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エピソード

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吉野作造の民本主義と米騒動、白虹筆禍事件
 大衆の暴動を軍隊が出動して鎮圧した事件としては、秩父事件と日比谷焼打ち事件と、今回の米騒動が有名です。
 どうして米騒動が起こったのか、調べて見ました。
 1912(明治44)年3月、東大教授の美濃部達吉は、『憲法講話』を刊行して、天皇機関説を発表しました。その内容は、「法人としての国家が主権の主体で、君主は国家の最高機関である」とする憲法学説でした。
 6月、東大教授の上杉慎吉は、『国家学会雑誌』で「国体に関する”憲法講話”の所説」を発表し、天皇の権力は絶対であるという立場から、美濃部達吉の天皇機関説を否定しました。
 8月、天皇機関説論争がおこりました。
(1)美濃部達吉は、「国家の統治権は法人である国家にあり、天皇は国家の最高機関である」と主張しました。
(2)上杉慎吉は、「国家の主権または統治権は神聖不可侵の天皇に属し、国家と主権を有する天皇の権力行使は無制限である」という天皇主権説を主張しました。
(3)京大教授の佐々木惣一は、「立憲主義と国体観を調整する」という国家法人説を主張しました。
(4)当時、大正デモクラシーの風潮にのり、美濃部達吉・佐々木惣一の学説が定説化されました。
 1914(大正3)年4月、@17大隈重信内閣が誕生しました。外相に同志会総裁の加藤高明、法相に中正会の尾崎行雄が入閣しました。
 8月23日、日本は、ドイツに宣戦を布告しました。戦線がヨーロッパ・アジアに及んだことで、第一次世界大戦といわれます。
 1915(大正4)年1月、大隈重信内閣、袁世凱二十一カ条の要求を突きつけました
 3月、@第12回総選挙が行われました。同志会が153人、政友会が108人、中正会が33人、国民党が27人、大隈伯後援会が12人、無所属が48人となり、与党が大勝しました。
 1916(大正5)年1月、東大教授の吉野作造(39歳)は、「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を『中央公論』で発表しました。これを民本主義といいます。この民本主義は、尾崎行雄らの第一次護憲運動の理論的バックボーンとなりました。論文の内容を調べてみました。
 吉野作造は、「民本主義は民主主義といふ語を以て普通に唱へられて」いると書いています。しかし、自分の主張が民主主義と理解されることを恐れて、社会民主党などがいう「国家の主権は人民にあり」とは異なることを強調しています。そこで、国体の君主制と矛盾しないと主張しつつ、「政治上一般民衆を重んじ」るという立場から民本主義という言葉をとっています。
 吉野作造は、「洋語のデモクラシー訳語である」と認めています。デモクラシーという言葉には、(1)「国家の主権は法理上人民に在り」という意味と、(2)「国家の主権の活動の基本的の目標は政治上人民に在るべし」という意味があると述べ、(1)は民主主義であるが、民本主義は(2)の立場であると強調しています。
 次に吉野作造は、「主権が法律上君主御一人の掌握に帰して居るといふことと、君主がその主権を行用するに当たって専ら人民の利福及び意嚮(意向)を重んずるといふこととは完全に両立し得るからである」とのべ、再度主権が君主にあることと、国民の利副と意向を重んずる民本主義とは両立すると主張しています。
 最後に、吉野作造は、「一は政治は一般民衆のために行はれねばならぬといふことで、二は政治は一般民衆の意嚮(意向)によって行はれねばならぬといふことである。これ実に民本主義の要求する二大綱領である」と語り、その方法として政党内閣制と普通選挙法の実現を説きました。
 3月、東大教授の上杉慎吉は、『中央公論』で「我が憲政の根本義」を発表して、吉野作造の民本主義を批判しました。
