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エピソード

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近代文学T(写実主義、坪内逍遥、二葉亭四迷、尾崎紅葉)
 明治初期は、江戸時代の文学であった戯作文学が流行しました。
 明治10年代になると、自由民権運動が盛んになり、新聞・雑誌を使って、政治思想の宣伝が政治小説という形で流行しました。
 そうした流れに異を唱えたのが坪内逍遥です。坪内逍遥は、『小説神髄』を書いて、人間の内面を精神的な深みから写実的に描くことを提唱しました。これを写実主義小説といいます。
 坪内逍遥の本名は坪内勇蔵といいます。1859(安政6)年の生まれです。美濃の代官所役人の十男です。東京大学を卒業します。
 以下が『小説神髄』の抜粋です。
 「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。日く、人情とは人間の情欲にて、所謂百八煩悩是れなり。…此人情の奥を穿ちて、所謂賢人君子はさらなり。老若男女、善悪正邪の心の内幕をば洩す所なく描きいだして周密精到、人情を灼然として見えしむるを、我が小説家の務めとはするなり。よしや人情を写せばとて、其皮相のみを写したるものは、未だこれを真の小説といふべからず。其骨随を穿つに及びて、はじめて小説たるを見るなり
 戯作者や政治小説家は、坪内逍遥に対して、具体的な見本を求めました。
 そこで描いたのが『当世書生気質』です。写実主義に第一作ということになります。
 当時、世間では、官学(東大)の卒業生をエリートの学士様と呼んでいました。そこで、坪内逍遥は「春のやおぼろ先生戯著」として『当世書生気質』(明治18〜19年)を発表しました。
 兄妹のように交際していた娘が、没落家族を救うために芸妓「田の次」の名でお座敷に出ました。そのことを知った兄のような小町田燦爾は、恋仲になってしまいました。このことが分かって、小町田は学校から休学を命じられました。その後、「田の次」が小町田の親友である守山の妹であることも分かりました。
 そのほか、当時の学生の寄宿生活、牛肉屋での飲み会、遊郭などがリアルに描かれています。
 最後に、戊辰の役でバラバラになっていた守山の親子・兄妹が無事再会するところで話が終わっています。
 写実主義の第二作目が二葉亭四迷の『浮雲』です。『浮雲』は言文一致体文学の第一作目という名誉を持っています。
 本名は長谷川辰之助といいます。1864(元治元)年に、尾張の下級武士の子として江戸で生まれました。外交官を志望して東京外大に入学しましたが、一橋大学との合併に抗議して退学します。その頃、坪内逍遥と知り合います。「小説家になりたい」と言ったので士族の父が「お前みたいな奴はくたばってしまえ」と激怒したことから、二葉亭四迷(ふたばていしめい)という名を思い付いたといいます。
 『浮雲』のあらすじです。私小説的な最初の本格的リアリズム小説とも言われます。が言文一致体
 内海文三は、父親が早く亡くなったので、叔父を頼って静岡県から上京して、従妹のお勢と同じ家で育てられました。学校を卒業した2年前から、叔母のお政から厭味を言われながらも、神田見附付近にある某官庁に奉職していました。
 しかし、文三は役所勤めを「曾て身の油に根気の心を浸し、眠い眼を睡ずして得た学力を、こんな果敢(はか)ない馬鹿気た事に使ふのか」と思い悩んでいます。軽薄だが調子がいい本田昇を同僚に持っています。文三は、お政の娘のお勢に英語を教えるうちに、ぐっと女らしさを増しお勢に心ひかれていくようになりました。役所にいてもお勢のことが気になり、家に帰ってきてお勢がいないとがっかりします。
 しかし、お勢に心を打ち明けらず、ひとり恋心をtのらせるばかりでした。仕事に自信が持てず、想うはお勢ばかりでは、仕事ははかどりません。
 その結果、内海文三は、官庁を首になりました。叔母のお政は、調子者の本田と比較し、文三を軽蔑します。追い詰められた文三は、これを機会にお勢に自分の気持ちを打ち明けようとしますが、緊張してできません。
 本田昇は、最近は文三の家にも足繁く通うようになり、お政も、役所で昇進していく本田を次第に歓待するようになります。お勢もそんな母親の心変わりにつられて、次第に昇に関心を示すようにる(「昇は憤然(つき)と成ツて、饒舌(しやべ)り懸けた。お勢の火の手を手頸(てくび)で煽り消して、さてお政に向ひ、「しかし叔母さん、此奴(こいつ)は一番失策(しくじ)ツたネ。平生の粋にも似合はないなされ方、チトお恨みだ。マア考へて御覧じろ、内海といぢり合ひが有ツて見ればネ、ソレ…といふ訳が有るから、お勢さんも黙ツては見てゐられないやアネ、アハヽ」)。そんな雰囲気のなかで内海文三は、部屋に閉じこもったまま、一人悶々とする。
 写実主義には立脚するが、欧化主義に反対し、日本の伝統的な趣味を題材にして、文芸の大衆化を主張したのが、硯友社です。その代表が尾崎紅葉です。尾崎紅葉の『金色夜叉』が有名です。
