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エピソード

218_02

大正政変(桂太郎、尾崎行雄、第一次護憲運動)
 1911(明治44)年8月30日、@14西園寺公望内閣が誕生しました。
 1912(大正元)年7月30日、皇太子嘉仁親王が即位して、大正天皇となりました。年号を大正と改元しました。
 8月13日、山県有朋大山巌桂太郎松方正義井上馨の5公候が元老となりました。桂太郎は、内大臣兼侍従長に就任しました。
 9月13日、3日間にわたる明治天皇の大喪が行われました。
 9月13日、学習院長の乃木希典大将夫妻が明治天皇に殉じて、自害しました。
 11月10日、西園寺公望首相は、陸軍の2個師団増設繰り延べ問題につき、元老山県有朋と会談しましたが、意見が一致しませんでした。
 11月22日、辛亥革命に刺激された陸軍の上原勇作陸相は、朝鮮に2個師団増設案を閣議に提出しました。
 11月26日、東京商業会議所は、「師団増設反対・行政整理実行要求」を表明しました。
 11月30日、閣議は、財政上不可能として2個師団増設案を否決しました。陸軍は、桂園時代の終わりとして、こうした風潮を歓迎しました。
 12月2日、陸相の上原勇作は、元老の山県有朋と相談し、直接大正天皇に辞表を提出しました(これを帷幄上奏)といいます。事態収拾に動いた西園寺公望に対して、山県有朋は「上原も気の短い奴だ。しかし、これというのもあなたが陸軍に冷たくするからだ。国防に協力してもらえぬならば、陸相のなり手はありません」と言い放ったといいます、
 12月5日、陸軍は後任を拒否しました。西園寺は、軍部大臣現役武官制で後任が得られず、総辞職 しました。国民に支持され、行政整理と減税をめざした西園寺内閣が陸軍の横暴で総辞職させられたので、国民は憤激しました。他方、上原勇作は、その後、教育総監・参謀総長へと出世していきます。
 12月5日、西園寺公望が元老となりました。
 12月7日、元老会議は、松方正義を後継首相に推薦しましたが、辞退されました。
 12月12日、元老会議は山本権兵衛平田東助を後継に推薦しましたが、2人とも辞退しました。
 12月15日、政友会3派は、官僚政治の根絶・憲政擁護を決議しました。
 12月17日、斉藤実海相は、海軍充実計画の延期を非として、留任を拒否しました。しかし、 勅命により留任しました。
 12月17日、桂太郎に組閣命令が出ました。
 12月19日、憲政擁護連合大会が開始されました。これを護憲運動の始まりといいます。
 12月21日、@15第三次桂太郎内閣が誕生しました。1885(明治188)年に内閣制度が誕生して以来、宮中府中の別は制度として確立していました。桂太郎は、今までのルールを無視して宮中から政権へ返り咲いたのです。
 宮中の代表である内大臣兼侍従長の桂太郎が、行政の代表である総理大臣になったことで、宮中と政治の境界をみだすものという非難の声があがりました。
 そこで、桂太郎は、元老として君臨していた山県有朋系の官僚ではなく、若槻礼次郎(蔵相)や後藤新平(逓相)らを入閣させました。
 12月27日、第30通常議会が召集されました。これを第30議会といいます。
 1913(大正2)年1月17日、全国記者大会が築地精養軒で開催されました。400人が出席し、「憲政擁護・閥族打破」を決議しました。
 1月19日、板垣退助のほか、立憲国民党犬養毅、立憲政友会の杉田定一尾崎行雄らが発起人となり、東京の歌舞伎座で、憲政擁護大会が開かれました。実業家・新聞記者・学生ら3000人が集まりました。そして、非官僚派の代議士が提出した閥族打破・憲政擁護の宣言と桂内閣弾劾の決議案を採択しました。
 1月20日、桂太郎首相は、新党組織計画を新聞などに発表しました。
 1月21日、大石正巳島田三郎河野広中片岡直温らが国民党を脱党したので、国民党は分裂状態になりました。
 1月24日、憲政擁護第2回連合大会が東京の新富座で開催されました。
 1月30日、桂太郎は、新党結党の宣言を行い、立憲国民党の脱党者ら83人が参加しました。
 1月31日、大石正巳・島田三郎・河野広中ら5代議士は、桂太郎の新党創立に参加を表明しました。
 2月5日、政友・国民両党は、桂内閣不信任決議案を提出しました。この時、尾崎行雄は有名な弾劾演説を行いました。その内容は、次の通りです。原文は、プリント日本史の史料を参照してください。
