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エピソード

218_01

桂園時代と帝国国防方針・増師問題
 時代も、明治から大正に移る頃になると、伊藤博文が予想したように、薩長などの藩閥勢力が衰退して、政友会を中心とする政党の力が伸張してきました。こうした時代を桂園時代といいます。
 1906(明治39)年1月、@12西園寺公望内閣が誕生しました。
 10月、山県有朋元帥は、国防方針策定の必要性を上奏しました。
 1907(明治40)年4月、元帥府会議は、初めて「帝国国防方針」「国防に要する兵力量」と、これに基づく「帝国軍用兵綱領」を至当の策と決定しました。その内容は、次の通りです。
国防の本義 開国進取の国是に従い国権の伸張・国利民福の増進
国防の方針 攻勢をもって本領とす
想定敵国 露国を第1米、独、仏の諸国これに次ぐ(日英同盟は確実に保持)
兵備の標準 露・米・独・仏の兵力に対し東亜において攻勢を取り得るを度とす
国防に要する
陸上兵力
平時 25個師団
戦時 50個師団(含予備25個)
国防に要する
海上兵力
第1線艦隊 戦艦8、装甲巡8
予備隊 艦齢9年〜25年
用兵綱領
主要作戦
英国と共同する戦争として、@対露:満州・ウスリーへの作戦
A対米作戦は、開戦初頭、まず東洋にある敵海上兵力を掃討し、
敵の渡洋来攻を我が近海に迎えて撃破し、不敗持久の戦略態勢
を確保し敵国の戦意を挫折させる

長期目標として、陸・海軍の現状を見てみましょう。
(1)陸軍は現有17師団を2個師団増設し、19個師団になりました。25師団には6師団増設する必要があるが、差し当っては、6師団の内の2師団の増設を要求しました。
(2)海軍は八・八艦隊(戦艦8・巡洋艦8)を目標に、さし当って戦艦1隻・巡洋艦3隻を実現しました。
 1908(明治41)年5月、*10衆議院議員総選挙が実施されました。政友会187人、憲政本党70人、大同倶楽部29人、猶興会29人でした。政友会が初めて絶対多数を獲得しました。
 6月22日、赤旗事件がおこりました。
 6月25日、山県有朋は、明治天皇に、西園寺内閣の社会主義者取締の不完全なことを上奏し、内相の原敬も上奏しました。
 6月27日、西園寺公望首相は原敬内相・松田正久蔵相を招いて、病気を理由に辞職を告げました。
 7月、@14第二次桂太郎内閣が成立しました。
 10月、戊申詔書を発布しました。
 1909(明治42)年10月、安重根により伊藤博文が暗殺されました。
 1910(明治43)年7月、第二回日露協約に調印しました。
 8月、韓国併合に関する日韓条約に調印しました。これを日韓併合条約といいます。
 1911(明治44)年1月、幸徳秋水ら12人は、死刑が執行されました。これを大逆事件といいます。
 3月、日本最初の労働立法である工場法が公布されました。
 7月、第三回日英同盟協約に調印しました。
 8月25日、桂太郎首相は、政綱実行の一段落を期として辞表を提出し、後任首相に西園寺公望を推薦しました。
 8月30日、@14西園寺公望内閣が誕生しました。内相は原敬です。西園寺首相は、財政の悪化にともない、行政整理と減税政策を訴えました。
 10月、辛亥革命がおこりました。
 1912(明治45)年1月、南京臨時政府が成立し、孫文臨時大総統に就任しました。
 2月、宣統帝溥儀が退位し、清朝が滅亡しました。
 3月、袁世凱が臨時大総統に就任しました。
 5月、第11回総選挙が行われました。その結果は、政友会が211人、国民党が95人、中央倶楽部が31人と当選者を出し、西園寺公望の政友会が圧勝しました。
 7月30日、明治天皇(59歳)が亡くなりました。大正天皇(34歳)が即位しました。年号を大正と改元しました。
 1912(大正元)年9月、学習院長の乃木希典大将夫妻が明治天皇に殉じて、自害しました。
 11月10日、西園寺公望首相は、陸軍の2個師団増設繰り延べ問題につき、元老山県有朋と会談しましたが、意見が一致しませんでした。
