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エピソード

222_01

ロシア革命(三月革命・十一月革命)
 私たちは、自由と平等を一緒に並べて、よく使います。本当に、自由と平等が一緒に手に入れば、文句はありません。しかし、現実には、自由を強調すると、不平等が生まれ、平等を強調すると、不自由となります。今のアメリカや日本の社会では、自由であるがため、貧富の差などの拡大してします。ホリエモンや楽天のニュースで日本が揺れています。ここでいう平等とは、貧富のない経済的平等という意味です。
 法の下の平等という観念は、自由とは同居できます。
 平等を強調する国家が20世紀初頭に誕生しました。それが社会主義国家ソ連でした。しかし、今は存在しません。平等という夢を与えた国家は、どうして誕生したのでしょうか。今回は、それを調べることにしました。
 最初に、私たち日本人になじみの薄いロシアの歴史を調べてみました。
 ロシアの建国は、862年に、ノルマン人(ヴァイキング)の首長であるリューリック(ルーリック)が配下のルーシ(ルス)族とノヴゴロド国を建設した時をいいます。ロシアという名前は、ノヴゴロド国を建国したルス族によると、世界史の授業で習いました。
 ルス族は、原住民のスラブ人と同化して、東スラヴ人・西スラヴ人・南スラヴ人に分化しました。
(1)東スラヴ人は、今のロシア人(大ロシア人)・ウクライナ人(小ロシア人)・ベラルーシ人です。
(2)西スラヴ人は、今のポーランド人・チェコ人・スロヴァキア人です。
(3)南スラヴ人は、今のブルガリア人・セルビア人・クロアチア人・モンテネグロ人・マケドニア人・スロヴェニア人です。
 ロシアの歴史は、戦争に次ぐ戦争と内乱に次ぐ内乱の歴史でした。日本の歴史と対比しました。
 1812年、ナポレオン軍50万人がのロシアに侵略しました。これをナポレオン戦争といいます。
 1825年、アレクサンドル1世が急死すると、専制と農奴制の廃止を訴えて反乱がおこりました。これをデカブリストの乱といいます。
 1853年、ロシアは、オスマン・トルコと戦争を開始しました。これをクリミア戦争といいます。
 1861年、クリミア戦争で敗れた皇帝アレクサンドル2世は、農奴を解放しました。
 1876年、ロシアは、再びオスマン・トルコと戦争を開始しました。これを露土戦争といいます。
 1881年、皇帝アレクサンドル2世が暗殺され、革命運動が弾圧されました。
 1890年、日本で最初の国会が開かれました。
 1894年、日本は、清国と戦争を開始しました。これを日清戦争といいます。
 1904年、ロシアは、日本と戦争を開始しました。これを日露戦争といいます。
 1905年1月、司祭ガボンに率いられた民衆が皇帝の宮殿である冬宮を目指しましたが、武力鎮圧され、多数の死傷者が出ました。これを血の日曜日事件といいます。
 10月、皇帝は選挙に基づく国会の開設を約束し、国内の混乱はようやく終息へと向かった。
 12月、モスクワで、再度武装蜂がおこりました。1905年の一連の暴動を1905年革命といいます。
 1913年、民衆のデモで、桂太郎内閣が倒閣しました。これを大正政変といいます。
 1914年、各地でストライキが続発しました。
 6月、第一次世界大戦がおこりました。ロシア政府は、国内の革命の危機を国際問題に転化するチャンスとして、1500万人に対して、総動員令を下しました。ロシア政府は、過去の例から戦争になれば、農産物を外国に輸出しなくなるので、国内に食糧難は起こらないと考えていました。
 約100年間の歴史を見ると、ロシアは5回の戦争を経験しています。日本は、1894年から10年毎に戦争を体験しています。印は日本関係の年表です。
 日本は、最初の戦争の前に憲法を制定したり、国会を開設するなど近代化に成功しています。第一次世界大戦の前には、大正政変という民主的体験もしています。
 他方、ロシアでは、全てが後手後手に回っているというより、国内の不満を戦争によって解消しようとする政策をとっています。その結果、民衆の不満がマグマのように蓄積されていきました。
