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エピソード

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関東大震災と朝鮮人虐殺・大杉栄虐殺・甘粕正彦大尉
 今から11年前(1995年1月17日)の早朝、「ドスン」という音と布団が畳に叩きつけられる感じで、目を覚ましました。目覚まし時計を見ると、午前5時46分でした。これが阪神・淡路大震災を体感した最初でした。
 余りTVを見ない私も、これは何事かと思い、TVを見ると、神戸の辺で地震があったが、死者も余り出ていないという報道でした。
 しかし、学校に行き、時間が経過するうちに、死者がうなぎ上りに増加していき、これは大地震だという実感がしてきました。
 この時、2年生がスキーの修学旅行に行く日になっていましたが、姫路からの観光バスは予定通り車庫を出発出来るが、神戸からの観光バスが地震の影響で身動き出来ないという情報が入ってきました。色々な代案が検討されましたが、スキー修学旅行はいったん中止という決定をしました。これで阪神・淡路大震災の規模の大きさを体感しました。
 11年後の今、高速道路の一部が落下して、バスの前輪部分が道路からはみ出している映像と高速道路が落下して塀が斜めに傾いた映像が記憶に残っています。時間が6時前で、通勤・通学ラッシュでなかったのが、不幸中の幸いだったつくずく感じました。
 私の体験は、神戸が兵庫の東とするなら、相生・赤穂は兵庫の西の端です。
 その後、研究会や各種の大会を通じて、震災で被害に会われた人の話を聞くことがありました。
 これを元に、関東大震災を考えたいと思います。 
 1917(大正6)年12月、大杉栄は、東京の亀戸で、和田久太郎らと『労働新聞』を創刊しました。
 1919(大正8)年10月、大杉栄は『労働運動』を創刊して、サンジカリズム急進的労働組合主義)運動を主導しました。
 1920(大正9)年8月、大杉栄は、日本社会主義同盟の発起人になり、最初は、ボリシェビキ派と協同しました。参加者は大杉栄・堺利彦山川均高畠素之荒畑寒村らでした。やがて、大杉栄は、ロシア革命の評価をめぐり対立するようになりました。
 1922(大正11)年1月、モスクワで極東勤労者大会が開かれ、ボルシェビキ派から水曜会の徳田球一らが、アナーキズム派から吉田一らが参加しました。この時、日本共産党の結成が誓約されました。これを「アナーキズム派の共産主義者への転向宣言」といいます。
 7月、ボリシェビキ派の堺利彦・山川均らは、この誓約に基づいて日本共産党を結成します。アナ=ボル論争アナーキズム派とボルシェビキ派の論争)は、一応、アナーキズム派の勢力が押さえ込まれた形になりました。
 9月、日本労働組合総連合創立大会が開かれました。総同盟の合同論を支持するボルシェビキ派と組合総同会(反総同盟)の自由連合論を支持するアナーキズム派が激しく対立しました。大杉栄は自由連合論を支持しました。ここで再び、アナ=ボル論争が再開されました。
 1923(大正12)年5月、大杉栄は、フランスに出国し、パリのメーデーで演説しましたが、逮捕され、日本に強制送還されました。
 8月、大杉栄は、アナーキズム派の連合を企図しました。
 8月24日、加藤友三郎首相(63歳)が病死しました。
 8月28日、山本権兵衛に組閣命令が出されました。
 9月1日11時58分、東京・神奈川・千葉・静岡など関東地方に大地震が発生しました。これを関東大震災といいます。
 関東大震災について、調べてみました。
 阪神・淡路大震災と違い、発生時間が12時前で、昼食の準備をしている時間です。当時は、コンロに火を入れて使ってました。耐震・防火・耐寒対策が施されていない木造住宅では、大きな明障子を使用しています。障子ですから当然紙をたくさん使っています。
