print home

エピソード

221_01

日本の中国進出U(段祺瑞政権、西原借款、石井・ランシング協定)
 1916(大正5)年3月、袁世凱の武将であった馮国璋段祺瑞らは、袁世凱の帝政に反対しました。そこで、袁世凱は帝政の延期と大総統への復帰を宣言しました。しかし、南方護国勢力と北洋軍将校らは、袁世凱の完全引退を望みました。
 4月18日、そこで、中華民国政府北京政府)は、袁世凱大総統の退陣と副大総統黎元洪の昇格を発表しました。
 4月22日、段祺瑞安徽派軍閥の巨頭)は、中華民国政府(北京政府)の国務総理となりました。段祺瑞は、親日政策を採用することで、日本の経済的な支援を受けました。
 6月6日、袁世凱が病死しました。これを憤死という人もいます。
 6月7日、副大総統黎元洪が大総統になりました。この時、「新旧約法の争い」がおこりました。孫文らが制定したのを『臨時約法』(旧約法)といいます。袁世凱が公布したのを『中華民国約法』(新約法)といいます。南方護国勢力は旧約法の復活を強く要求しました。
 6月29日、黎元洪大総統は、旧約法の遵守と国会再開を宣言し、段祺瑞を国務総理に任命することで、対立の解決を図りました。しかし、袁世凱の後継者を自任する段祺瑞(国務)は、成り上がりの黎元洪(総統)を蔑視しており、両者の感情的対立は収まりませんでした。これが府院の争いです。
 7月3日、第四次日露協約が締結されました。内容は、「日露間で特殊権益擁護を相互に承認する」というものでした。秘密協約で、「中国が第三国の政事敵掌握に陥るのを防ぐために相互軍事援助を行うこと」を規定しました。
 8月1日、黎元洪大総統は、国会を再開しました。
 10月5日、対華21か条への批判で大隈内閣が総辞職しました。
 10月9日、@18寺内正毅内閣が成立しました。
 10月30日、黎元洪大総統は、段祺瑞国務総理と対立するようになり、馮国璋直隷系軍閥の巨頭)を中華民国政府の副総統に選出しました。
 1917(大正6)年1月20日、日本興業銀行朝鮮銀行台湾銀行は、段祺瑞内閣に対し、交通銀行への借款500万円を供与するという契約を締結しました。これが西原借款の最初です。
 2月13日、イギリス外相は、駐英大使砂田捨巳に対し、次のような回答をしました。これを英国覚書といいます。その内容は、次の通りです。
(1)イギリスは、講和会議での日本の利権を約束する。
(2)山東省のドイツ権益ならびに赤道以北のドイツ領諸島に関する日本の要求を支持する。
 3月1日、フランスもイギリスの提案を支持すると回答しました。
 3月5日、ロシアもイギリスの提案を支持すると回答しました。
 5月7日、段祺瑞政府は、対独参戦案を衆議院に提出しました。しかし、国民党系の5派は反対で結束しました。
 5月10日、それを利用して、黎元洪大総統は、段祺瑞を罷免しました。これで、「府院の争い」は終わりました。
 5月29日、しかし、これに不満の段祺瑞は、安徽・河南・奉天・山西・陝西・浙江・福建各省の軍閥に働きかけ、独立を宣言しました。窮地に追い込まれた黎元洪は、安徽督軍の張勲に援軍を要請しました。辮髪を切らない程の極端な保守派である張勲は、その条件として、国会解散を要求しました。
 6月12日、そこで、黎元洪大総統は、国会を解散しました。
 7月1日、安徽督軍の張勲は、康有為らと計って廃帝溥儀を擁して、紫禁城で清朝復辟を宣言しました。復辟とは、君主の地位を退いた者がふたたびその地位につくことで、日本では重祚といいます。これを張勲復辟といいます。徐世昌は、溥儀から太伝大学士補政を命じられましたが、就任を拒否しました。
 7月1日、黎元洪大総統は日本公使館に避難し、江蘇督軍兼副総統の馮国璋に大総統代行を要請しました。
 7月12日、天津で独立運動をしていた段祺瑞は、武力によって紫禁城を攻略しました。この結果、12日間で清朝復辟は失敗し、張勲はオランダ公使館に避難しました。
 7月18日、段祺瑞は、「民国再創造」をスローガンにして、再び国務総理になりました。
 7月20日、日本政府は、段祺瑞内閣を財政援助し、南方派を援助せずという、対華政策を決定しました。
 8月6日、北京に入った馮国璋は、正式に大総統に就任しました。
 8月25日、段祺瑞内閣が国会を再開せず、『臨時約法』を無視したので、孫文は、広州で「護法」の旗印を掲げて、非常国会を開催しました。
 9月1日、孫文は、中華民国軍政府陸海大元帥に選出されました。
