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エピソード

216_01

明治の美術U(狩野芳崖、菱田春草、高橋由一、青木繁)
 邦画(日本の絵画)を紹介します。
 最後の狩野派と言われた狩野芳崖は、『悲母観音』・『大鷲』を描きました。
 東京美術学校創立と同時に教授になった橋本芳崖は、『龍虎図』を描きました。
 洋画の技法を取入れて清新な画風を樹立した菱田春草は、『黒き猫』・『落葉』を描きました。
 川端玉章は、『墨堤春暁図』を描きました。
 横山大観は、『無我』を描きました。
 竹内栖鳳は、『あれ夕立に』・『雨霽』を描きました。
 下村観山は、『大原御幸』・『木の間の秋』を描きました。
 洋画(西洋の絵画)を紹介します。
 ワ−グマンに師事し、洋画の開拓者と言われた高橋由一は、『』を描きました。
 フォンタネ−ジに師事し、洋画の興隆に寄与した浅井忠は、『収穫』・『春畝』を描きました。
 フランスのラファエル=コランに師事し、帰国後白馬会を創立した黒田清輝は『湖畔』・『読書』・『舞妓』を描きました。
 黒田清輝と共に白馬会を創立した久米桂一郎は、『二人の若者の肖像』を描きました。
 官展洋画の代表的画家と言われた岡田三郎助は、『某婦人の像』を描きました。
 ロマン的画風の青木繁は、『海の幸』・『わだつみのいろこの宮』を描きました。
 最初の油絵を描いた藤島武二は、『天平の面影』・『蝶』・『黒扇』を描きました。
 黒田清輝の門下生である和田英作は、『渡頭の夕暮』を描きました。
 フランスで洋画と工芸図案を研究した和田三造は、『南風』を描きました。
 寺崎広業は、『東京永代橋之真景』を描きました。
 赤松麟作は、『夜汽車』を描きました。
明治の絵画作品の覚え方
 私は、絵画の鑑賞は大好きです。特に美術の先生に付いて回って、作品を解説してもらいながら、見るのが大好きです。NHK教育TVの「日曜美術館」を楽しみにしています。
 しかし、描くことは苦手です。そんな私が、絵画作品を覚えているには、私なりの秘訣があります。それは、美術の先生が話したことで、「美術館を行って、一渡り見たら、最後に、一点だけ、お気に入りを探して、じーっと、見つめることだ」を実践してきたからです。
 江戸時代、両替屋の子供は、玩具として、小判を与えられたといいます。本物で、偽物を見破ることを体で覚えさせようと言うのです。これと同じです。絵画も本物を見ることが一番です。
 狩野芳崖の『悲母観音』は、フェノロサがヨーロッパの「聖母マリア図」に負けない作品を狩野芳崖に依頼した作品です。狩野芳崖は、フェノロサの意図を実現するために、仏画に西洋画の色彩と立体感を取入れました。この作品は、狩野芳崖が死ぬ4日前まで描き続けたと言われています。
 完成した『悲母観音』を見た岡倉天心は、「近世にこの絵画に比べうる作品はない。過去の名画をはるかに超えている」と称賛しました。
 こうした背景を知って、『悲母観音』を見てみましょう。悲母観音は慈悲の観音です。慈悲に満ちた観音を見ている赤ちゃんを近づいて(アップで)見ると、手を合わせ、口を開けています。何か語りかけているのでしょう。
 聖母マリアはわが子を抱いていますが、この悲母観音は、かなり上から、赤ちゃんを見下ろしています。抱く愛でなく、静かな慈悲の愛を感じました。
 次に、私の好きな横山大観の『無我』です。
 解説では、なにげない素材を、素朴に描く事が、洋画崇拝の時代には、かえって新鮮だったとなっています。
 横山大観はこの絵の賛詞に「無我は無我に非ず、大いに野心を筆致に存ずるに似たり」と書いています。
 『無我』を見てみましょう。普通は、児童に目がいくところですが、私は背景に目がいきました。シンプルな描き方の長所です。美術の先生に聞くと、猫柳が芽を吹いていると言うことでした。足元は、菫の花が咲いていました。児童は、手が隠れるような大き目の着物をだらりと着て立っています。
 口もだらしなく開いています。しかし、その目元をみると、何も考えていない、無垢の澄んだ目をしています。「ああ、これが無我なんだな」と思い込んでしまいました。
 しかし、横山大観は、「大いに野心を筆致に存ずるに似たり」と書いています。私の想像を超えた存在です。
 次が、私とは縁遠い、青木繁の『海の幸』です。テーマは好きですが、作風がしっくり合いません。
 青木繁は、東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝の指導を受けました。しかし、青木繁は、黒田清輝の授業よりも、図書館や博物館に通い、世界の色々な書籍・絵画に出会い、神話の世界に自分の存在を見つけました。
 青木繁(23歳)は、友人の坂本繁二郎や恋人の福田たねらと千葉県布良海岸いきました。坂本繁二郎によると、「漁師の一群が、モリを持ち、大鮫をかついで引き上げてくる壮烈な情景を見たのは、実は私で、青木君は私の話を聞いただけだ」と証言しています。つまり、友人の話を聞いて、想像を豊かにして描いたのが『海の幸』ということになります。
 『海の幸』を見た蒲原有明は、次のような詩を詠んでいます。「汝等見れば、げにもぞ神の族、浪打つ荒磯の浜を生に溢れ、手に手に精し銛取り、い行き進む」と。
 父の死によって九州に呼び戻された青木繁は、福田たねとも分かれ、28歳の若さで亡くなりました。
 こうした背景を知って、『海の幸』を見てみましょう。
 A4サイズに多くの絵画が納まるのに、『海の幸』はA4サイズを4枚必要としていることにびっくりする。海の男を描く大胆な輪郭は、未完成と思わせるほど荒々しい。男のシンボルも、絵画には珍しく、はっきりと描いている。
 有名な絵だということで、じーっと、ニラメッコする。すると、10人の群像が1人すつ描き分けられているのに、全体像が物語として、読み取れることが分かりました。そして、後ろから4人目の人物が、私の目線をあってしまいました、美術の先生のそのことを話すと、「その人物が青木繁さんですよ」と教えてくれました。
 小さな写真集の『海の幸』では味わえない、本物の『海の幸』からは、私は産み幸を得ることが出来ました。
 和田英作の『渡頭の夕暮』です。渡頭とは、渡し場のあたりを言います。一家が農作業を終えて、渡し場に来ました。対岸の西の方には、夕日が川面に写っています。
 和田三造の『南風』です。荒々しく、群青の海を背に、筏に乗った4人の男を描いています。中央の男が頭に被った服が、強い風に煽られています。その男は上半身が裸なので、南の熱い海なのでしょう。南の熱い海で吹く風ですから、南風なのです。
 このようにして、絵を見て覚えれば、絶対に忘れることはありません。

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