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エピソード

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社会運動の勃興と普選運動T(平塚雷鳥、青鞜社)
 人間が人間である権利を、人権といいます。人権が人権であるためには、個人として自立して、初めて自由と平等が確立します。そして、民主主義という思想が必要です。
 人間の歴史は、この人権を人権たらしめるための歴史であったといえるでしょう。
 第一次世界大戦後の世界は、民主主義・平和主義の風潮が広まりました。また、社会主義革命によってソ連が誕生したり、米騒動という民衆運動で内閣を倒したりしました。その結果、労働運動・社会運動が活発化しました。
 対戦中、産業はめざましい発展をとげ、その結果、労働者が大幅に増加しました。
 他方、サラリーマンは物価暴騰によって、生活苦を強いられ、労働争議を起こすようになりました。
 経済学者で京大教授の河上肇は『貧乏物語』を新聞に連載し、知識人の社会問題についての関心を高めました。
 1902(明治35)年7月15日、呉海軍工廠の職工1600人は、就業規則の復旧などで騒擾をおこしました。
 7月16日、職工5000人がストライキを決行しました。軍隊が出動して鎮圧しました。
 1905(明治38)年、婦人運動家の景山英子(41歳)は、婦人の社会運動を禁止している治安警察法の改正運動を展開しました。
 1911(明治44)年、平塚雷鳥(26歳)は、女子の文学団体である青鞜社を設立しました。そして、雑誌『青鞜』により婦人運動を推進しました。
 1912(大正元)年、鈴木文治(28歳)は、労資協調の運動団体である友愛会を結成しました。やがて友愛会は、労働組合の全国組織として急速に発展していきます。
 1916(大正5)年、帝大教授吉野作造(39歳)は、民本主義を主張して、「政治の目的は福祉で、政策決定は民衆の意向にもとずく」と説きました。
 1917(大正6)年、ロシア革命がおこり、社会主義者の活動が活発化しました。
 1918(大正7)年、吉野作造らの指導の下に進歩的学生が東大新人会を結成し、社会科学の研究・啓蒙を図りました。
 1919(大正8)年4月、高畠素之(34歳)は、堺利彦と別れて、国家社会主義を提唱しました。
 8月1日、大アジア主義者の大川周明・国粋主義者の北一輝らは、国家主義団体である猶存社を結成しました。
 8月、国粋主義者の北一輝(32歳)は、『日本国家改造案大綱』を刊行して、国家社会主義を提唱しました。
 10月、友愛会は、大日本労働総同盟友愛会と改称し、戦闘的立場に転向しました。そして、綱領として8時間労働、幼年労働の廃止、普選を掲げました。
 1920(大正9)年1月10日、東大教授森戸辰男は、『クロポトキンの社会思想の研究』を刊行しましたが、危険思想の宣伝であるとして休職処分になりました。これを森戸事件といいます。
 2月5日、八幡製鉄所の職工1万数千人がストライキに突入しました。組合幹部19人が検束されましたが、9時間3交代制実施などを獲得しました。
 2月11日、友愛会など111団体が、東京で、数万人の普選大行進を行いました。
 2月28日、衆議院で、普選法案を討議中に、原敬内閣は、普選を時期尚早として衆議院を解散しました。
 3月、平塚雷鳥(35歳)・市川房枝(28歳)・奥むめお(26歳)らは新婦人協会を設立して、婦人参政権の獲得を目指しました。
 5月2日、日本で最初の労働者の祝日であるメーデー(5月1日)が日曜日に行われました。
 12月、新旧の共産主義者・無政府主義者・改良主義者は、反資本主義ということで大同団結して、日本社会主義同盟を結成しました。大杉栄らの無政府主義・アナ−キズムが同盟内では、優勢でした。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
平塚雷鳥と「原始女性は太陽であった」
 私が高校生のとき、男子のクラスメートと議論をしたことがありました。テーマは、「妻は働くべきが、専業主婦たるべきか」というものでした。25人の内、23人が「夫の甲斐性で、が妻の生活をみるべきだ」と主張し、「その時の選択は別として、働きたいいう女性は働くべきだ」と主張したのは、私を含め2名でした。
 今でこそ、女性の社会進出は当然視されていますが、私の高校生の時は、私の母を含め、職業婦人は非常に稀でした。そして、私は、共働きを希望する女性と結婚しました。
 今の職場でも、男子に負けずと頑張る女性は「可愛い気がない」と敬遠される傾向があります。思っていても言えない弱い立場のパートとか非常勤の女性が「可愛らしく見える」のか、職場結婚の対象として話題となります。
 それから類推して、明治時代に、男女同権を唱える女性を男性はどう見ていたのでしょうか。
 ここでは、2人の女性、平塚雷鳥さんと市川房江さんを取り上げました。
 1886年、平塚明(はる)は、東京で、誕生しました。その後、平塚明は、日本女子大学校(今の日本女子大学)家政科を卒業しました。
 1908年、平塚明は、成美女子英語学校に進みました。そこで教師をしていた生田長江の文学講座を担当したのが講師の森田草平(28歳)でした。森田草平は、生田長江と帝大の同期で、夏目漱石に師事して小説を学んでいました。そんな森田草平と出会った平塚明は23歳でした。
