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エピソード

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民族自決、朝鮮と中国の場合
 1911(明治44)年、武昌の新軍と中国革命同盟会が武装蜂起しました。これが辛亥革命です。
 1912(明治45)年1月、南京に中華民国政府が成立し、孫文臨時大総統に就任しました。
 2月、宣統帝溥儀が退位し、1616年から約300年続いた清朝が滅亡しました。
 3月10日、袁世凱は、中華民国政府臨時大総統に就任し、独裁を強化しました。
 8月25日、袁世凱の独裁に反対する宋教仁らは、国民党を結成しました。
 1914(大正3)年7月、第一次世界大戦が始まりました。
 8月、日本は、日英同盟を口実にドイツに宣戦を布告しました。
 10月、日本海軍は、赤道以北ドイツ領南洋諸島の一部を占領しました。
 11月、日本陸軍は、ドイツ領山東省の青島を占領しました。
 1915(大正4)年1月18日、大隈重信内閣は、袁世凱に、対華21か条を要求しました。
 2月3日、馮国璋張作霖ら19人の将軍は、日本の21か条要求に断固反対を表明しました。
 2月25日、日本から帰国した留学生らが上海で、日貨排斥運動がおこしました。
 3月中旬、日本は、山東・漢口・満州方面の日本軍を増強し、袁世凱に圧力をかけました。
 5月7日、日本政府は、第五号をのぞいた最後通牒を袁世凱政府に突きつけました。
 5月9日、袁世凱は、対華21か条を承認しました。
 5月9日、中国は、この日を国恥記念日として、以後、抗日運動に発展していきました。
 1916(大正5)年4月、中華民国政府北京政府)は、袁世凱大総統の退陣と副大総統黎元洪の昇格を発表しました。
 4月、段祺瑞安徽派軍閥の巨頭)は、中華民国政府(北京政府)の国務総理となり、親日政策を採用することで、日本の経済的な支援を受けました。
 6月、袁世凱が病死しました。これを憤死という人もいます。
 7月、第四次日露協約が締結されました。内容は、「日露間で特殊権益擁護を相互に承認する」というものでした。秘密協約で、「中国が第三国の政事敵掌握に陥るのを防ぐために相互軍事援助を行うこと」を規定しました。
 10月9日、@18寺内正毅内閣が成立しました。
 10月30日、黎元洪大総統は、段祺瑞内閣(国務総理)と対立するようになり、馮国璋直隷系軍閥の巨頭)を中華民国政府の副総統に選出しました。
 1917(大正6)年1月、段祺瑞内閣に借款500万円を供与しました。これが西原借款の最初です。
 2月、英国覚書を発表しました。その内容は、次の通りです。
(1)イギリスは、講和会議での日本の利権を約束する。
(2)山東省のドイツ権益ならびに赤道以北のドイツ領諸島に関する日本の要求を支持する。
 3月、フランス・ロシアもイギリスの提案を支持すると回答しました。
 9月10日、大元帥孫文は、広東軍政府樹立を宣言しました。段祺瑞の北京政府に対し、孫文の政府を広東政府といいます。中国は南北分裂の状態に入りました。これが護法運動の開始です。
 9月13日、孫文の広東軍政府は、ドイツに宣戦布告しました。
 9月28日、日本興業銀行朝鮮銀行台湾銀行は、段祺瑞内閣に対し、交通銀行への借款2000万円を供与するという契約を締結しました。これを西原借款の本格化といいます。
 11月2日、中国における利害を調節する石井・ランシング協定に調印しました。
 11月7日、ロシア10月革命がおこりました。
 1918(大正7)年7月、南北軍閥が妥協して、広東改組軍政府を樹立しました。武力を持たない孫文の護法運動は失敗しました。
 9月28日、西原借款の合計は1億4500万円に達しました。中国の特殊利益につながる政治的借款として内外から非難がおこりました。
 9月29日、@19原敬内閣が誕生しました。
 11月、第一次世界大戦が終了しました。
 1919(大正8)年1月18日、パリ講和会議が開かれました。
