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エピソード

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近代文学U(ロマン主義、『若菜集』、『みだれ髪』、『野菊の墓』、『雁』)
 坪内逍遥内面尊重を受継ぎ東洋的な観念を主題化したのが幸田露伴で、その立場を理想主義といいます。理想主義の立場で描かれた作品が『五重塔』です。
 いずれ、詳しくお伝えします。
 日清戦争前後、人間の感情を重視し、恋愛を重んじ、形式を打破し、自我や個性の尊重と解放を主張する風潮があらわれました。これを浪漫主義(ロマン主義)といいます。
 1892(明治25)年、北村透谷は、『厭世詩家と女性』という評論を発表し、近代的な恋愛観を表明しました。特に「恋愛は人生の秘鑰なり、恋愛ありて後、人世あり」は、島崎藤村に衝撃を与えました。
 1893(明治26)年、北村透谷は、『文学界』を創刊し、『内部生命論』などを出筆しました。当時、最盛期だった硯友社の卑属性を批判し、功利主義的主張も否定し、文芸の自律を主張しました。
 北村透谷は、自由党議員石坂昌孝の娘で共立女学校に通う石坂美那子と、周囲の反対を押し切って結婚しました。まさにロマン主義を実践したのです。
 1894(明治27)年、妻子を抱えた北村透谷は、理想と現実のハザマで苦悩し、自宅の庭の木で首をくくって自殺しました。時に25歳の若さでした。
 1896(明治29)年、島崎藤村は仙台にある東北学院の作文の先生になりました。時に24歳でした。そこで書いた詩を友人の北村透谷が主催していた『文学界』に投稿しました。
 1897(明治30)年、島崎藤村の最初の詩集である『若菜集』が刊行されました。
 『若菜集』の刊行前の島崎藤村は、北村透谷のロマン主義に共鳴していました。島崎藤村が明治女学校の先生の時に、教え子の佐藤輔子を愛し、学校を辞め、駆け落ちを経験しています。しかし、友人の北村透谷が自殺します。佐藤輔子も病死します。
 こうした前世を背負った島崎藤村は、新天地仙台で、純真な詩を生み出します。島崎藤村はその頃のことを次の様に書いています。「詩というものをもっと自分らの心に近づけようと試みた。黙しがちな私の口唇はほどけて来た」。ここにロマン主義の息吹を感じます。
「初恋  
まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり 
やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは 薄紅の秋の実に 人こひ初めしはじめなり 
わがこゝろなきためいきの その髪の毛にかゝるとき  たのしき恋の盃を 君が情に酌みしかな
林檎畠の樹の下に おのづからなる細道は 誰が踏みそめしかたみぞと 問ひたまうこそこひしけれ」
「相思 
髪を洗へば紫の 小草のまへに色みえて 足をあぐれば花鳥の われに随ふ風情あり
目にながむれば彩雲の まきてはひらく絵巻物 手にとる酒は美酒の 若き愁をたゝふめり 
耳をたつれば歌神の きたりて玉の簫を吹き 口をひらけばうたびとの 一ふしわれはこひうたふ
あゝかくまでにあやしくも 熱きこゝろのわれなれど われをし君のこひしたふ その涙にはおよばじな」
 封建道徳に反抗し、本能を肯定し、情熱的なロマン主義を主張したのが、与謝野晶子です。与謝野晶子の代表作が『みだれ髪』です。タイトルからして刺激的です。表紙の挿絵は藤島武二が担当していますが、純情な高校時代の私には、度肝を抜くデザインです。ハートの中心のみだれ髪の女性を配置して、その女性を弓矢が左上から右下へ貫いています。
 与謝野晶子の本名は、「鳳志よう」といいます。1878(明治11)年、堺の和菓子屋「駿河屋」(羊羹で有名)の鳳宗七と津祢の間に3女として生まれました。兄の影響で樋口一葉などを知りました。志ようは、店番をしながら歌を投稿するようになりました。
 1900(明治33)年、与謝野鉄幹が主催する『明星』に短歌を発表しました。
 1901(明治34)年6月、鳳志よう与謝野鉄幹を頼って上京し、結婚しました。与謝野晶子と改名しました。