 森田草平が平塚明の処女小説に対して、感想を手紙で届けたことから、2人は急に接近しました。しかし、森田草平には妻子がいました。追い詰められた2人は、心中を覚悟で、栃木県の西那須野駅に下車して、雪深い塩原温泉に向かいました。平塚明は本気で遺書まで残していましたが、森田草平は、雪に足をとられ、塩原尾頭峠で、歩けなくなりました。2人はすっかり死ぬ気が失せました。
 平塚明の遺書を読んだ親が警察に捜索願を出し、2人を助け出しました。しかし、マスコミは、平塚明を「男嫌いで哲学、禅に凝っていた」女子大出の変人として、塩原事件と書き立てました。当時の女性の立場がよく現れている事件でした。
 森田草平は、師の夏目漱石に相談しました。夏目漱石は、2人の結婚を勧めましたが、平塚明は、森田草平に失望し、彼から離れました。この時、平塚明が詠んだ歌は、「恋ふる身の おそれえ堪へぬ 弱ごころ 恋ふるが故に 死をこそ願へ」だったといいます。
 1909年、森田草平は、夏目漱石に進められて、心中事件を扱った小説を『煤煙』と題して、朝日新聞に発表しました。そのことから、心中事件を煤煙事件ともいわれます。
 1911年、スウェーデンの婦人運動家エレン=ケイの思想と禅の影響を受けた平塚雷鳥(明のペンネーム。26歳)は、婦人運動研究の青鞜社を創設し、機関誌『青鞜』を発行しました。その創刊号で、有名な「元始、女性は太陽であった。真性の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。」を発表しました。
 その意味は、太陽(男性)は自ら光を発するが、月(女性)は太陽(男性)の光を受けて(養われて)反射する(着飾っている)だけである。つまり女性も職業を持って自活しよう。それによって初めて、男女平等といえる。
 これは、日本で最初の女性解放の宣言といえる衝撃的な内容でした。『青鞜』は、女性解放運動に大きな影響を与えました。
 青鞜という言葉は、18世紀のイギリスで「新しい女性」運動をしていた女性がブルー・ストッキングをはいていたことから、命名されました。当時の男性は、それを紺足袋党と訳して、平塚らいてうらの活動を茶化しました。女性の自立は、ひ弱な男性には、気になって仕方がないのでしょう。
 1915年、平塚雷鳥(30歳)は、画家の奥村博史(25歳)と同棲し、理想的な男女の共同生活を唱えました。平塚雷鳥は、再び、「新しい女」として注目されました。しかし、『青鞜』活動にあこがれ、平塚雷鳥を師として集まった女性活動家には耐えられないことでした。 
 これを知ったメ奥村博史は、平塚雷鳥に「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」という手紙を書いて、姿を消したといいます。この手紙から、年下の恋人を「若いツバメ」というようになったということです。
 1916年、平塚雷鳥(31歳)を慕い、『青鞜』に集まっていた1人に伊藤野枝(21歳)がいました。伊藤野枝には、上野高等女学校時代の教師であった辻潤(28歳)との間に2人の子がいました。しかし、伊藤野枝は、夫・子を捨て、夫の友人である大杉栄(31歳)のもとへ走りました。
 しかし、大杉栄には妻の保子がいました。また、大杉栄の「それぞれが経済的に独立し、別居しながら恋愛する」という考えに共鳴し、思想(革命論)にもひかれた記者の神近市子という愛人もいました。それを知りながら、伊藤野枝は「たとえ大杉さんに幾人の愛人が同時にあろうとも、私は私だけの物を与えて、ほしいものだけのものをとり得て」と考えているのでした。
 大杉栄にはそれだけの魅力があったのでしょうか。やがて、神近市子は、自分の経済力を当てにして、恋愛論や革命論を語る大杉栄や伊藤野枝に疑問を持つようになります。そして起きたのが、日蔭茶屋事件です。神近市子は、大杉栄を刺し、自分は警察に自首するという事件です。
 神近市子も『青鞜』に集ったこともあり、次々事件をおこす「新しい女」には、好奇心と、妬みと、誹謗中傷が入り混じり、家族制度・家庭を破壊する連中と非難されました。
 私の大学生時代、親から仕送りを受け、働く人との連携もなく、革命家気取りの学生がいました。卒論を「ナンセンス」とか「資本家に魂を売る行為」とか言って馬鹿にして、学生大衆から離れていきました。
 就職のシーズンになると、リクルートファッション(当時はリクルート社なありませんでした)に身を固め、会社訪問をする革命家気取りを見かけたものです。
 新しいことをすると、「出る杭は打たれる」ものです。それだけに、大衆と遊離しないことが大切です。しかし、教科書に名を残すような英雄は、小さい時から英雄だったので、大衆の感覚とピントがずれているのです。だからこそ、大衆と遊離しないようにと努力する小人とは違う行動が出来るのかもしれません。
 その結果を、ずーっと後に、大衆が追っかけるのかも知れません。
 1920年(大正9)、平塚雷鳥(35歳)は、市川房枝・奥むめおらと。新婦人協会を結成し、婦人参政運動に取り組みました。
 1922年、平塚雷鳥(37歳)らの運動で、婦人の集会を禁止する治安警察法第5条の一部改正に成功しました。
 1970年、平塚雷鳥(85歳)は、ベトナム戦争が起こると、「ベトナム母と子保健センター」を設立し、「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言して、最後まで、信念を変えることなく、婦人運動に取り組みました。
 1971年、平塚雷鳥が亡くなりました。時に86歳でした。

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