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エピソード

226_01

パリ講和会議とヴェルサイユ体制
 20世紀になって、人類は未曾有の戦争を体験しました。第一次世界大戦です。
 二度と国際戦争をおこさない決議もしました。国際連盟の発足です。
 パリ講和会議で、ベルサイユ講和条約が調印されました。
 社会主義の国ソ連が独自の外交を展開します。
 人類にとって、大きな試練を課されたのでした。それを検証してみました。
 1918(大正7)年1月8日、アメリカのウィルソン大統領は、14カ条を発表し、「勝利なき平和」を呼びかけました。
 9月29日、@19原敬内閣が誕生しました。
 11月9日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位を宣言し、ドイツ共和国が誕生しました。
 11月11日、第一次世界大戦が終了しました。
 11月25日、フランス軍がストラスブールへ進駐しました。
 12月1日、イギリス・アメリカ軍がドイツを占領をしました。
 1919(大正8)年1月13日、講和会議全権委員に西園寺公望・牧野伸顕を任命しました。
 1月18日、パリ講和会議が開かれました。アメリカはジュネーブ、イギリスはブリュッセルを提案しましたが、最大の被害国フランスの主張によりパリで会議が開かれることになったのです。32カ国70人の代表が参加しました。
 10人委員会が作られ、5大国(日本・アメリカ・イギリス・フランス・イタリア)が出席しました。3巨頭といわれたアメリカのウィルソン、イギリスのロイド=ジョージ、フランスのクレマンソーが会議をリードしました。
 アメリカのウィルソンは、理想主義の立場から無合併・無賠償と国際連盟の設置を主張しました。
 イギリスのロイド=ジョージは、大英帝国の維持にはアメリカの支持が必要だと考えていました。
 フランスのクレマンソーは、国際連盟より敗戦国の領土の割譲と多額の賠償金を主張しました。
 イタリアのオルランド首相は、フィウメだけに関心がありました。 
 日本は、ドイツとソ連が呼ばれていないので、「英米本位の外交」を警戒しました。
 4月23日、イタリアは、フィウメの帰属問題でパリ講和会議を脱退しましたが、のちに復帰しました。
 4月28日、パリ講和会議は、国際連盟規約を完成させました。
 6月28日、ベルサイユ講和条約が調印されました。
 ベルサイユ条約で規定されたヨーロッパの秩序を中心とする体制をベルサイユ体制といいます。
 基本は、ドイツの制裁とソ連の封じ込めにありました。
 ドイツ制裁を見てみましょう。
(1)植民地の全てを失いました。
(2)本国の一部であるザール地方は国連が管理し、アルザス・ロレーヌ・ザール炭田はフランスが管理しました。
(3)軍備制限が行われました。
 ラインの西岸は15ヵ年占領され、ラインの東部のラインラントは50kmが武装禁止とされました。
 陸軍は志願兵10万人以下に制限され、海軍も志願兵1万5000人以下に制限されました。しかし、ドイツのゼークト参謀は、10万人を訓練教員の士官とし、30個師団をいつでも作れるようにしました。
 潜水艦・航空機の所有が禁止されました。しかし、ラッパロ条約でソ連から武器の技術供与が出来る体制をとりました。
(4)巨額の賠償金が賦課されました。
 1921年、代償委員会(アメリカ人のダレス)は賠償金額1320億金マルクを決定しました。これはドイツのGNPの20年分になります。
 1924年、賠償委員会(アメリカ人のドーズ)は賠償支払方法を合理化し、8億金マルクの外資導入を決定しました。
 1929年、代償委員会(アメリカ人のヤング)は賠償金額358億金マルクに減額を決定しました。
 1929年に始まった世界恐慌の影響で、支払が不可能となりました。その後、ヒトラー政権がベルサイユ条約を破棄したため、支払義務は消滅しました。結局ドイツが支払ったのは50億金マルクでした。
 7月25日、ソヴィエト政府は、中国に関する帝政ロシアの不平等条約廃棄を宣言しました。これをカラハン宣言といいます。
 7月31日、ドイツ国民議会はは、ワイマール共和国憲法を採択しました。
 9月10日、オーストリアは、サン=ジェルマン=アン=レ宮殿で、サン=ジェルマン講和条約に調印し、ハプスブルク帝国を解体(オーストリア・チェコ・ユーゴ・ポーランド・ハンガリーに分割)し、独墺の合併を禁止しました。
 11月19日、アメリカ上院は、ベルサイユ条約批准を否決しました。
 1920(大正9)年1月10日、国際連盟が発足しました。
