print home

エピソード

215_01

明治の美術T(東京美術学校、明治美術学校、白馬会、文展、二科会、春陽会)
 1858(安政5)年、ワーグマン(24歳)が来日しました。高橋由一(31歳)はワーグマンに師事して、近代洋画の開拓者となりました。高橋由一の代表作は『』で、パッと見ると写真家と思うぐらい精緻に描かれています。
 1876(明治9)年、工部美術学校を設立しました。お雇い外国人としてフォンタネージラグーザらが来日し、西洋美術を教授しました。浅井忠はフォンタネージに師事し、洋画の興隆に貢献しました。浅井忠の代表作は『収穫』です。
 1878(明治11)年、フェノロサ(26歳)が来日しました。
 1879(明治12)年、固有の美術を守り、その復興を目的として龍池会が設立されました
 1883(明治16)年、工部美術学校を閉鎖し、西洋画重視から、伝統的美術の育成に転換しました。
 1887(明治20)年、ヨーロッパにおいて日本画が高く評価されたことをうけて、東京美術学校を設立しました。校長の岡倉天心(25歳)とフェノロサ(35歳)は西洋美術を除外した授業内容を決定しました。東京美術学校からは、狩野芳崖橋本雅邦という日本画家が誕生しました。
 1887(明治20)年、龍池会は有栖川宮熾仁親王を総裁に迎えて、日本美術協会と改め、准国家的な機構になりました。上野公園内の土地を宮内庁から無償貸与され、美術展覧会を開催しました。
 1889(明治22)年、浅井忠らは、東京美術学校の対抗して、明治美術学校を設立しました。浅井忠らは主に暗い色調を特徴として使ったので、脂派と呼ばれます。
 1896(明治29)年、フランス印象派の黒田清輝(31歳)も、東京美術学校の対抗して、白馬会を設立しました。物体の色調はすべて外光の明るさによるとするフランス印象派の特徴を受容したので、外光派と呼ばれます。黒田清隆の代表作は『湖畔』・『読書』があります。卒業生に青木繁がいます。青木繁の代表作は『海の幸』です。
 1896(明治29)年、東京美術学校に、黒田清輝を迎えて、洋画科を新設しました。卒業生に藤島武二・岡田三郎助・和田英作らがいます。
 1896(明治29)年、浅井忠(41歳)は、最初の西洋画団体である明治美術会を設立しました。
 1898(明治31)年、東京美術学校長を辞職した岡倉天心とその弟子橋本雅邦らは、伝統的美術の保護・発展を目的とした団体である日本美術院を創立しました。日本美術院は、准国立の日本美術協会と対立しながら発展し、横山大観菱田春草下村観山ら多数の門下生を輩出しました。
 1902(明治35)年、浅井忠門下の満谷国四郎(28歳)は、白馬会に対抗して、太平洋画会を設立しました。
 1906(明治39)年、浅井忠(51歳)は、京都に関西美術院を設立しました。門下生には安井曽太郎梅原龍三郎らがいます。
 1907(明治40)年、文部大臣の牧野伸顕は、伝統美術と西洋美術との共栄を目的に、文部省に美術課が設けて美術行政を担当し、初の官選の美術展として文部省美術展覧会文展)を開催しました。この結果、洋画・邦画は共通の発表の場を持つことになりました。
 この頃、フランス留学生がたくさん帰朝しました。その結果、文展の審査上、新・旧二派の対立が目立ってきました。そこで、フランス留学生らは、日本画の二科制に倣って、新・旧を一科と二科とに分離するように政府に要求しましが、時期尚早として受け入れられませんでした。
 1907(明治40)年、日本美術協会は、文部省美術展覧会(文展)が開かれるようになると、当初の特殊な地位を失い、活動は退潮に向かいました。
 1912(明治45)年、外光派表現を学んだ岸田劉生は、高村光太郎萬鉄五郎らと、ゴッホやセザンヌのなど新印象主義の画風の影響が強いヒュウザン会を結成しました。
