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エピソード

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明治時代の生活様式(肉食、コーヒー、ビルディング、電燈、太陽暦)
 明治新政府が「欧米列強に追いつけ追い越せ」をスローガンに、富国強兵殖産興業政策を推進しました。その具体策が、さまざまな分野での近代化(資本主義化)でした。
 その結果、庶民の生活上にも近代化の波が押し寄せてきました。ここでは、近代化とは西洋の生活様式を取り入れることを指しています。
 官庁・会社・学校・軍隊では、実用上、西洋風の生活様式を採用しました。
 衣生活を見てみましょう。
 男子は、日本の伝統であった和服から洋服に変化していきました。頭も、日本人の特徴であったチョンマゲを切り落とし、散髪姿になりました。
 女子は依然和服が主体でした。頭も、依然、日本髪・束髪でした。
 今(2005年)、殆どの女性がパンタロンとかパンツとかジーンズのジーパン・ジージャンとかジャージとか、名前は様々ですが、ズボンをはくようになっています。縄文から現在まで、女性の労働着は、ズボンだったのです。
 労働できない和服・日本髪・束髪を身にする女性は、男性の経済力に依存することを意味します。
 伝統の美としての和服は素晴らしい。セレモニーで着るのと、労働着とは別な意味を有します。
 食生活を見てみましょう。都市を中心に洋風化が広まりました。
 肉食の習慣が始まりました。昔、日本人は、肉を食べていなかったのでしょうか。
 縄文時代は、確か狩猟・漁撈の生活です。このエピソード日本史の縄文時代を見ると、冬場は、イノシシ・シカ・カモを獲って重要な食料にしています。
 弥生時代は、夏にはヒシ、冬には、イノシシ・シカ・カモが重要な動物性タンパク源になっています。
 古墳時代は、家畜として、ウシ・ブタ・ニワトリが飼育されています。
 奈良時代は、仏教を鎮護国家とする政府は、676年4月に肉食禁止の詔が出しました。その内容は、ウシ・ウマ・イヌ・ニワトリ・サルを五畜とし、その肉食を禁止するというものです。しかし、それまで肉食の対象となっていたイノシシ・シカ・カモについては、規定がありません。ということは、奈良時代も肉食は行われていたことの証拠です。
 平安時代は、天皇の料理の献立に、イノシシ・シカ・キジの名が記録されています。
 室町時代は、服忌令には「四足物食用之事。鹿猪猿狐里犬ハ七十日憚之。此日限神社へ參詣スベカラズ」とあり、四足の動物、特にイノシシ・シカらが、前代と同じように食されていたことがわります。
 室町時代は、『庭訓往来』には「豕焼皮」という項目があり、イノシシの皮を焼いて食したことが記録されています。
 江戸時代は、『慰草』には「キリシタンの日本に入りし頃は京衆牛肉をワカと号してもてはやせリ」という記録があります。ワカとはポルトガル語でウシのことです。
 『料理物語』にはシカは汁物・煎焼物、イノシシは汁物にしたり田楽にして食していると書かれています。 『松屋筆記』には「文化・文政年間より以来、江戸に獣肉を売る店多く、高家近侍の士も、これをくろう者あり、イノシシ肉を山鯨と称し、シカ肉を紅葉と称す。…いずれも蘭学者流に起これる弊風なり。かくて江戸の家屋は不浄充満し、祝融の怒りに逢うことあまたたびなり、哀むべし、嘆くべし」と記録されています。この作者は、仏教的立場から、肉を食べるので、江戸の町はケガレ、火事の原因になっていると書いていますが、多くの人が肉食をしていた証拠でもあります。
 1871(明治4)年、肉食が解禁されました。翌年には、明治天皇が牛肉を食べた記録があります。今まで食べる習慣のない人が、急に食べるということはありませんから、明治天皇は勿論、周囲でも肉を食べていたと思うのが自然です。
 禅宗のお寺の門前に「不許葷酒入山門」という石柱が立っています。葷とは、「ねぎ・にらなどの匂いの強い菜」とか「肉などの生臭い料理」をいいます。酒はそのまま「お酒」です。こういう石柱を立てるということは、逆に、禁止するほど、坊さんも肉を食べ、酒を飲んでいたということです。
 葷酒は山門に入れないが、玄水・唐茶・般若湯はよかったのです。これは酒の隠語です。山鯨やカミソリはよかったのです。山鯨はイノシシ、カミソリは鮎の隠語です。ウサギを1羽・2羽と数えるのも、鶏肉は葷酒に入れなかった証拠ではないでしょうか。
 仏教の不殺生の影響で、肉食は禁止されていたといいますが、庶民は、色々な工夫をしながら、肉を食していたことが分かります。
 住生活では、都会では、煉瓦や石造のビルディングが公共物として建てられるようになりました。
 照明も、都会では、ガス灯から電灯に変化していきました。
 次に日常生活を見てみましょう。
 1873(明治6)年、太陽暦(新暦)が採用され、世界と同じ月日になりました。しかし、農村では相変わらず陰暦(旧暦)を使って、農作業や年中行事が行われました。
 娯楽としては、無声映画が普及し、弁士が動画をみて、講釈していました。私の小学校時代、10本10円というので、田舎のお寺へ行くと、白黒の無声映画を見て弁士が解説していました。これを活弁と言うんだなー知りました。
 蓄音機とレコードも、一部の家庭で普及しました。小学生の私が最初に買ったレコードは、美空ひばりの「越後獅子」でした。
