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エピソード

226_03

民族自決主義(アラブ人・イスラム教とユダヤ・ユダヤ教)
 現在(2005年)、日本の自衛隊がイラクに派遣されています。
 数次にわたる中東戦争がありました。湾岸戦争もありました。その都度、石油価格が変動して、日本人の日常生活に影響を与えています。
 中東の歴史には、日本の歴史でもあるのです。
 私たちがユダヤ人という場合、まず想像されるのが、ナチスによって弾圧されたユダヤ人です。1616年に亡くなったシェークスピアの作品である『ベニスの商人』にでてくるシャイロックだったりします。1616年は徳川家康が亡くなった年でもあります。既にイギリスでも、ユダヤ人に対する差別意識があったことが分かります。
 一神教のキリスト教を信仰するヨーロッパでは、一神教のユダヤ教を信仰するユダヤ人に対する反ユダヤ主義が横行しています。ペストが流行すると、その原因をユダヤ人に負わせました。
 19世紀には、ユダヤ人は人種的に劣った民族で、優秀なヨーロッパ人種に害を与えるという考え方が蔓延しました。この意識を利用したヒトラーは、ユダヤ人排斥運動に焦点を絞り、貧困にあえぐヨーロッパ人の心理を巧みに掴みました。これをポピュラリズムといいます。小泉首相の得意とする手法です。
 ヒトラーによると、ユダヤ人とは母親がユダヤ人であると定義されます。今のイスラエルでは、母親がユダヤ人かユダヤ教に改宗した人と定義されます。
 真の「ユダヤ人」(オリジナル・ユダヤ人)とは、『旧約聖書』に登場するアブラハム、アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブの子孫をいいます。
 ユダヤ人の祖は、「アブラハムの次男イサクの子ヤコブの子孫(イスラエル12支族)」です。実は、アラブ人の祖も、「アブラハムの長男イシュマエルの子孫」なのです。つまり、ユダヤ人とアラブ人とは、「アブラハムの血族(セム系民族)」を祖としており、同胞だったのです。 
 事実、20世紀初頭に第一次世界大戦が起こるまでのパレスチナでは、アラブ人とオリジナル・ユダヤ人とは仲良く共存していました。余り知られていない真実です。
 紀元前2000年、遊牧の民であるアブラムの家族をメソポタミア人は、「ハビル人」(移動する人々)と呼びました。アブラムの家族は、ユーフラテス川地域からパレスチナ地方を経て、エジプトに移動したので、エジプト人は「ヘブライ人」(川の対岸からやって来た人々)」と呼びました。
 アブラムは、神の啓示を受けて、アブラハムに改名しました。アブラハムには、イシュマエルイサクという2人の息子がいました。イシュマエルはアラブ民族の父となりました。イサクには、エサウヤコブという双子の息子がいました。弟のヤコブは神の啓示によってイスラエルと改名しました。イスラエル(ヤコブ)はイスラエル民族の父となりました。
 イスラエル(ヤコブ)は、4人の妻との間に12人の息子がいました。12人の子孫をイスラエル12支族といいます。
 イスラエル(ヤコブ)に最も可愛がられていたのが11番目の息子であるヨセフで、兄たちの嫉妬から、エジプトに売られました。イスラエル(ヤコブ)とヨセフの兄たちがエジプトに行くと、エジプト首相(ファラオの次位)になっていたヨセフが出迎えました。イスラエル(ヤコブ)一族はエジプトの地で繁栄しましたが、それをねたまれ、ファラオに中傷され、エジプトの全イスラエル民族が奴隷にされてしまいます。
 紀元前1230年、預言者モーセは、全イスラエル民族を率いてエジプトを脱出します。以後40年間に及ぶ放浪生活の結果、十戒などが授けられます。彼らは、これを神がイスラエル12支族を選んで契約したと考え、選民意識を持つ「原ユダヤ教」が誕生しました。
 紀元前1250年、預言者モーセの後を引き継いだヨシュアは、イスラエル12支族を率いてヨルダン川を横断し、約束の地カナン(パレスチナ地方)へ移動しました。ここにイスラエル王国の基礎が築かれました。
