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エピソード

222_02

シベリア出兵
 1917年10月、@18寺内正毅内閣が誕生しました。
 12月3日、社会主義政権のソヴィエト政府とドイツとの単独講和の交渉が始まりました。
 12月5日、ソヴィエト政府は、帝政ロシア政府が各国と結んだ秘密条約を公表しました。
 12月15日、ソヴィエト政府とドイツとは停戦協定に調印しました。
 12月22日、講和交渉が再開され、ソヴィエト全権のヨッフェは、無併合・無償金・民族自決などの講和原則を提案しましたが、ドイツはその提案を全て拒絶しました。
 12月25日、講和交渉が中断されました。
 12月末、パリで開かれた連合国最高軍事会議で、イギリス・フランスは、非公式に、鉱山・石油資源であるドン・クバン・カフカズ地方は、イギリス、穀倉地帯のウクライナ・クリミアはフランス、そして、極東はアメリカと日本が、それぞれ「勢力範囲」とすることに合意しました。
 日本の参謀本部や外務省は、十一月革命直後から、シベリアを日本の勢力範囲に取り込む計画を練っていました。イギリス・フランスも、日本のシベリア出兵を望んでいました。
 しかし、アメリカは、日本の出兵はシベリア・満州・蒙古から中国本部に日本の圧倒的な兵力が及ぶことを恐れて、シベリアの干渉に同意しませんでした。そのため、干渉が延び延びになっていました。
 1918年1月中旬、ドイツが出した条件は、ソヴィエトには屈辱的な内容でした。屈辱的な条件を受け入れて講和するか、それを拒否して戦争を継続するか、ソヴィエト政府内で激しい論争が行われました。
 1月31日、レーニンソヴィビエト連邦ソ連)の成立を宣言し、赤軍の創設も発表しました。
 2月10日、ソヴィエト全権代表のトロツキーは、対独墺戦争状態集結を宣言しました。この結果、ブレスト交渉が決裂しました。
 2月17日、この日まではブレストリトウスクで、ソ連の外相トロツキーとキュールマン(独外務次官)・ホフマン(東部軍参謀長)が交渉中であり、東部戦線は平穏でした。
 2月18日、突如、ドイツ軍は52個師団をもって、休戦ラインを突破し、首都ペトログラードの防衛も困難な状況となりました。
 2月18日、トロツキーは「ドイツが攻撃を加えても、いずれドイツには革命が起こる」と楽観論を主張しました。ブハーリンは「世界革命のためには、ソヴィエト政権が消滅してもしかたがない」と主張しました。しかし、レーニンは、彼らの主張を抑えて、即時講和を結ぶという現実論を主張しました。ボルシェビキ党中央委員会は、即時講和を決定しました(賛成7:反対5)。
 2月19日レーニンとトロツキーは、ドイツ側条件を受諾すると電報を送りました。ドイツ軍の参謀本部は更に厳しい条件をつけると回答してきました。
 3月1日、ブレストリトウスクで交渉が再開されました。
 3月3日、トロツキーは、ドイツ側の要求を無条件で受け入れ、ここにブレストリトウスク講和条約条約が締結されました。その内容は、次の通りです。
(1)旧ロシア領のフィンランド・ポーランド・バルト海地方はドイツの領有とする。
(2)ソヴィエト軍はウクライナ地方から撤退する。
(3)ソヴィエト政府がドイツに支払う償金は60億マルクとする。
 ブレストリトウスク講和条約条約、ソヴィエト政府には「息継ぎ」の効果となり、ドイツには西部戦線に集中できる効果をもたらしました。
 3月9日、イギリスの対ソ干渉軍がムルマンスクに上陸しました。
 3月21日、ドイツ軍は西部戦線で大攻勢を開始しました。
 4月初旬、チェコ軍団は、ウラジオストクに到着しました。
 このチェコ軍団成立には、次のような背景がありました。オーストリア領内のチェコスロバキア人は、オーストリアのために戦う気はなく、進んで敵国ロシアの捕虜になりました。その数は20万人に達していました。それで、連合国は、独立のチェコ軍団として、シベリア、日本経由で西部戦線に派遣して、フランス軍の指揮に入れ、対独戦線に参加させることにしていたのです。
 しかし、連合国は、チェコ軍団を対ソ干渉に利用することにし、資金を流して、反ソ活動をさせました。
