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エピソード

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第一次世界大戦T(三国同盟と三国協商、バルカン戦争、サラエボ事件)
 戦争に賛成の人は、表面的にはいません。しかし、戦争によって利益を得るグループや人がいます。そいういうグループや人がいる限り戦争は、なくなりません。彼らは巧みな戦略で、国民を戦争に駆り立てます。
 それを防止するには、シビリアンコントロールの制度化が必要です。戦争を企む者と、それを防止しようとする者との戦いが、人類の歴史だったかも知れません。
 世界を戦場にした初めての戦いが、この地球上でありました。その背景を探ってみましょう。
 当時の世界は、帝国主義の時代でした。帝国主義とは、資本主義国家間の政治的・経済的侵略政策のことです。列強は、植民地の再分割を求めて激しく対立していました。
 植民地を持てる国のイギリス・フランスに対して、植民地を持たざる国のドイツのヴィルヘルム2世が世界政策を表明し、軍備拡張に乗り出しました。
 ヨーロッパと日本との関係を見てみましょう。
 1882年、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリア3国間の相互防衛条約である三国同盟が成立しました。ドイツの勢力が増大しました。
 1891年、三国同盟に対抗して、露仏同盟が成立しました。━━┓
 1902年、日英同盟が成立しました。                 ┃
 1904年、三国同盟に対抗して、英仏協商が成立しました。━━╋━三国協商が成立しました。
 1905年、日英同盟が改訂されました。                ┃
 1907年、三国同盟に対抗して、英露協商が成立しました。━━┛
 1907年、日露協約が成立しました。 
 1907年、日仏協約が成立しました。 
 三国協商が成立したことで、力の均衡(パワー・オブ・バランス)が崩壊しました。
 バルカン半島では、民族の坩堝(るつぼ)といわれ、パンスラブ主義パンゲルマン主義が対立し、複雑に絡み合い、バルカン半島は、当時ヨ−ロッパの火薬庫と呼ばれていました。
 1852年、フランスがカトリック教徒のために、キリスト教徒の聖地イェルサレムの管理権を得ました。
 1853年、ロシアはギリシア正教徒の保護を口実にトルコ全土に干渉する権利を要求し、トルコの宗主下にあったモルダヴィア・ワラキアの両公国へと兵を進めた。
 1853年10月、イギリス・フランスの後押しを受けたトルコは、ロシアに宣戦を布告しました。これがクリミア戦争です。
 1854年3月、トルコ艦隊がロシア艦隊に全滅させられたので、イギリス・フランスがロシアに宣戦を布告しました。
 1855年9月、セヴァスト=ポリ要塞の占領に成功した。かくして戦争の帰趨が明らかとなる
 1856年3月、オーストリア・プロイセンが調停によりパリ条約が成立し、クリミア戦争が終結しました。パリ条約の結果、ロシアは黒海の独占ができなくなりました。ロシアの後進性を知ったアレクサンドル2世は農奴解放などの改革を行いました。
 1875年以降、ロシアは、ブルガリアやセルビアの民族主義活動の汎スラブ主義を利用する政策を採用しました。その結果、トルコの支配するボスニア・ヘルツェゴビナやブルガリアなどで民族蜂起がおこりました。
 1877年、ロシアは、スラブ民族を救済することを口実にトルコに戦争を仕掛けました。これが露土戦争です。
 1878年3月、ロシアは戦争に勝利し、サン・ステファノ条約が結ばれました。その結果、セルビアはトルコから独立し、ボスニア・ヘルツェゴビナは自治権を得ました。
 6月、ロシアの南下政策に危機を抱いたヨーロッパ列強は、「誠実な仲介者」を自任するドイツのビスマルクの呼びかけで、ベルリン会議を開催し、サン・ステファノ条約を修正しました。その結果、ロシアの権益が縮小され、セルビアの独立がヨーロッパ列強からも認められました。しかし、ボスニアヘルツェゴビナは、オスマントルコ帝国の名目上の王権を残して、オーストリア・ハンガリーが実質的に占領することになりました。
 1903年、親オーストリア的なセルビアでクーデタがおこり、親ロシア政権が誕生しました。
 1905年、第一次モロッコ事件がおき、モロッコは、フランス領となりました。
 1905年、バルカンをめぐってドイツ・オーストリアがロシアと対立しました。
 1908年、オーストリア=ハンガリー帝国は、、ボスニア・ヘルツエゴビナを併合しました。大セルビア主義を唱えるセルビア系ボスニア人は、ボスニア・ヘルツェゴビナはセルビアの固有の領土と考えていたので、この併合に激しく抵抗しました。
