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エピソード

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原敬政党内閣の成立と挫折
 美濃部達吉の天皇機関説吉野作造の民本主義デモクラシーを守るためという口実によるアメリカの参戦平等主義を標榜するソ連の誕生米騒動という民衆運動による内閣打倒などが影響して、日本でも政党内閣を否定できない雰囲気がかもし出されました。
 そこで、誕生したのが平民宰相といわれた原敬内閣です。この経過を調べてみました。
 1918(大正7)年9月21日、寺内正毅首相は、辞表を提出しました。この事態を打開するために、元老の山県有朋(80歳)は、譲歩して政党内閣を承認しました。元老会議は、西園寺公望に組閣命令が出ましたが、西園寺はこれを辞退しました。
 9月27日、元老会議は、議会第一党で、政友会総裁の原敬(63歳)に組閣命令が出ました。
 9月29日、@19原敬内閣が誕生しました。陸相の田中義一(55歳)・海相の加藤友三郎(58歳)・外相の内田康哉(54歳)以外は政友会会員ということもあり、原敬が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたということから、最初の本格的政党内閣といわれます。
 11月11日、第一次世界大戦が終了しました。
 11月28日、皇室典範増補が公布されました。追加された内容は「皇族女子ハ王族又ハ公族ニ嫁スルコトヲ得」でした。
 12月5日、梨本宮方子女王が朝鮮の李王世子垠に嫁入りすることが勅許されました。皇室典範は、この結婚の為に増補されたのです。
 12月27日、第41通常議会が開かれました。これを第41議会といいます。
 1919(大正8)年1月13日、講和会議全権委員に西園寺公望・牧野伸顕を任命しました。
 1月18日、パリ講和会議が開かれました。
 1月27日、講和会議で牧野伸顕全権は、山東半島のドイツ利権および赤道以北のドイツ領諸島の無条件譲渡を要求しました。
 1月28日、中国代表は、山東の中国還付を要求しました。
 2月7日、改正帝国大学令が公布されました。その結果、帝国大学令は専ら官立総合大学にのみ適用されることになりました。
 2月9日、各地で普通選挙法実施の大会・デモが行われました。 
 3月1日、京城・平壌などで朝鮮独立宣言が発表され、示威運動が朝鮮全土の拡大しました。これを3.1運動とか万歳事件といいます。
 3月8日、原敬内閣は、衆議院議員選挙法を改正しました。その内容は、大選挙区制を小選挙区制に変更し、有権者資格も10円を3円に引き下げました。その結果、有権者は98万人から306万人に増大しました。
 3月8日、普選論主張の村松恒一郎湯浅凡平ら6人は、立憲国民党から除名されました。
 4月30日、パリ講和会議で、山東半島のドイツ利権が日本に譲渡されました。
 5月4日、講和会議で、日本全権は、山東還付を声明しました。但し、経済的特権及び青島に専管居留地設置の権利は留保しました。
 5月4日、北京の学生3000人が山東問題に抗議し、示威運動を行いました。これを5.4運動といいます。
 5月7日、講和会議は、赤道以北のドイツ領諸島の委任当治国を日本に決定しました。
 5月7日、中国人留学生2000人は、東京で国恥記念のデモ行進をしました。
 6月28日、ベルサイユ講和条約が調印されました。
 11月7日、枢密院は、ベルサイユ講和条約を可決・批准しました。
 12月26日、第42通常議会が開かれました。これを第42議会といいます。
 1920(大正9)年1月10日、国際連盟が発足しました。
 1月10日、東京帝大経済学部助教授の森戸辰男は、経済学部の機関誌『経済学研究』創刊号に「クロポトキンの社会思想の研究」を掲載しました。上杉慎吉教授らは、これを危険思想を宣伝するものとして攻撃したので、同学部は雑誌を回収し、森戸を休職処分としました。これを森戸事件といいます。