 政府は、すでに海軍の要求する戦艦3隻の建造予算600万円を承認していました。陸軍の軍務局長である田中義一中佐らは、「帝国国防方針により、10カ年計画で6個師団を増設、当面2個師団増設その予算200万円」を概算していました。西園寺公望は、海軍の予算を認めて、陸軍の予算を繰り延べにする案を山県有朋に相談したのです。
 後に総理大臣になる田中義一は、「政府がこの重大国防問題に無関心である理由が分からぬ」と激怒したと言われています。
 11月22日、辛亥革命に刺激された陸軍の上原勇作陸相は、朝鮮に2個師団増設案を閣議に提出しました。
 11月26日、東京商業会議所は、「師団増設反対・行政整理実行要求」を表明しました。
 11月30日、閣議は、財政上不可能として2個師団増設案を否決しました。陸軍は、桂園時代の終わりとして、こうした風潮を歓迎しました。
 12月2日、陸相の上原勇作は、元老の山県有朋と相談し、直接大正天皇に辞表を提出しました(これを帷幄上奏)といいます。事態収拾に動いた西園寺公望に対して、山県有朋は「上原も気の短い奴だ。しかし、これというのもあなたが陸軍に冷たくするからだ。国防に協力してもらえぬならば、陸相のなり手はありません」と言い放ったといいます、
 12月5日、陸軍は後任を拒否しました。西園寺は、軍部大臣現役武官制で後任が得られず、総辞職 しました。国民に支持され、行政整理と減税をめざした西園寺内閣が陸軍の横暴で総辞職させられたので、国民は憤激しました。他方、上原勇作は、その後、教育総監・参謀総長へと出世していきます。
 12月7日、元老会議は、松方正義を後継首相に推薦しましたが、辞退されました。
 12月12日、元老会議は山本権兵衛平田東助を後継に推薦しましたが、2人とも辞退しました。
 12月15日、政友会3派は、官僚政治の根絶・憲政擁護を決議しました。
 12月17日、斉藤実海相は、海軍充実計画の延期を非として、留任を拒否しました。しかし、 勅命により留任しました。
 12月17日、桂太郎に組閣命令が出ました。
 12月19日、憲政擁護連合大会が開始されました。これを護憲運動の始まりといいます。
 12月21日、@15第三次桂太郎内閣が誕生しました。
自分に都合のいい史料のつまみ食い・自分に不都合な史料の抹殺
 明治40年の用兵綱領主要作戦を見ると、太平洋戦争の時の作戦と全く同じと言うことが分かります。
 対米作戦としては、「開戦初頭、まず東洋にある敵海上兵力を掃討し、敵の渡洋来攻を我が近海に迎えて撃破し、不敗持久の戦略態勢を確保し敵国の戦意を挫折させる」となっています。
 戦争は、始まってしまうと、勝つことが正義で、負けることが悪者となります。殺さないと、自分が殺されます。ですから、戦争は起こしてはいけないのですが、それは、だれもが知っているのに、現実には、人類の歴史は、戦争の歴史でもあります。日清戦争後、10年おきに戦争を経験しているのが日本です。
 戦うことを目的とし、戦争することで存在意義をしめす軍隊を野放しにすると、戦争に邁進するのは当然です。これを政治が如何にコントロールするか、出来るかが重要な制度といえます。これをシビリアン・コントロールといいます。民主主義の1つの目安です。
 私は生徒として、新しい教科書を作る会の人や自由主義史観研究会の人が「自虐史観」と批判する教科書で授業を受けてきました。
 また、教師として、「自虐史観」と批判する教科書で授業をしてきました。
 批判は、学問や研究が発展するために必要です。そのための前提・絶対条件は、自分に都合のいい史料のみをつまみ食いしたり、自分に不都合な史料を抹殺しないということです。
 明治26年、戦時大本営条例(勅令第52号)が発布されました。陸軍の参謀総長が大本営の幕僚長となり陸海軍の全軍を指導するという内容に、海軍から不満の声がでました。
 その内容は、次の通りです。
(1)第一条 天皇ノ大纛下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス
(2)第二条 大本営ニ在テ帷幄ノ機密ニ参与シ帝国陸海軍ノ大作戦ヲ計画スルハ参謀総長ノ任トス 
 明治33年、天皇の下に陸軍大臣・参謀総長・教育総監が直隷していました。これを陸軍三長官制といいます。
