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エピソード

220_01

第一次世界大戦U(ベルダンの戦い、ソンムの戦い、アメリカの参戦)
 1914年8月、ドイツの飛行船であるツェッペリン号がベルギーの砦を攻撃しました。これが世界で最初の飛行機による爆撃でした。
 1915年1月、大隈重信内閣、袁世凱二十一カ条の要求を突きつけました
 4月、イプルの戦いで、ドイツ軍は世界で最初の毒ガスを使用しました。
 4月、ドイツ軍は、イギリス艦隊によって北海を封鎖され、海外からの物資の補給が断たれました。そこで、ドイツ軍は潜水艦によって敵国・中立国を問わず、軍需物資を積んだ船舶を無警告・無制限で撃沈する作戦を採用しました。
 5月、イギリスの豪華客船であるルシタニア号がドイツ潜水艦によって無警告で撃沈され、100人以上のアメリカ人が溺死しました。そこで、ドイツはその戦術を手控えました。しかし、局外中立を国是としていたアメリカ世論が一気に参戦に傾きました。
 10月、イタリアがドイツに宣戦を布告しました。
 1916年2月、ベルダンの戦いで、死者はドイツ軍が33万人、フランス軍が35万人に及びました。
 3月、連合軍の要請で、日本駆遂艦はヨ−ロッパの地中海に出動しました。
 7月、ソンムの戦いで、死者はドイツ軍が50万人、イギリス軍が40万人、フランス軍が20万人に及びました。
 9月、イギリス軍は、世界で最初のタンク(戦車)を使用しました。
 1917年2月、ドイツは、戦局の打開をはかって、ドイツが指定する航路以外の船舶を、国籍を問わず無制限に撃沈することを、再度宣言しました。これを無制限潜水艦作戦といいます。
 3月、ロシアで、ロマノフ王朝が倒されました。これを三月革命といいます。臨時政府は戦争を継続しました。 
 4月、世論を背景に、アメリカ大統領のウィルソンは、「自由・平等・アメリカ国民の保護」を口実に、ドイツに宣戦を布告しました。アメリカは、建国以来、ヨーロッパに兵隊を送るのはこれが初めてです。アメリカがヨーロッパ戦線に送った兵力は200万人以上でした。
 6月、ドイツの爆撃機であるゴーダGは、ロンドン市内を爆撃しました。これが世界の最初の本格的な空襲です。
 11月、ロシアで、社会主義革命により、世界で最初のソビエト政権が樹立しました。これを十一月革命といいます。ソヴィエト政権は、ただちに無併合・無賠償・民族自決の原則による講和を交戦国に訴えましたが、連合国は相手にしませんでした。
 1918年1月、ベルリンで40万人、全ドイツで100万人の労働者がストライキに参加し、無併合・無償金・民族自決による講和を要求しました。
 2月、ドイツ軍当局は、このストライキを武力で鎮圧しました。
 3月、ドイツとソヴィエト政権は、単独講和のブレスト・リトウスク条約を調印しました。ソヴィエト政権は第一次世界大戦から離脱しました。ドイツは、東部戦線が消滅したため、全軍を西部戦線に集中して戦局の転換をはかりました。
 7月、ドイツ軍は、西部戦線で勝利をおさめました。
 8月、連合軍は、アメリカ軍の援助を得て、ドイツ軍を西部戦線で撃破しました。
 9月、同盟国側のブルガリアが降伏しました。
 10月、同盟国側のトルコが降伏しました。
 10月28日、ドイツの敗北が決定的となった段階で、ドイツ海軍は、休戦交渉を有利にする目的で、ドイツ艦隊に対して出撃命令を出しました。しかし、キール軍港の水兵は、全く勝ち目のない出撃を拒否しました。
 11月3日、出撃命令を拒否した水兵600人が逮捕されました。キール軍港の水兵たちは、彼らの釈放を要求して蜂起しました。
 11月4日、労働者・兵士評議会(レーテ)がキール市の実権を掌握しました。
 11月5日、連合国は、ドイツの休戦提案を承認しました。
 11月9日、首都ベルリンでも、急進的な独立社会民主党スパルタクス団のほか、政府側に与していた多数派の社会民主党も、革命側に寝返りました。そこで、マックス公は皇帝の退位を宣言し、社会民主党のエーベルトに政権を移譲しました。ここにハプスブルク家が崩壊しました。最後の皇帝となったオットー1世は、宮殿から自動車に乗って脱出したといいます。これをドイツ革命といいます。
 11月10日、皇帝ウィルヘルム2世は退位してオランダへ亡命しました。ここにホーエンツォルレン朝が滅亡しました。
 11月11日、ドイツは連合国と休戦条約に調印し、ドイツの無条件降伏に終わりました。ここに連合国が勝利し、第一次世界大戦が終了しました。
 負け戦の場合、引き際の大切さを、ドイツから学ぶ必要がありました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
毒ガス、タンク(戦車)、飛行機
 第一次世界大戦は、動員された兵力は6000万人を超え、戦死者数は約1000万人に達した。ベルダンの戦いの死者は、ドイツ軍33万人・フランス軍35万人の計68万人に達しました。ソンムの戦いの死者は、ドイツ軍50万人・イギリス軍40万人・フランス軍20万人の計110万人に達しました。
 日清戦争の時の戦死者は、日本軍1万3000人(清国軍の戦死者は不明)です。日露戦争の時の戦死者は、日本軍12万人・ロシア軍19万人の計31万人です。戦死者の数が飛躍的に増加しています。