 1月14日、さらに上杉慎吉は、新聞紙法の「朝憲紊乱罪」で森戸辰男と発行人の大内兵衛助教授が起訴させ、大内を休職処分に追い込みました。
 2月11日、東京で111団体が集結し、数万人規模の普選大示威行進を行いました。
 2月14日、野党の憲政会・国民党・普選実行会は、国民的要求として、普通選挙法3案を衆議院に提出しました。
 2月26日、原敬内閣は、普選法案を審議中、時期尚早として突如議会を解散しました。政友会は、公約として普選に反対・大戦景気を利用して鉄道拡充・高校増設でした。
 3月3日、森戸辰男は禁錮3月・罰金70円、大内兵衛は禁錮1月(執行猶予1年)・罰金20円という判決が言い渡されました。2人は上告しました。
 3月15日、株価が大暴落するという戦後恐慌が発生し、財政を圧迫しました。
 5月2日、日本で最初のメーデーが行われました。MayDayとは5月1日のことですが、この日は土曜日であったため、労働者には休日がなく、2日の日曜日にメーデーを行ったのでした。労働者にも冷淡であると写りました。
 5月10日、@第14回総選挙が行われました。原敬首相は、小選挙区制を採用した有利な条件の下で総選挙を行い、その結果、与党の政友会が278人、憲政会が110人、国民党が29人、無所属が47が当選し、政友会の圧勝となりました。
 5月15日、原敬内閣は、公約どおり、鉄道院を鉄道省に昇格させました。
 7月1日、第43特別議会が開かれました。これを第43議会といいます。
 7月8日、永井柳太郎は、衆議院で、「今日なお階級専攻を主張する者、西にレーニンあり東に原総理大臣あり」と演説して、懲罰を科されました。
 7月10日、衆議院は、憲政会・国民党提出の内閣不信任決議案を否決しました。
 7月12日、原敬内閣は、憲政会・国民党提出の普選法案を否決しました。
 7月23日、島田三郎は、衆議院に高橋是清蔵相・中橋徳五郎文相・山本達雄農相の3大臣の汚職嫌疑に関する質問書を提出しました。
 7月27日、島田三郎引責決議案をめぐり、議場は混乱しましたが、引責決議案は可決されました。
 10月22日、大審院は森戸辰男・大内兵衛の上告を棄却しました。その結果、2人は東京帝大での職を失いました。 
 11月1日、東京市道路工事に関し疑獄事件がおこりました。
 11月4日、森戸辰男は刑務所で服役することになりました。
 11月22日、東京市の道路課と請負業者間の贈収賄事件で、政友会代議士の高橋義信に逮捕令状が出されました。
 11月25日、八八艦隊の予算案が議会を通過しました。1921年予算は前年比200%増となりました。
 11月26日、東京市長の田尻稲次郎は引責辞任しましたが、さらに東京市では、ガス疑獄に拡大しました。東京市民のみならず、多くの人が激しい怒りに燃えました。
 12月27日、第44特別議会が開かれました。これを第44議会といいます。
 12月、元老の山県有朋は、色盲問題を理由に久邇宮良子女王皇太子裕仁親王の婚約変更を主張しました。それに対して杉浦重剛頭山満らの反対運動がおこりました。この背景には薩長の対立や宮中での勢力争いなどもからんでいたといいます。これを宮中某重大事件といいます。
9  1921(大正10)年1月31日、衆議院予算委員会で、満鉄の塔連炭坑および汽船の不当買収が表面化しました。政府傘下の企業から莫大な利益が政友会の政治資金として使われたというのです。これを満鉄疑獄事件といいます。
 2月10日、宮内省は、皇太子妃内定に変更はないと発表しました。
 2月14日、関東州アヘン事件が発覚し、政友会の3人が逮捕されました。
 2月17日、関東州アヘン取扱非難決議案が衆議院に上程されましたが、否決されました。
 3月15日、政友会の広岡宇一郎は、加藤高明憲政会総裁が内田信也より珍品5個を受け取り、「普選熱心の領袖を援助しないと約束した」と公表しました。