 明治36年、戦時大本営条例(勅令第293号)は改正されました。海軍からの批判を受け、陸軍の参謀総長と海軍の軍令部長が同格とされました。その内容は、次の通りです。
(1)>第三条 参謀総長及海軍軍令部長ハ各其ノ幕僚ノ長トシテ帷幄ノ機務ニ奉仕シ作戦ヲ参画シ終局ノ目的ニ稽ヘ陸海両軍ノ策応協同ヲ図ルヲ任トス
 日清戦争の頃、陸海軍の作戦は、陸軍の参謀総長と海軍の軍令部長のもとに統合されていました。行政の長である総理大臣伊藤博文も大本営に参加しています。ここでは、軍と政府の分離は見られず、戦争指導が行われていました。
 明治40年、日露戦争後の軍事費の増大により、軍事と経済の不均衡が生じました。そこで、そのバランスをとるために、帝国国防方針が制定されました。この時、想定敵国の第一はロシアで、第二位はアメリカで、その次はフランスでした。
 日露戦争後、長州閥の指導者が高齢化し、彼らの歴史・権威によって保たれてきた軍事と政治のバランスが壊れ始めました。
 大正8年、帝国国防方針の第一次改訂が行われ、想定敵国の第一はロシアで、第二位はアメリカで、その次は中国でした。
 大正12年、帝国国防方針の第二次改訂では、アメリカを第一の想定敵国としています。
 昭和6年、満州事変は、軍事や政府の統制を無視した関東軍の陰謀によって起こされました。ここではシビリアンコントロールは全く崩壊しています。民主主義の目安がないということです。こういう手法を実証主義史観といいます。私の立場です。
 新しい教科書を作る会の人や自由主義史観研究会の人の意見を検討してみました。
 「民主主義国かどうかは、政治の内容でなく政治体制(秘密選挙で代表者が選ばれるかどうかなど)で決まるのだ。また、選挙をもって民意を反映する社会体制の国を民主主義国というのだ」「日本は戦前も民主主義社会であった」という。そして「大東亜戦争は圧倒的な民意の支持を受けて開始された戦争なのだ」という結論に導く。しかし、この議論は、自分に不都合な史料を抹殺して出来上がっている。
 治安維持法で戦争に反対した人々は、当時、どうなっていたのか。上意下達機関の末端組織である隣組に反対した人々は、どういう扱いを受けていたのかという部分が抹殺されています。これでは議論になりません。
 私は、シビリアンコントロールという民主主義の原則が崩壊した時を、次のように記述しています。
 1912年5月の総選挙の結果、政友会が211人、国民党が95人、中央倶楽部が31人で、西園寺公望さんの政友会が圧勝しました。政友会政府は、財政的理由で、陸軍の2個師団増設案を否決しました。これを財界も支援しました。
 陸軍は、軍部大臣現役武官制を利用して、後任の陸相を提出しませんでした。そこで、国民が圧倒的に支持し、財界も支援した西園寺内閣が総辞職しました。
帝国国防方針に見る想定敵国の変化
1907(明治40)年 1918(大正7)年 1923(大正12)年 1936(昭和11)年
露→米→仏 露→米→中 米→ソ→中 米・ソ→英→中
 新しい教科書を作る会の人や自由主義史観研究会の人の意見を検討してみました。
 日露戦争後の1906年(明治39年)、アメリカは、オレンジ計画を立てました。アメリカのアジアにおける領土拡大に日本が邪魔になる。そこで、アメリカは第一の想定敵国を日本にして戦略を練りました。
 その内容は、次の通りです。
(1)第一段階として、アジア南部、西部の石油・重工業原料を日本が確保する。米海軍は母港に終結しているため日本の攻略を阻止できない。
(2)第二段階として、アメリカは次第に消耗戦に勝利を収めるようになり、2〜3年後にフィリピンの基地を奪回する。
(3)第三段階として、アメリカは沖縄を占領する。日本本土の生産施設と都市を空爆によって破壊する。
 そして、「自虐史観」と批判する人々は、「日本はまさしくこのシナリオ通りに追いつめられ、暴発し、そして息の根を止められた」とか「オレンジ計画から真珠湾まで35年、日米は戦争を回避できない道をひた走ってきた」とか「日本の真珠湾攻撃は明らかにオレンジ計画の中に組み込まれたものだった」書いています。