 4月5日、日英陸戦隊が、ウラジオストクに上陸を開始しました。
 4月中旬、ドイツ軍は、北はヘルシンキから南はクリミア半島の先端セバストポリまで占領しました。
 5月14日、チェコ軍団は、すれちがったドイツ・オーストリア軍捕虜との間で衝突事件が発生しました。これをチェリアピンスク事件といいます。
 5月16日、首領のクラスノフに率いられたドンコサックは、反ボルシェビキ軍を組織しました。クラスノフはドイツ軍に武器援助を要請し、受け入れられました。
 5月23日、イギリスは、ロシアへの援助物資の確保を目的としてアルハンゲリスク一帯に派兵を決定しました。イギリス・ドイツは、反革命という点で一致しました。
 5月下旬、ソヴィエト政権は、チェコ軍団に対し、武装解除を命じました。
 5月26日、チェコ軍団(6万人)がチェリアピンスクでソヴィエト政権に対し反乱を起こしました。チェコ軍団は、オムスク・イルクーツクを占領し、シベリア鉄道の主要駅を占拠しました。これをチェコ軍団の反乱といいます。これがロシア全土にわたる国内戦と干渉戦争のきっかけになりました。
 6月4日、アメリカ軍は、第三次エンの戦いで、フランス軍に協力し、ドイツ軍の進撃を阻止しました。
 6月21日、イギリスのロイド=ジョージ首相は、珍田大使に日本のシベリア出兵を要請しました。
 7月初旬、パリの連合国最高軍事会議は、本格的に対ソ干渉戦争を決議しました。連合国の規定では、シベリア方面の兵力は日本1万2000人、アメリカ7000人、英仏で5800人となりました。
 7月4日、第五回全露ソヴィエト大会が開かれました。社会革命党エスエル)左派の追放を決議し、ソヴィエト憲法を採択しました。
 7月8日、アメリカは、チェコ軍救援のためウラジオストクに日米共同出兵を提議しました。アメリカの世論はチェコ軍団に同情し、日本に対し、目的・兵力・地域を限定した協同出兵を提議してきました。
 7月17日、アメリカの提案に対し、日本政府の意見は自主的出兵論(元老山縣有朋・首相寺内正毅・外相後藤新平)と対米重視論(政友会総裁原敬・元老牧野伸顕)の二つに分かれました。結局、日本政府は、アメリカに対し、「ウラジオストク共同出兵に同意するが、兵力制限は拒絶し、シベリア出兵もありうる」と回答しました。
 7月18日、ニコライU世とその家族は、レーニンの指示にもとづき現地の共産党(ボルシェビキ党)員により惨殺されました。
 7月24日、チェコ軍は、シベリアからボルガ方面に出て白軍と連絡を付けようと、中東方に移動して、ボルガ川に到着した。
 7月25日、チェコ軍の別働隊はエカチェリンブルグを占領した。
 7月30日、内務省は、「シベリア出兵関係記事を差し止め」と通告しました。
 8月2日、イギリスの対ソ干渉軍が北ロシアのアルハンゲリスクに進駐しました。アメリカ・フランスの軍隊を合わせると1万5000人が上陸しました。
 8月2日、日本政府は、シベリア出兵を宣言しました。
 8月3日、イギリス軍は、ウラジオストクに上陸しました。
 8月3日、米騒動が全国に波及しました。
 8月4日、日米両国は、シベリアでの共同行動を宣言しました。
 8月16日、アメリカ軍は、ウラジオストクに上陸しました。
 8月中旬、チェコ軍救出を理由にウラジオストクには、フランスの安南軍・日米軍が上陸しました。イギリス軍は、ペルシャ経由でバクー油田地帯を占領しました。
 8月25日、ドイツは、レーニンに接近し、新たな条約を結びました。これを8月25日条約といいます。その内容は、次の通りです。
(1)赤軍はロシア北部で連合国と戦う。
(2)ドイツはフィンランドおよびウクライナがソ連を攻撃しないように努める。
(3)黒海における赤軍海軍の活動はドイツの管理下におかれる。
(4)バクー油田が再度ソ連に帰した際、生産量の三分の一をドイツに輸送する。
 8月30日、レーニンもドイツとの講和に反対する社会革命党員に暗殺されかかり、報復としてスターリンは社会革命党の本拠地とされたボルガ河畔のツァーリチンで無差別殺人をおこないました。ツァーリチンはその後スタリングラード、ボルゴグラードと名が変わっています。このようにロシア南部はドイツ軍、赤軍、チェコ軍団・白軍と三つ巴の混乱地帯となりました。