 1月27日、講和会議で、牧野伸顕全権は、山東半島のドイツ利権の譲渡を要求しました。
 1月28日、中国代表は、山東の中国還付を要求しました。
 2月7日、国際連盟規約委員会で、日本代表は、人種的差別待遇撤廃案を提出しましたが、アメリカ・イギリスのの反対で不採用となりました。
 2月8日、在日朝鮮留学生は、東京で朝鮮民族大会召集請願と独立期成宣言書を発表しました。
 3月1日、京城・平壌などで、朝鮮独立宣言を発表し、示威運動が朝鮮全土に拡大しました。これを三・一運動とか、万歳事件といいます。
 4月8日、陸軍省は、朝鮮の騒擾を鎮圧するために、内地より6個大隊と憲兵400人を増派すると発表しました。1個大隊は1000人ですから、6000人の軍隊と思想を取り締まる憲兵400人を派遣したことになります。
 4月10日、朝鮮の民族主義者は、上海で大韓民国臨時政府を樹立し、国務総理に李承晩を推薦しました。
 4月15日、朝鮮総督府は、政治に関する犯罪処罰の件を制定しました。その内容は、「政治変革をめざす大衆行動とその扇動を厳罰に処す」というものです。
 4月28日、パリ講和会議は、国際連盟規約を完成しました。
 5月4日、講和会議は、ドイツ領山東半島・赤道以北のドイツ領南洋諸島の委任統治権の利権を日本に認める決定をしました。
 5月4日、北京の学生3000人は、山東問題に抗議し示威運動を展開しました。これを五・四運動といいます。
 5月7日、講和会議は、「ドイツ利権を日本に譲渡する」と決定しました。
 5月7日、北京と上海で国民大会を開き、青島還付を要求しました。
 5月7日、日本の中国人留学生2000人も、東京で、国恥祈念デモを挙行しました。
 5月19日、北京学生連合会は、北京政府の外交に抗議するストを宣言しました。これをきっかけに、日華排斥運動に発展しました。
 5月、西原借款は、アメリカが提唱した日英米仏新借款団の成立にって、その効力を失いました。
 6月3日、北京学生連合会は、市民・労働者との共闘を呼びかけ、反帝愛国のデモを行いました。
 6月4日、朝鮮の竜山で、第20個師団開庁式を行いました。その結果、常備軍は21個師団となりました。
 6月5日、上海の日系紡績工場の2万人の労働者がストを決行しました。
 6月10日、北京政府は、講和条約不調印を決定しました。
 6月16日、上海で全国学生連合会が結成されました。
 6月18日、中国各省代表および北京・天津の学生は講和条約不調印の大請願運動を開始しました。
 6月28日、ベルサイユ条約が調印されました。
 8月1日、大川周明北一輝らは、国家主義団体の猶存社を結成しました。
 8月12日、海軍大将の斉藤実を朝鮮総督に、水野錬太郎を朝鮮総督府政務総監に任命しました。
 9月2日、朝鮮総督の斉藤実は、京城南大門駅で羌宇奎に爆弾を投げつけられるという事件がありました。
 10月10日、中国革命党が中国国民党に改組されました。
 11月16日、日本の浪人100人が福州で、抗日学生に暴行を働きました。これが福州事件です。
 11月21日、福州の学生・商人の抗議デモに続いて、北京・上海でも抗議運動が展開されました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
三・一事件
 1919年1月、高宗李太王が急死しました。高宗は、日本人によって毒殺されたとの噂が流れました。
 アメリカ大統領のウィルソンは、民族自決を主張しました。これを知った朝鮮の留学生は、1919年2月8日、東京で、「2・8独立宣言」を発表しました。
 この結果、朝鮮でも、前の朝鮮皇帝である高宗の国葬を期して、独立運動を盛り上げようという雰囲気が出てきました。孫秉煕らは、高宗の国葬の日である3月3日に、独立宣言を発表する予定でしたが、日本の弾圧を避けるために3月1日に変更しました。 
 3月1日、京城・平壌など6カ所で、「独立万歳」を叫びながら、デモ行進が行われました。特に京城では、パコダ公園に集会した朝鮮人は、タブーとされていた「日本人と日本軍隊は出て行け」「朝鮮独立万歳」「高宗皇帝と明成皇后(閔妃)の怨恨をはらそう」などと叫びました。この運動は3月末まで続きました。