 一部には「共存共栄を目指した日本の大命題が歪められたのは、アメリカのオレンジ計画です」と書いて、「日本の息の根を止めるような策略にのり、軍の暴走を許してしまったことは非常に残念です」という論調もありました。
 ここでも、新しい教科書を作る会の人や自由主義史観研究会の人の意見は、自分に都合のいい史料のみをつまみ食いしたり、自分に不都合な史料を抹殺しています。
 帝国主義は、「自分の国の領土や植民地を拡大し、政治的経済的に他民族・他国家を支配しようとする主義」と定義できます。当時のアメリカやロシア、それに日本は、帝国主義の国といえます。当然、自国の権益を拡大・保護するために、離合集散を繰り返したり、様々な戦略を煉ります。
 帝国主義・植民地主義についても「現地で行なわれた日本人の植民地支配というのは、およそ欧米列強がアジアやアフリカ、中南米で実施してきた植民地支配とは似て非なるものであった」と言うのです。これには定義がありません。あくまで恣意的な希望的観測記事で、議論の対象にすらなりません。
 アメリカのオレンジ計画は1906年ですが、日本の帝国国防方針は1907年です。順位は違え、お互いを想定敵国にしています。この事実を抹殺しています。
 次に、1927年、関東軍作戦主任参謀石原莞爾は日米戦争を意識し、「将来の戦争は、東亜の王道と米州の覇道との飛行機による最終戦争となる。そのためには、生産能力をアメリカに匹敵させる」(『世界最終戦論』)と主張しています。
 アメリカだけではなく、日本もアメリカを想定敵国として、研究し、準備をしてきているのです。その事実を抹殺しています。
 ここに、自由主義史観研究会の代表である藤岡信勝氏とその会員が書いた『教科書が教えない歴史』という本があります。140万部の大ベストセラーだそうです。
 そこには、日露戦争後、「友好国アメリカが戦争計画を準備していようとは思いもよらないことでした」。そして「その戦争は、日本軍の真珠湾攻撃によって始まったのですが、それよりはるか以前から、アメリカ側の日本をはるかに上回るほどの強い戦意があったことをこの『オレンジ計画』は教えてくれます」と書いています。
 1923(大正12)年の帝国国防方針では、想定敵国の第一位にアメリカを置き、一番の戦意をアメリカに向けていた事実が抹殺されています。
10  新しい教科書を作る会の人や自由主義史観研究会の人の意見を色々調べてみて、先に結論があって、その方向で、都合のいい史料のみをつまみ食いしたり、自分に不都合な史料を抹殺するという共通点があります。
 以前、『朝まで生TV』で、西尾幹二氏が吉見義明氏に対し、「あなたは病的だ」とか「慰安婦学者と言われている」とか凡そ学者が議論の場で言ってはいけない悪罵を投げつけ、司会者から注意を受けていました。
 また、同じ番組で、西尾幹二氏は「日本の慰安婦だけでなく、世界の慰安婦問題を取り上げるべきだ」と発言すると、吉見義明氏は「私のこの本をお読みになりましたか」と反論されると、西尾幹二氏は「いや読んでいない」と返事していました。
 議論・研究する場合、この問題について、どこまでが解明され、何が課題なのかを把握することが最低のマナーです。相手の本も読まないで、その人を批判するなど論外です。学者でなく、政治屋の態度です。
11  私が学生時代、奈良に調査旅行に行きました。奈良駅で、新興宗教を信ずる学生に「あなたは今幸せですが」といきなり問いかけられました。集合までに少し時間があったので、話し合いました。
 彼は、私が指摘する本を一冊も読んでいませんでした。私は、彼が勧める本は殆ど読んでいました。私は、「色々な本を読まないと、何が正しいか、正しくないか判断できませんよ」と説得していると、リーダー格とおぼしき人物が彼に引揚げを命じました。逆説得されることを恐れたのでしょう。
 新しい教科書を作る会の人や自由主義史観研究会の人ともっと議論をしたいと思います。そのためには自分に不都合な本も是非読んで、それを乗り越えて欲しいものです。

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