 紀元前1010年、羊飼いのダビデは、全イスラエル民族を統一し、イスラエル統一王国を設立しました。
 紀元前955年、ダビデの息子であるソロモンの時代に、イスラエル史上最大の繁栄をもたらしました。ソロモン王は、巨大な神殿を建設しました。これをイェルサレム(ソロモン)第一神殿といいます。 
 紀元前925年、ソロモンが亡くなり、その息子のレハベアムが即位すると、繁栄の裏の重税に不満を持つエラフイム族のヤラベアムが反乱をおこしました。
 ヤラベアムを支持するルベン族・シメオン族・ダン族・ナフタリ族・ガド族・アシェル族・イッサカル族・ゼブルン族・エフライム族・マナセ族の10支族と、レビ族の一部は、サマリアを首都とする北イスラエル王国北朝)の建国を宣言しました。北イスラエル王国は、黄金の子牛像を作り、偶像崇拝は始めました。これをヤロベアムの罪といいます。
 ソロモンの息子を正統と考えるユダ族・ベニヤミン族の2支族と、レビ族の一部は、イェルサレムを首都とする南ユダ王国南朝)の建国を宣言しました。南ユダ王国は、イェルサレム(ソロモン)第一神殿で絶対神ヤハウェを信仰する伝統を維持しました。
 紀元前722年、アッシリア帝国は、パレスチナ地方に侵入し、北イスラエル王国を滅ぼしました。北朝のイスラエルの10支族は、アッシリアに連行されました。これをニネベの捕囚といいます。
 紀元前587年、新バビロニア王国は、南ユダ王国を滅ぼしました。南朝のイスラエル2支族は、バビロンに連行されました。これをバビロンの捕囚といいます。新バビロニア王は、イェルサレム(ソロモン)第一神殿を破壊しました。
 紀元前538年、アケメネス朝ペルシア帝国は、新バビロニア王国を滅ぼしました。アケメネス朝ペルシア帝国の寛容な宗教政策によって、南朝のイスラエル2支族(ユダ族とベニヤミン族)はパレスチナに帰ることができました。彼らは南ユダ王国(南朝)の首都イェルサレムに、イェルサレム(ソロモン)第一神殿を再建しました。
 彼らは、苦難の歴史を通じて、先の選民意識を持ち、試練に耐えれば、救世主メシアキリスト)が現われ、イスラエル2支族(ユダ族とベニヤミン族)は世界の支配者になれると信じて、契約厳守の律法主義を貫こうと考えました。これを新ユダヤ教といいます。
 紀元前538年、アッシリア帝国が滅亡しました。解放されるべき北朝のイスラエル10支族は、200年の捕囚生活で、同化したのか、消滅していました。その結果、イスラエル2支族(ユダ族とベニヤミン族)がユダヤ人、その王国がユダヤ王国と呼ばれるようになります。
 紀元前63年、ローマ帝国は、ユダヤ王国を征服しました。
 紀元前37年、ローマ帝国のエドム人(非ユダヤ人)のヘロデがユダヤの王となりました。選民意識をもつユダヤ人は、エドム人(非ユダヤ人)のヘロデ王には反抗的でした。他方、ローマを支持する現実的なユダヤ人も出てきました。
 紀元前後イエスが誕生しました。
 紀元後26年、ポンティウス・ピラトゥスは、ユダヤ州総督として着任しました。
 紀元後28年、ヨハネは、ヨルダン川南部でバプテスマの活動を開始しました。イエスは、バプテスマを受けました。
 イエスが新しい神の法を説き始めると、イエスをメシア(救世主=キリスト)として認めるか認めないかで、ユダヤ人の間で分裂がおきました。イエスは、新しい神との契約(新約)を説きました。パリサイ派は、モーセがシナイ山で授かった神との契約(旧約)を厳守する律法主義を保守しようとしました。イエスもユダヤ人、12人の弟子もユダヤ人です。パリサイ派もユダヤ人です。
 紀元後32年、パリサイ派の説くユダヤ教の神は、人を裁く神です。イエスの説く神は、太陽のように平等にふりそそぐの愛のようなものです。パリサイ派のユダヤ教学者は、神を冒涜したとして、イエスを訴えました。イエスの12人の弟子のユダが裏切り、イエスは磔の刑に処せられます。
 紀元後47年、パウロが伝道を開始しました。
 紀元後48年、イェルサレムで使徒会議が開かれました。
 紀元後66年、ローマ帝国内のユダヤ人が武装蜂起しました。これを第一次ユダヤ戦争といいます。