 9月29日、@19原敬内閣が誕生しました。
10  10月14日、イギリス軍は、イルクーツクに到着し、チェコ軍団と連絡をとりました。
 10月14日、フランスにあるチェコ国民評議会は、臨時政府を樹立し、大統領にマサリク、外相にベネシュを選出しました。
 11月11日、ドイツは、連合国と休戦協定に調印し、第一次世界大戦が終了しました。 
 11月16日、アメリカは、日本政府に、シベリア出兵数、シベリア鉄道の独占などにつき抗議しました。
 11月18日、コムチャーク提督は、オムスクで反革命軍事独裁政府を樹立しました。
 11月20日、日本政府は、アメリカに対して、「出兵目的はコルチャーク政権援助であり、その兵数は5万8600」と回答しました。実際には最大で6個師団7万5000人の兵がシベリアに派遣されていました。
11  1919年1月18日、パリ講和会議が開かれました
 2月25日、シベリアのユフタで田中支隊(田中勝輔少佐)が全滅し、350人が戦死しました。
 3月2日、モスクワでコミンテルン創立大会が開かれました。
 6月28日、ベルサイユ講和条約が調印されました。
 10月、@イギリスは、シベリアからの撤兵を決定しました。
 11月14日、ソヴィエトの赤軍は、反革命軍の牙城であるオムスクを占領し、コルチャークの白軍をイルクーツクに撃退しました。このオムスク陥落は、アメリカ国内にあった反革命政権援助の空気を冷却させました。
 12月11日、ソヴィエトの赤軍は、ハリコフに入城し、全ウクライナ革命委員会を結成しました。
 12月17日、ソヴィエトの赤軍は、デニキンの白軍を撃退しました。
12  1920年2月、コルチャークは、ソヴィエトの赤軍によって銃殺刑に処せられました。
 3月2日、日本政府は、シベリア出兵の目的を、チェコ兵救援より「国防自衛・居留民の生命財産の保護、朝鮮・満州への過激派の脅威阻止のため」と変更して駐留することを決定しました。これで、出兵目的が三転したことになります。
 3月12日、ニコラエフスク(尼港)の日本軍は、休戦中の赤軍を攻撃して敗退しました。
 3月31日、日本政府は、シベリアの政情安定まで撤兵せずと声明しました。
 4月1日、Aアメリカ軍は、ウラジオストク撤兵を完了しました。
 5月24日、ニコラエフスク(尼港)で収容中の日本軍民122人が殺害されました。これをニコラエフスク(尼港)事件といいます。
13  7月、B中国は、シベリアからの撤兵を完了しました。
 7月3日、日本政府は、「サガレン占領、ザバイカル方面撤兵、ウラジオ・ハバロフスク駐兵」の声明を発表しました。
 7月16日、アメリカは、日本政府のこの声明に抗議しました。
 8月、Cフランス軍とイタリア軍は、シベリアからの撤兵を完了しました。これで、日本軍以外の全軍は撤兵しました。
 8月20日、日本軍は、ザバイカル方面より撤退を完了しました。
 8月31日、日本軍は、ハルビン以西より完全に引き上げました。
 9月、ウラジオストクのチェコ軍団(7万人)は、全員が引き上げました。
 12月12日、日本軍は、ハバロフスクより撤退を完了しました。
14  1921年3月16日、英ソ通商条約が調印されました。
 5月6日、独ソ通商条約が調印されました。
 5月13日、日本政府は、有産民主政の実施、外国人の居住・営業・土地所有の承認などの条件でシベリアより撤兵との方針を決定しました。
 6月3日、アメリカ国務長官は、幣原喜重郎大使に「日本のシベリア占領に基づくいかなる要求・権限も有効と認めない」との覚書を手渡しました。
 11月2日、ワシントン会議が開かれました。
 11月4日、原敬首相が暗殺されました。
 11月13日、@20高橋是清内閣が誕生しました。
15  1922年4月16日、ラパロ友好条約が調印されました。その結果、ドイツとソ連は、相互に賠償要求を放棄して国交を回復しました。
 6月12日、@21加藤友三郎内閣が誕生しました。
 6月24日、日本政府は、「10月末までにシベリアから撤兵」との声明を発表しました。