 8月、与謝野晶子は、『みだれ髪』を出しました。
 1904(明治37)年、与謝野晶子は、日露戦争の年に、「君死にたまうことなかれ」を『明星』に発表しました。
 1911(明治44)年、与謝野晶子は、平塚らいてふが主催する『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」という内容の詩を発表しました。
 『みだれ髪』を紹介します。
 私が高校時代一番衝撃を受けたのは次の歌です。
●「やわ肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君
 次の冒頭の歌です。
●「夜の帳に ささめきあまき 星も居ん 下界の人は 物をこそ思へ」
 同じテーマの歌です。
●「夜の帳に ささめき盡きし 星の今を 下界の人の 鬢のほつれよ」
 次は『みだれ髪』にちなんだ歌をいくつか紹介します。
●「みだれ髪を 京の島田に かへし朝 ふしてゐませの君ゆりおこす」
●「くろ髪の 千すぢの髪 みだれ髪 かつおもそみだれ おもひみだるる」
●「人かへさず 暮れむの春の 宵ごこち 小琴にもたす 亂れ亂れ髪」
●「髪五尺 ときなば水に やはらかく 少女ごころは 秘めて放たじ」
●「その子二十 櫛にながるる 黒髪の おごりの春の うつくしきかな」
 最後にこれまた衝撃的な歌です。
●「春みじかし 何に不滅の 命ぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ
 アララギ派とは、正岡子規の『アララギ』に集まった歌人のことです。それは、写実的、生活密着的歌風を特徴としています。
 伊藤左千夫はアララギ派の歌人で、『野菊の墓』が有名です。
 伊藤左千夫の本名は伊藤幸次郎といいます。1864(元治元)年に生まれました。明治大学に入学しましたが、眼病で中退しました。正岡子規のアララギに参加し、子規の死後は「馬酔木」を主催するようになりました。
 『野菊の墓』のあらすじです。
 斎藤政夫(15歳)の母は、以前から病気がちのため、従姉の戸村民子(17歳)が農作業や母の看病に来ていました。政夫と民子は、周囲も目も余り気にせず、姉弟のように姉弟仲が良かった。
 ある時、政夫が「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き…」というと、民子は「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好(この)もしいの」と答える。政夫が「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」というと、民子は「政夫さん…私野菊の様だってどうしてですか」が聞き返す。政夫は「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」と答えると、民子は「それで政夫さんは野菊が好きだって……」とうなずく。
 母は、2人の仲を心配して、政夫を東京の学校の寄宿舎に早めに返し、民子を気の進まぬまま、他家に嫁がせました。民子は流産が原因で死んでしまいました。若くして死んだ民子の手には、政夫の写真と手紙がにぎられていました。
 年の暮れ、家に帰ってきた政夫は、民子がいないことに気づき、母を問いつめました。母は、「政夫、堪忍してくれ…。民子は死んでしまった…私が殺した様なものだ…」」と詫びました。そして、政夫は、「毎日七日の間市川へ通って、民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた」。
はその墓にしばらく通い詰めて、一面に民子の好きだった野菊を植えたのであった。
 夏目漱石は、この『野菊の墓』を読んで、「自然で、淡白で、可哀相で、美しくて、野趣があって」「何百遍読んでもよろしい」と書いています。
 森鴎外もロマン主義に属する小説家です。『舞姫』が有名ですが、私は『』が好きです。
 本名は森林太郎といいます。1862(文久2)年に津和野の亀井藩の御典医の子として生まれました。林太郎は、13歳の時、年齢を15歳と偽って東大医学部に入学しました。卒業後陸軍軍医になり、ドイツに留学しています。
