print home

エピソード

223_01

大戦景気と船成金
 大戦景気とは、直訳すると、大戦によって生じた景気といえます。大戦とは、第一次世界大戦です。交戦国の英仏・独は、生産が軍需中心になります。非交戦国は、今まで通りの生活中心の生産と軍需に応じた生産になります。
 第一次世界大戦は、植民地を有する欧米列強の交戦ですから、アジア・中国市場が空白になります。
 つまり、第一次世界大戦によって需要の増大とアジア・中国市場の独占とによって日本にもたらされて景気ということになります。
 実際、日本は、アメリカ向けの生糸輸出が増加しました。これを生糸景気といいます。アジア市場には大量の綿糸が輸出され、紡績業はイギリスを抜いて世界1位となりました。
 貿易が盛んになると、海運業が盛んになります、海運業が盛んになりますと、造船業が発展します。これを船景気といいます。
 この結果、明治末からの不況と財政危機は一挙に解決しました。また、日本は、債務国(1914年の債務は11億円)から債権国(1920年の債権は27億円)に転じました。
貿易(百万円) @1916年までは輸入超過
A1918年までは輸出超過
B1920年以降は輸入超過
1904年 1912年 1914年 1916年 1918年 1920年 1924年 1928年
輸入 400 600 600 750 1700 2350 2490 2250
輸出 300 505 600 1200 1900 1900 1800 1950
 特に有名なのが船成金です。その背景を探ってみました。
 第一次世界大戦により、世界的な船舶不足となりました。日本は、それを利用して、空前の好況に沸き立ちました。
 利潤をみると、海運は190%、造船は170%に及び、日本の海運は世界第3位に躍進しました。
 チャ−タ−船はトン当り、戦前は3円でしたが、1917年には45円と15倍のアップです。
 建造価格もトン当り、戦前は50円でしたが、1917年には1000円と200倍のアップです。
 日本郵船の純益は、1914年484万円でしたが、1918年には8631万円となり、配当金は下期で出資額の11割に達しました。
 第一次世界大戦により、世界的に船舶が不足しました。その結果、日本では造船トン数が大戦前の7倍になり、鋼材が不足するようになりました。
 そこで、1916年に、官営の八幡製鉄所を拡張しました。それだけでは未だ不足なので、1918年に、満鉄が鞍山製鉄所を設立しました。そして、溶鉱炉の石炭は、筑豊炭田では不足なので、撫順・煙台炭鉱の石炭も利用しました。
自給率
1913年 1919年
銑鉄 47% 65%
鋼材 34% 47%
工業生産額
生糸 綿糸 銑鉄 造船 染料
1914年 487万貫 167万梱 30万頓 9万頓 60万斤
1918年 789万貫 180万梱 58万頓 64万頓 951万斤
増加率 60% 8% 193% 700% 1600%
農業生産額と工業生産額 @1914年は農業>工業
A1919年は工業>農業
B1919年以降、日本は
 工業国の仲間入りを果
 たしました。
農業生産額 工業生産額
1914年 14億0000万円(45.4%) 13億7000万円(44.4%)
1919年 41億6000万円(35.1%) 67億4000万円(56.8%)
戦争と景気
 大戦景気によって日本は、工業国の仲間入りを果たしました。
 朝鮮特需によって日本は、敗戦後の破綻から立ち直りました。
 ベトナム特需によって日本は、高度経済成長へのきっかけをつかみました。
 そして最大の功績は、安保特需(私の造語)です。つまり日米安保の傘の下にあって、平和を維持し続けた日本が、資本主義国第二位の経済大国になったのです。
 船成金で有名なのが内田信也です。
 成金とは、将棋の世界の言葉です。「歩」という駒は敵陣に入るまでは、前に1つしか進みません。しかし敵陣に入ると、「歩」は裏返って「金」の駒と同じ役割を持ちます。つまり、自陣に入る時はただの駒ですが、敵陣に入ると「」にるのです。つまり、急にお金持ちになることを成金というのです。
 「秀吉は、将棋の駒に、さも似たり、歩を成り上り、王に近づく」という歌があります。
 1914(大正3)年7月、三井物産の社員であった内田信也は、第一次世界大戦を見て、世界的な船舶不足を予見しました。
 12月、三井物産を退職した内田信也は、三井物産から購入した彦山丸を転売して、資本金2万円を得て、内田汽船というを海運会社設立しました。中古船4500トンを月4200円でチャターターして、それを月8000円で又貸しする方法を採用し、暴利を得ました。
 1916(大正5)年、内田信也は、暴利で得たお金で10隻の中古船を購入し、これを転売して、株式配当は60割という利益を得ました。
 1917(大正6)年、内田信也は、私が住んでいる相生市の播磨造船所で、内田汽船の新船第1号を完成させました。その結果、所有船は新船7隻と中古船7隻の計14隻4万5702総トンにまで成長しました。
 1919年(大正8)、内田汽船は資産総額7000万円(今の1兆8000億円)の大企業に成長しました。内田信也は、5000坪の須磨御殿に600畳敷きの大広間を造りました。以前、須磨のホテルで、同窓会をしたことがあります。時間待をしている間、付近を散歩しました。豪邸があり、一周するのに数分かかりました。後にここが須磨御殿だと聞かされたことがあります。
 1921(大正10)年、新船を12隻も建造する日本でも有数の海運会社になりました。
 岩本栄之助(30歳)が、父親の株式仲買人を継承した時、父親の死去で巨額な個人遺産100万円を手にしました。
 岩本栄之助は、アメリカを旅行中、アメリカ人のキリスト教的慈善事業に心を打たれました。そして、 個人遺産100万円を大阪市に寄付して、中之島中央公会堂の建設に着手しました。
 1916(大正5)年、岩本栄之助(40歳)は、第一次世界大戦中の一時的な株大暴落の最中に、中央公会堂の完成を見ることなく、ピストル自殺しました。
 大阪市中央公会堂は、赤レンガの壁と青銅のドームとのコントラストを特徴とするネオ・ルネッサンス様式建物で、中之島のシンボルとして親しまれてきました。「人は死んでも名を残す」の好例です。
 1916(大正5)年の新聞があります。「我日本国には、神武天皇以来見た事もない6億3000万円という大金が戦争のお蔭で入って来ている。私は、諸君が一日も早く株式相場を研究して、多大の富を作られんことを切望する」
 また、ウソかマコトか分かりませんが、金の総入歯にしたり、ガラス箱に入れた鯛を結婚の引き出物にしたり、お椀を開けたら生きたウグイスをが出てきたなどの話がありました。
 戦争成金と題した和田邦坊氏の漫画の解説には「百円札を燃やして明かりにしている成金を風刺した漫画」というのがあります。料亭で豪遊した成金が帰ろうとすると、玄関の所で女中が「暗くてお靴が分からないわ」という。成金は百円札を燃やして「どうだ明るくなったろう」と満面に笑みを浮かべている。
 当時の公務員の初任給は70円だった時代です。今は約18万円です。約2571倍です。当時の100円は今の25万7100円になります。今風にすれば、財布から1万円札26枚を取り出して、ライターで火をつけ、靴を探したことになります。
 この和田邦坊氏の漫画は、最も当時世相を風刺しているとして、殆どの教科書や図説で採用されています。
 これにいちゃもんを付けた人がいます。今の教科書を自虐史観として批判・攻撃している西尾幹二氏です。「大戦景気を象徴する写真としては不適当である」というのです。是非、大戦景気・船成金を象徴する写真を提示していただきたいと思います。

index