 紀元後68年、ローマ皇帝のネロが反乱を弾圧し、イェルサレム(ソロモン)第一神殿を完全に破壊しました。この時、破壊された一部を嘆きの壁といいます。
 132年、パル・コクバを首領とするユダヤ人が反乱をおこしました。これを第二次ユダヤ戦争といいます。ローマ帝国は、ユダヤ州をシリア・パレスチナ州と変更し、ユダヤ人をイェルサレムから追放しました。その後、ユダヤ人は各地を放浪する生活を余儀なくされました。その結果、ユダヤ人は、排他的・独善的選民思想によって自民族を団結し、非ユダヤ人のことを「ゴイム(家畜)」と表現し罵るようになりました。これが他民族や他宗教から非難される原因となりました。
 313年、ローマ帝国のコンスタンティヌス1世は、ミラノ勅令キリスト教を公認しました。
 380年、ローマ帝国のテオドシウス帝は、勅令により正統派キリスト教の信仰のみを命令しました。これをキリスト教の国教化といいます。その結果、ユダヤ教徒は公職から追放されました。これを最初の反ユダヤ主義といいます。
 391年、ローマ帝国は、キリスト教以外の宗教を禁止しました。
 570年、アラビア半島の西ヒジャーズ (ヘジャズ) 地方のメッカで、マホメットはクライシュ族ハーシム家の商人として生まれました。メッカを支配しているクライシュ族はカーバ神殿の守護者でした。
 612年、マホメットは、ヒラー山中で、大天使ガブリエルから、最後の預言者という神の啓示を受けました。イスラム教が認める預言者とは、アダムノア・アブラハム・モーセ・イエスをいい、ムハンマド(マホメット ) は、最大にして最後の預言者ということになります。
 ここでも、キリスト教徒とムスリム(イスラム教徒)との断絶はありませんでした。
 622年、迫害を受けたムハンマドマホメット)は、親友アブー・バクルらと、メッカからメディナに移住しました。これをヒジュラ (聖遷 )といいます。ここでイスラム教が成立しました。イスラームとはアラビア語の「アッラーへの絶対的帰依」という意味です。イスラムの信仰の基本を六信五行といいます。六信とは6つの事柄を信じ、五行とは5つの勤行を行うことです。六信五行を完備した者をムスリム(イスラム教徒)といいます。イスラム教の聖典を『コーラン』といいます。
 630年、マホメットがメッカを再征服し、カーバ神殿の偶像を破壊しました。
 631年、マホメッがアラビア半島を統一しました。その結果、パレスチナはイスラム教の支配下に入りました。といっても、アラブ人とユダヤ人はアブラハムの兄弟関係に当たります。そのため、アラブ人は、ユダヤ人には人頭税を課す代わりに、その宗教と生活を保護しました。この段階では、ムスリム(イスラム教徒)とユダヤ教徒は迫害しあう関係ではありませんでした。
10  631年、マホメットが亡くなり、アブー・バクルが初代カリフ (後継者) となりました。
 634年、アブー・バクルが亡くなり、オマル第二代カリフになりました。
 644年、オマルが暗殺され、オスマーン第三代カリフになりました。
 656年、オスマーンが暗殺され、アリー第四代カリフになりました。アリーは、メディナよりイラクのクーファへ移り、マホメットの妻であるアーイシャと戦い、イスラム世界が分裂しました。
 657年、アリーの軍とウマイヤ家ムアーウィアがスィッフィーンで戦いました。
 660年、ムアーウィアは、イェルサレムでカリフに推薦されました。
 661年、アリーが暗殺され、正統カリフの時代(632〜661)が終わり、ウマイヤ朝(661〜750)が始まりました。ここに多数派の正統派であるスンナ派と、少数派の異端であるシーア派が誕生しました。
11 【1】スンナ派とは、預言者マホメットの慣行(スンナ)に従うという意味です。アブー=バクルとウマルとウスマーンというアリー以前の3人のカリフを正統カリフと認める派です。
 その特徴は、預言者マホメットの慣行(スンナ)に従い、ウンマ(イスラム共同体)の間の合意を重視しています。
 歴史的にはウマイヤ朝(661〜750)・アッバース朝(750〜1258)・セルジューク朝(1038〜1157)・オスマン朝(1298〜1922)がスンナ派です。
 ムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブが創始したサウジアラビアのワッハーブ派は、コーラン・スンナの規定を厳格に適用しようとするイスラム原理主義運動を展開しています。
12 【2】シーア派は、シーア(党派)・アリー(第四代カリフ)のことです。マホメットの従兄弟で娘婿の第四代カリフのアリーとその子孫のみをイマーム(無垢・無謬の指導者)と認め、それ以降の歴代カリフの正統性を否認します。その根拠は、預言者マホメットが第四代カリフのアリーに秘義を授けて自らの後継者としたことを挙げています。
 その特徴は、イマームの指導を重視して、アリーを初代のイマームとしています。イマームは死んだのではなく隠れており、マフディーとして再臨するなどの神秘的な側面を持っています。
 歴史的には、ファーティマ朝(909〜1171)・サファヴィー朝(1502〜1736)がシーアはです。
 イランでは、国内のムスリム(イスラム教徒)の95%がシーア派です。それ以外では、バーレーンの70%、イラクの55%、パキスタンの20%、サウジアラビアの東部の10%がシーア派です。
 誰をイマームと認めるかで、多数の分派が誕生しました。
(1)十二イマーム派は、シーア派最大で、サファヴィー朝(1502〜1736)成立以来イランの国教的存在で、イラク南部・レバノンにも分布します。マホメットの血縁であるアリーを初代イマームとして、この男系を12代まで認めています。イマームが隠れている間は、法学者(ウラマー)がイマームの意図を知ってウンマ (イスラム共同体) を導きます。このため法学者が最高権威として認められます。
(2)イスマーイール派は、イスマーイールの子であるムハンマドを正統とする派です。シーア派の6代目イマームであるジャーファル・アッサーディクの後継者としてその子ムーサーを認めず、その兄イスマーイールの子であるムハンマドを正統な7代目で、最後のイマームであると主張しました。ファーティマ朝(909〜1171)の国教となりました。インド・パキスタンで、広く分布しています。
13  1055年、セルジュークのトゥグリル・ベクは、バグダードに入り、カリフよりスルターンの称号を得て、イラン・イラクを支配しました。カリフを教皇とすると、スルターンは皇帝という関係になります。このセルジューク朝トルコは、ユダヤ人を圧迫しました。そこで、彼らは本部をベニスに移しました。『ベニスの商人』が誕生する背景がここにあります。
 1078年、ローマ教皇グレゴリウス7世がユダヤ人に対し公職追放令を出すと、職業組合からユダヤ人が締め出されました。そこで、ユダヤ人は、キリスト教徒に禁止されていた金融業に手をだしました。カネに汚い高利貸しのユダヤ人というイメージが定着しました。
 1096年、ローマ教皇ウルバヌス2世は、十字軍遠征(7回派遣)を提唱しました。その対象となったのがユダヤ人です。「ユダヤ人は悪魔がキリスト教国とその信徒を抹殺するために送り込んだ悪魔の集団である」と宣伝されました。
 1099年、十字軍は、聖地イェルサレムを奪回し、イェルサレム王国を創立しました。
 1187年、アイユーブ朝のサラディンは、キリスト教の聖地イェルサレムを占領しました。
14  1469年、スペイン北部のカスティリャ皇女のイサベルとスペイン東部のアルゴン王子のフェルナンドが結婚しました。
 1469年、カスティリャ王国とアルゴン王国が合併して、スペイン王国が樹立されました。
 1492年、スペイン王国は、イベリア半島に孤立した半島最後のイスラム王朝であるナスル朝を攻撃しました。そして、ナスル朝の首都グラナダを陥落させました。これをレコンキスタ(キリスト教徒の国土回復運動)の完了といいます。
 この時、古代ローマ帝国に迫害され、スペインに移住していたオリジナル・ユダヤ人(東洋系ユダヤ人)がナスル朝に協力したとされ、ユダヤ教徒が弾圧されました。一部はキリスト教に改宗し、改宗を拒否したユダヤ人は追放され、多数が地中海周辺の都市に移住しました。
