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エピソード

227_01

ワシントン会議と協調外交
 第一次世界大戦は、国際情勢を激変させました。
 国土を戦場にせず、戦勝国となったアメリカは、戦前にあった債務30億ドルを解消し、逆に戦後は150億ドルの債権を持つようになりました。その結果、アメリカは、戦後の国際政治をリードする立場になりました。
 同じく、国土を戦場にせず、戦勝国となった日本は、アジアのリーダーとなり、五大国の一つとなりました。福沢諭吉が描いた脱亜入欧を達成したのです。
 世界で最初の社会主義国ソヴィエト政権が誕生し、独自の外交を展開しました。
 中国では五・四運動が民族解放運動という性格を帯びて、東アジアに緊張をもたらしました。
 1918(大正7)年9月、@19原敬内閣が誕生しました。
 1921(大正10)年3月4日、アメリカで第29代大統領に共和党のハーディングが当選しました。ハーディングは、革新主義・国際協調主義を掲げた民主党のウィルソンの政策を否定し、国是であった孤立主義への回帰を主張し、戦争に疲れた民衆に支持されました。ハーディングは、国務長官ヒューズ・財務長官メロン・商務長官フーバーなどを抜擢しました。
 7月11日、アメリカは、日本・イギリス・フランス・イタリアに対して、軍備制限や太平洋・極東における列強間の関係を調整するために、ワシントン会議の開催を非公式に提議しました。この時期に、アメリカがワシントン会議を開催する意図は何だったのでしょうか。
(1)第一次世界大戦を利用して日本は、中国に大々的に進出しました。
(2)ベルサイユ会議によって日本は、21か条の要求やドイツ権益を承認されました。アメリカも石井・ランシング協定でこの決定を承認していました。共和党のハーディングは、これは認めたくない事実でした。
(3)イギリスは、日英同盟を利用して領土的野心を増大させる日本に警戒し、極東における新しい国際秩序を形成することをアメリカに伝言していました。
(4)第一次世界大戦後、反戦意識が高揚し、軍備縮小を求める国際世論が拡大しました。当時、日本では八・八艦隊、アメリカでは三年艦隊(別名ダニエルズ・プラン)という計画がありました。
 9月27日、ワシントン会議全権に、貴族議院議長徳川家達・海相加藤友三郎幣原喜重郎後藤新平を任命しました。
 11月4日、原敬首相(66歳)が刺殺されました。
 11月12日、ワシントン会議が開かれました。席上、アメリカの国務長官であるヒューズは、建造中の主力艦の廃棄・保有比率の設定を提案しました。
(1)ヒューズの提案は、主力艦保有比率は、アメリカ(10)・イギリス(10)・日本(6)というものでした。
(2)日本の加藤友三郎らの主張は、対米英7割でした。
(3)イギリスのバルフォアは、アメリカの提案を支持しました。
 11月13日、@20高橋是清内閣が誕生しました。蔵相の高橋是清・外相の内田康哉・陸相の山梨半造・海相の加藤友三郎らが留任しました。
 12月12日、加藤友三郎全権は、太平洋防備の現状維持を提議しました。
 12月13日、首相兼蔵相の高橋是清は、建艦競争は日本の財政を破綻させると考え、アメリカ案の受け入れを決意しました。その結果、太平洋方面における島嶼たる領地の相互尊重を約する四カ国条約に調印しました。四カ国とはアメリカ・イギリス・日本・フランスです。日英同盟を破棄させるための条約です。その内容は、次の通りです。
(1)太平洋方面における島嶼たる属地および領地に関する権利を相互に尊重することを約束し、外交交渉によって解決できない紛争が生じた場合には、共同会議を開いて調整する。
(2)右の権利が他国の侵略行為によって脅かされる場合には、共同または個別に最も有効で隔意のない交渉を行う。
(3)有効期限は10年とし、その後は調印国が1年の予告によって終了させるという権利を行使しない限り存続する。
(4)この条約が批准されると同時に、日英同盟は終了する。
 海相の加藤友三郎は、日本海海戦の連合艦隊参謀総長などを歴任している海軍の実力者だったので、海軍や憲政党の反対を抑えて調印しました。しかし、後に問題を残します。
 12月13日、四カ国条約が調印された結果、日英同盟が破棄されました。
 1922(大正11)年2月6日、ワシントン会議が終了しました。
 そこでは、五カ国条約が締結されました。五カ国とはアメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアです。その内容は、次の通りです。これでは、日本はアメリカやイギリスと戦争が出来ません。
(1)主力艦保有比率は、アメリカ(10)・イギリス(10)・日本(6)・フランス(3)・イタリア(3)とする。
(2)保有すべき主力艦の隻数とトン 数
 @戦艦は、アメリカ(52万5000トン)・イギリス(52万5000トン)・日本(31万3000トン)・フランス(17万5000トン)・イタリア(17万5000トン)とする。
 A空母は、アメリカ(13万5000トン)・イギリス(13万5000トン)・日本(8万1000トン)・フランス(6万トン)・イタリア(6万トン)とする。