 戦死者が増えた理由として、動員兵力が膨大になったこともありますが、戦争武器の驚異的な進歩が挙げられます。思想的には、総力戦構想があります。
 第一次世界大戦では、日露戦争で使った全弾薬量を1週間で消耗したといいます。
 大量殺戮の新兵器が登場しました。毒ガス・戦車・潜水艦・飛行機などです。
 江戸時代は、侍は、武士という身分・名誉を与えられ、専門の戦争屋でした。ヨーロッパでは、騎士階級(ナイト)がそれにあたります。この時代の思想は、武士同士が殺し合うという思想です。
 明治時代になると、国民国家という名の下で、国民皆兵制た採用されました。国は国民全員が守るという思想、戦争は国民全員で戦うという思想です。これを総力戦構想といいます。言葉は綺麗ですが、国民同士が殺しあうという思想です。
 1899年、ハーグ宣言により毒ガスは投射が禁止されました。毒ガスの使用は、国際法違反です。
 最初に、国際法違反を犯して毒ガスを使用したのはドイツです。
 毒ガスと規定される物には何があるか調べてみました。調べてみて、まさに「悪魔の兵器」といえます。戦争になれば、勝たなくてはいけません。そのためには、人間を効率的に多数殺傷する様々な兵器が登場します。
(1)マスタード・ルイサイト
 マスタード(イペリット)は、蒸発速度が遅いのが特徴です。一度、土壌・草木・家屋などに付着すると、強力な毒性を発揮しながら、ゆっくり蒸発します。蒸発する時に、毒剤が皮膚に付着すると、2〜3時間後には、激しい痛みを感じ、体皮には水疱が発生します。皮膚・粘膜などの組織が深部までただれ、くずれます。その上、皮膚浸透性があるので、防毒マスクだけでは防ぐことは出来ません。
 ルイサイトは、マスタードより効果が現れるのが早いのが特徴です。皮膚に付着したり目に入ると、激しい痛みを感じます。
(2)ジフェニルシアノアルシン・ジフェニルクロロアルシン・アダムサイト
 これらは有機ヒ素化合物です。低濃度の場合は、鼻・喉・目の粘膜に激しい刺激を与え、くしゃみ・咳・前額部の痛みなどの症状が出ます。高濃度の場合は、これを吸入すると血液中の酸素吸入機能が麻痺して、呼吸器深部を冒し、嘔吐・呼吸困難となり死亡します。
(3)クロロアセトフェノン・クロロベンジルマロノニトリル
 これらはハロゲン化合物です。このガスの特徴は、沈殿制があるということです。撒布されると緑色のガスとなり、比重が重いので、窪地・洞穴などに流れ込みます。これを吸入すると、肺組織をおかし、肺水腫状態となり死亡します。塹壕・防空壕などに効果を発揮します。
(4)塩素・ホスゲン
 これを吸入すると、呼吸器系に作用して喉や気管支を刺激し、咳・胸部圧迫・嘔吐・呼吸困難などになり死亡します。
(5)青酸(シアン化水素)
 これを吸入すると、血液成分(ヘモグロビン)や全身の組織に作用して、目眩・嘔吐・痙攣などの呼吸器障害を起こし、15分ほどで死亡します。揮発性が高く、体に付着しないので、防毒マスクで防ぐことが出来ます。
(6)トリクロロアルシン
 これを吸入すると、目・皮膚・気道が腐食し、肺水腫を起こして死亡します。
 タンク(tank)は戦車でなく、普通、水・油・ガスなどをたくわえておく大きな入れ物のことです。何故、タンクが戦車になったのか調べてみました。
 機関銃の猛攻撃から身を守るために、塹壕が必要になりました。ヨーロッパでは、その距離は300キロに達したといいます。
 1915年3月、海軍大臣のチャーチル(後の首相)の命令で、塹壕戦により膠着した西部戦線を突破する目的で、戦車が開発されました。ドイツのスパイ活動をかく乱するために、「Tank」という名前で開発し、外見も水を運ぶ車に見せかけました。
 1916年9月、イギリス軍が世界で最初にタンクを使用した時は、キャタピラーが左右に付け、塹壕を物ともせず進撃していきました。
 以降、タンクは、戦争に必要な武器となりました。
 1903年、 ライト兄弟が飛行実験に成功しました。
 1927年、チャールズ・リンドバーグ(24歳)は、ニューヨークのルーズベルト空港からパリのル・プールジェ空港までの5810キロを、単発飛行機に乗って、33時間30分かけて、大西洋をはじめて横断する単独飛行に成功しました。これを映画化したのが、『翼よ!あれが巴里の灯だ』(1957年)です。主演はジェームス・スチュアートで、監督はビリー・ワイルダーでした。
 実はそれより13年も前に、飛行機が戦争に使われていたのです。
 1914年8月、ドイツの飛行船であるツェッペリン号がベルギーの砦を攻撃しました。これが世界で最初の飛行機による爆撃でした。
 1917年6月、ドイツの爆撃機であるゴーダGは、ロンドン市内を爆撃しました。ゴーダGは、500キロ爆弾を6個装備し、機関銃を2丁も飛行機の前後に付けるという最新式のものでした。
 1917年、イギリスの爆撃機であるハンドレページOが戦線に投入されました。748キロ爆弾を装備できましたが、ゴーダGほどの威力はありませんでした。
 戦争によって、科学技術の発展は凄まじいものです。戦争の魔力です。

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