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エピソード

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第二次護憲運動と護憲三派内閣の成立
 1922(大正11)年6月6日、高橋是清内閣は、内閣改造問題で紛糾し、閣内不一致のため総辞職しました。非改造派の元田肇鉄道相・中橋徳五郎文相ら6人を政友会から除名しました。
 6月12日、@21加藤友三郎内閣(海軍大将)が誕生しました。蔵相の市来乙彦が新任で、外相の内田康哉・陸相の山梨半造・海相の加藤友三郎らは留任しました。
 6月20日、摂政宮裕仁親王久邇宮良子女王との結婚が勅許されました。
 6月24日、加藤友三郎内閣は、10月末までにシベリアからの撤兵を声明しました。
 7月3日、海軍は、海軍軍備制限計画を発表しました。
 7月4日、陸軍は、陸軍軍備制限計画を発表しました。
 7月、日本共産党が非合法で結成されました。
 9月1日、犬養毅は、立憲国民党を解散しました。
 10月20日、政府は、普通選挙調査会を設置しました。
 11月8日、犬養毅・尾崎行雄島田三郎らは、革新倶楽部を結成しました。
 12月17日、青島守備軍が撤退を完了しました。
 12月18日、朝鮮総督府は、朝鮮戸籍令を制定しました。
 12月27日、第46回通常議会が開会されました。これを第46議会といいます。
 1923(大正12)年2月1日、ソ連のヨッフェ後藤新平の招きで来日し、日ソ復交に関して私的会談を行いました。
 2月23日、東京で、普選即行大示威行進が行われました。
 2月28日、帝国国防方針が裁可され、想定敵国はアメリカ・ソ連・中国の順となりました。
 3月1日、衆議院は、普通選挙法案を否決しました。
 3月20日、衆議院は、中野正剛らが提出したソ連承認決議案を否決しました。
 6月5日、堺利彦ら共産党員が検挙されました。これを第一次共産党事件といいます。
 6月28日、川上俊彦・ヨッフェ間に日ソ非公式予備交渉が開始されました。
 8月24日、加藤友三郎首相(63歳)が病死(大腸ガン)しました。
 8月25日、外相の内田康哉が臨時総理大臣に就任しました。
 8月28日、山本権兵衛に組閣命令が出されました。
 9月1日、関東大震災がおこりました。
 9月2日、@22第二次山本権兵衛内閣(海軍閥)が誕生しました。蔵相は井上準之助、外相は山本権兵衛が兼任、陸相は田中義一、海相は財部彪、文相は犬養毅らが就任しました。
 10月15日、五大臣会議で、普選案要綱を決定しました。
 12月11日、第47臨時議会が開会されました。これを第47議会といいます。
 12月27日、無政府主義者の難波大助は、帝国議会の開院式に向かう摂政宮裕仁親王を、虎の門付近で、狙撃しました。これを虎の門事件といいます。難波は、亀戸事件や甘粕事件に反発して天皇暗殺を謀ったの言われています。
 12月27日、第48通常議会が開会されました。これを第48議会といいます。
 12月27日、虎の門事件で、山本権兵衛内閣が総辞職しました。
 1924(大正13)年1月7日、@23清浦奎吾内閣(貴族院・官僚)が誕生しました。清浦奎吾は75歳の長老でした。蔵相の勝田主計・外相の松井慶四郎・陸相の宇垣一成・海相の村上格一らが就任しました。清浦奎吾は、超然主義を表明しました。
 1月10日、政友会・憲政会・革新倶楽部の三派有志は、清浦特権内閣打倒運動を開始しました。これを第二次護憲運動といいます。
 1月13日、元老院の西園寺公望は、官僚政治家の任命をさけて枢密院の勢力削減を意図して、枢密院議長に浜尾新を任命しました。
 1月15日、政友会総裁の高橋是清は、幹部会で清浦内閣反対を声明しました。
 1月16日、高橋是清の声明に反対し、床次竹二郎・元田肇らは脱党して、政友会が分裂しました。
 1月18日、政友会の高橋是清(61歳)・憲政会加藤高明(65歳)・革新倶楽部の犬養毅(70歳)の3党首は、三浦悟楼の斡旋で会談し、清浦内閣打倒・普選断行・貴族院改革・憲政擁護を申し合わせました。
 1月22日、床次竹二郎ら政友会の脱党者は、政友本党を結成し、第一党になりました。
 1月26日、摂政宮裕仁親王は、久邇宮良子女王と結婚式を挙行しました。
 1月30日、憲政擁護関西大会に出席していた政友会の高橋是清・憲政会の加藤高明・革新倶楽部の犬養毅の3党首が帰途、乗車していた列車の転覆未遂事件が発生しました。
 1月31日、衆議院で、列車転覆事件に関する浜田国松の緊急質問中、暴漢3人が壇上を占拠しました。議定が混乱し、休憩中に、清浦奎吾首相は解散命令を出しました。