 1914年末、戦争により機械の輸入は絶え、国内の運輸は混乱し、経済の統制も不十分で、工業生産が極端に低下しました。その結果、武器弾薬などの軍需品が大幅に不足しました。
 1915年8月、ドイツ軍がロシア領ポーランド占領すると、ロシア軍は本国に敗走しました。東部戦線が膠着すると、塹壕生活を送る兵士の中から厭戦気分が広まっていきました。
 1917年3月8日、多数の労働者が首都ペトログラードで、「パンをよこせ」・「戦争反対」と叫んでデモ行進をしました。その背景としては、工業生産の低下で農業用の機械器具の供給がほとんどなく、また、多くの働き手の農民が長年、兵士として動員されていたので、農業生産も極端に低下して、深刻な食糧難に陥っていたからでした。残された労働者・農民や老人も、生活の窮乏が戦争にあることに気がつき始めました。
 3月10日、ストライキが全市に拡大し、その数は20万人に達しました。
 3月12日、首都防衛軍の兵士は、労働者に同調して、首都を占拠し、政治犯を釈放し、大臣や高級官僚を逮捕しました。労働者と兵士はソヴィエト評議会)を結成しました。この頃のソヴィエトは、ケレンスキー社会革命党(エスエル)とプレハーノフチヘイゼメンシェヴィキの勢力が強く、レーニンらのボリシェヴィキは少数派でした。社会革命党は、ナロードニキ運動を継承して農民の支持を集めていました。
 3月12日、前線の大本営にいた皇帝ニコライ2世は、軍隊に首都進撃の命令を下しました。しかし、鉄道従業員らはその輸送を拒みました。
 3月12日、国会議長ロジャンコが属する「進歩ブロック」(資本家出身の議員団)は、社会革命党のケレンスキーやメンシェヴィキのチヘイゼなどを加えた国会臨時委員会をつくりました。彼らは、立憲君主制による強力な戦争遂行体制を模索していました。
 3月14日、国会臨時委員会とソヴィエト執行委員会の会議が国会内で行われ、ソヴィエトは、国会臨時委員会が政権を掌握することを認めました。
 3月15日、立憲民主党(カデット。自由主義的立憲ブルジョワジー)のリヴォフ公を首相に臨時政府が成立しました。臨時政府にはソヴィエトから社会革命党(エスエル)右派のケレンスキーが法相として入閣しました。
 労働者・兵士が結集したソヴィエトでは社会革命党とメンシェヴィキの勢力が強く、即時講和派のボリシェヴィキは少数だったので、臨時政府を支持して政府を監視する立場をとりました。これを二重権力構造といいます。
 3月15日、国会臨時委員会は、ニコライ2世に退位を勧告しました。そこで、皇帝ニコライ2世は、弟のミハイル大公に譲位しました。
 3月16日、ソヴィエトは、ミハイル大公の即位にも反対したので、ミハイル大公も即位を辞退しました。ここに、1613年から300年続いた続いたロマノフ朝が崩壊しました。これを三月革命といいます。ロシア暦では2月だったので、二月革命ともいいます。革命は成功しましたが、臨時政府は戦争を継続しました。
 4月16日、スイスに亡命していたボリシェヴィキの指導者レーニンが帰国して、「四月テーゼ」(「平和とパンの要求」)を発表しました。戦争を継続する臨時政府に反対し、政権を国会ではなく、ソヴィエトが握ることによって革命を推進すべきだと強調し、地主の土地没収・銀行の国有・鉱業を労働者が管理することなどの要求をかかげました。これはソヴィエト内でのボリシェヴィキ派の勢力が増大したことを意味します。
 5月1日、臨時政府の外相であるミリューコフ(立憲民主党)は、ロシアは最後の勝利まで戦争を継続し、連合国への責任を果たす決意であるという覚書を連合国に送りました。
 5月3日、ソヴィエトは、戦争反対・外相ミリューコフ追放の大示威運動を組織しました。その結果、ソヴィエトと臨時政府との対立が表面化しました。
 5月、臨時政府は、外相ミリューコフらを辞職させ、メンシェヴィキと社会革命党から6人を入閣させました。この結果、メンシェヴィキと社会革命党が臨時政府派となり、ボリシェヴィキ派のソヴィエトと対立するようになりました。
 7月初め、ロシアの臨時政府は、連合国の要請で、新しい攻勢を展開しましたが、手痛い敗北を喫しました。
