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エピソード

230_02

普通選挙法と治安維持法の成立
 憲法が制定され、普通選挙制度が確立した歴史を振り返ってみました。
 1889(明治22)年、大日本帝国憲法が制定されました。黒田清隆首相は、衆議院議員選挙法を公布しました。その内容は、次の通りです。
 (1)記名投票
 (2)小選挙区制
 (3)選挙権は直接国税納付金額15円以上の満25歳以上の男子
 (4)被選挙権は直接国税納付金額15円以上の満30歳以上の男子
 1890(明治23)年、第1回衆議院議員総選挙が実施されました。
 1897(明治30)年、木下尚江らは、長野県の松本で、普通選挙同盟会を結成しました。これが日本の普選獲得運動のルーツです。
 1900(明治33)年、山県有朋首相は、衆議院議員選挙法を改正しました。その内容は、次の通りです。
(1)秘密投票
(2)大選挙区制
(3)選挙権は直接国税10円以上の男子
 1902(明治35)年、河野広中星亨らは、第16議会に、初めて普選法を提出しました。しかし、審議されることはありませんでした。
 1911(明治44)年、第27議会普選法案が衆議院を通過しましたが、貴族院で否決されました。
 1919(大正8)年、原敬首相は、衆議院議員選挙法を改正しました。その内容は、次の通りです。
(1)小選挙区制
(2)選挙権は直接国税3円以上の男子
 1920(大正9)年、普通選挙期成同盟を中心に、全国普選期成連合会が結成されました。その結果普選に対する世論の意識が高揚しました。
 1922(大正11)年、立憲憲政会立憲国民党は、第45議会に普選法案を提出しました。
 1924(大正13)年、立憲政友会・立憲憲政会革新倶楽部護憲三派は、普選断行などを確認しました。加藤高明首相は、衆議院議員選挙法を改正しました。
 1945(昭和20)年、幣原喜重郎首相は、衆議院議員選挙法を改正しました。
選挙制度の変遷
性格 直接国税 年齢・性別 有権者(万人) 人口比(%)
1889年 制限選挙 15円以上 25歳以上の男子 45.1 1.1
1900年 10円以上 98.3 2.2
1919年 3円以上 307.0 5.5
1925年 普通選挙 なし 1240.9 20.1
1945年 20歳以上の男女 3687.8 50.4
 1924(大正13)年7月2日、松方正義(90歳)が亡くなり、元老西園寺公望のみとなりました。
 1925(大正14)年1月20日、北京で日ソ基本条約が調印されました。
 2月11日、東京など各地で、治安維持法・労働争議調停法・労働組合法の3悪法反対の労働団体が大会を開き、示威行進を行いました。
 2月13日、枢密院では、普通選挙法案に関し政府との妥協が成立しました。
 2月27日、日ソ基本条約が公布され、ここに日本は、社会主義国のソ連と国交を回復しました。
 3月2日、衆議院で、衆議院議員選挙法改正案を修正可決しました。これが普通選挙法案です。
 3月7日、衆議院で、治安維持法案(旧法)を修正可決しました。
 3月19日、貴族院で、治安維持法案が可決されました。
 3月26日、貴族院で、普通選挙法案を修正可決しました。
 4月13日、政友会総裁の高橋是清が引退を表明し、田中義一が総裁に推薦されました。
 4月17日、政友会より商相に野田卯太郎、農相に岡崎邦輔が任命されました。田中義一政友会総裁は、加藤高明首相と会見し、現内閣を支持すると声明しました。
 4月22日、普通選挙法より先に、治安維持法が公布されました。
(1)その背景には、日ソ国交樹立、虎ノ門事件、日本共産党再建の動きなどがあります。
(2)その内容は、次の通りです。
「第一条 国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を 組織し又は情を知りて之に加入したる者は十年以下の懲役又は禁錮 に処す」
(3)国家の変革したり、私有財産制度を否認することを目的とする結社とは、共産党を指しています。つまり、この目的は、普通選挙法や日ソ基本条約の影響により進出してくるであろう共産主義者を弾圧するねらいがあります。
 5月5日、衆議院議員選挙法改正が公布されました。男子の普通選挙制が実現しました。その内容は、次の通りです。
「第6条
 選挙人ハ左ノ資格ヲ備フルコトヲ要ス
 第1 日本臣民ノ男子ニシテ年齢満25歳以上ノ者
第8条
 被選人タルコトヲ得ル者ハ日本臣民ノ男子満30歳以上ニシテ…直接国税15円以上ヲ納メ仍引続キ納ムル者タルヘシ」