 3月27日、ポーランドは、ソヴィエト=ロシア政府に1772年以前の国境承認を要求しましたが、ソヴィエト=ロシア政府が拒否して、交渉は決裂しました。
 4月25日、ポーランド軍がウクライナ領に侵入して、ソヴィエト・ポーランド戦争がおこりました。
 6月4日、ハンガリーは、ヴェルサイユのトリアノン宮殿で、トリアノン講和条約に調印し、旧領土の4分の3を失いました。
 7月5日、連合国スーパー会議が開かれ、ドイツに対する賠償金の配分比率を決定しました。それによると、フランスが52%、イギリスが22%、イタリアが10%、ベルギーが8%を得ることになりました。
 8月10日、トルコ=スルタン政府は、セーヴル条約に調印しました。敗戦国全てがベルサイユ条約に調印したことになり、パリ講和会議は終わったことになります。
 しかし、それに反対のケマル=アタチュルクのトルコ共和国が生まれたので、セーヴル条約は実行されませんでした。
 10月14日、ソヴィエト=ロシア・ポーランド間にリガ仮講和条約が調印され、ポーランドは西ウクライナと西ベロロシアを獲得しました。
 11月2日、アメリカ大統領選挙が行われ、国際連盟を創設した民主党のウィルソンが破れ、共和党のハーディングが当選しました。
 11月12日、イタリア・ユーゴ間にラパロ条約が調印され、フィウメは独立国となりました。
 1921(大正109)年3月16日、ソヴィエト=ロシア・トルコ間に修好条約が調印されました。
 3月16日、英ソ通商条約が調印されました。
 5月5日、連合国はドイツに賠償総額1320億金マルク支払計画の受諾を要求し、ドイツはこれを受諾しました。この額は、誰も見たことがない天文学的数字だと言われています。ドイツを再武装させないための経済的制裁です。この制裁が有効でなかったことは、後に証明されます。
 5月6日、独ソ通商条約が調印されました。
 5月15日、イタリアで総選挙が行われ、自由・民主両党が過半数の275人、社会党が122人、ファシスタが22人、共産党が16人当選しました。
 11月12日、ワシントン会議が開かれました。
 11月21日、イタリアのファッショ団体は、社会党が掌握するボローニャ市会を襲撃して、市庁舎を占拠しました。
 1922(大正11)年4月16日、ドイツ・ソ連の間にラパロ条約が調印され、相互に賠償要求を放棄し国交を回復しました。
 8月3日、ファシストは、ミラノに潜入し市庁舎を占拠しました。
 8月7日、ロンドン賠償会議が開かれました。フランスのポアンカレ首相は、ドイツの支払い猶予の代償として「生産担保」を要求しました。それに対して、イギリスのロイド=ジョージ首相はが反対しました。
 8月、ドイツのマルク価が下落し始めました。
 10月24日、ムソリーニは、ナポリのファシスタ大会で政権奪取の意図を宣言しました。
 10月28日、ファシスタは、ナポリからローマに進軍し、首相のファクタは、国王エマヌエーレ3世に戒厳令の裁可を求めました。しかし、国王はこれを拒否しました。
 10月30日、国王のエマヌエーレ3世は、ムソリーニに組閣を命令しました。
 10月31日、ファシスタと国家主義者の連合内閣が成立しました。これをファシスト政権といいます。
 11月15日、イギリスで総選挙が行われ、保守党が347人、労働党が142人、自由党が118人が当選しました。
 11月25日、ムソリーニは、国王と議会により秩序回復のための独裁権を与えられました。
 12月30日、ロシア・ウクライナ・白ロシア・ザカフカス各共和国からなるソヴィエト社会主義共和国連邦ソ連邦)が成立しました。
 1923(大正12)年1月2日、パリ賠償会議が開かれ、イギリスは、モラトリアム計画を提案しましたが、フランスが拒否しました。
 1月9日、賠償委員会は、ドイツ側が石炭引渡しを不履行と宣言しました。
 1月11日、フランス・ベルギー軍(英・伊軍は不参加)は、ルール地方に侵入して占領しました。
 1月13日、ドイツのクーノ首相は、議会でルール占領への「受動的抵抗」を宣言しました。
 7月24日、連合国・トルコ間にローザンヌ講和条約が調印されました。その内容は、セーブル条約を修正し、連合国の財政管理・治外法権を廃止し、軍備制限を解除し、海峡を非武装化するというものでした。
1923年7月24日はるかに有利なローザンヌ条約を結んだ。
 8月11日、ドイツのゼネストがあり、クーノ首相が辞任しました。
 8月13日、ドイツでシュトレーゼマン大連合内閣(国民党・社民党・中央党・民主党)が誕生し、「受動的抵抗」中止を布告しました。
 8月、ドイツのマルク紙幣が大暴落しました。1ドル=460万マルクです。