 1554年、ローマ教皇パウルス4世は、イエスを殺害した民族というヨーロッパ人の偏見を利用して、ユダヤ人をヴェネチアのゲットーへの居住を強制しました。これがゲットーの始まりです。
 一部のユダヤ人は、高級官僚や宮廷出入りの御用商人となっていたためホフ・ユーゲン(宮廷ユダヤ人)と呼ばれていました。現在、世界最大・最強の財閥といわれるロスチャイルド財閥も、ホフ・ユーゲンの出といわれています。
15  1791年、フランス革命後のフランス議会は、ユダヤ人に平等の権利を認めました。
 1881年、その反動で、ユダヤ人を諸悪の根源とみなす過激な反ユダヤ主義運動がおこりました。ロシアではポグロムというユダヤ人虐殺事件が起こりました。
 1894年10月、フランス参謀本部付のユダヤ人陸軍大尉ドレフュスドイツのスパイの容疑で逮捕されました。陸相メルシエは、ドレフュスがユダヤ人であることから、有罪を確信しました。しかし、ドレフュスは、無実を訴え続けました。これをドレフュス事件といいます。
 12月、軍法会議は、ドレフュスの有罪を認め、フランス領ギアナの悪魔島での終身懲役をいいわたしました。
16  1897年、スイスで第1回シオニスト会議が開かれ、シオニズム運動が討議されました。シオニズム運動とは、ドレフュス事件に刺激を受けたテオドール・ヘルツェルが提唱した「ユダヤ人がその故地であるシオンの丘に帰還して国家を再建する運動」のことです。シオンの丘とはソロモン神殿があった聖地イェルサレムを中心としたパレスチナの土地のことです。
 1898年1月、クレマンソーらとドレフュスの再審運動を展開していたエミール=ゾラは「われ弾劾す」と題する大統領あての公開状を「オーロール」紙に発表しました。この公開状は大反響を呼びました。
 1906年7月、ドレフュスは無罪判決を勝ち取りました。
 20世紀初頭、ヨーロッパからパレスチナへの移民が急増し、パレスチナのユダヤ人口は16万人に達しました。この段階でも、パレスチナでのユダヤ教徒とムスリム(イスラム教徒)は共存していました。
 1914年8月、第一次世界大戦が始まりました。
 1915年3月、イギリス・フランス両軍は、オスマン・トルコ領である東アラブ地域(レバノン・シリア・、パレスチナ・イスラエル・イラク・ヨルダン)で、ドイツの同盟国であるオスマン・トルコと交戦しました。この時、イギリスとフランスは、戦後に東アラブ地域を両国で分割する秘密条約を結んでいました。
 10月、イギリスの駐エジプト弁務官のマクマホンは、メッカの大守フセインに対し、オスマントルコに対する反乱の見返りに、戦後東アラブ地方(イラク、シリア、ヨルダン、レバノン、パレスチナ)およびアラビア半島にアラブ王国建設を支持する事を約束ししました。これをフセイン・マクマホン宣言といいます。
17  1916年5月、イギリス・フランス・ロシアはサイクス・ピコ秘密協定を結び、トルコ分割を決定しました。
 10月、イギリス人のロレンスは、アラブ国家樹立を夢見て、ジッダに上陸しました。彼をアラビアのロレンスといいます。
 1917年11月、イギリス外相バルフォアは、ユダヤ人の有力者ロスチャイルドに援助を求め、「連合国を支援すれば、パレスチナにユダヤ国家再建を約束する」という書簡を出しました。これをバルフォア宣言といいます。
 12月、イギリス軍は、イェルサレムを占領しました。
 1918年3月、トルコは、ソ連とブレスト=リトフスク条約に調印し、トルコ・ソ連軍は、イランから撤退しました。秘密協定により、イラク北部・シリア・レバノンはフランス領、イラク北部の一部地域・中部・南部・ヨルダン・パレスチナはイギリス領としました。
 6月、イギリスは、アラブ民族主義運動を肯定しました。これを7人への宣言といいます。
 10月、イギリスのロレンスとファイサル(メッカの大守フセインの三男)率いるアラブ軍がシリアのダマスクスに入城しました。ファイサルは、アラブ臨時政府を樹立しました。
 11月、第一次世界大戦が終了しました。
