print home

エピソード

226_02

民族自決主義(ガンジーとインド)
 以前、ガンジーの映画を見たことがあります。
 インドのエリートとして、イギリスで弁護士となったガンジーは、インド人が多く居住している南アフリカに向かいます。その列車の中で、ガンジーは屈辱を味わいます。弁護士として一等車にのっていたガンジーに対して乗客が騒ぎ出します。そこで、車掌がガンジーを「インド人は二等車だ」と引きづり出そうとして時、ガンジーは、「私は弁護士だ」と拒否します。抵抗したガンジーは、次の駅で列車から叩き落とされます。
 ガンジーは、自分はイギリスの弁護士だという自負(魂)を持っていました。しかし、ガンジーは、南アフリカでは、インド人だということを自覚させられました。この時、ガンジーはイギリス人の魂を捨て、インド人になりきろうとしました。
 インド人ガンジーは、南アフリカでの戦いを組織して勝利しました。やがて、祖国に帰ったガンジーは、「非暴力・不服従運動」を唱え、自ら糸車を引いて、自分の服を作ったり、塩の作ったりして、反英運動をしていきました。ヒンズー教徒とイスラム教徒の融合を図ろうとしましたが、過激なヒンズー教徒に暗殺されました。
 これは、1982年の映画で「Gandhi」といいます。監督はリチャード=アッテンボロー、ガンジー役はベン=キングズレーでした。1983年度アカデミー賞の最優秀作品賞・最優秀男優賞・最優秀監督賞などを得ています。ビデオ映画を持っていて、時々鑑賞しています。
 ガンジーを通して、インドの歴史を調べてみました。
 1869年、ガンジーは、西部インドのポルパンダールでうまれました。日本では、明治2年です。
 1882年、ガンジーは、インドの慣習に従い、同い年のカストゥルバと結婚しました。時に13歳です。
 1888年、ガンジー(19歳)は、弁護士になるために、イギリスに留学します。
 1893年、ガンジー(24歳)は、インド人会社の顧問弁護士として、南アフリカに行きます。そこで、終生忘れることができない人種差別事件を体験します。ガンジーは、「非暴力・不服従運動」(サティヤーグラハ=真理の把握)を組織して、戦いに勝利します。
 1915年、ガンジー(46歳)は、インドに帰国します。ガンジーは反英闘争として、サティヤーグラハを展開していきます。
 1917年、インドでは、イギリスが第一次世界大戦をしている間に独立への運動が盛んになりました。ガンジー(48歳)は、チャンパランでサティヤーグラハ運動展開しました。
 8月、これを知ったイギリスのインド担当大臣であるモンタギューは、「第一次世界大戦後、インドの独立を約束する」と宣言しました。これをモンタギュー宣言といいます。独立に夢をかけたインドの青年120万人は、義勇軍としてイギリス側で参戦していきました。ガンジーも救援部隊を率いて参加しました。
 1918年11月、第一次世界大戦が終了しました。
 11月、インド国民会議穏健派は、国民自由連合を結成しました。
 1919年3月、インドでローラット法が可決されました。その内容は「令状の無い逮捕や裁判抜きの投獄の権限をインド総督に与える」というものでした。モンタギュー宣言に違反する内容だったので、インドでは全国的にハルタール(一斉休業)が実施されました。
 4月6日、約束不履行に怒ったガンジー(50歳)は、「われわれはパンを求めて石を与えられた」と第一次非暴力・不服従運動(サティヤーグラハ)を提唱しました。
 4月13日、インドのパンジャーブ地方のアムリットサルで集会が開かれました。そして、自治の約束無視とローラット法発布に抗議しました。その集会に集まった1万人のインド人に対して、イギリス軍が発砲し、インド人400人が死亡、1000人が負傷しました。これをアムリトッサル虐殺事件といいます。
 この事件の後、ガンジーはイギリスのインド総督に求めの応じて会談を持ちました。この時、「数万人のイギリス人には3億のインド人は支配できません。自分たちは未熟でも自分たちの政府を持ちたいのです」と訴えました。
 4月18日、全サティヤーグラハが中止されました。
 11月、インドでカリフ擁護のキラーファット会議が開かれました。