 本名は尾崎徳太郎といいます。1867(慶応3)年に東京で生まれました。大学予備門の時に、山田美妙らと「硯友社」を結成し、文学雑誌『我楽多文庫』を発行するなどの活動をして、東大を中退しました。
 『金色夜叉』のあらすじです。
 高等中学の生徒である間貫一は、小さい時に親を亡くし、鴫沢家養育されました。一人娘の「宮」とは相思相愛の仲で、許嫁でした。しかし、ある時、お宮は銀行家の息子である富山唯継に見染められました。鴫沢夫妻もお宮も、富山家の莫大な財産に目がくらみ、許嫁の貫一を裏切って、富山との結婚を承諾しました。貫一は、これを知って激怒し、お宮を熱海の海岸に呼び出し、富山との婚約を解消するように、懇願しました。しかし、お宮をこれを拒絶しました。絶望した貫一は、お宮を足蹴にして、次のようなセリフをしゃべります。
 「1月の17日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか!再来年の今月今夜の…10年後の今月今夜…一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れものか、死んでも僕は忘れんよ!可いか、宮さん、1月17日だ。来年の今月今夜になつたらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が…月が…月が…曇ったらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いて居ると思つてくれ」と。
 その後、貫一は姿を消しました。お宮を見返す決意を固めた貫一は、高利貸しの手代となって金の亡者になります。そのうち、店の主人夫婦が放火で焼死したり、波乱に満ちた生活を送ります。一方、お宮も、金のために貫一を裏切ったことを悔やんで、夫の富山唯継を愛することができません。それを感じた夫は、お宮と離婚します。憔悴したお宮は、何度も、詫び状を貫一に出すが、貫一は無視します。
 ある夜、貫一は「お宮が自殺し、貫一がお宮を許す」という夢を見ました。そこで、貫一は、富山に捨てられたお宮の境遇に同情し、お宮の手紙を読むようになりました。
文学は解釈学ではない、自分で読んで体感するもの
 以前、衛星予備校で使っているビデオテープを見せてもらいました。「古典のマドンナ」先生の授業風景でした。美人だし、歯切れもいいし、テンポもいいし、まるで推理小説のような切り口で授業を展開していました。受講生だけでなく、私も見入ってしまいました。しかし、しばらくすると、「それだけの解釈しか出来ないかなー」と思うようになり、途中から、その解釈の押し付けに、嫌気がさしてきました。
 今も予備校の第一線で活躍されています。今の若者は、このような風潮をいとも簡単に受容していることに違和感を持っています。しかし、予備校生が支持しているということは、小説は体感するものという私の持論より、大学入試では、解釈学の方が有用なんでしょうね。
 『小説神髄』は小説ではありません。小説とはこんなもんだという論文です。
 この論文に基づいて書かれた小説が『当世書生気質』です。
 『浮雲』の解釈学では、内海文三を地理的で理想に向かう人物として描いているとなります。本田昇や叔母のお政を世俗的で実利主義的な人物として描いていることになります。
 私が読んだ限りでは、本田昇や叔母のお政については、その様に読みとれません。それほど資本主義化が進んでいない段階の作品だからでしょう。
 内海文三については、今でも通ずる、純情な若者と理解できました。
 小説よりも慣れ親しんだ「金色夜叉」の歌です。
作詞・作曲:後藤紫雲・宮島郁芳
1(女)熱海の海岸 散歩する 貫一お宮の 二人連れ 共に歩むも 今日限り 共に語るも 今日限り
2(男)僕が学校 おわるまで 何故に宮さん 待たなんだ 夫に不足が 出来たのか さもなきゃお金が  欲しいのか 
3(女)夫に不足は ないけれど あなたを洋行 さすがため 父母の教えに 従いて 富山一家に 嫁(か しず)かん
4(男)如何に宮さん 貫一は これでも一個の 男子なり 理想の妻を 金に替え 洋行するよな 僕じゃ ない
5(男)宮さん必ず 来年の 今月今夜の この月は 僕の涙で くもらせて 見せるよ男子の 意気地から
6(女)ダイヤモンドに 目がくれて 乗ってはならぬ 玉の輿 人は身持ちが 第一よ お金はこの世の  まわりもの
7(男女)恋に破れし 貫一は すがるお宮を つきはなし 無念の涙 はらはらと 残る渚に 月淋し
 小説よりもこの歌のほうがリアルです。特に「ダイヤモンドに 目がくれて 乗ってはならぬ 玉の輿 人は身持ちが 第一よ お金はこの世の まわりもの」という詩は、「狭いながらも楽しい我が家」という小市民的な幸福感を圧倒する現実感があります。
 「分かっちゃいるけど、出来ません」というのが人間の心理なのかもしれません。

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