 1908年、トルコで、青年トルコ党の革命がおこりました。
 1911年、第二次モロッコ事件がおき、エチオピア・リベリア以外の全土が植民地になりました。
 1912年3月、ブルガリア・セルビア・ギリシアは、ロシアとバルカン同盟を結び、ドイツに接近するトルコを牽制ために、トルコ領マケドニアを分割しました。
 10月、第一次バルカン戦争がおこりました。バルカン同盟軍(ブルガリア・セルビア・ギリシア・ロシア)がトルコを撃破しました。その結果、マケドニアの分割をめぐるブルガリアと他の同盟国(セルビア・ギリシア・ロシア)の対立対立が激化しました。また、トルコ帝国の支配がゆるんで、セルビア(今のユ−ゴスラビア)の勢力が伸張しました。 
 1913年、第二次バルカン戦争がおこりました。ブルガリアが、他の同盟国(セルビア・ギリシア・ロシア)に破れ、ブルガリア・トルコは、ドイツ・オーストリアに接近するようになりました。セルビアは、2度のバルカン戦争で勢力を伸張させました。それに対して、オーストリア=ハンガリー帝国は、セルビアに警戒心を抱くようになりました。
 こうした状況下に、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がサラエボを訪問することになったのです。
 1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻がオーストリア領のサラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)を視察中、親露的な隣国セルビアの青年ガブリロ・プリンチプ(18歳)によって暗殺されました。これをサラエボ事件といいます。
 7月28日、オ−ストリアは、セルビアに宣戦を布告しました。
 7月29日、ブルガリアは局外中立を宣言しました。
 7月30日、ロシアは、セルビアを支援するために、全軍に総動員命令を出しました。
 8月1日、ドイツは、ロシアに宣戦を布告しました。
 8月3日、ドイツは、ロシアに宣戦を布告しました。
 8月3日、イタリアは局外中立を宣言しました。
 8月4日、イギリスは、ドイツに宣戦を布告しました。
 8月4日、アメリカは局外中立を宣言しました。
 8月6日、中国は局外中立を宣言しました。
 8月7日、イギリス大使グリーンは、日英同盟により日本に対独参戦を要請しました。
 8月9日、加藤高明外相は、イギリス大使グリーンに、東アジアのドイツ勢力一掃のため参戦すると説明しました。それに対して、イギリス外相のグレーは、日本の軍事行動見合わせを希望しました。
 8月12日、イギリスは、東シナ海におけるドイツ仮装巡洋艦の行動をおさえるために、日本に限定参戦を要請しました。
 8月23日、日本は、ドイツに宣戦を布告しました。戦線がヨーロッパ・アジアに及んだことで、第一次世界大戦といわれます。
 9月2日、日本陸軍は、山東省竜口に上陸しました。
 9月4日、第34臨時議会を開会しました。これを第34議会といいます。
10  9月5日、日本海軍のモリス・ファルマン式水上飛行機が青島戦に参加しました。これが日本最初の飛行機の実戦使用です。
 9月5日、英仏露は、ロンドンで単独不講和を宣言しました。これをロンドン宣言といいます。
 9月5日、フランス軍は、ドイツ軍右翼を総攻撃しました。これをマルヌの会戦といいます。その結果、西部戦線が膠着しました。
 9月25日、日本軍陸は、山東鉄道の停車場を占領しました。
 9月26日、中国は、山東鉄道占領を中立侵害と日本に抗議しました。
 10月14日、日本海軍は、赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領しました。
 11月7日、日本陸軍は、東洋におけるドイツの根拠地山東省青島を占領しました。
 11月16日、ドイツ・オーストリア軍は、ワルシャワのクラカウ付近でロシア軍とを激戦となりました。これをクラカウの会戦といいます。その結果、東部戦線が膠着しました。
 12月3日、加藤高明外相は、駐華公使日置益に対華要求(いわゆる21か条の要求)を訓令しました。
 12月7日、第35通常議会を開会しました。これを第35議会といいます。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
戦争の背景、サラエボ事件詳細
 植民地を持たざる国ドイツが、植民地を新たに得ようとして戦争を起こしました。
 植民地を持つ国イギリス・フランスが、既得権を守ろうと戦争を起こしました。