 3月26日、後藤新平らから対華21か条を厳しく批判された大隈重信首相は、元老山県有朋を訪問し、同志会総裁加藤高明を後継首相に推薦しました。
 4月、吉野作造は、『中央公論』で「予の憲政論の批評を読む」を発表して、上杉慎吉と論争を開始しました。
 4月上旬、元老山県有朋は、挙国一致の必要を理由に、政党首領の組閣に反対と、大隈首相に返書しました。
 7月3日、第四次日露協約が締結されました。内容は、「日露間で特殊権益擁護を相互に承認する」というものでした。秘密協約で、「中国が第三国の政事敵掌握に陥るのを防ぐために相互軍事援助を行うこと」を規定しました。
 7月6日、大隈重信首相は、朝鮮総督寺内正毅に加藤高明同志会総裁との連立内閣を提議しました。
 8月6日、寺内正毅は、大隈重信首相の提議を拒絶しました。
 10月1日、元老の山県有朋は、大隈重信首相を訪問し、辞意を確認しました。
 10月4日、大隈重信首相は、加藤高明を後継内閣首班に推薦して、辞表を提出しました、しかし、諸元老は、宮中で元老会議を開き、寺内正毅に組閣を命令しました。
 10月5日、対華21か条への批判で大隈内閣が総辞職しました。
 10月7日、加藤高明同志会総裁は、後藤新平が入閣すれば、寺内内閣に反対と申し入れました。後藤新平は、大隈重信内閣打倒に奔走していたのでした。
 10月9日、@18寺内正毅内閣が成立しました。平田東助が入閣を辞退したので、内相に後藤新平を任命しました。軍人・長州閥である寺内首相(65歳)は、超然主義を表明しました。
 10月10日、寺内内閣に反対する立憲同志会・中正会公友倶楽部は、合同して憲政会を結成し、総裁に加藤高明を推薦しました。その結果、憲政会は衆議院の過半数(213人)を占めました。
 11月3日、裕仁親王(後の昭和天皇)の立太子礼が行われました。
 12月27日、第38通常議会が開かれました。これを第38議会といいます。
 1917(大正6)年1月9日、寺内内閣は、閣議で中国の一党派を援助せず、特殊権益を拡大し、日本の優越的地位を列国に承認させる方針を決定しました。これが後の西原借款に発展します。
 1月15日、寺内正毅首相は、憲政会の加藤高明・政友会の原敬・国民党の犬養毅の3党首を招き、対華政策に援助を要請しました。
 1月21日、憲政会大会と国民党大会が開かれ、それぞれ寺内内閣反対を決議しました。政友会は厳正中立を宣言しました
 1月25日、衆議院は、憲政会・国民党両党の共同提出の内閣不信任案を上程しました。国民党の犬養毅は、提案演説で急に憲政会を攻撃しました。大混乱のうちに、衆議院が解散されました。 この時の犬養毅の動きが不可解です。その後の歴史を見ると、後藤新平は憲政会に攻撃されながらも、政友会・国民党に接近していることが分かりました。多分、これが背景にあるのではないでしょうか。
 1月25日、衆議院が解散された直後に、国民党は憲政会との提携打ち切りを宣言しました。 
 2月13日、内相の後藤新平は、地方長官会議の訓示で、憲政会を「不自然なる多数党」と攻撃しました。
 2月24日、政友会は、野田卯太郎を通じて、寺内内閣の中立議員選挙運動支援を警告しました。
 4月、世論を背景に、アメリカ大統領のウィルソンは、「デモクラシーを守る」ためを口実に、ドイツに宣戦を布告しました。その結果、デモクラシーの風潮が世界に拡大しました。
 4月20日、@第13回総選挙が行われました。政友会が165人、憲政会が121人、国民党が35人、無所属が60人の当選者を出しました。選挙前の憲政会は213人から、憲政会・国民党156人に激減しました。
 6月2日、寺内正毅首相は、原敬・加藤高明・犬養毅3党首に臨時外交調査会委員就任を懇請しました。原・犬養は受諾し、加藤は拒絶しました。後藤新平内相は、幹事長に就任しました。
 6月15日、坂本金弥ら43議員が維新会を結成しました。
 6月20日、犬養毅が国民党総理に就任しました。