10  『雁』のあらすじです。
 お玉は、若くて美しいが、父の生活を助けるため、高利貸である末造の妾となり、無縁坂の妾宅に住んでいました。
 下宿屋には、文学部の学生である僕と医学部の学生である岡田が住んでいました。岡田は、毎日夕食後、1人で散歩に出かけるのが習慣でした。
 ある時、お玉が飼っていた小鳥の駕籠に蛇が入って大騒ぎになりました。たまたま、散歩中の岡田がその蛇を退治しました。お玉は若々しく輝いている岡田を見て、今までにない心のときめきを感じました。そして、いつか、岡田が今の境遇から助け出してくれるのではないかと、想像するようになりました。
 末造が千葉に出張して留守になる日に、お玉は、父より自分を大切にしようと一大決心して、お手伝いさんを実家に帰し、美容院に行き、岡田を招き入れることにしました。
 僕は、その日の下宿の夕食が、たまたま、青魚の味嗜煮だったので、それが大嫌いな僕は珍しく岡田と食事をしようと誘って散歩に出ました。お玉は、何時もは1人で散歩する岡田が、たまたま、この日に限って2人で散歩していたので、空しく通り過ぎるのを見送るしかありませんでした。
 十羽ばかりの雁が緩やかに往來してゐる。中には停止して動かぬのもある。「あれまで石が届くか」と、石原が岡田の顔を見て云った。「届くことは届くが、中あたるか中らぬかが疑問だ」と、岡田は答へた。
「遣って見給へ。」
 岡田は躊躇した。「あれはもう寐るのだらう。石を投げ附けるのは可哀かはいさうだ。」
 石原は笑った。「さう物の哀を知り過ぎては困るなあ。君が投げんと云ふなら、僕が投げる。」
 岡田は不精らしく石を拾った。「そんなら僕が逃がして遣る。」つぶてはひゅうと云ふ微かな響をさせて飛んだ。僕が其行方ゆくへしをぢっと見てゐると、一羽の雁が擡もたげてゐた頸をぐたりと垂れた。
 不忍池で岡田の投げた石が、たまたま、雁に命中して、雁を殺してしまったのです。
 次の日、岡田は、ドイツ留学の準備をするために下宿を引き払って、実家に帰っていきました。
11  森鴎外は、この小説でどんなメッセージを伝えようとしたのでしょうか。
 私は、『雁』という小説の名前にひっかかっています。岡田が投げた1個の石が、たくさんいる雁の中の一羽にたまたま当りました。その雁から言えば、「運が悪かった」のです。この雁の運命とお玉の運命とを重ねているのではないでしょうか。
 つまり、たまたま、夕食のオカズが嫌いだったということで、2人の散歩になりました。次の日には、岡田は下宿にはいません。もう自分の恋心を伝えることは出来なくなってしまったのです。
 森鴎外は、明治の女性の運命をお玉に託し、やっと、自律しようとしたお玉が、夕食のオカズによって頓挫するのです。それほど、はかない、明治の女性だったのです。「たまたま」という表現がよく出てきます。それを意図して、主人公の名前に「玉」とつけたとしたら、鴎外さんも、なかなかシャレケがあります。
ロマン主義のすごさと、傍観者・実践者
 「言うは易しく、行なうは難し」という諺があります。
 私は最初のホームルームでいつも「ここはホームルームなので、皆んな仲良くしよう」と話すことにしています。
 ある時、生徒が職員室にやってきて「先生は、どの先生とも仲良く出来てますか」と聞かれました。その時答えに窮して頭が真っ白になったことを覚えています。
 生徒には「多くの前で自分の考えをはっきり言うことを指導している」という先生が、職員会議で発言できなかったりという例がたくさんあります。
 生徒には「自分が正しいと思ったことは、自信を持ってしなさい」という先生が、出る杭を恐れて、横並びのことしかしない例もたくさんあります。
 新入社員に「わが社の発展は、若い君たちにかかっている。新しい空気を吹かせることに躊躇はいらない」という社長が、自分の提案に新入社員から厳しい批判を受けると、左遷させるという例もたくさんあります。
 鳳志ようは与謝野鉄幹の家に下宿します。しばらくして、鳳志ようは、鉄幹の妻の瀧野に対して、「あなたが鉄幹先生を愛するより、私の方が鉄幹先生を愛する気持ちは数倍も強い。私が鉄幹先生の妻になった方が先生はそれだけ幸福だ」と言いました。妻の瀧野は家を出て行きました。そのような話が残っています。