 スラブ民族のロシアが、南下政策をとって、西欧列強と対立しました。
 日本は、西欧列強のイギリス・フランスと同盟関係を結び、戦争相手のドイツから植民地を得ました。
 他国を勝手に切り取り得ることを帝国主義といいます。日本も西欧列強も帝国主義です。
 しかも、彼らは「自衛のため」とか「正義のため」とか言って、戦争を始めたのです。
 1914年6月27日、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻は、サラェボ近郊イリッツエに到着して、閲兵と演習視察を終えました。
 6月28日、皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻は、汽車でサラェボ入りました。6台のオープンカーが出迎え、大公夫妻とボスニア総督のポチョレックが乗り込みました。そして、大公夫妻はオーストリア領のサラエボ(ボスニアの首都)の市庁舎を訪問しました。独立心が強かったボスニア系セルビア人を心理的に圧倒する意味がありました。
 皇太子フランツ・フェルディナントは、そうした意図を知らず、妻への慰労と考えていました。それは、妻ゾフィー・ショティクは身分が低い貴族(ボヘミアにある伯爵家)の出だったので、ハプスブルグ家の規範では伯爵家の出身では皇室の夫人として相応しくないという扱いで、宮廷の儀式にも出席できなかったからです。その上、2人の間に生まれた子供は、王位継承権ありませんでした。
 暗殺の実行犯7人は、セルビア軍将校を中心とした秘密組織黒手組から拳銃・爆弾・自決用の毒薬を受け取っていました。大公夫妻は市内のミリヤッカ川沿いを通過する予定だったので、6人の刺客はミリヤッカ川沿いのアペルキュー通りに配置されました。
 第一の現場の現場周辺には(1)メフメトバシッチ(2)チャブリノビッッチ(3)チュブリロビッチ(4)ポポビッチの4人が配置されていました。
  第二の現場には(5)プリンチプ(6)グラベッツが配置されました。
 午前10時15分、6台のオープンカーがやってきました。
 1人目の暗殺犯のメフメトバシッチは、警察官が背後にいると錯覚して、実行できませんでした。
 2人目の暗殺犯チャブリノビッチは、爆弾を大公の車に投げつけましたが、爆発せず道にころがり、次の車が通った時に爆発しました。そして10人以上が重軽傷を負いました。チャブリノビッチはすぐ逮捕されました。
 3人目の暗殺犯チュブリロビッチは、太公の妻が気の毒になって、家に帰ってしまいました。
 4人目ポポビッチの暗殺犯は、びっくりして、そのまま家に帰ってしまいました。
 6台のオープンカーは、猛スピードで市庁舎に入りました。
 5人目の暗殺犯プリンチプは、大公夫妻の暗殺が失敗したことを知り、ミリヤッカ川にかかるラタイナー橋の北側のシラーという喫茶店に入って次の手を考えることにしました。
 6人目の暗殺犯グラベッツは、やる気を失していました。
 大公は、ともかく市庁舎に到着した。しかし、予定の博物館改装の記念式典をとりやめ、重軽傷者の見舞いに行くことにした。
 市庁舎は旧市街ですが、病院は郊外にあるため、川沿いの道に戻る必要がありました。運転手は現場を早く離れようと、アペルキュー通りを猛烈なスピードで車を走らせました。しかし郊外の病院に行くには、ラタイナー橋北側の交差点を北へ進んで、フランツヨゼフ通りに出る必要があります。運転手は通り過ぎたので、急ブレーキをかけ、バックして、ゆっくりとフランツヨゼフ通りに通ずる狭い道を進みました。
 歩道沿いのシラー喫茶店にはプリンチプがいました。目の前を太公夫妻を乗せたオープンカーがゆっくり通過するのが見えました。喫茶店から飛び出したプリンチプは、ブローニング拳銃で大公夫妻を射殺しました。
 プリンチプは、拳銃で自殺を図りましたが、不発弾で失敗し、近くのミリヤッカ川に頭から突っ込みましたが、積もった泥がクッションとなり、これも失敗に終わりました。プリンチプは逮捕されました。
 逮捕された暗殺犯2人は、黙秘を貫きました。しかし、プリンチプを自宅に宿泊させていたダニロ・イリイッチが自白し、武器がセルビア政府から物であることを自供しました。イリイッチの供述にもとづき、他の3人が逮捕され。1人は逃亡しました。
 1914年11月、イリイッチは成年ということで絞首刑になりました。それ以外の暗殺犯は、未成年者ということで死刑を免ぜられました。プリンチプは、懲役20年の刑を受けました。
 1918年4月、プリンチプは、結核のためプラハ近郊にあるテレジェンシュタットの監獄で獄死しました。

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