 12月、インド統治法が成立しました。州自治の一部を認めるが、イギリスが植民地インドを統治する法です。
 1920年、ジャワーハルラール=ネルーは、ケンブリッジ大学で弁護士の資格を得て帰国し、ガンジーと出会って国民会議派に入りました。このネルーこそ、後のインド首相です。
 全インド=ムスリム連盟が国民会議と提携したので、イギリス商品のボイコット、イギリスの行政機関への非協力、公立学校の生徒の退学、商店の自主的休業、地租支払い拒否などの運動が全インドに広がりました。
 1921年11月、イギリスの皇太子がインドを訪れました。ガンジー(52歳)は、全インド・ハルタルを宣言し、抵抗運動が高揚しました。
 12月、国民会議でガンジーの指導権が確立しました。ガンジーは「ヒンズー教徒ムスリムイスラム教徒)の団結、カースト制度の廃絶、イギリス人への挑戦」などを説きました。
 1922年2月5日、チャウリ・チャウラで暴動が起こり、インドの農民が警官を襲撃し、22人を殺害しました。これをチャウリ・チャウラ事件といいます。ガンジー(53歳)は、暴動の償いのため、反政府運動を中止し、21日間の断食を開始しました。この時ガンジーは「殺人と流血によって得た自由ならいらない」と言ったといいます。
 3月、イギリスのインド総督は、ガンジーは逮捕し、6年の懲役を宣告しました。
 1923年、ヒンズー・マハーサバーが成立し、イスラムとの対立が激化します。
 1925年6月、インドのスワラージ党の指導者であるグスが亡くなりました。その結果、スワラージ党は衰退しました。
 1926年、イギリスは、インド労働組合法を制定し、インドの労働運動を弾圧しました。ヒンズー教徒のムスリム(イスラム教徒)の対立がさらに激化する。
 1927年11月、イギリスで、インド統治に関するサイモン委員会を設置しました。
 12月、インドの国民会議は、サイモン委員会をボイコットし、完全独立を決議しました。
 1928年2月、サイモン委員会の代表がインドに到着し、インドの抵抗運動がさらに激化しました。
 4月、インド全政党委員会が成立し、委員長にモーティーラール=ネルーを選出しました。
 8月、ジャワーハルラール=ネルーを中心に国民会議派左派(急進派)を結成しました。
 1929年2月、インドの紡績工場でストライキがおこりました。イギリスのインド総督は、公案法案・労働争議法を公布して、指導者多数を逮捕しました。これをミーラト反逆事件といいます。
 10月、イギリスは、インドに対し、円卓会議を提案しました。
 12月、ネルーの指導のもとで開かれた国民会議派ラホール大会では「プールナ=スワラジ完全なる自治)」が宣言されました。
 1930年1月、インドで独立の日を制定しました。
 3月、ガンジー(61歳)は、製塩禁止法に反対して、イギリス商人から塩を買うことを止め、「塩はインド洋から取れる」と提案して、360kmに及ぶ有名な塩の行進を始めました。この行進は、効果的なパフォーマンスでした。世界のマス=コミが取材しました。ダラサナ製塩所で非暴力に徹して塩を作り続けました。逮捕される瞬間が世界に報道されました。
 4月、全インドで第二次不服従運動がおこりました。
 11月、イギリスでは、インドに自治権を与えるかどうかの第一次英印円卓会議が開かれました。ガンジーは獄中におり、国民会議派は不参加を決定しました。
 1931年3月、ガンジー(62歳)は、アーウィンと協定を結び、インドの不服従運動を中断しました。
 4月、強硬派のウェリントンがインド総督として着任しました。
 9月、釈放されたガンジーは、第二次英印円卓会議に参加しました。席上、イギリスは「将来的に必ず自治権を与える」とガンジーに約束しましたが、ガンジーは「現状の領土のままでの完全独立以外あり得ない」と拒絶しました。会議後、ガンジーは「もう固執しない。独立は熟れたりんごのように落ちてくる」と語ったといいます。
 1932年1月、ガンジー(63歳)は、三度逮捕されました。
 3月、インドで不服従運動が再開されたので、インド総督のウェリントンは、国民会議派を非合法組織としました。
 9月、不可触賎民分離に反対し、ガンジーは断食で抗議しました。その結果、ブーナ協定が成立しました。