 本能・情熱は、世間体や常識を猛火で焼き尽くします。それがロマン主義なのです。
 老舗の和菓子屋を継ぐことになっていた弟が旅順攻囲戦に出撃しました。この時、与謝野晶子は有名な「君死にたまうことなかれ」を発表しました。この中には、「旧家をほこるあるじにて 親の名を継ぐ君なれば 君死にたまふことなかれ 旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事ぞ」とか「すめらみことは戦ひに おほみずからは出でまさぬ かたみに人の血を流し 獣の道に死ねよとは 死ぬるを人の誉とは 大みこころの深ければ もとよりいかで思されむ」とか、太平洋戦争中であれば虐殺されかねない歌を詠んでいます。
 常識人の大町桂月は「乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と激しく非難しました。しかし、与謝野晶子は、『明星』に「歌はまことの心を歌うもの」とロマン主義の真髄を披露して圧倒しました。
 高校時代に度肝を抜かれたのは、「やわ肌の あつき血潮に ふれも見で さびしからずや 道を説く君」とか「男をば 罵る彼等 子を生まず 命を賭けず 暇あるかな」という歌です。ここには言葉の遊びを弄ぶ人々を痛烈に批判しています。言葉の上では理解しても、結婚もせず、子供がいなかったら、この歌も理解できなかったと思います。
 「春みじかし 何に不滅の 命ぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ」という歌は、高校生の私には理解できませんでした。今は「春に永遠がないように、不滅の命なんてありません。一番大切なのは今。だから若々しい張りのある自分の乳房を、愛する人の手にさぐらせたんだ」というように理解しています。
 私は、結婚するには、完璧の教師像を求めていました。教科指導や生徒指導、クラブ指導にはある程度自信を持っていました。しかし、精神的には、泰然として動ぜず(泰然不動)にははるかに及ばない状態でした。そこで、給料の多くを芭蕉のように、厳しい旅につぎ込んだものです。
 私は、地域も年中行事にも関心があって、盆踊りや祭などの時間がある限り、調査しました。そうした中で、保護者とも親しくなりました。ある時、その保護者が「年頃の娘を持つ親としては、先生が独身でいることに不安を感ずる」というのです。ピンクレディの歌に「男は皆んな狼よ」というのがありました。「そうではなくて、普通の先生なら普通に結婚し、家族を持つ。しかし、結婚しないということはどこか欠陥がるのではないか。そんな欠陥のある先生に大事な娘を預けていいものか」と本音をぶつけられました。
 私は結婚するために完璧を目指しているが、娘を持つ親から見ると、欠陥人間に見えるというのです。
私は、「神は失敗しない完璧な存在である。人間は失敗し、不完全なるが故に人間なんだ」と初めて悟りました。
 与謝野晶子の「やわ肌の あつき血潮に ふれも見で さびしからずや 道を説く君」という歌がしみじみと真実味を帯びてきました。「結婚もしないで、立派なことを言っている独身族よ、本当は空しくないですか」と言っているのです。
今は、息子夫婦にも2人の子供、娘夫婦2人の子供がいます。私は退職後早々に、4人の孫を持つおじいちゃんです。その結果、見えなかった部分がちょっとずつ見えて来る感じです。年をとり、死に近づく不安を感ずると同時に、孫の成長から得ることを楽しんでもいます。
「人を恋ふる歌(三高寮歌)」を紹介します。学生時代には、飲めない酒を飲んでこの歌をよく唄ったものです。作詞が与謝野鉄幹先生だったのですね。
(1)妻をめとらば 才たけて みめ美わしく 情けある  
  友を選ばば 書を読みて 六分の侠気 四分の熱  
(2)恋の命を たずぬれば 名を惜しむかな 男ゆえ  
  友の情けを たずぬれば 義のあるところ 火をも踏む  
(4)ああわれダンテの 奇才なく バイロン、ハイネの 熱なきも  
  石を抱きて 野にうたう 芭蕉のさびを よろこばず  

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