 9月10日、大元帥孫文は、広東軍政府樹立を宣言しました。段祺瑞の北京政府に対し、孫文の政府を広東政府といいます。中国は南北分裂の状態に入りました。これが護法運動の開始です。
 9月13日、孫文の広東軍政府は、ドイツに宣戦布告しました。
 9月22日、段祺瑞内閣は、「武力統一」を掲げて、対南方征討軍を派遣しました。その結果、南北両軍が湖南省で戦闘を開始しました。これを護法戦争といいます。しかし、代理大総統馮国璋は「和平混一」を提唱して、段祺瑞の政策に反対しました。これを和戦の争いといいます。
 9月28日、日本興業銀行朝鮮銀行台湾銀行は、段祺瑞内閣に対し、交通銀行への借款2000万円を供与するという契約を締結しました。これを西原借款の本格化といいます。
 11月2日、石井・ランシング協定に調印しました。これは日米の間で、中国における利害を調節しようとするものでした。
 11月7日、ボリシェビキは、ケレンスキー政府を転覆し、ソビエト政権の樹立を宣言しました。これをロシア10月革命といいます。
 11月9日、中国は、日米両国に対し、「石井・ランシング協定」に関し拘束を受けずと通告しました。
 11月22日、馮国璋と対立した段祺瑞は、責任をとって国務総理を辞任しました。
 12月2日、段祺瑞の意を汲んだ直隷督軍と山東督軍は、代理大総統馮国璋に対南方武力行使を要求しました。
 12月18日、代理大総統馮国璋は、直隷督軍と山東督軍の圧力に屈して、段祺瑞を参戦督弁に任命しました。
 1918(大正7)年3月25日、本野一郎外相は、中国公使の張宗祥日華共同防敵の覚書を交換しました。その内容は、次の通りです。
(1)シベリア方面での共同防敵のため日本軍は派兵する。
(2)それに対して、中国の果たすべき協力・義務を規定する。
 5月15日、李烈釣は馮国璋大総統に日華軍事協定調印反対と南北和平会議開催を要請しました。
 5月19日、日華陸軍共同防敵軍事協定に調印し、日華海軍共同防敵軍事協定にも調印しました。
 7月5日、南北軍閥が妥協して、広東改組軍政府を樹立しました。武力を持たない孫文の護法運動は失敗しました。
 8月13日、北京政府にあって南征で最も輝かしい功績を上げていた第三師団師団長呉佩孚が南方勢力と図って独断で停戦を発表、政府に対して戦争の即時中止、撤兵などを要求しました。
 9月5日、北京国会は、徐世昌を大総統に選出しました。広東改組軍政府は、反対を通告しました。
 9月28日、日本政府は、満蒙4鉄道借款前貸金・済順・高余2鉄道借款前貸金・参戦借款の3種各2000万円を供与しました。これで西原借款の合計は1億4500万円に達しました。中国の特殊利益につながる政治的借款として内外から非難がおこりました。
 9月29日、@19原敬内閣が誕生しました。
 10月10日、段祺瑞・馮国璋は辞任しました。新任の大総統には安福国会によって徐世昌が選出されました。
 10月13日、アメリカ大統領のウィルソンは、徐世昌に南北統一を勧告しました。北京政府も、広東改組軍政府も停戦を命令しました。
 11月11日、第一次世界大戦が終了しました。
 1919(大正8)年5月、西原借款は、アメリカが提唱した日英米仏新借款団の成立にって、その効力を失いました。
 1925(大正8)年5月、加藤高明内閣は、借款の回収は勿論、利子の回収さえ困難となったので、時の残高1億3800万円を国庫に肩代わりさせました。つまり、国民の税金で、穴埋めをしたというのです。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
石原借款、石井・ランシング協定
 桂太郎の後継者である寺内正毅は、北京の段祺瑞政権に私設秘書西原亀三を通じて、日本興業銀行・朝鮮銀行・台湾銀行から1億4500万円を供与しました。この西原借款は、何に使用されたかというと孫文らの革命勢力と対抗させるためでした。
 段祺瑞にとって、日本政府の意向に迎合すれば、いくらでも資金の提供を受けられたのです。これほどぼろい商売はありません。
 歴史を通じて、文句があっても言ないのは、経済援助が欲しいからだという例をたくさん知っています。それを以って不満がないと見るのは、浅読みというものです。
 西原借款とは、寺内正毅内閣が中国政府(実際には軍閥の段祺瑞)に与えた供与でし。借款とは「国際間の資金の貸し借り」のことで、西原亀三がその任に当たったので、西原借款といいます。
 段祺瑞政権が倒閣したので、その殆どは、返還されませんでした。
供与の総額
現金供与 武器供与 合 計
1億4500万円 3000万円 1億7500万円