 6月23日、@第39特別議会が開かれました。これを第39議会といいます。
 7月20日、日本政府は、段祺瑞内閣を財政援助し、南方派を援助せずという、対華政策を決定しました。
 10月15日、維新会と無所属の一部が新政会を結成しました。参加議員は62人でした。
 11月2日、石井・ランシング協定に調印しました。これは日米の間で、中国における利害を調節しようとするものでした。
 11月7日、ボリシェビキは、ケレンスキー政府を転覆し、ソビエト政権の樹立を宣言しました。これをロシア10月革命といいます。労農が中心という社会主義思想が世界に拡大しました。
 12月2日、フランスは、連合国会議で日米連合軍によるシベリア鉄道占領案を提議しました。
 12月27日、第40通常議会が開かれました。これを第40議会といいます。
10  1918(大正7)年1月1日、イギリス外務次官は、駐英大使の珍田捨巳に、ウラジオストクの軍需物資確保のための共同出兵を提議しました。
 1月12日、寺内内閣は、居留民保護を理由に、ウラジオストクに軍艦2隻を派遣しました。
 4月、江藤新平は、外務大臣に就任し、シベリア出兵促進の意見書を提出しました。
 5月、農商務省は、鈴木商店らを外米輸入商に指定しました。シベリア出兵を見越して米の買占めが始まりました。
 7月18日、農商務省は大阪堂島米穀取引所に米価暴騰のため定期取引無期停止を命令しました。
 7月23日、富山県下新川郡魚津町の漁民妻女ら数十人は、米価高騰防止のため米の県外への船積みを中止するよう荷主に要求しようとして海岸に集合しました。これを米騒動の始まりといいます。
 7月29日、米価は天井知らずの暴騰を続け、2等米の小売価格は1円で2升4合となりました。
 7月31日、米価大暴騰のため、米市場は大混乱に陥り、各地の米穀取引所が立会停止となりました。
11
1917年1月 1918年1月 1918年7月 1918年8月 最大米価
16円39銭 23円84銭 30円39銭 38円70銭 46円00銭

 8月2日、寺内内閣は、シベリア出兵を宣言しました。
 8月3日、富山県下新川郡魚津町の西隣町の滑川町で、男性も加わった2000人が米屋を襲撃しました。
 8月3日、滑川町の隣町の西水橋町にも米騒動が伝わり、やがて全国に拡大しました。
 8月10日、米騒動が名古屋・京都に波及しました。
 8月14日、全国大・中都市に米騒動が波及し、絶頂期となりました。内相の水野錬太郎は、米騒動に関する記事の差し止めを命令しました。
 8月17日、山口県宇部炭鉱などで、米騒動にともなう罷業暴動化し、軍隊が出動しました。死者を13人も出しました。
 8月17日、憲政会は、米騒動に関し政府の処決(責任をとること)を要求しました。
 8月25日、大阪朝日新聞は、寺内内閣弾劾関西新聞記者大会の記事で、「白虹日を貫けり」と表現して、発売が禁止されました。これを白虹筆禍事件といいます。
12  9月2日、寺内内閣弾劾全国記者大会が東京で開かれました。
 9月17日、この日までに1道・3府・39県・37市・134町・139村・368ヶ所で大衆行動があり、採集参加者は100万人に達しました。そこで、軍隊9万人が出動して、やっと鎮圧できました。検挙は2万5000人に及び、7708人が検挙されました。その後、無期懲役12人・死刑2人の判決が下されました。
 9月21日、寺内正毅首相は、辞表を提出し、西園寺公望に組閣命令が出ましたが、西園寺はこれを辞退しました。
 9月27日、政友会総裁の原敬に組閣命令が出ました。
 9月29日、@19原敬内閣が誕生しました。
 11月11日、第一次世界大戦が終了しました。
 12月27日、第41通常議会が開かれました。これを第41議会といいます。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
吉野作造のすごさ、米騒動と富山の漁民妻女の関係は?