 7月16日、ペトログラードで50万人の労働者・兵士が「全ての権力をソヴィエトへ」を叫んで、武装デモ行進を行いました。しかし、臨時政府は戦線から呼び戻した軍隊で、このデモを厳しく弾圧しました。これを七月事件といいます。臨時政府は、これを口実にボリシェヴィキを弾圧し、レーニンらをドイツのスパイだと中傷したり、多くの革命指導者を検挙しました。機関車の火夫に姿を変えたレーニンはフィンランドに亡命しました。トロツキーは逮捕されました。
 7月21日、社会革命党右派のケレンスキーが首相となりました。そして、ケレンスキー政権はボリシェヴィキを弾圧しました。
 9月初旬、前線にあった将軍のコルニーロフ最高司令官が「ケレンスキー政権を打倒し、軍隊の秩序を回復」を企図して、首都に進撃を開始しました。
 9月、ケレンスキー政権は、一転してボリシェヴィキに援助を求めました。組織された労働者と革命化した軍隊が首都を防衛し、コルニーロフ配下の軍隊も反革命の行動を拒否しました。この結果、反乱は失敗して、ボリシェヴィキの勢力は飛躍的に増大しました。
10  10月20日、フィンランドに亡命していたレーニンが再びペトログラードに戻りました。
 10月23日、レーニンは、武装蜂起を提案し、その方針が決定されました。
 10月26日、ペトログラード=ソヴィエト内に軍事革命委員会が組織され、「蜂起は11月6日に決行」と決定されました。
 11月6日早朝、ケレンスキーは首相は、軍事革命委員会の委員の逮捕を命じました。予定通り、ボリシェヴィキは、レーニンやペトログラード=ソヴィエト議長のトロッキーの指導のもとで武装蜂起しました。
 11月6日夜半、駅・郵便局・電信局・国立銀行など首都の主要な拠点を抵抗もなく占拠しました。
 11月7日午前10時、ペトログラード=ソヴィエト軍事革命委員会は「臨時政府を打倒し、軍事革命委員会が権力を掌握した」と宣言しました。
 11月7日午後9時、ペトログラード=ソヴィエト軍事革命委員会は、臨時政府の拠点である冬宮へ攻撃を開始しました。
11  11月8日午前2時、ペトログラード=ソヴィエト軍事革命委員会は、指揮する兵士を持たない将校と士官候補生が守る冬宮を占領し、ケレンスキーを除く全閣僚を逮捕しました。ケレンスキーは、女装してアメリカ大使館の車で逃走しました。
 11月8日、全ロシア=ソヴィエト大会が開かれました。大会の代議員650人のうちボリシェヴィキは390人の多数を占めました。メンシェヴィキと社会革命党は、武装蜂起を非難して退場し、「平和に関する布告」・「土地に関する布告」が採択されました。ここに世界で最初のソヴィエト政権の成立が宣言されました。ソヴィエト政府の議長にレーニンが、外務委員にトロッキーが選出されました。これを十一月革命といいます。ロシア暦では十月革命となります。一般には、三月革命と十一月革命を合わせてロシア革命いいます。
 11月25日、ロシア制憲議会選挙が行われ、農民の支持を得た社会革命党が413議席を獲得して圧勝しました。ボリシェヴィキ派は183議席でした。
 1918年1月18日、ロシア制憲議会を開催しました。
 1月19日、最初は自由な選挙を目指していたレーニンも、ロシア制憲議会を武力で封鎖して、解散させ、一党独裁の政府を形成する方針に決定しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
社会主義と現在
 イギリスには「揺りかごから墓場まで」という言葉があります。自由主義で資本主義の国イギリスでは、経済的な平等主義も追求しています。それが、イギリスにおける「揺りかごから墓場まで」で、資本主義下の平等ということです。日本での年金、義務教育、医療保険なども同じ発想といえます。 
 今から30年ほど前の中国は、日本からの個人旅行を認めていませんでした。そこで、日中教育交流懇話会という団体が、日本の先生と中国の先生をお互いに交流させるという目的で、私は2度、中国を訪問しました。当然、中国の先生も日本を訪問しました。
 私の同室の先生が財布を失くしました。移動のバスに乗っていた時、ホテルの人が「郵便局で財布を忘れた人いませんか」と知らせてくれました。同室の先生と郵便局に行きました。財布を見て、同室の先生が「私のです」というと、郵便局員は「はい」と言って渡してくれました。同室の先生が「サインは?」と聞くと、けげんな顔をした郵便局員が「いりませんよ」と答えました。