 10月、ザクセンとチューリンゲンで、社会民主党・共産党の連合政府が成立しました。
 11月8日、ヒトラールーデンドルフは、一揆をおこし、失敗しました。これをミュンヘン一揆といいます。ヒトラーは逮捕され、禁錮5年の刑を受けましたが、1924年12月に出獄しました。
 11月14日、イタリア議会は、ムソリーニの選挙法改正案を可決しました。その結果、得票数が4分の1以上の第一党に3分の2の議席を与えることになりました。
 11月15日、ドイツのマルクが最大に下落しました。1ドル=4兆2000億マルクとなりました。インフレを収束するためにレンテンマルクの発行を開始しました。
 12月6日、イギリスで総選挙が行われ、保守党が258人、労働党が191人、自由党が158人が当選しました。
10  1924(大正13)年1月22日、イギリスで、第一次マクドナルド労働党内閣が成立しました。
 2月、イギリスとイタリアは、ソ連邦を承認しました。
 4月6日、イタリアで総選挙が行われ、ファシスタは65%の絶対多数を獲得しました。そして、新選挙法により議席は10倍以上に増加しました。
 4月9日、賠償専門委員会(委員長はアメリカ人のドーズ)はドイツ賠償支払案(ドーズ案)を完成しました。賠償支払方法を合理化し、8億金マルクの外資導入を決定し、ドイツ政府は受諾しました。
 5月11日、フランス下院の総選挙が行われ、左翼連合(社会党・急進社会党)が過半数を獲得し、エリオ急進社会党内閣が成立しました。
 7月1日、イタリア政府は、出版物検閲法を公布し、政府反対派の集会を禁止しました。
 10月2日、国際連盟総会は、国際紛争の平和的解決に関する「ジュネーブ議定書」を採択しました。
 10月28日、イギリスで総選挙が行われ、保守党が415人、労働党が152人が当選しました。
 11月4日、アメリカ大統領選挙が行われ、共和党のクーリッジが民主党のデイヴィスを破って当選しました。
 11月7日、イギリスで、第二次ボールドウィン保守党内閣が成立し、英ソ通商条約破棄をソ連に通告しました。
12  1925(大正14)年2月9日、ドイツは、イギリス・フランスにラインラント安全保障条約を提案しました。これがロカルノ条約の原案となりました。
 4月26日、ドイツで大統領選挙が行われ、ヒンデンブルク元帥が当選しました。
 12月1日、ロカルノ会議が開かれ、イギリス・フランス・イタリア・ベルギー・ポーランド・チェコ・ドイツの7カ国がロカルノ条約に調印しました。内容は、ドイツ西部国境の現状維持を約束するものです。
13  1926(大正14)年4月、独ソ友好中約(ベルリン条約)が調印され、ラパロ条約を更新しました。
 7月、フランスでブリアン左翼連合内閣が総辞職し、ポアンカレ国民連合内閣が成立しました。
 1927(昭和2)年6月、ジュネーブで日本・アメリカ・イギリス3国海軍軍縮会議を開きましたが、不調に終わりました。
 1928(昭和3)年4月、アメリカ国務長官ケロッグは、ロカルノ諸国に戦争非合法化の協定案を提示しました。
 5月12日、イタリアは、新選挙法を公布し、普通選挙制を廃止し、ファシスト大評議会の氏名候補者制としました。
 5月20日、ドイツで議会選挙が行われ、社会民主党・共産党が議席を増大しブルジョワ諸政党と連携した社民党のミュラー大連合内閣が誕生しました。
 8月27日、パリで不戦条約が調印されました。これをケロッグ・ブリアン条約といいます。国策の手段としての戦争を放棄するという内容で、日本など15カ国が調印しました。
 10月1日、ソ連は、第一次5カ年計画を開始しました。
 11月7日、アメリカ大統領選挙が行われ、共和党のフーバーが当選しました。
14  1929(昭和4)年4月13日、ムソリーニは、ローマ法王とラテラン条約に調印し、バチカン市国の独立を承認しました。
 6月5日、ドイツ賠償に関するヤング案を発表し、支払年額358億マルク・年限を確定しました。
 8月6日、ヤング案に関する第一回ハーグ会議が開かれ、ドイツがこれを受諾しました。その結果、連合国はラインラント撤退に同意しました。
 10月24日、ニューヨーク株式市場が大暴落しました。これを暗黒の木曜日といいます。これが世界恐慌のはじまりといいます。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
国際連盟とウィルソン、面白い国アメリカ
 有名な国際連盟は、どういう経緯で成立し、そういう性格なのか調べてみました。