 その参加者は朝鮮総督府の調査では106万人(朴殷植著『朝鮮独立運動の血史』では203万人。以下同)で、死者は553人(7509人)、負傷者は1409人(1万5961人)となっています。
 京城では、デモ参加者を十字架台に上げて、殺害したといいます。
 一部では、数の多少を問題にしていますが、私は、あった事実を重視しています。
 三・一事件の中で問題にされるのが、堤岩里事件です。
 3月28日、朝鮮人1000人は、独立万歳運動を叫んでデモ行進をしました。日本人警官がデモ隊に発砲して、朝鮮人3人が死亡しました。激怒した朝鮮人デモ隊は、駐在所を襲撃し、また、日本人家屋に放火しました。
 3月29日、この日も、朝鮮人が駐在所や日本人家屋を襲撃しました。
 4月13日、陸軍歩兵79連隊を指揮する有田俊夫中尉は、堤岩里の天道教徒・キリスト教徒の6人をデモのリーダーとして殺害しました。数千人を殺害したとも言われています。
 4月18日、この事件は、堤岩里を訪問したスコットフィルド宣教師によりカナダやアメリカの知人に伝えられました。
 一部では、「有田俊夫中尉らが取り調べをしていた時、逃げようとしたので、それを阻止した。すると、他の連中が棒などで殴りかかってきたので、1人を切り、残りを射殺した。この混乱で、出火があり、強風にあおられて教会が全焼した」と弁解していますが、あったという事実を認めています。
 日本では、騷動発生の原因を「宣教師の煽動」とか「民族自決主義の誤解」によると報道されました。三・一事件に共感を示したのは、白樺派の柳宗悦ら少数でした。
 この事実を知ったアメリカでも、朝鮮民衆の独立運動を「愚かな行動」と判断し、「朝鮮問題は純然たる日本の内政問題」であという態度を表明しました。
 韓国では、三・一事件に関して、柳寛順という女性が烈士として祀られています。
 1902年、柳寛順が生まれました。
 1910年、柳寛順が8歳の時、日韓併合が行われました。
 1915年、柳寛順(14歳)は、キリスト教の女性宣教師アリス・H・シャープに優秀性をかわれて、京城は梨花学堂(現在の梨花女子大学)に編入しました。
 1919年3月1日、柳寛順が18歳の時、三・一事件がおきました。柳寛順は、デモに参加しようとしましたが、学校はそれを禁止しました。
 3月13日、柳寛順は、故郷に帰って独立運動を計画しました。
 4月1日、柳寛順は、多くの民衆を前に、「大韓万歳!」と演説しました。その後、弾圧の象徴である憲兵隊にデモ行進しました。このデモ隊に対して、憲兵隊は発砲しました。柳寛順の父と母がその犠牲になりました。柳寛順もデモの首謀者として逮捕されました。これを並川事件といいます。
 1920年4月、恩赦で逮捕された多くの学生が釈放されましたが、首謀者である柳寛順は、様々な拷問を受けました。それでも、彼女は「私は大韓の人間である。日本人に私を裁く権利はない」と主張を重ね、椅子を裁判長に投げつけたりしました。
 10月、柳寛順が亡くなりました。時に19歳でした。彼女は韓国のジャンヌ=ダルクといわれています。
 以前、NHKの討論番組を見ました。日本人や韓国人・中国人など各年齢層の参加者が歴史認識について話し合っていました。日本人の30代の女性が「日本の経済援助は、朝鮮の発展に寄与している」と発言しました。それに対して韓国の若者が「寄与していると言うのは、援助する側が言うのでなく、援助される側が言うのではないでしょうか。私たちの祖父母は嫌がっていました」と反論すると、日本人女性は怪訝な顔をしていました。
 「脚の痛みは、踏んだ者は分からない」という諺があります。真理です。今でも、日本の経済援助が韓国の発展に寄与すると信じている人がいます。私の知人の韓国人は「侵略がない方がもっと発展していた」と主張しています。

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