 日本では、「確認のために中に何が入っているか言ってください」と聞かれ、本人の物であることが確認されると、「サインをお願いします」となります。中国では、騙して盗む人がいないので、本人の証言を信用するのだなーと深く感動したものです。
 私たちの通訳をしてくれた中国人は、結婚するので、新しいアパートに移りたいが、なかなか国の許可がおりないと嘆いていました。日本では、ある程度のお金があれば、それに見合った家に住めるのにと思いました。これ以外にも、官僚主義的な弊害(お役所仕事)も、痛感しました。
 色々と社会主義国中国の素晴らしさを感じましたが、やはり、私は、日本の自由さを評価しました。
 今(2005年)、中国では共産主義下の自由を追求しています。
 色々な国が、色々な幸せを提示してくれることを期待しています。
 ロシア革命は、三月革命と十一月革命の2つで構成されています。しかし、ロシアでは二月革命と十月革命といいます。これは何故でしょうか。
 ロシアでは1918年までユリウス暦を使用していました。私たちが使っているグレゴリー暦より、ユリウス暦は13日遅れていいます。三月革命がおきた3月12日は、ロシアでは未だ2月だったのです。また十一月革命がおきた11月8日は、ロシアでは未だ10月だったのです。
 レーニンは、三月革命がおきた時はスイスに亡命していました。スイスからロシアに帰国するには、第一次世界大戦中の交戦国を通過する必要がありました。しかし、何と敵国ドイツが列車を提供しました。その列車の名を「封印列車」といいます。
 ドイツは、レーニンをロシアに送り返すメリットを次の様に考えました。レーニンがロシアにかえり、革命をおこし、ロシアが混乱することで三国協商国の弱体化を期待したのです。
 しかし、レーニンがドイツを通過するときに革命を宣伝されては拙いので、外部との接触を一切禁止する「封印列車」を特別に仕立てたというのです。
 それほど、レーニンのカリスマは凄かったのでしょうか。今(2005年)は、とても信じられません。
 昔、『二都物語』(チャールズ=ディケンズ著)という映画を見たことがあります。舞台は、フランス革命のパリです。アル中の腕利き弁護士シドニー・カートンは、ルーシー・マネットという女性に恋をしました。しかし、彼女にはフランス貴族のチャールズ・ダーネイという恋人がいました。弁護士カートンは、恋する彼女のために、ダーネイに代って断頭台に上がって行きました。「愛する者のために死ぬ」という美しい命題は、若かった頃の私にはとても鮮烈でした。
 ロシア革命の場合はどうでしょうか。
 三月革命の時に、ニコライ2世とその家族は、シベリアのトボリスクに送られました。さらに、十一月革命の時に、ニコライ2世とその家族は、ウラルのエカテリンブルクに移されました。
 1918年、レーニン率いるボリシェヴィキ派によって、ニコライ2世とその家族は銃殺されました。
 1979年、ウラルのエカテリンブルグ郊外の森で、大量の人骨が発見されました。当時のロシアは共産主義体制下だったので、この発見は秘密にされました。
 1989年、ソ連の民主化が進むと、ソ連政府は銃殺の事実を公表しました。
 1991年になって、ソ連政府は銃殺の事実を公表しました。
 ソ連政府が崩壊すると、ロシア政府は、DNA鑑定を実施しました。その結果、ニコライ2世とアレクサンドラ皇后、それに皇女3人、そして侍徒・主治医・看護婦ら4人の遺骨を確認しました。しかし、皇太子アレクセイと皇女アナスタシアの遺骨は確認できませんでした。
 1928年、皇女アナスタシアはアメリカに亡命したという説があります。ニューヨークで活動していたロシア人の有名作曲家であるラフマニノフがそれを証明したというのです。
 1933年、アナ・アンダーソンと名乗る女性が、イングランド銀行に預けているロマノフ家の財産の引渡しを求めて訴訟を起こしたというのです。これは後に却下されています。
 第二次世界戦後、アメリカのブロードウエイで、「皇女アナスタシア」が上演されました。アメリカ的発想が皇女アナスタシア伝説を生んだのかもしれませんね。
 いずれにしても、歴史とは残酷なものです。

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