600円)、モールス(370円)、キンドル(1045円)などです。当時、伊藤博文は参議で月給は500円、後総理大臣になって800円でした。庶民は10円の時代です。そんな高額の外国人を6193人も招いたのです。
 なぜ高額かというと、中流の学者や研究者では、世界のトップの教育には追いつけない。世界でトップの学者や研究者を招いたのです。今のアメリカに、日本から頭脳流出が続いています。当時は、世界の頭脳が日本に流入したのです。「総理大臣よりも高額の待遇で」という条件を付けられた人もいました。
 戦前に教育を受けた人は、今の教育の現状を憂いて、教育勅語を評価します。しかし上に見たように、教育に膨大な投資をした結果が、優秀な人物を生んだのです
 私は、サッカーのことはよく分かりません。しかし、プロサッカーとプロ野球を比較すると、面白いことが分かります。
 サッカーでは、欧米の優秀な指導者を全日本の監督に据えます。今はジーコ監督が指揮しています。ヨーロッパで活躍している選手でも、全日本の代表選手として出場します。国際交流がとても盛んで、オープンな組織だと思います。国内でも、プロの下部組織のユースは、アマの高校チームと対戦して日本一を決定します。将来、TVスポーツの中心は野球からサッカーになるでしょう。
 プロ野球では、アメリカの優秀な指導者がチームの監督になれても、オリンピックの全日本の代表監督にはなったことはありません。イチロー選手が、全日本の代表選手としてオリンピックに出ることもありません。プロの2軍選手が大学のチームと日本一を競うこともありません。
 プロ野球の日米オールスター戦を見ていると、試合が白熱し、日本が勝利することがあります。解説者は「日米の差は縮まった」とか「アメリカから得るものはなくなった」と豪語する人もいます。「監督がアホやから」といって退団した元参議院議員の解説者が特にひどい。それが本当なら、日本の超一流選手が大リーグに行ったり、入りたいと意思表示することはないでしょう。このような閉鎖的で頑固な上層部がいるかぎり、日本のプロ野球はジリ貧となるでしょう。
 発展には、超一流の技術・知識を導入したり、交流することが欠かせません。明治の政治家は、そのことを知り、そのことを実践したのです。
 1871(明治4)年、ホフマン(ドイツ人)、大学東校で内科・薬物学を教授
 1871(明治4)年、ミュルレル(ドイツ人)、大学東校で解剖学・外科学を教授
 1873(明治6)年、マレ−(44才。アメリカ人)、東京大学の整備に貢献
 1873(明治6)年、メンデンホ−ル(33才。アメリカ人)、東京大学で地球物理学を教授
 1873(明治6)年、ヒルゲンドルフ(ドイツ人)、東京大学で数学と博物学を教授
 1873(明治6)年、コッヒウス(ドイツ人)、東京大学で理化学を教授
 1873(明治6)年、フンク(ドイツ人)、東京大学でドイツ語とラテン語を教授
 1875(明治8)年、ベルツ(27才。ドイツ人)は、東京大学で26年間、生理学・病理学・内科学・産婦人科学を教授しました。ベルツは日本人の荒井花子を妻としました。ベルツは、草津温泉を世界無比の高原温泉であることを世界に紹介したことでも有名です。草津温泉に宿泊中、旅館の女中がアカギレになって苦しんでいたので、ベルツはそれを見て、早速「ベルツ水」を考案したといいます。
 1875(明治8)年、ナウマン(26才。ドイツ人)は、東京大学で地質学を教授し、フォッサ=マグナを指摘したり、日本にナウマン象がいたことを実証しました。
 1875(明治8)年、キヨソネ(43才。イタリア人)、有価証券類の原版を作製。銅版画
 1875(明治8)年、ラグーザ(36才。イタリア人)は、東京美術学校で彫刻を教授し、モデルのお玉をやがて、妻に迎えました。
 1876(明治9)年、フォンタネージ(59才。イタリア人)、東京美術学校で洋画を指導
 1876(明治9)年、ミルン(27才。イギリス人)、工学寮の地質学教授
 1876(明治9)年、クラ−ク(アメリカ人)、札幌農学校の副校長として来日
 1877(明治10)年、モース(40才。アメリカ人)は、東京大学でダ−ウィン進化論を紹介したり、大森で貝塚を発見したことで有名です。
 1878(明治11)年、フェノロサ(26才。アメリカ人)は、岡倉天心と共に東京美術学校を設立しました。日本の芸術を高く評価し、文明開化の風潮で、日本の伝統美術品が安価に海外に流出することを防ぎました。
 1887(明治20)年、リ−ス(27才。ドイツ人)、東大でランケ史風の実証主義史学を導入