(3)巡洋艦は、制限を設けず、基準排水量は1万トン以下とする
(4)今後10カ年間は、主力艦の建造を中止する。
U  2月6日、 九カ国条約が締結されました。その経緯を見てみましょう。中国側全権は、自国の領土保存・民族自決などを主張しました。しかし、アメリカ・イギリスはこれを拒否し、限定的な内容を主張しました。そこで、アメリカ全権のルートが妥協案を作成しました。日本には不利な内容でしたが、多数には勝てず、受諾を決定しました。九カ国とは米・英・日・仏・伊・中・蘭・白・葡です。白はベルギー、葡はポルトガルです。その内容は、次の通りです。
(1)中国の主権・独立、領土的・行政的保全を尊重する。
(2)中国が自ら有力かつ堅固な政府を確立するため、完全にして障害のなき機会を供与する。
(3)中国の領土をとおして、いっさいの国民の商工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持するため、各国が尽力する。
(4)友好国の国民の権利を減殺すべき特別の権利または特権を求めるため中国における情勢を利用する。
 2月6日、石井・ランシング協定が破棄されました。
 2月6日、日本は、山東半島を返還し、対華21カ条の要求の一部を放棄しました。
 ワシントン会議で締結された四カ国条約・五カ国条約・九カ国条約によって成立した体制をワシントン体制といいます。
 ワシントン体制は、軍縮によるアジア・太平洋地域の秩序の再編であり、膨張する日本の抑制策(封じ込め)だったことは明らかです。
 この体制を遵守するグループを協調外交派といい、幣原喜重郎がその中心でした。
 この体制を否定するグループを強硬外交派といい、弊原外交を軟弱外交と批判しました。
 3月25日、衆議院は、各派共同提出の陸軍軍縮縮小嫌疑案を可決しました。その内容は、次の通りです。これを陸軍大臣である山梨半造の名をとって山梨軍縮といいます。
(1)歩兵在営期間を1年4カ月に短縮する。
(2)経費を年額4000万円節減する。
 6月6日、高橋是清内閣は、内閣改造問題で閣内不一致のため総辞職しました。非改造派の元田肇鉄道相・中橋徳五郎文相ら6人を政友会から除名しました。
 6月9日、@21加藤友三郎内閣が誕生しました。蔵相の市来乙彦が新任で、外相の内田康哉・陸相の山梨半造・海相の加藤友三郎らは留任しました。
 7月3日、海軍は、軍備整備計画を発表し、旧艦10隻を廃艦することにしました。
 7月4日、陸軍は、軍備整備計画を発表し、陸軍10万人を削減することにしました。
 12月17日、日本の青島守備軍は撤退を完了しました。
 1923(大正12)年2月1日、ソ連のヨッフェが後藤新平の招きで来日し、日ソ復交に関して私的会談を行いました。
 2月28日、帝国国防方針が裁可され、想定敵国はアメリカ・ソ連・中国の順となりました。
 6月28日、川上俊彦・ヨッフェ間に日ソ非公式予備交渉が開始されました。
 8月24日、加藤友三郎首相(63歳)が病死(大腸ガン)しました。
 9月1日、関東大震災がおこりました。
 9月2日、@22第二次山本権兵衛内閣が誕生しました。蔵相の井上準之助・外相山本権兵衛(兼任)・陸相の田中義一・海相の財部彪・文相犬養毅らが就任しました。
 12月27日、無政府主義者の難波大助摂政宮裕仁親王を狙撃しました。これを虎の門事件といいます。
 12月27日、山本権兵衛内閣が総辞職しました。
 1924(大正13)年1月7日、@23清浦奎吾内閣が誕生しました。蔵相の勝田主計・外相の松井慶四郎・陸相の宇垣一成・海相の村上格一らが就任しました。清浦奎吾は、超然主義を表明しました。
 1月10日、第二次護憲運動がおこりました。
 6月7日、清浦奎吾内閣が総辞職しました。
 6月11日、@24加藤高明内閣が誕生しました。これを護憲三派内閣といいます。蔵相の浜口雄幸・外相の幣原喜重郎・陸相の宇垣一成・海相の財部彪らが就任しました。幣原喜重郎が外相に就任し、幣原協調外交を展開しました。協調外交は政友会の基本政策となりました。
 1925(大正14)年1月20日、北京で日ソ基本条約に調印しました。この結果、日ソの国交が回復し、
北樺太からの軍隊の撤兵と油田開発が取り決められました。
 5月1日、宇垣一成陸相は、高田・豊橋・岡山・久留米の4個師団廃止を発表しました。その裏で、航空・戦車部隊の増強と兵器の機械化と近代化を推進しました。これを宇垣軍縮といいます。
 5月28日、青島の在華紡で、解雇による中国人労働者の死傷事件が発生しました。旅順から駆逐艦2隻が青島に派遣されました。
 1926(大正15)年、軍事費が27%に減少しました(1921年は49%)。
 対米英ソ外交も関係改善に成功しました。その結果、1920年半ばの対米輸出は40%・輸入は30%を占めるようになりました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
火事場泥棒とワシントン会議
 「a thief at a fire」という言葉をご存知でしょうか。日本語では「火事場泥棒」といいます。
 第一次世界大戦中、欧米がヨーロッパに釘付けになっている間に、日本が極東で専横を働いたということです。