 ソヴィエト政権は、交戦国の民衆に「帝国主義政権の打倒と平和回復」を訴え、ドイツとの単独講和交渉に入りました。そこで、アメリカ大統領のウィルソンは、連合国の団結とロシアの民衆に戦争を継続を訴えるために、アメリカの議会で、歴史的は演説を行いました。それは、1918年1月8日のことでした。  その主な内容は、民族自決・無併合・無賠償などの勝利なき平和、国際連盟の設立などです。
14カ条の詳細は、次の通りです。
@公開外交による講和条約の締結
A海洋の自由
B経済障壁の除去と平等な通商条件の確立
C国内治安の維持に足る最小限度までの軍備削滅
D植民地要求の公正な解決
Fベルギーからの外国軍撤退と同国の回復
Gフランスからの外国軍撤退とアルザス、ロレーヌのフランスヘの返還
Hイタリア国境線の再調整
Iオーストリア-ハンガリー内諸民族の自治的発展
Jバルカン諸国の領土・国際関係の再調
Kオスマン=トルコ内非トルコ系諸民族の自治的発展とダーダネルス海峡の開放
Lポーランド国家の復活とその海への通路の保障
M大国、小国に等しく政治的独立と領土保全を相互に保障するための全面的な国家の連合の結成
 ウィルソンの理想は、最大の被害国のフランスの抵抗によって、現実的なベルサイユ条約になってしまったが、一部は国際連盟として結実しました。
 ウィルソンの理想はどこで培われたのでしょうか。
 1886年、ウィルソンは、ジョンズ・ホプキンズ大学で、政治学博士号を得ました。
 1890年、ウィルソンは、プリンストン大学の法律学と政治経済学の教授になりました。
 1902年、ウィルソンは、プリンストン大学の学長なりました。
 1910年、ウィルソンは、進歩的自由主義な考えが支持されて、ニュージャージー州知事に当選しました。
 1912年、民主党は大統領候補にウィルソンを指名しました。共和党はタフトとセオドア・ルーズベルトが対立して、分裂していました。ウィルソンは、ニュー・フリーダムを訴えて、大統領となりました。
 1916年、ウィルソンは、大統領に再選されました。
 1917年、ウィルソンは、デモクラシーを守るということを口実に、ドイツに宣戦を布告しました。
 1919年、ウィルソンは、脳卒中のため左半身が不随となりました。
 1920年、ウィルソンは、大統領選挙で、共和党のウォーレン・ハーディングに破れました。
 ベルサイユ条約の第1編に国際連盟規約に定められました。
 国際連盟は、世界の恒久平和をめざす史上初の大規模な国際機構となりました。本部は、スイスのジュネーヴにおかれました。参加国は42カ国でスタートし、最終的にはドイツやソ連も参加して64カ国が加盟しました。
 総会・理事会・連盟事務局を中心に運営され、国際労働機関と常設国際司法裁判所が付置されました。常任理事国には日本・イギリス・フランス・イタリアが選ばれました。連盟事務局次長に日本の新渡戸稲造が選ばれました。これは余り知られていない事実です。
 しかし、最高決定機関は、「理事会」ではなく「総会」にありました。決定方法も多数決ではなく、非現実的な全会一致を原則としていました。経済制裁権はあったが、軍事制裁権はありませんでした。その上敗戦国のドイツや社会主義国のソヴィエト=ロシアは除外されました。皮肉なことに、提案国アメリカが加盟しませんでした。その結果、紛争解決には有効な手立てをとる事が出来ませんでした。
 しかし、中小諸国の国境紛争調停や、文化交流には成果をあげました。また、国際連盟の長所を引き継ぎ、短所を修正して、国際連合に発展していきました。
 私が面白いと思ったのは、国際連盟の提案国であるアメリカが、国際連盟に参加しなかったことです。
 アメリカは、第一次世界大戦の時も、アメリカ人がドイツの無制限潜水艦作戦で犠牲になったことを口実に参戦しています。第二次世界大戦の時も、アメリカ人が日本人の真珠湾奇襲攻撃で犠牲になったことを口実に参戦しています。
 軍や政府は、早く参戦の意思を表明していますが、民衆がそれを許さなかったのです。これはアメリカの伝統的外交政策であるモンロー主義(単独主義)が背景にありました。
 アメリカは上院の反対で国際連盟に参加しませんでした。日本なら、国内の意向に反して、理想主義を発揮できるとは思えません。そういう意味で、面白い国アメリカと表現しました。
 イギリスの外交官であったハロルド・ニコルソンは、国際連盟につてい、次のように記録しています。
 「(ウィルソン)大統領の声明や演説は、道徳的に次元が高く、われわれは共鳴を惜しまぬが、米国民とくに議会が果たして支持するかが疑問だった。この疑問が亡霊のように会議場に出没していた」
 ニコルソンは、若い外交官でしたが、嗅覚は鋭かったといえます。

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