18  1919年6月、ベルサイユ条約で、パレスチナはイギリスの委任統治領となりました。
 1920年、英仏の秘密協定により、フランス軍がシリアのダマスカス攻撃すると、ファイサルは敗走し、フランスは、シリアを占領しました。
 アブドゥラー(メッカの大守フセインの次男)は、シリアへ向けて進軍しました。この時、イギリスは、イギリス委任統治領のパレスチナの東半分(ヨルダン川以東)を割譲することをアブドゥラーに提案しました。その結果、パレスチナのヨルダン川以東は、トランス・ヨルダン首長国となり、アブドゥラーが初代首長となりました。
 この時、66万8000人のアラブ人がパレスチナの土地の98%を所有していたのに対し、8万4000人のユダヤ人は2%の土地を所有していました。
 1922年2月、イギリスがエジプトの保護権を廃止しました。その結果、エジプトは、一応独立しました。
19  1935年9月、ヒトラー=ナチスは、ニュルンベルグ法を制定し、ユダヤ人のドイツ市民権を奪いました。ドイツ人とユダヤ人の結婚も禁止しました。
 1938年11月、ナチスはユダヤ人の教会に放火し、商店を襲い、3万人以上のユダヤ人を、強制収容所に送り込みました。
 1939年9月、第二次世界大戦が始まりました。ユダヤ人に対して黄色い星のバッジをつける命令を発しました。
 ナチス=ドイツによるホロコースト(ユダヤ人絶滅政策)が始まり、6百万人が「ユダヤ人である」という理由だけで虐殺されたといわれています。
 1942年1月、ベルリン郊外のヴァンゼーで、ヨーロッパに住む1100万のユダヤ人抹殺計画が決定されました。これをユダヤ人問題の最終的解決といいます。アウシュヴィッツなどの強制収容所でユダヤ人が大量に虐殺されました。
21  1947年2月、イギリスは、パレスチナ問題の解決を国連に委ねました。
 11月、国連総会は国連パレスチナ特別委員会(UNSCOP)のパレスチナをアラブ、ユダヤの2ヶ国に分割し、イェルサレムおよび周辺地域を国際管理下におくというパレスチナ分割案を賛成多数で、採択しました。アラブ諸国は、この決議に強く反発しました。
 アラブ諸国により構成されていたアラブ連盟は、ユダヤ人国家を武力で阻止すると宣言しました。その結果、アラブとユダヤは武力衝突に突入しました。
 1948年5月、イスラエル国家がテルアビブで樹立されました。これに反発するシリア・エジプト・、レバノン・イラクなどの軍隊がイスラエル軍と交戦しました。これを第一次中東戦争といいます。イスラエルは次第に優勢になりました。
 76万人に膨らんだユダヤ人がパレスチナ領土の75%以上を支配するようになり、135万人のアラブ人がパレスチナから追い出されました。
 1949年2月、休戦協定が結ばれました。その結果、イスラエルは、パレスチナ全土の3分の2を占領しました。これは国連によるパレスチナ分割決議の57%を大きく上回りました。
 イスラエルとトランス・ヨルダンは、イェルサレムを東西に分割し、東イェルサレムはトランス・ヨルダン、西イェルサレムはイスラエルの支配下に入りました。
 この項は、『世界史年表』などを参考にしました。
宗教が政治的に利用された時、悲劇が誕生する
 ユダヤ人のノーベル賞受賞者を調べてみました。
 化学賞は22人、物理学賞は31人、医学賞は45人で、自然系は合計98人になります。
 経済学賞は13人、文学賞は10人、平和賞は8人で、社会系は合計31人になります。両方合わせると129人になります。
 ユダヤ人の人口は、イスラエル本国に480万人です。アメリカ580万人・フランス60万人・イギリス30万人など670万人です。合計すると、1150万人で、ノーベル賞受賞者は129人になります。
 日本人の人口は1億2511万人です。ノーベル賞受賞者は、湯川秀樹(物理学賞)・朝永振一郎(物理学賞)・川端康成(文学賞)・江崎玲於奈(物理学賞)・佐藤栄作(平和賞)・福井謙一(化学賞)・利根川進(医学・生理学賞)・大江健三郎(文学賞)・白川英樹(化学賞)・野依良治(化学賞)・小柴昌俊(物理学賞)・田中耕一(化学賞)の12人の方です。