 1890(明治23)年、ラフカディオ・ハ−ン(41才。ギリシャ系英人)は、雑誌専属の旅行記者として来日しました。しかし、契約のトラブルから松江に移り、島根中学の英語教師になりました。そこで、武家の娘の小泉セツと結婚し、小泉八雲と名乗るようになりました。その後、東京大学で英文学を教授するようになりました。「耳なし芳一」「むじな」など『怪談』をアメリカで出版しし、日本の風土や民俗を全世界に紹介しました。
 1893(明治26)年、ケーベル(46才。ドイツ系ロシア人)は、東京大学で哲学・ドイツ文学を教授しました。私は、夏目漱石の『ケーベル先生』という本でしか、知りません。しかし、ケーベル先生の教え子には岩波茂雄や阿部次郎らの名前も発見しました。
世界の技術を貪欲に吸収した明治の政治家
名 前 年齢 職    業 月給 (1)造幣寮では元香港造幣局長のキンドル
を月給1045円でお雇いしました。
フルベッキ(600円)、クラーク(600円)
ベルツ(500円)、フェノロサ(370円)
モールス(370円)、ナウマン(350円)

(2)左は日本の有名人の月給です。
石川啄木 20歳 尋常小学校代用教員 12円
永井荷風 22歳 新聞記者 12円
藤島武二 26歳 尋常中学校助教諭 23円
正岡子規 31歳 新聞記者 40円
森 鴎外 37歳 軍医監(少将) 300円
 常滑焼とお雇い外国人といってもピンとくる人は少ないかもしれません。
 工部美術学校には3人のお雇い外国人がいました。彫刻科のラグーザ、絵画のフォンタネージ、家屋装飾のジョバンニ・カペレッティーです。そこの卒業生が内藤鶴嶺という旗本の子供でした。
 1883(明治16)年、西洋技術との融合を目指した常滑美術研究所を設立し、内藤鶴嶺を招聘しました。1粒の種が徐々に拡大再生産されていきました。
 岡倉天心(18歳)が東京大学で政治学や経済学を学んでいました。そこへ、アメリカ人のフェノロサ(27歳)がお雇いの哲学の先生として赴任してきました。
 フェノロサは、英語が堪能な岡倉天心を美術研究の助手として、日本全国を見て周り、日本美術に興味を持つようになりました。
 フェノロサは、31歳の時、「西洋の美術より日本の美術のほうがすぐれているのだから、大いに日本美術を自信をもって振興しなければいけない。それも文人画や南画はとるにたらない。狩野派を中心に住吉・四条・土佐などの諸派を、復興すべきである」と演説しています。
 1884(明治17)年8月、法隆寺夢殿の救世観音像を調査するため、フェノロサが助手の岡倉天心と厨子に手をやると、僧侶たちは一斉に「神罰がある」とか「目が潰れる」「地震で寺が壊れる」と言って厨子を開くことに抵抗しました。しかし、千早定朝住職を長時間説得し、ようやくにして厨子を開けると、僧侶たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていきました。フェノロサは、この時のことを次に様に記録しています。
 「余の快感は今に於て忘れ難し。凡そ五百ヤードの木綿を取り除きたりと思ふとき、此の驚嘆すべき世界無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり」
 救世観音像は、7世紀もの間、白い布でグルグルに巻かれたいたため、政策当時のきらびやかさを保って、私たちの目をときめかせてくれています。
 2002年、サッカーのワールドカップで日本は、決勝トーナメントに進出しました。この時の模様を日本経済新聞の社説は、次のように書いています(2002年6月15日付け)。
 「不透明な世の中に自信を失いかけていた大人たちは、髪を赤や金色に染めた若者の冷静で力強いプレーに励まされる思いがした。どうすればこんなにたくましい若者が育ち、どうすれば勝てる組織ができるのか。その答えは私たちに、長い間忘れていたものを思い出させてくれる。
 わずか十年前、日本は世界のサッカー地図では辺境の国だった。Jリーグ結成とともに、がむしゃらに世界を目指して、走り始めた日本サッカーの強化策は、まるで文明開化を急ぐ明治時代の日本のようだった。底辺を広げる一方で、一気に頂点を目指すべく大量の「お雇い外国人」を高給で招いたのだ。ジーコ、ストイコビッチ、ドゥンガらの超一流選手がJリーグにやってきた。初めて見る世界最高の技術は衝撃的だった。
 当時、これらの天才にあこがれて少年サッカーに熱中した世代から、今の日本代表選手の主力が育った。二十歳前後の彼らを率いたもう一人のお雇い外国人トルシエ監督は、海外遠征を繰り返しながら基礎戦術を教え込んだ。少年たちは世界の強豪と戦えるチームに成長していった。
 短期間の大躍進は、初めから国際競争に照準を合わせていたからこそ実現した。一流の人材に学び世界と競いながら最先端の知識や技術を取り入れる−その向上心とひたむきな努力はかつて日本の発展の原動力だった。日本チームは私たちに、もう一度原点に戻ってがんばろうと呼びかけているように見える」。

index