 4月、大川周明安岡正篤らは、行地会を結成し、維新日本の建設などを綱領に掲げました。
 5月10日、@第15回衆議院議員総選挙が行われました。憲政会が151人、政友会が105人、革新倶楽部が30人の合計286人の当選者を出して圧勝し、与党の政友本党は109人の少数党に転落しました。無所属は69人でした。
 6月7日、選挙に敗北して、清浦奎吾内閣が総辞職しました。
 6月9日、加藤高明は、高橋是清・犬養毅を訪問し、三派連立を協議しました。
 6月11日、@24加藤高明内閣が誕生しました。これを護憲三派内閣といいます。蔵相の浜口雄幸・内相の若槻礼次郎・外相の幣原喜重郎・商工相の高橋是清・逓相の犬養毅・陸相の宇垣一成・海相の財部彪らが就任しました。幣原喜重郎が外相に就任し、幣原協調外交を展開しました。協調外交は政友会の基本政策となりました。
 6月28日、第49特別議会が開会されました。これを第49議会といいます。
 9月2日、閣議は、実行予算3000万円の節約、更正よさん15億8540万円と決定しました。
 9月4日、政府と与党三派の普選連合協議会は、普選法案大綱を決定しました。
 12月24日、第50通常議会が開会されました。これを第50議会といいます。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
大正デモクラシーと憲政の常道
 大正デモクラシーの対象とは、大正時代のことです。大正時代は、第一次世界大戦中であり、アメリカが民主主義・自由主義を守るというスローガンで参戦しました。大戦後は、国際連盟を中心に平和主義が喧伝され、世界で最初の社会主義の国ソ連が誕生しました。
 デモクラシーとは英語のDemocracyの訳語です。直訳すれば民主主義となりますが、大正時代の日本は天皇主権の時代ですから、民本主義とかデモクラシーという言葉で代用したのです。民本主義は、天皇制と矛盾しないように、国民を大切のする政治と主張されました。
 大正デモクラシーの主導者は、「民本主義」を提唱した吉野作造と天皇機関説を提唱した美濃部達吉らです。
 長谷川如是閑や大山郁夫らによってジャーナリズムや労働運動も盛んになった時代です。
 具体的には、第一次護憲運動によって桂太郎超然主義内閣を打倒しました。米騒動という民衆のエネルギーによって寺内正毅内閣を打倒して、原敬政党内閣を誕生させました。
 第二次護憲運動では、清浦奎吾超然主義内閣を打倒し、護憲三派内閣を誕生させました。民衆は、肌で大正デモクラシーを感じたのです。
 次に憲政の常道ということを考えて見ました。
 憲政とは憲法にのっとった政治のことです。つまり、衆議院の多数党(与党)から総理大臣を出し、内閣を組織するという議院内閣制のことです。常道とは「人がに守るべき、永遠にかわることのない」のことです。
 当時、元老は西園寺公望1人でした。西園寺は、天皇を政争の圏外に置くことを願い、政党政治の成就を期待していました。時代と人物の合作が生んだ傑作といえます。
 1924年、憲政会総裁の加藤高明が総理大臣になりました。憲政会内閣でした。
 1926年、憲政会総裁の若槻礼次郎が総理大臣になりました。憲政会内閣でした。
 1927年、陸軍大将で、政友会総裁の田中義一が総理大臣になりました。立憲政友会内閣でした。
 1929年、立憲民政党の浜口雄幸が総理大臣になりました。立憲民政党内閣でした。
 1931年、民政党総裁の若槻礼次郎が総理大臣になりました。立憲民政党内閣でした。
 1932年、政友会総裁の犬養毅が総理大臣になりました。立憲政友会内閣でした。
 1924年から続いた憲政の常道も1932年に崩壊しました。それは何故でしょうか。
 実は1932年5月15日に五・一五事件が発生したのです。それ以後、軍部の意向を受け入れない内閣は、武力で圧殺される時代となったのです。
 今からわずか、80年ほど前のことです。
政党の変遷(西園寺公望、加藤高明、高橋是清、床次竹二郎、田中義一、浜口雄幸)
1910 1913 1914 1916 1921 1922 1924 1925 1927 1929
政友会 ━━━ 政友会 政友会 ━━━ ━┳━ 政友会 ━━━ 政友会
(西園寺) (原敬) (高橋) (田中)
政友本 ━━━ ━┓
(床次)
国民党 ━┳━ ━━━ ━━━ ━━━ 革新倶 ━━━ ━━━
(犬養毅) (犬養毅)
中央倶 同志会 ━━━ 憲政会 ━━━ ━━━ ━━━ ━━━ 民政党 民政党
(加藤) (加藤) (浜口)

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