 ガンジーはバークホワイトに対し「人間の幸福は物質ではない。幸福は労働と仕事に対する誇りから来る。…貧乏は最悪の暴力である。建設的な計画がインドを救う唯一の非暴力的解決だ。暴力は西洋のもつ不幸だ。それを輸入するのは進歩ではない」と語りました。
 1933年3月、イギリスは、新インド統治の三月白書を公表しました。
 7月、インドで大衆的不服従運動が停止され、個人的不服従運動が実施されました。
 1934年5月、ジャワーハルラール=ネルーは、全インド会議派社会党を結成しました。
 6月、国民会議派が合法化されました。
 10月、釈放されたガンジー(65歳)は国民会議派を引退し、不可触賤民の地位向上運動に従事し、彼らをハリジャン(神の子)と呼びました。
 1935年8月、連邦制と各州の責任自治制を導入する新インド統治法(改正インド統治法)が成立しました。その結果、インド人の完全独立の要求は無視された上に、新インド統治法の導入をめぐって、ヒンドゥー教徒の国民会議派とイスラム教徒の全インド=ムスリム連盟の対立が深まりました。こういう方法を分裂させて支配するといいます。
 1936年4月、ネルー指導下に国民会議大会が開催されました。
 1937年2月、インドで第一回州議会選挙が行われ、国民会議派が圧勝しました。
 4月、新インド統治法が実施されました。
 1938年12月、ジンナーのムスリム連盟は、国民会議派に対して態度を硬化させました。
 1939年9月1日、第二次世界大戦が始まりました。
 9月3日、インド総督のリンリスゴーは戦後の自治権授与を提案し、インドの大戦参加を発表しました。
 10月、インド国民会議派は、州内閣を総辞職しました。
 1940年3月、ラホールで、インド・ムスリム連盟大会が開かれ、ムスリム国建設を宣言しました。
 3月、国民会議派は、サティヤーグラハ再開を決定しました。
 8月、インド総督は、「8月提案」を発表しました。
 10月、国民会議派はサティヤーグラハ再開しました。しかしイギリスは徹底的弾圧策を採用しました。
 1941年12月、インド国民会議派は、戦争協力を決議しました。
 1942年3月、イギリスは、クリップスをインドに派遣しましたが、自治交渉は失敗しました。
 8月、全インド会議派委員会は、イギリスのインド撤退を決議しました。これに対して、イギリスは大弾圧で対抗しました。
10  1943年10月20日、イギリスのウェーベルがインド総督として着任しました。
 10月21日、チャンドラ=ボースは、シンガポールで自由インド仮政府を樹立し、イギリス・アメリカに宣戦を布告しました。
 1944年9月、ガンジー(75歳)は、ムスリムの指導者であるジンナーとインド独立問題で会談しましたが、不調に終わりました。
 1945年6月、インドの会議派やムスリム連盟などがシムラで会議しました。
 1946年2月、ボンベイのインド海軍水兵が反英ストを決行しました。
 5月、イギリス使節団は、インドの両派とシムラで円卓会議を開きました。その結果、イギリスは、インド独立案を発表しました。その内容は、インドは、ヒンズー教の国「インド」とイスラム教の国「パキスタン」とに分離して独立することなっていました。ガンジーは、「あくまでインドは1つの国である」と主張しました。
 しかし、国民会議派内部のイスラム系は、分離独立を主張しており、ガンジーの理想は非現実的なものとなっていました。
 8月、インドのカルカッタで、ムスリムとヒンズー教徒が大衝突しました。
 9月、ネルー臨時政府が成立しました。
 12月、インド憲法制定会議が発足しました。
11  1947年2月、イギリスは、インドへの政権移譲を発表しました。ガンジー(78歳)は、祖国をインドとパキスタンに分割することを受け入れた会議派の決定に反対しました。ジンナーは「私はインドの独立より回教徒が心配だ。ヒンドゥーが回教を支配するのは困る」と語りました。
 8月15日、インドが独立し、インド・パキスタンが分離・独立しました。ガンジーは、独立式典に参加しませんでした。
 12月、インド・パキスタン国境付近で、カシミール紛争が起こりました。ガンジーは、この時、「戦いが起きないことを信じさせてくれ」と言って、カルカッタへ行き、対立する2つの宗教グループの和解を求めて断食に入りました。78歳の老いたガンジーの姿を見て、ヒンズー教とイスラム教の指導者は和解しました。