 吉野作造は、デモクラシーは普及させたいが、絶対的天皇制の下では、民主主義を主張することは自分の身分は勿論、家族をも路頭に迷わせる。そこで考え出したのが、「民本主義」という造語です。
 「ペンは剣よりも強し」の象徴的な話です。
 富山県下新川郡魚津町(今の魚津市)の漁民妻女ら46人は、米価高騰防止のため米の県外への船積みを中止するよう荷主に要求しようとして海岸に集合しました。これは、どの本にでも書いてある有名な米騒動発端の場面です。
 しかし、どうして富山県で最初の米騒動が起きたのか、そのきっかけが漁民妻女だっとのか、ということになると、殆ど書かれていません。そこで、調べることにしました。
 たまたま、この頃は天候不順で、富山の近海漁業は不漁でした。そこで富山の海の男達は、北海道へ出稼ぎに行きました。宿代も飯代も給料から後払いすることになっていましたが、北海道も不漁で、宿代も飯代も払えません。ついには富山に帰る金もなくなってしまいました。そこで、漁民の妻女に送金を依頼しました。
 漁民の妻女は、日雇として鈴木商店の船に米を運んで、現金収入を得ました。その日の米を買うために米屋に行くと、米代が暴騰していて、その日得たお金を使い果たしました。そこで、彼女たちは昨日の倍の米を船に運びました。豪気な女房は1俵を肩に、1俵を背中に担いだといいます。「父ちゃんのためならエンヤコラ」という感じです。半分のお金は残るだろうと思って、米屋に行くと、米代は昨日の倍になっていました。
 怒った妻女が米屋に詰め寄ると、米屋の主人は「あんたらが富山の米を積み出すから、米不足で高うなるんや」と言われ、とっさに海岸に集まり、「こうなったら豚箱も恐くない」と警官の制止も聞かず、米屋に向かったというのです。そこで、米騒動は「越中女房一揆」ともいわれるのです。 
 これが新聞で報道され、神戸では鈴木商店が攻撃の対象になりました。
 今から20年ほど前に、兵庫県姫路市大塩に住む長浜さん(明示22年生まれ)に米騒動の話を聞いたことがあります。長浜さんは文検のテストを受けるため神戸に宿泊していました。テストも終わり相生座で芝居を見ていたら、「ワッショイワッショイ」の掛け声がしました。様子を見ていると、半纏を着た20人ほどの男が通り過ぎました。しばらくすると、火の手が上がりました。飛び出すと、大勢が「おヨネさんの家(鈴木商店)が火事や」と叫んでいました。
 「ワッショイ」の掛け声は、米屋でも「1升20銭」の札のある店は素通りして、「1升50銭」の店を襲撃して米を荷車に積んで盗んだり、放火したりして、警察も手が出せなかった。ポンプで消そうとしても、ホースを切ってしまう。
 翌日、姫路から軍隊が派遣されてきた。群集には軍隊も手を出さない。指揮官が偉かった。軍人にチョークを渡し、群衆の背中に印を付け、群集から離れてトイレに行ったりした時に、捕まえた。
 これも同じ長浜さんの体験話です。
 8月8日、大塩にも米騒動の噂が伝わりました。9日昼頃、10人位の人が役場に行って、米の値下げ指導を頼みました。大塩は田舎で、皆んな顔見知りだったので、盗んだり、壊したりなど悪いことは出来なかったのです。「困るさかいに…」と言ったが、なだめると、帰っていったといいます。
 言論弾圧事件である白虹筆禍事件を調べてみました。
 8月14日、全国大・中都市に米騒動が波及したので、内相の水野錬太郎は、米騒動に関する記事の差し止めを命令しました。
 8月25日、寺内内閣弾劾関西新聞記者大会で、新聞社86社は「禁止令の解除」および「政府の引責辞職」を要求しました。大阪朝日新聞の夕刊で、大西利夫記者はその模様を「我が大日本帝国は、今や怖ろしい最後の審判の日が近づいているのではないか…。白虹日を貫けりと昔の人が呟いた不吉な兆しが…人々の頭に電の様に閃く」と表現しました。「白虹日を貫けり」は革命という意味がありました。
 9月9日、大阪朝日新聞の記者大西利夫と発行人山口信雄は、新聞紙法第42条の「朝憲紊乱罪」で起訴されました。そして各6月の禁固と朝日新聞の発行禁止処分が求刑されました。
 9月21日、寺内正毅首相は、辞表を提出し、西園寺公望に組閣命令が出ましたが、西園寺はこれを辞退しました。
 9月28日、朝日新聞の村山竜平社長は、中之島公園内で壮士に襲撃されました。石灯籠にしばりつけられた村山の首には「代天誅国賊」という布切れがかけられていたといいます。
 9月29日、@19原敬内閣が誕生しました。原は、大阪毎日新聞の社長を歴任していました。
 12月4日、記者大西利夫と発行人山口信雄は禁錮2月の判決が下されました。新聞の発行禁止は免れました。
 権力を持つ政治と権力を監視する言論の関係がわかる事件でした。

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