 男女に選挙権が与えられる本当の普通選挙制が実現するのは、やっと戦後になってからです。日本での婦選運動と敗戦後のマッカーサーの尽力によるところが大です。1945(昭和20)年12月に女子の参政権が認められ、1946(昭和21)年に実施されました。
 5月10日、革新倶楽部の総会で、政友会との合同を決議しました。
 5月14日、政友会は、臨時大会で、革新倶楽部・中正倶楽部と合同しました。総裁に陸軍の長老である田中義一(62歳)が就任しました。この結果、護憲三派内閣が短命で崩壊しました。
 5月30日、合同に反対の尾崎行雄らは、中正倶楽部残留派と新正倶楽部を組織しました。
 7月30日、閣議は、税制整理案をめぐり紛糾し、政友会の小川平吉法相と岡崎邦輔農相が反対し、退席しました。
 7月31日、加藤高明内閣は、閣内不一致のため総辞職しました。政友会と政友本党幹部が提携を申し合わせました。
 8月2日、第二次加藤高明内閣が誕生しました。これは憲政会単独内閣です。外相には幣原喜重郎、内相に若槻礼次郎、蔵相に浜口雄幸、陸軍に宇垣一成、海相に財部彪、商工相に片岡直温らが任命されました。
 8月4日、政友会総裁の田中義一と政友本党総裁の床次竹二郎は、両党提携を申し合わせました。
 12月9日、政友本党総裁の床次竹二郎が政友会と合同せずと声明したので、中橋徳五郎ら合同派は脱党しました。
 12月26日、第51回通常議会が開会されました。これを第51議会といいます。
 1926(大正15)年1月14日、佐藤繁吉は、政友会総裁の田中義一に対して300万円調達の報酬支払いを要求して訴訟を起こしましたが、翌日、取り下げました。
 1月26日、首相の加藤高明は、病気のため、内相の若槻礼次郎を首相臨時代理に任命しました。
 1月28日、首相の加藤高明(67歳)が亡くなりました。
 1月30日、@25若槻礼次郎内閣(憲政会総裁)が誕生しました。前内閣の全閣僚が留任しました。
 2月12日、政友本党を脱退した鳩山一郎らは、同交会を結成して、政友会と合同しました。外相に幣原喜重郎、内相に若槻礼次郎兼任、蔵相に浜口雄幸、陸軍に宇垣一成、海相に財部彪、商工相に片岡直温らです。
10  3月4日、中野正剛は、衆議院で、田中義一の機密費横領事件を追及し、関係議員を査問する動議を可決しました。
 3月5日、評議会など左翼3団体を除外して、労働農民党を結成し、委員長に杉山元次郎を選出しました。
 3月5日、元陸軍大臣官房付二等主計三瓶俊治は、田中義一政友会総裁を陸相在職中の機密費横領で告発しましたが、証拠不十分で不起訴となりました。
 3月13日、中野正剛を査問に付することで妥協が成立しました。
11  10月17日、日本農民組合右派などが日本農民党を結成し、幹事長に平野力三を選出しました。
 10月24日、左派への門戸開放に反対して、労働農民党から、総同盟などの右派が脱退し、労農党が分裂しました。
 11月4日、安部磯雄吉野作造らは、連名で、「堅実な」無産政党の結成を提唱し、総同盟はこれを支持する決議をしました。
 12月5日、労働農民党脱退の総同盟など右派で社会民衆党を結成し、委員長に安部磯雄を選出しました。
 12月9日、総同盟反幹部派と日本農民組合脱退派を中心に、日本労農党を結成し、書記長に三輪寿壮を選出しました。
 12月12日、労働農民党は、大会を開き、左翼無産政党として再出発し、大山郁夫を委員長に選出しました。
12  12月21日、後藤新平の斡旋で、政友会と政友本党の提携が成立しました。
 12月25日、大正天皇が亡くなりました。時に48歳でした。摂政宮裕仁親王が即位して、昭和と改元されました。
 12月26日、第52回通常議会が開会されました。これを第52議会といいます。 
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
普通選挙法とアジア、治安維持法とは
 下記の表を見ると、男子の普通選挙法が成立したのは、アメリカが最初で、議会の国イギリスが3番目だとはびっくりしました。しかし、男女の普通選挙法となると、イギリスが最初で、なるほどと思いました。
 憲法や議会でも、日本はアジアで最初でしたが、男子の普通選挙法も最初で、女子の参政権も日本がアジアで最初でした。 
男女別に見る普通選挙制度の成立(憲法も普選も日本はアジアで最初の実施国)
1870 1912 1918 1919 1920 1925 1936 1945 1946 1948 1949 1952 1953
男子 日本 ソ連 中国