 ネルーは「ガンジーは死にかけている。我々の狂気のせいだ。復讐は忘れるのだ。人を殺して何になる。何が正しいか諸君も知っているはずだ。お願いだ。兄弟のように抱き合ってくれ」と説きました。
 1948年1月30日、ヒンドゥー教徒の過激派であるゴードセーは、ガンジーを暗殺しました。ガンジーは、その時、79歳でした。
 この項は『世界史年表』などを参考にしました、
ガンジーとガンジーの思想
 ガンジーは、インドの裕福な家庭に生まれました。裕福な家庭では、子供が社会に目を向けて家業を継がないと困るので、早くから結婚させる習慣がありました。ガンジーも13歳の時に結婚します。
 歳を重ねると、外の若い女性に目を向けると困るので、若い女性を側女にします。ガンジーの父も、若い女性を側女にします。ガンジーは、その若い側女と愛し合っている最中に、父が亡くなってしまいました。それが原因で、イギリスに留学したといいます。マハトマ(聖)とは思えない時代があったのです。
 インドの国旗を見ると、真ん中に糸車が描かれています。この糸車をチャルカといいます。
 ガンジーは、ボンベイで外国製衣類を焼き、チャルカ(手動式の糸紡ぎ)を使って、インド古来の製法による布を作りました。この手紡ぎの布をカディといいます。それを、インド風の腰にして着ました。
 当時、インドは、イギリス綿製品の最大市場だっただけに、チャルカとカディの流行は、イギリス経済は大打撃を受けました。
 ガンジーは、口では反英を唱えているが、着たり、食べたり、乗ったりする物がイギリス製では、本当の反英にならないということを、非暴力・不服従で訴えたのです。
 ガンジーの塩の行進という話があります。海に行って塩を作れば済みます。それを360kmも歩いて海岸に行ったのです。私の住んでいる相生から京都までは直線で120kmです。新幹線で約1時間かかります。つまり、新幹線で約3時間の距離を、「塩を作りに行こう!」を幟を立てて進むのです。共感したインド人がゾクゾクと従います。これはマスコミにとって最高の取材対象です。ガンジーは、情報操作という点でも天才でした。
 イギリス政府は、取材陣が注目する中、メンツのために、「悪法も法である」とガンジーを逮捕します。これを見たり、聞いたりしたインド人は、各地で抗議を行い、ついには、刑務所に収容できない逮捕者となりました。
 世界中の非難を浴びたイギリス政府は、海岸部の住民のみという条件で、塩を作る許可を与えました。
 ガンジーは、「あくまでインドは1つの国である」ことを主張し、暗殺されました。独立を急いだヒンズー教徒はインドとして独立を、ムスリムはパキスタンとして独立を選択し、狡猾な大英帝国の作戦にはまってしまいました。
 ヒンズー教徒に地域はインド、ムスリムの地域はパキスタンと、図面上では線引きできても、住んでいる地域は不可能です。インドに入りたい地域とパキスタンに入りたい地域が競合している時は、宗教が原因の場合、紛争が怒るのは当然です。いわゆる印パ戦争です。
 ガンジーはそこまで読んで、分離・独立に反対したのです。印パ戦争で漁夫の利を得たのは、当然大英帝国です。紳士の国です。
 ガンジーとインドで見てきたように、法律は権力者が自分の都合のいいように制定してきたことが分かります。独立した民主的国家は、法律で支配者の権力をチェックします。その歴史だったことを、ガンジーは教えてくれました。
 最近(2005年11月)、愛国心を説く憲法改正案が自民党から報告されました。憲法で愛国心を強制するという発想です。ガンジーの教えからすると、独立した民主的国家の法律には反します。
 これも最近(2005年11月)の話です。TVによく出演して、歯切れよく愛国心を訴える弁護士で政治家がいました。ところが、弁護士資格のない人に弁護活動(非弁活動)をさせて、その人からかなりの報酬を得ていたというのです。愛国心を説き、愛国心を押し付ける意図がどこにあるか、よく理解できる例です。まさに自分の金儲けのために、国民を知らしめないことを愛国心と信じているのです。
 ガンジーのように、民衆を愛する人が、本当に国を愛する人だということを教えられました。

index