 1914(大正3)年、梅原龍三郎らは、文典から分離して、在野の美術団体として二科会を結成しました。その時のメンバーは石井柏亭有島生馬坂本繁二郎藤島武二らでした。その後、安井曽太郎らが参加しました。
 1914(大正3)年、横山大観は日本美術院を再興して、近代絵画としての新しい様式を開拓しました。
 1915(大正4)年、岸田劉生・木村荘八中川一政らは、現代の美術社主催第1回美術展に出品しました。これが実質上の草土社第1回展です。草土社とは、岸田劉生が代々木界隈の赤土と草を好んで写生したことから名付けられました。
 1919(大正8)年、帝国美術院が新設され、帝国美術院美術展覧会帝展)に改組されました。
 1922(大正11)年、日本美術院の洋画部を脱退したグループと二科会の梅原竜三郎ら7人は、春陽会を設立しました。それに、岸田劉生・木村荘八・中川一政ら草土社の画家が客員として参加しました。
夢を与える芸術家、別な顔は難しい芸術家集団
 私の高校時代、美術の授業を受けていました。美術の教科書には、黒田清輝の『湖畔』の絵が掲載されていました。
 その絵を見たとき、私の体を電気が走りました。続々とする色気を感じたのです。浴衣を着た妖艶で豊満な女性が、団扇を持って、湖畔に腰掛けている場面でした。モデルは、黒田清輝夫人と言われています。
 家に帰って、教科書から、その絵を切り取って、壁に張りました。翌日、学校から帰ってくると、その絵が無くなっていました。多分母が何かを感じて、処分したのでしょうが、その事実を確認できませんでした。
 もう一枚壁に張っていた絵が無くなったことがあります。それは、アングルの『泉』という絵です。
 私の芸歴は、惨憺たるものです。中学校の時、夏休みの宿題で、図工がありました。絵を描いている途中、絵の具を薄めるために水を入れていら容器を、画用紙に上に倒してしまったのです。8割以上完成していたので、こぼれた水を筆で誤魔化して、提出しました。何とそれが、学校中の特選になったのです。罪悪感に襲われながら、クラスの一番絵の得意な友人に、「本当に、この絵はいいか?」と尋ねました。その友人は「いい雰囲気が出ている」と褒めてくれました。
 誤魔化した失敗作が特選になったことで、私は絵に対して、自信を無くしてしまいました。
 そんな私です。これも高校時代です。浅井忠の『収穫』を鑑賞しました。先生も、絵の得意な友人も、素晴らしいと称賛します。私はどちらかというと、黒田清輝の『湖畔』やアングルの『泉』派です。
 私が「そうかなー。どこがいいか、さっぱり分からん」というと、友人は「もっと、見ろよ!」と、自分が描いた絵でもないのに、怒ります。そこで、もっと見ました。同じです。「もっと、見ろよ!」と言われ、見続けている内に、何と絵の中の人物が動いたのです。風が吹いたのです。
 『収穫』にはこのような思い出があります。
 上記の美術史を見ると、「芸術家は、派閥争いが、お好き」と言いたくなります。
 そう言えば、私が勤めた学校の芸術の先生の陰にも、派閥の匂いがします。音楽の場合は、系列の音大に入学させる例が多いです。
 特に、書道に顕著に見られます。地元の書道展より、系列の余り聞いたことのない、展覧会で賞状をもらってきます。運動部と同じ時に表彰しますが、表彰の規格に合っているのか、悩むことがあります。担当の先生は、「れっきとして全国大会だから、表彰の条件を満たしている」と主張するので、全校生の前で表彰しますが、多くの生徒も、大きな拍手を送っていません。
 文部省主催とか、県教委主催だと、入選しないからなのでしょうか。それとも、母校に関係する展覧会を重視しているからなのでしょうか。

index