 3月21日、山県有朋は、皇太子妃問題に関し枢密院議長・元老など要職の辞表を提出しました。しかし、天皇より優諚(天皇が臣下に与える優しいお言葉)が下り、辞表は却下されました。
 6月11日、前拓殖局長官の古賀廉造は、関東州のアヘン事件に関して起訴されました。
10  10月12日、原敬首相は、陸軍の反対を押し切って、海軍大臣臨時事務管理となりました。これは文官による最初の軍部大臣事務管理ということになります。
 11月4日、原敬首相(66歳)は、中岡艮一(19歳)に、東京駅で暗殺されました。中岡は、シベリアからの撤退と相次ぐ汚職事件の発覚に怒りを燃やしていたといいます。外相の内田康哉が臨時首相を兼任しました。
 11月5日、原敬内閣が総辞職しました。
 11月13日、全閣僚留任のまま、政友会総裁の@20高橋是清内閣が誕生しました。
 11月25日、皇太子裕仁親王が大正天皇の摂政となりました。
 12月26日、第45通常議会が開かれました。これを第45議会といいます。
11  1922(大正11)年1月10日、大隈重信(85歳)が亡くなり、国葬には参列者が10万人と報道されました。
 2月1日、山県有朋(85歳)が亡くなり、さみしい国葬だったと報道されました。 
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
平民宰相原敬とはどんな人?、流転の王女李方子
 平民宰相といわれて人気のあった原敬の祖父原直記は、南部盛岡藩の家老でした。父原直治は盛岡藩士でした。原敬は、20歳の時に分家して、戸主となり、平民籍に編入されました。「武士を捨て、平民として生きる」ことを宣言したのです。
 原敬は、「一山」と号しています。戊辰戦争の時、薩長武士が東北諸藩を「白川以北一山百文」と嘲笑したことへの反抗だと言われています。
 原敬は、司法省法学校(後の東大法学部)に2番目の成績で合格しました。しかし、寄宿舎の待遇改善問題で、原敬は、薩摩藩出身の校長と激しく対立しました。この時の様子を原敬は、日記に「国民誰か、朝廷に弓を引くものあらんや。勝てば官軍、負ければ賊軍の俗謡あり。その真相を語れるものなり。」と書いています。校長に逆らった原敬は、退学させられました。
 郷里の先輩を頼って郵便報知新聞社に入社しました。しかし、明治14年の政変で、大隈重信派が郵便報知新聞社に入社すると、原敬は、彼らと合わなかったので、退社しました。反大隈重信ということ、御用新聞『大東日報』の主筆に迎えられました。それが縁で外務省書記官になって、3年間パリ生活を体験しました。
 帰国後、原敬は、農商務省秘書官となりました。陸奥宗光が農商務大臣になると、原敬の才能を見抜きました。第二次伊藤博文内閣の外相に就任した陸奥宗光あ、原敬を外務省の通商局長に抜擢しました。日清戦争後には、原敬は外務次官になりました。この頃、原敬は、同じ南部盛岡藩の娘で新橋の芸者である浅と結婚します。
 第二次松方正義内閣の外相に大隈重信が就任すると、原敬は、外務省を辞職します。その後、原敬は、大阪毎日新聞社に入社し、後に社長になります。
 伊藤博文が立憲政友会を組織すると、原敬は伊藤と井上馨の勧めで、政友会に入党しました。原敬の信条は「机に向かって昨日の政敵の言葉を分析し、明日の対策をねる」ことであり、最大の武器は「日記」だったといいます。平民宰相という言葉の優しさとは逆に、鋼のような精神の持ち主だっとことが分かります。
 1902(明治35)年、原敬(46歳)は、盛岡市から立候補して衆議院議員に初当選しました。
 1904(明治37)年、桂太郎首相と原敬は、政権の授受を密約して、桂園時代を演出しました。これを情意投合といいます。また、原敬は、元老の山県有朋とも友好関係を保持しつつ、政友会の勢力を拡大しました。
 1918(大正7)年、そんな関係で、米騒動により退陣した寺内正毅内閣の後継に、山県有朋は原敬を総理大臣に推薦しました。