体験的衣食住論
 私の父は兼業農家だったので、あまりいい食生活の記憶はないのですが、同級生と当時の思い出を話し合うと、かなり恵まれていたことが分かります。
 私は昭和17年生まれです。私の小学生の頃の記憶です。ニワトリを放し飼いにしており、卵は1日1個は食べました。卵を産まなくなると、解体して、鶏肉を食べます。腹の中には未だ無数の卵の子供がおりました。ヤギも飼っていたので、ヤギの乳も毎日、たらふく飲みました。ウシはメスですが、耕作用でした。成人に達すると、解体屋さんに一番高い値段で売りました。一度だけ解体屋さんまでウシを連れて行きましたが、その晩は、とても悲しかったことを覚えています。
 しかし、その牛肉を食べませんでした。というより食べられなかったのかもしれません。そこで、父の給料日と盆と正月だけが、牛肉ですき焼きでした。100グラムだったのか、ある程度煮立つと、電灯を消して、食べました。明るいと、牛肉がすぐ無くなるからです。
 今まで食べたことのないタヌキの肉も最初の赴任地で食べました。コリコリして美味しかったのですが、翌日、生徒から「臭い臭い」と言われました。どうも、匂いが口から出なく、体中から噴出?していたようです。
 漁師と親しい知人から、シカ肉が手に入ったので、招待を受けました。牛肉より硬く、鶏肉より軟らかい感じで、脂がかなり濃かったという記憶があります。奈良では神として尊敬をうけ、農村では害獣という扱いを受けています。
 昭和30年頃の田舎の生活です。
 朝起きると、庭の池で顔を洗います。トイレは、母屋から離れた納屋の一角にあり、汲み取り式のボットン便所です。掘りコタツには、御飯を炊いた残りの炭火を入れ暖をとります。朝ゴハンは、カマドで炊いた白米です。味噌汁が付きます。
 風呂水は、庭の池から汲んで、五右衛門式の風呂桶に入れます。これは小学生の仕事です。天秤棒の先にカギ紐を付け、前後に水の入ったバケツを吊り下げて、何十回も往復します。特に冬は、裸足にこぼれた水が落ちてきます。冷たくとてもつらいさぎょうです。
 風呂水を沸かすのも、小学生の仕事です。冬、家族総出で、屋敷に地続きの山に入って、落ち葉を拾い集めます。枯れたり、枯れそうな木を根元から切り倒して、50センチ位の長さの丸太に切断します。丸太の円の部分を上にして、斧で4分割し、それを井桁上に積んでいきます。上手な左官屋は、落ち葉を火種にして、薪を入れると、火が消えることなく、酸素を吸収して、燃え盛るようにします。父の知人の左官屋さんは、酒クセが悪いが、技術はめっぽう強かったので、子供には大助かりでした。
 食事は、自分たちが自分たちの土地で世話した白米と野菜、親戚の魚の行商さんが残り物として持ってくる魚、自分の家で飼っているニワトリの卵などでした。特に野菜は、旬の物を毎日毎日食べさせられました。そのお陰で、本当の味を覚えられました。
 唯一の楽しみは、米を炊く母の火の加減を見ながら、昔話を聞くことでした。娯楽と言っても、NHKしか入らないラジオと、レコードのない蓄音機があるだけでした。
 以上が昭和30年頃の自給自足に近い生活です。それより以前の生活は、これから推測することにしています。
 私の遠い親戚に、相生市でも有数のお金持ちがいました。法事などで顔を合わせるのですが、冬用の服と夏用の服の2着しか持っていません。背広の襟はすこしほころびかけています。しかし、形は全く崩れていません。他の客の背広は新しい感じがしますが、形は崩れています。本能的に、「これが本物で、一帳羅なんだ」と思いました。一帳羅とは、普通「一枚しかない着物」と理解されていますが、「最も上等な着物」という意味もあります。
 子供が中学3年生と小学6年生の時に、ツアーでなく、家族だけで、約2週間ロンドンへ言ったことがあります。ロンドンから、郊外電車に乗ってオックスフォードに行ったときです。パディントン駅からオックスフォード行きの乗り場が分からない。そこで、近くの老紳士に尋ねました。その老紳士の背広も、襟はすこしほころびかけていましたが、形は全く崩れていませんでした。
 ついに私も1か月分の給料に匹敵する一帳羅を作りました。今の一帳羅は、昔の一帳羅足りうるかは、これからの楽しみです。
 昭和40年頃の体験です。日本語のロゴをフランス語の意味の片カナに変えたパン屋・ケーキ屋さんがありました。その結果、若い人を中心に売り上げが倍増したといいます。
 最近(2005年10月)、小泉チルドレンと呼ばれる女性新人議員3人が、外国人の記者クラブでの会見で、3人とも英語を喋ったと、TVや新聞が報じていました。1人は国連で活躍した人ですが、日本語らしい英語でした。もう一人は大蔵省でも有名なキャリアですが、やや英語らしい英語でした。最後のコンサルタントは、流暢な英語で、TV画面を見ていないと、ネイティブかと思うぐらいでした。1人を除いてこれぐらいの英語では、何も英語で会見する必要が無いと思いました。「郷に入っては郷に従え」という諺があります。日本では、日本語で会見するべきです。
 「私たちは英語で会見できるんだ」と英語を喋れない政治家へ優越感を誇示したのでしょうが、私からすると、白人に対する「コンプレックスの裏返し」と写りました。

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