print home

エピソード

229_01

社会運動の勃興と普選運動U(全国水平社、日本共産党)
 1921(大正10)年4月、山川菊栄が婦人の社会主義者団体である赤瀾会を結成しました。
 6月25日、三菱内燃機関神戸工場の職工は、団体交渉権・増給の嘆願書を提出し、争議に突入しました。
 7月、三菱造船所・川崎造船所に拡大し、3万5000人参加しました。最大の争議になりました。
 7月12日、川崎争議団は、工場管理を宣言しました。
 7月14日、川崎争議団に、軍隊が出動しました。
 7月24日、石川島造船所職工らが造機船工労組を結成し、増給・退職手当を要求し、争議に突入しました。
 10月1日、大日本労働総同盟友愛会は、創立10周年記念大会を開催し、日本労働総同盟総同盟)と改称しました。今までの労使協調主義を廃止し、階級闘争主義に転換しました。その結果、労働組合運動は、より発展することになりました。
 1922(大正11)年3月3日、2000人が参加して、京都の岡崎公会堂で、全国水平社創立大会が開かれました。委員長に南梅吉を選出し、被差別部落の社会的差別を自主的に撤廃し、差別には糾弾することを確認しました。
 奈良の被差別部落の西光寺に生まれた西光万吉(本名清原一隆)が起草した全国水平社宣言駒井喜作が朗読・発表しました。これは日本で最初の人権宣言と言われています。
 その全文を紹介します。
 「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。
 長い間虐められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた吾らの爲の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事実は、夫等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦(かすめ)るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは、寧ろ必然である。
 兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、実行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。
 吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。
 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦(かすめ)る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求礼賛するものである。
 水平社は、かくして生れた。
 人の世に熱あれ、人間に光りあれ。
綱領
一、特殊部落民は部落民自身の行動によって絶対の解放を期す
一、吾々特殊部落民は絶対に経済の自由と職業の自由を社会に要求し以て獲得を期す
一、吾等は人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向って突進す」
 「多くの人々によってなされた吾らの爲の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった」という表現は融和政策を批判・反省しています。
 そして、「部落民自身の行動によって絶対の解放を期す」方法を綱領で提案しています。
 4月9日、賀川豊彦杉山元次郎らによって、全国的な組織である農民団体の日本農民組合が、神戸で設立されました。彼らは、小作争議を指導して、小作料の減免や耕作権の確立を訴えました。
 4月20日、平塚雷鳥らの運動が実って、治安警察法第5条の一部が削除され、婦人が政治運動に参加することや集会を発起することが許可されました。
 7月、堺利彦山川均荒畑寒村らによって、日本共産党が結成されました。これは、モスクワの国際共産党(コミンテルン)の指導に、日本支部として非合法で結成されました。水平社宣言を起草した西光万吉も日本共産党に入党しました。
 1923(大正12)年8月24日、加藤友三郎首相(63歳)は、普通選挙制度の導入を検討中に病死しました。
 9月1日、関東大震災がおこりました。
 9月2日、@22山本権兵衛内閣が誕生しました。外相は山本権兵衛が兼務、内相に後藤新平、蔵相に井上準之助、陸相に田中義一、海相に財部彪、文相に犬養毅などが任命されました。
 12月27日、難波大助摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)を狙撃する事件がおきました。これを虎の門事件といいます。山本権兵衛内閣が総辞職しました。