 1920(大正9)年、憲政会や国民党から男子普通選挙制度導入を求める選挙法改正案が提出されると、原敬首相は、衆議院を解散し、「普選反対」をスローガンに、小選挙区制を採用した有利な条件の下で総選挙を行い、政友会を単独過半数の大勝利に導きました。最近(2005年)の小泉首相の手法を思い出させます。自民党を3分の2以上の勝利に導きました。ひょっとしたら、小泉首相は、原敬首相を勉強していたのかもしれませんね。
 1921(大正10)年、中岡艮一(19歳)の短刀は、原敬首相の肺から心臓にまで達しました。遺体が首相官邸に運ばれようとした時、妻の浅は「生きていてこそ内閣総理大臣です。亡くなれば、もはや官邸には用のない人です」と言って、遺体を自宅に運ばせたといいます。
 原敬の遺書には「死去の際、位階勲などの将叙は、予の絶対に好まざる所なれば、死去せば即刻発表すべし」とありました。
 原敬の座右の銘が「宝積」(人に尽くして報酬を求めない)でした。お金に絡む事件があると、国会議員という政治屋が登場しています。今の政治屋に聞かせたい話です。
 原敬の墓石には「原敬」の2文字しか書かれていません。肩書きが横行する時代には、参考になる話です。
 次は流転の皇女李方子の話です。
 1901(明治34)年、梨本宮方子は、梨本宮守正と鍋島伊都子(旧佐賀藩主鍋島直大の次女)との間に生まれました。
 1907(明治40)年、伊藤博文は、李王朝の世子垠(10歳)を留学という名目で、日本に連れて来ました。世子垠を日本の皇族として教育しようとしたのです。
 梨本宮方子(15歳)は、裕仁親王(後の昭和天皇)の妃の第一候補といわれていました。第二候補が久邇宮良子(14歳)といわれていました。
 学習院中等科の生徒であった梨本宮方子は、『東京朝日新聞』(1916年8月3日付)を読んでびっくりしました。そこには「王世子の御慶事、梨本宮方子女王とご婚約」と書かれていました。王世子とは、朝鮮王朝高宗国王の第7王子李垠(日本名は昌徳宮李王垠)のことです。
 1920(大正9)年、女子学習院高等科を卒業した方子(19歳)は、東京にある李王邸で世子李垠(23歳)と結婚しました。方子は日本人であることを止め、李垠と同じ朝鮮人になろうと決意したといいます。
 1923(大正11)年、方子は、2児を連れて、初めて夫の祖国朝鮮に渡りました。その時、生後8ヶ月の王子晉が青緑色のものを吐き続け亡くなりました。日本人の医者は、急性消化不良と診察しましたが、血を尊ぶ朝鮮王家が日本人の血に汚されることを嫌って毒殺したという噂が流されました。
 1935(昭和10)年、李垠は、宇都宮第14師団歩兵第59連隊の連隊長となりました。
 1943(昭和18)年、李垠は、第一航空軍司令官となりました。
 1945(昭和20)年、李垠は、王族としての身分を失い、在日韓国人として登録されました。
 1950(昭和25)年、李垠は、大韓民国初代大統領の李承晩に故国への帰国を要望しましたが、「帰国したいなら帰ってきなさい」という回答でした。
 1960(昭和35)年、朴正煕大統領は、脳血栓で倒れた李垠の容態を案じ、韓国での生活費や療養費を韓国政府が保証するので、帰国されたいと連絡しました。
 1963(昭和38)年、李垠は、56年ぶりに帰国しました。妻の方子は韓国籍を取得したて韓国に渡りました。
 1970(昭和45)年、李垠は、亡くなりました。方子は、資金を稼ぐために、趣味で作っていた七宝焼を売り、知的障害児施設の明暉園(明暉は李垠の雅号)を設立しました。
 1989(平成元)年、方子が亡くなりました。時に87歳でした。準国葬として扱われ、韓国首相の姜英勲や三笠宮妃らが参列しました。
 2002(平成14)年、高円宮夫妻は、明暉園を訪れました。

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