臨時軍事費特別会計 大蔵省預金部 興業銀行・朝鮮銀行・台湾銀行
5500万円 2000万円 1億円
武器供与が中心 交通銀行借款 電話・鉄道借款
段祺瑞政権の消滅で返還されず 小額が返還される 貸し倒れ
 次は、石井・ランシング協定の全文です。
(上略)近來往々流布セラレタル有害ナル風説ヲ一掃セムカ爲、閣下及本使ハ茲ニ支那ニ關シ両國政府ノ等シク懐抱スル希望及意向ニ付、更ニ公然タル宣言ヂ爲スヲ得策ナリト思惟ス。旧本國及合衆國両政府ハ、領土相近接スル國家ノ間ニハ特殊ノ關係ヲ生スルコトヲ承認ス。從テ合衆國政府ハ日本國カ支那ニ於テ特殊ノ利益ヲ有スルコトヲ承認ス。日本ノ所領ニ接壌セル地方ニ於テ殊ニ然リトス。
 尤モ支那ノ領土主権ハ完全ニ存在スルモノニシテ、合衆國政府ハ日本國カ其ノ地理的位置ノ結果特殊ノ利益ヲ有スルモ、他國ノ通商ニ不利ナル偏頗ノ待遇ヲ与へ又ハ條約上支那ノ從來他國ニ許輿セル商業上ノ権利ヲ無税スルコトヲ欲スルモノニ非サル旨ノ日本國政府累次ノ保障ニ全然信頼ス。
 日本國及合衆國両政府ハ、亳モ支那ノ獨立又ハ領土保全ヲ侵害スルノ目的ヲ有スルモノニ非サルコトヲ聲明ス。且右両國政府ハ、常ニ支那ニ於テ所謂門戸開放又ハ商工業ニ封スル機會均等ノ主義ヲ支持スルコトヲ聲明ス。
 將又凡ソ特殊ノ権利又ハ特典ニシテ支那ノ獨立又ハ領土保全ヲ侵害シ若ハ列國臣民又ハ人民カ商業上及工業上ニ於ケル均等ノ機会ヲ完全ニ享有スルヲ妨擬スルモノニ付テハ、両國政府ハ何國政府タルヲ問ハス之ヲ獲得スルニ反封ナルコトヲ互ニ聲明ス。
 中国進出に反発する米国への懐柔として石井菊次郎と米国務長官ランシングとの間で結ばれました。これを石井・ランシング協定(中国に関する交換公文)といいます。
 日本が中国の門戸開放を認める代わりに米国に日本の特殊権益を認めさせた。
 その内容は、次の通りです。
(1)アメリカは、南満州における日本の「特殊権益」を承認する。
(2)日本は、中国の「門戸開放」を承認する。
(3)問題点も残りました。
 @日本は、アメリカが21か条を承認したと理解しました。
 Aアメリカは、経済的特権のみを承認して、政治的特権を否定したと理解しました。
 ワシントン会議で、これは破棄されました。
 日本は、巧みな外交戦略によって、アメリカ・イギリス・フランス・ロシアから、満州・中国での特殊権益を認めさせました。
 今の視点からみれば、批判されるべき行動ですが、当時の視点から見れば、列強全てに共通する行動だったのです。
 ここで、厳密に押さえをしておきたいのは、日本の当時の行動は、国際協調路線上だったということです。日本の権益を守るために、国際連盟を脱退して、孤立化の道を歩み、苦し紛れに、独伊と同盟を結んだ時とでは、全く状況が違うということです。

index