 「玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか。…内閣総理大臣の地位に立って然る後政党の組織に着手するといふが如きも、彼の一輩が如何に我憲法を軽く視、其精神のある所を理解せないかの一斑である」
 2月5日、閥族打破・憲政擁護を叫んで、議会周辺に数万人の民衆がデモを繰り広げました。立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らが主導し、商工業都市民ら多数が参加しました。これを第一次護憲運動憲政擁護運動)といいます。
 2月7日、桂太郎首相は、新党を立憲同志会と命名しました。
 島田三郎・河野広中ら立憲国民党の多数と、西郷従道品川弥二郎中央倶楽部(藩閥系の大同倶楽部の系譜)が合同して、多数を占めました。桂太郎派の官僚後藤新平・若槻礼次郎・加藤高明らは少数派となりました。
 2月8日、桂太郎首相は、政友会総裁西園寺公望と会見し、不信任案撤回を要望しました。
 2月9日、西園寺公望は、原敬松田正久らと協議し、桂太郎首相の要望を拒絶しました。
 2月9日、大正天皇は、西園寺公望に衆議院の紛糾を解決せよと御沙汰がありました。その内容は、次の通りです。「諒闇中に衆議院が紛糾していることは憂慮に堪えず、卿は国家の重臣であるからして朕の意を体し解決に努力せよ」。これが後の西園寺違勅事件になります。
 2月10日、西園寺公望は、政友会総裁辞任を上奏しました。
 2月10日、政友会総会議員総会を開き、不信任案を撤回せずと決定しました。
 2月10日、桂太郎首相、内閣不信任回避のため、詔書を得て、議会を3日間停会しました。この動きを知った民衆数万人は議会を取り囲みました。2500人の警官と3個小隊の騎馬憲兵が鎮圧にあたりました。各地でも暴動が起こり、軍隊が出動しました。
 2月10日、桂太郎首相は、議院の総理室で、閣僚と解散か否かを話し合っていました。それを見た大岡育造議長(58歳、政友会創立委員)は、長州閥の先輩である桂太郎(66歳)を群集が見える窓際に連れて行き、「この議院は憤激した民衆にとり巻かれている。善処しなければこの民衆は血を見るまでは収まりませんぞ」と語気強く説得しました。
 部屋を出た桂太郎首相は、部屋に戻ってくると、「私はやめることにした。諸君も辞表を書いてもらいたい」と申し出たといいます。
 2月10日夜、山本権兵衛海軍大将は、桂太郎を尋ね、「山県有朋公とあなたは、新帝を擁し勢威を弄んで天下の禍を引き起こした」と詰問したといいます。
 2月11日、桂太郎は内閣を総辞職しました。在職53日で瓦解した政変を大正政変といいます。民衆のデモによって内閣が総辞職した最初の出来事です。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
大正政変と民主主義
 民主主義とは、もともと政治上の言葉で、主権が人民にあるという政治の考え方です。
 リンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉がその意味をよく体言しています。
 最近は、政治上の言葉としてでなく、人間の自由や平等を尊重する思想ととして広く使われています。
 一部の学者は、民主主義は、戦後、アメリカから与えられたのではなく、戦前にもあったと主張しています。それは正しい。しかし、太平洋戦中に民主主義が存在していたという主張をする人がいます。その論拠は、大政翼賛選挙によって、民意を諮り、それにのっとって、大東亜戦争を行ったというのです。しかし、これは明らかに間違っています。
 治安維持法によって、自由な思想を弾圧しており、軍部や政府のの意向に沿わない民意を持つ者は非国民とされ、死の一番危険性の高い戦地に転属させられていたからです。
 では、戦前に、民意が発揮された歴史はあったのでしょうか。
 私たちは、大正政変という言葉を知っています。選挙で多数を占めた西園寺内閣は、陸軍の横暴で、総辞職させられました。
 権力を持たない多くの民衆がデモという方法で、桂内閣を総辞職させたのです。それまでは、天皇に対して不敬があったとかで、総辞職した例はあっても、民衆の意向で総辞職したのは、大正政変が最初でした。確かに、日本には、戦前に、民主主義はあったのです。これを大正デモクラシーといいます。

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