 アメリカは、イギリスに対して、「日本が日英同盟を利用して、極東でやりたい放題のことをしている」と非難しました。イギリスも、これを承知していて、英日米での対応を提案しましたが、アメリカは拒否しました。この結果、英米同盟が成立したことになります。
 日英が同盟すればアメリカの脅威になるし、英米が同盟すれば日本の脅威になります。
 日本は、国際連盟の5常任理事国の1つになって、ワシントン会議は最初の国際会議です。アメリカに出発する全権に対して、国民は盛大な見送りをしました。しかし、後藤新平(61歳)は、「私は列強の法廷に引き出される被告の気持ちです」と言ったので、多くの日本人はその真意が分からず、「何を弱気なことを言っているのか」と不信に思ったということです。
 結果は、後藤新平が予言したとおり、ワシントン会議は日本を封じ込める性格だったことが分かります。当時、国際情勢に通じていた人が日本にもいたんだということを感じました。
 日本海軍は、仮想敵国をアメリカとしており、そのためには対米7割以上の主力艦保有が必要でした。 海軍強硬派の意見を見ると、「彼らの意思は明らかに東洋における帝国海軍の優位を奪わんとするにあり」とか「日本は対英米7割を獲得できない限り、断然、会議を脱退する」と主張しています。
 しかし、海相で、海軍の実力者である加藤友三郎は、会議の席上「日本は米国の提案を促したる高遠の理想に共鳴せざるをえず。ゆえに日本は欣然右提案を主義上受諾し、敢然、海軍軍備の大々的削減に着手するの用意あり」発言し、海軍軍縮条約に賛成しました。八・八艦隊(戦艦8隻・巡洋艦8隻)の予算は、国家予算の29%に達していたのです。
 ワシントン軍縮会議では、巡洋艦や駆逐艦が対象外となりました。その結果、巡洋艦や駆逐艦が建艦競争の対象となり、補助艦を制限するロンドン海軍軍縮条約が必要となりました。
 その後、加藤友三郎派を条約派といい、条約反対派を艦隊派といい、海軍内で対立する存在となります。それが、1930年のロンドン海軍軍縮条約で、統帥権干犯問題に発展します。
 加藤友三郎は軍縮条約を受け入れた時の記録を残しています。その内容は、次の通りです。
 「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人のみにてなし得べきものにあらず。民間工業力を発展せしめ、貿易を奨励し、真に国力を充実するにあらずんば、如何に軍備の充実あるも活用するあたわず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし。日本と戦争の起こる可能性のあるのは米国のみなり。仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段に依り戦争を避くることが、目下の時勢に於いて国防の本義なりと信ず」
 加藤友三郎のことを調べるうちに、なかなか国際的なバランス感覚を持った人だと思いました。
 加藤友三郎がなくなった時、アメリカの海軍少将であったウイリアム・プラットは、「加藤男爵は最も立派で偉大な紳士の一人だと、(ワシントン)会議中から確信するようになりました。日本の国政が彼の掌中にある限り、日米間に平和友好的に解決できない問題はないと考えた」と書いています。
 ワシントン会議は軍縮と中国問題が対象となりました。ここでは、朝鮮が対象になっていません。
 列強諸国の間では、解決済みとして処理されていることがわかります。
軍事費の割合(単位は1000円) @軍縮会議前49.0%
A軍縮会議後27.5%
B1936年は二・二六事件
 のあった年
C軍国主義など勇ましい掛
 け声と比例して国民生活
 は圧迫される
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今も靖国参拝や憲法改正、
中韓への高圧的態度など
勇ましい掛け声がマス=コミ
をにぎわせています。
 勇ましい掛け声の裏には
増税があり、国民生活は我
慢を強いられます。
 ご用心!ご用心!
年度 一般会計歳出額 一般会計軍事費 歳出に占める軍事
費の割合(%)
1915 583,269 182,168 31.2
1917 735,024 285,871 38.9
1920 1,359,978 649,758 47.8
1921 1,489,855 730,568 49.0
1922 1,429,689 604,801 42.3
1923 1,521,050 499,071 32.8
1924 1,625,024 455,192 28.0
1926 1,578,826 434,248 27.5
1928 1,814,855 517,237 28.5
1930 1,557,863 442,859 28.4
1932 1,950,140 686,384 35.2
1933 2,254,662 872,620 38.7
1934 2,163,003 941,881 43.6
1935 2,206,477 1,032,936 46.8
1936 2,282,175 1,078,169 47.2

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