 ノーベル賞受賞者のユダヤ人には、ハイネ、マルクス、フロイト、アインシュタイン、オッペンハイマー、チャップリン、ロバート=キャパ、シャガール、キッシンジャーらがいます。
 1769年、ロスチャイルド1世(26歳)は、フランクフルトの領主であるヘッセン侯爵家のウィリアム皇太子(ウィリアム9世)に接近し、ヘッセン侯爵家の「宮廷のユダヤ人(ホフ・ユーゲン)」となりました。
 1785年、ウィリアム9世は4000万ドルを相続し、さらに、自国の国民を「傭兵」として貸し付け、莫大な利益を手に入れました。
 1806年、ナポレオン1世がヨーロッパ遠征を開始しました。ウィリアム9世は、莫大な財産をロスチャイルド1世に管理させました。ロスチャイルド1世は、それをロンドンに送りました。三男ネイサン(ロスチャイルド2世)は、「ロンドン・ロスチャイルド商会」を設立し、莫大な財産を管理しました。
 パリの五男とウィーンの次男は、ヨーロッパ中に通信・輸送網を完成させました。
 1815年、ロスチャイルド2世は、ワーテルローの戦いで「ナポレオン勝利」のニセ情報を流し、暴落した株を買い占めました。その後、「イギリス軍勝利」の情報が伝わり、暴騰した株を売りぬきました。その結果、300万ドルの資産を75億ドルに増加させました。
 1835年、ロスチャイルド3世は、膨大な資金を背景に、「ヨーロッパの鉄道王」になったり、「ロイヤル・ダッチ・シェル」を設立したりしました。
 1940年、ロスチャイルド一族は、アメリカ資産の2倍、全世界の富の50%を支配しているいいます。
 イェルサレム東部に菱形をした面積約1平方kmの地がイェルサレム旧市街です。
 イェルサレム旧市街の西北にはキリスト教徒の地区、東北にはイスラム教徒の地区、東南にはユダヤ教徒の地区があります。
 ユダヤ教にとっては、イェルサレムは南ユダ王国の首都で、イェルサレム神殿があった場所です。「神殿の丘」の神殿とは、イェルサレム神殿のことです。有名な「嘆きの壁」は、ローマ帝国によって破壊された唯一の遺構です。現在のユダヤ人は、この壁に額を押しあて、荒廃を嘆き、その回復を祈るユダヤ人の聖地です。 
 キリスト教にとっては、イェルサレムはイエスが十字架にかけられたゴルゴダの丘と、イエスが埋葬・復活した墓があります。これらを含む巨大聖堂を聖墳墓教会といいます。
 ユダヤ教徒の地区の「嘆きの壁」に接した東側にイスラム教の聖地である「岩のドーム」があります。イスラム教徒の側から見ると、「岩のドーム」がある「神殿の丘」地域をとりまく壁の西側に「嘆きの壁」があることになります。
 どうしてユダヤ教徒の聖地にイスラム教徒の「岩のドーム」が出来たのでしょうか。開祖ムハンマド(マホメット)が次のような夢を見ました。メッカのカーバ神殿から天子ガブリエルに連れられて天馬に乗って巨岩の上にやってきました。そこで光のハシゴに乗って昇天したというのです。イェルサレムを征服したイスラム王朝は、巨岩を囲むように八角形の「岩のドーム」を建立しました。
 不思議なことですが、東洋系ユダヤ人(スファラディ系ユダヤ人)とアラブ人の先祖は、同じアブラハムの末裔(セム系民族)だったのです。彼らは仲がよく、歴史的に対立する要素はありませんでした。
 「外国からのユダヤ人が来るまでは、お互い行ったり来たりしながら仲良く暮らしていた」という言葉は、1948年以前にパレスチナに住んでいたアラブ人がよく口にする言葉です。
 「外国からのユダヤ人」というのは、建国後に移住して来た欧米系のユダヤ人を指しています。欧米系のユダヤ人は、カナンの時代からパレスチナに住んでいたセム系先住民の土地を、豊富な資金と強力な武器を背景に奪取していったのです、これが、血と血で争う対立の背景なのです。
 私は、宗教の違いは悲劇を生むと信じていましたが、日本の歴史や世界の歴史をよく調べると、それは誤解だったことに気がつきました。
 宗教が政治的に利用された時、悲劇が産むことを学びました。

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