女子 ソ連 伊・日 中国
 男子に制限を設けず、参政権を与えることに危惧を感ずる人がいました。政府は、治安維持法と抱き合わせで普選法案を成立させました。
 その全文を紹介します。
「 第一条 国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し又は情を知りて之に加入したる者は十年以下の懲役又は禁錮に処す。
  前項の未遂罪は之を罰す
 第二条 前条第一項の目的を以て其の目的たる事項の実行に関し協議を為したる者は七年以下の懲役又は禁錮に処す
第三条 第一条第一項の目的を以て其の目的たる事項の実行を煽動したる者は七年以下の懲役又は禁錮に処す
 第四条 第一条第一項の目的を以て騒擾、暴行其の他生命、身体又は財産に害を加ふへき犯罪を煽動したる者は十年以下の懲役又は禁錮に処す
 第五条 第一条第一項及第三条の罪を犯さしむることを目的として金品其の他の財産上の利益を供与し又は其の申込若は約束を為したる者は五年以下の懲役又は禁錮に処す情を知りて供与を受け又は其の要求若は約束を為したる者亦同し
 第六条 前五条の罪を犯したる者自首したるときは其の刑を減刑又は免除す
 第七条 本法は何人を問はす本法施行区域外に於て罪を犯したる者に亦之を適用す
     一九二五年」
 治安維持法について、「本当にこの法律は悪法だったのか」という人がいます。「治安維持法は少なくとも日本に革命が起こり、日本が共産圏に取り込まれるのを防止する役割は果たした」というのです。
 ただ、「国家にとって不都合な組織や人を弾圧するための手段となってしまった。本来法の対象者が共産主義者のみであったはずが、国策に都合の悪い意見を言う者すべてにまで拡大されてしまったのである。治安維持法というものは法の存在よりは運用に問題があった。『共産主義蔓延防止法』という名称だったらもっと本来の目的に合った運用がなされていた」と主張しています。
 私はリベラルを信条としている者で、共産主義に与する者ではありませんす。しかし、上記の文章は一見もっともらしく思えますが、重大な誤謬を含んでいますので、指摘します。
(1)法律とは何かという視点が抜けています。権力者は、権力を利用して、常に、その権力を維持しようとして、ある時は武力で、ある時は宗教で、ある時は法律で、民衆を支配するのです。この法律を権力のチェック機能として利用するというのが、民主主義の歴史でもあるのです。
(2)人間はミスをする動物です。だから名称とかの問題でなく、運用を誤ったときのチェック機能が必要なのです。
(3)物を盗んだり、人を傷つけたりした場合、その罪に対して罰が与えられるのは当然です。しかし、人間が人間の心を裁くことが出来るでしょうか。
(4)私も小さいときに、「共産党は怖い」とか「アカになるなよ。家族を路頭に迷わす」と聞かされてきました。しかし、実際に共産党が1922年に発表した「政治的・経済的的分野における要求」をみると、君主制の廃止など共産党独自の要求もありますが、普通選挙法・集会の自由・労働者の八時間労働制・失業保険その他の労働保険・労働組合の公認などは、現在(2006年)実現しているものばかりです。
 法律が出来ると、法を監視する役所や役人が必要になってくる。治安維持法を監視したのが、特別高等警察課という役所で、特別高等警察(特高)という役人である。
 マッカーサーが最初に廃止したのが治安維持法であり、特高でした。これを新聞で読んだ高見順は、『敗戦日記』で「胸がすーッとした。暗雲がはれた想い。しかし、これをどうして連合軍司令部の指令をまたずしてみずからの手でやれなかったのか」と喜びと日本人の恥を率直に書いています。
 高見順らは、『人民文庫』を発行し、左翼の観念的な政治主義とは距離をおいて、リアリズム文学を追求していました。同人には、武田麟太郎、田宮虎彦、田村泰次郎、円地文子、立野信之らがいました。
 1936年、高見順らは、徳田秋声研究会を開いていたときに、無届集会を理由に、特高に手錠をかけられて警察署に連行されたのです。
 戦争になってしまえば、勝たねばなりません。しかし、戦争を否定するには、第一ボタンが掛け間違ったときに、即座に掛け直さなければなりません。
 最初は「アカ」が狙われ、次に少数派が狙われ、自分と関係がないと思っている間に、徐々に物言えぬ状態になっていることを、知りました。
 「いいものはいい、だめなものはだめ」と見抜く力をもち、声に出すことも大事だと分かりました。

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