 1924(大正3)年1月7日、@23清浦奎吾内閣が誕生しました。非政党内閣です。
 1月10日、第二次護憲運動が発足しました。
 5月10日、@15回衆議院議員総選挙が行われ、護憲三派が大勝しました。
 6月7日、清浦奎吾内閣が総辞職しました。
 6月11日、@24加藤高明護憲三派内閣が誕生しました。外相に幣原喜重郎、内相には若槻礼次郎、蔵相に浜口雄幸、陸相に宇垣一成、海相に財部彪、農商務相に高橋是清、逓信相に犬養毅などが任命されました。
 12月13日、東京婦人会を中心に、市川房枝らが婦人参政権獲得期成同盟会を結成しました。焦点を婦人にも選挙権を与える運動に絞ったことになります。
近代被差別部落の歴史、日本共産党の結成
 同和問題とか同和対策事業特別措置法とか同和対策審議会で使われている「同和」という語源を調べてみました。同和とは「和合して仲よくすること」という意味があります。四字熟語では、「同胞一和」「同情融和」というのがあります。
 1871(明治4)年8月28日、明治新政府は、「穢多非人等の称廃せられ候条自今身分職業共平民同様たるべき事」という太政官布告を発布しました。これを身分解放令といいます。内容は、江戸時代の穢多・非人という身分を廃止し、これからは身分も職業も平民と同じにするというものです。
 明治時代は、時代区分の近代に入ります。近代は、資本主義と自由競争の時代でもあります。自由競争では資本があるかないかが、重要なポイントとなります。
 江戸時代の皇族・貴族や藩主は華族として経済的に手厚く保護され、士族も多少はあるものの、金禄公債を支給されました。百姓や被差別部落の人々は、スタート段階で保護されることなく、自由競争の社会に放り出されました。
 職業が自由となることで、被差別部落の人々は、江戸時代の経済的特権も奪われることになります。
 被差別部落の人々に対する差別も存続しました。
 そこで、政府は、差別解消への道として、融和主義を提唱しました。その趣旨は、部落差別の原因と責任を被差別部落の人々に求め、一般地区との同和をはかるというものでした。そして部落問題に事実上無関心だった政府がとった態度は、部落民をあくまで劣位の存在とみなした同情と融和の政策であり、
部落民自身に差別の原因があるという発想に基づく部落改善運動の奨励だった。 
 被差別部落の人々の中には、差別されるには、自分たちに責任があるのではないかという考えを受け入れ、一般地区との融和を図ろうとする「自主的な部落改善運動」が起りました。
 こうした動きを融和政策といいます。
 こうした融和政策が行き詰るのは当然です。
 やがて、自主的な部落解放運動が活発化していきます。こうした背景にあって、1922(大正11)年、全国水平社が誕生したのです。差別に対しては、差別糾弾闘争を展開していきました。 
 「水平社宣言」には、大正デモクラシーの風潮や米騒動の庶民のエネルギー、共産党宣言(団結せよという表現)などの影響が考えられます。
 次は日本共産党の22年テーゼといわれている史料です。
「政治的分野における要求
  一、君主制の廃止
  一、貴族院の廃止
  一、十八歳以上のすべての男女に対する普通選挙法
  一、労働者団結の完全なる自由
  一、労働者の出版の自由
  一、労働者の屋内及び屋外集会の自由
  一、示威運動の自由
  一、同盟罷業の権利
  一、現在の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止
  一、労働者の武装
 経済的分野における要求
  一、労働者の八時間労働制
  二、失業保険その他の労働保険
  三、市価による労賃額の制定、最低賃銀の設定
  四、工場委員会による生産の管理
  五、雇主及び国家による労働組合の公認
 農業分野における要求
  一、天皇、大地主、寺社の土地の無償没収とその国有
  二、貧農を支持するための国庫土地資金の設定、特に従来小作人として自 分の道具で耕作した一切の土地を農民へ、私有財産としてではなく、与 へること
三、累進所属税
  四、奢侈特別税
 国産関係の分野における要求
  一、一切の干渉の廃止
  二、朝鮮、中国、台湾および樺太よりの軍隊の撤退
  三、ソヴィエト・ロシアの承認
   (中略)
 日本共産党はコミンテルンの一支部として、プロレタリア独裁のための革命的闘争においてその義務を尽すであらう。そしてそのプロレタリアートの独裁こそ、今やインターナショナルの旗の下に最後の勝利に向かって国際プロレタリアートの世界革命に向かって進行しつつあるものである」

index