 10月25日、D日本軍は、北樺太を除き、シベリアから撤退を完了しました。
 12月30日、ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立しました。これをソ連邦といいます。ロシア・ウクライナ・白ロシア・ザカフカス共和国の連邦という意味です。
16  シベリアに動員された兵隊の数は24万人の達しました。撤兵時期を誤り、出兵期間は4年2カ月に及び、死者3000人、負傷者は2万人以上を数えました。戦費は10億円を消費しました。軍司令官の交替3回、出兵目的の変更3回という有様でした。
 その結果は、軍事的・政治的に得るところなく、逆に、欧米列強から日本の領土的野心を警戒・非難され、日本の国益を大きく損ないました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
目的(本心)を隠す名目、その好例がシベリア出兵
 教科書や用語集は、シベリア出兵をどのように描いているのでしょうか。
(1)「社会主義を危険視する列国はロシア革命への干渉に乗り出し、シベリアにいたチェコスロヴァキア軍将兵の救援を名目とする共同出兵をアメリカが提唱すると、日本はアメリカ・イギリス・フランスなどの連合軍の主力として大軍をシベリア・北満州に派遣した。大戦終了後、列国はまもなくシベリアから撤兵したが、日本だけは1922(大正11)年まで駐兵とシベリアの反革命政権の支援を続け」た(詳説日本史)。
(2)「革命の拡大をおそれる連合国もこれらの政権(各地に成立した反革命政権)を援助し、さらに直接シベリアなど各地に軍を派遣して、対ソ干渉戦争にのりだした」(詳説世界史)。
(3)「日・米・英・仏が、ロシア革命に干渉する目的でシベリアのウラディヴォストークに集結したチェコ・スロヴァキア兵救出を名目として出兵」(日本史用語集)。
(4)「チェコ兵救出を名目に、日本軍を主力にアメリカ・中国が出兵し、その後、大戦の終了、チェコ兵帰国後もシベリアを占領して反革命政権をあやつった」(世界史用語集)。
 教科書や用語集は、シベリア出兵の目的を社会主義政権に干渉するとしています。そしてそれを正当化するために、チェコ兵の救出を名目にしていると書いていいます。
 では何故、チェコ軍は反乱したのでしょうか。
 オーストリア領内のチェコスロバキア人は、オーストリアのために戦う気はなく、進んで敵国ロシアの捕虜になりました。その数は20万人に達していました。それで、連合国は、独立のチェコ軍団として、フランス軍の指揮に入れ、対独戦線に参加させることにしまた。
 チェコ軍団は、シベリア・日本経由で西部戦線に派遣されることにしました。
 このチェコ兵救出の名目も、列強によって仕組まれていたのです。
 ブラゴエチエンスク・アレキセーフスク守備隊の第12師団の山田支隊は、ソ連の赤軍が進軍していることを知りました。そこで、主力は南方から、ハバロフスクの守備隊田中大隊(隊長は田中勝輔少佐)は北方から挟撃する作戦を採用しました。田中勝輔少佐は、敵情を視察するために、香田少尉が率いる小隊(ソリ16台に分乗)を先発させていました。その先発隊が、敵軍と遭遇し、全滅したという報告が届きました。
 田中勝輔少佐は150人を率いて出発しましたが、ソ連の赤軍2000人と遭遇し、全滅しました。
 ニコライエフスク(尼港)は、日本人居留民も多く、日本領事館もありました。石川正雅少佐が率いる第14師団の2個中隊300人が居留民保護にあたっていました。
 ソ連の赤軍2000人がニコライエフスクを包囲しました。トリアピツィンが派遣した使節が講和を要求すると、石川正雅少佐はそれを受け入れました。その後、トリアピツィンは、ニコライエフスクを守備していた反革命ロシア軍ら2000人を統合し、日本軍に武装解除を要求しました。
 石川正雅少佐らは夜襲を決行しましたが、多勢に無勢で、結局敗退しました。
 この事件をニコライエフスク事件といいます。日本の死者は軍人351人、居留民384人になりました。

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