 これらの日常生活に加えて、かって経験したことがないマグニチュード7.8〜7.9という大規模な地震が襲撃しました。それに加えて、9月1日といえば、季節風が台風となって、関東地方を襲っていました。家が倒れ、コンロの火が障子紙に引火して、大地震は大火災を引き起こしました。
 住宅の全壊は12万8000戸、半壊は12万6000戸、住宅の焼失は44万7000戸にのぼりました。その結果、死者と行方不明者が14万2800人もでました。被害総額は100億円(今の3兆円)といわれています。焼死の悲劇として、本所被服廠に避難した人の荷物に飛び火して、3万2000人の犠牲者が出たと言われています。
 小田原の閑院宮御別邸が全壊して寛子女王が、横須賀の別邸では東久邇宮師正王と山階宮妃が亡くなったという記事があります。
 ちなみに、阪神・淡路大震災の場合は、住宅の全壊・焼失は10万5000戸、死者は6000人、被害総額は10兆円といわれています。
 9月2日、@22第二次山本権兵衛内閣が誕生しました。外相は山本権兵衛が兼務、内相に後藤新平、蔵相に井上準之助、陸相に田中義一、海相に財部彪、文相に犬養毅などが任命されました。
 9月2日、非常事態に対して軍隊に与えた治安権限である戒厳令が発布されました。
 9月2日、「東京が壊滅した」とか「津波が赤城山麓に達した」とかいうデマに混じって、「地震で仮出所した受刑者が暴動を起こす」「社会主義者が混乱を利用して蜂起する」「朝鮮人が日本人に逆襲を企てている」という流言も出ました。さらには、「朝鮮人が井戸水へ毒を投げ投げ込んだ」という話が広がっていきました。
 9月2日14時、内務省警保局長は、呉鎮守府と各地方長官に対して、次のような電報を送信しました。「東京付近ノ震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不貞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ。スデニ東京府下ニハ一部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ十分周密ナル視察ヲ加エ、鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締ヲ加エラレタシ」
 9月2日夕刻、警視庁は、戒厳令司令部に対して、「朝鮮人による火薬庫放火計画がある」と報告しました。
 9月2日夕刻、警視庁は菅下各警察署に対して次のような通達を発しました。「鮮人中不逞ノ挙ニツイテ放火ソノ他凶暴ナル行為ニイズルモノアリテ、現ニ淀橋・大塚等ニ於テ検挙シタル向キアリ。コノ際コレラ鮮人ニ対スル取締リヲ厳ニシテ警戒上違算ナキヲ期セラレタシ」
 9月3日、戒厳司令官に福田雅太郎(陸軍長老)が任命されました。
 9月3日、河北新報は「朝鮮人大暴動 食糧不足を口実に盛に掠奪 神奈川県知事よりは大阪、兵庫に向かひ食料の供給方を懇請せり。東京市内は全部食料不足を口実として全市に亘り朝鮮人は大暴動を起こしつつあり…」と報道しました。
 9月3日16時30分、海軍省船橋送信所所長は次のような電信を送信しています。「船橋送信所襲撃ノオソレアリ。至急救援頼ム。騎兵一個小隊応援ニ来ルハズナルモ、未ダ来タラズ」
 9月4日、福島民友新聞は「歩兵と不逞朝鮮人戦斗を交ゆ 京浜間に於て衝突す 火災に乗じ不逞鮮人跋扈 近県より応援巡査派遣…」と報道しました。
 9月4日8時10分、船橋送信所は次のような電信を送信しています。「本所(船橋送信所)襲撃ノ目的ヲ以テ襲来セル不逞団接近、騎兵二十、青年団、消防隊等ニテ警戒中、右ノ兵員ニテハ到底防御不可能ニ付約百五十ノ歩兵ノ急派取計イ度ク、当方面ノ陸軍ニハ右以上出兵ノ余力ナシ」
 9月5日、北海タイムスは「不逞鮮人凶暴を極め飲食物に毒薬や石油を注ぐ 彼らは缶詰に似た爆弾を所持しつつあり」と報道しました。
 以上の史料から分かるように、内務省から都道府県の長官への情報、警視庁から都道府県の警察への情報、地域に密着した地方紙などの情報が朝鮮人の不穏な動きを伝えました。
 その結果、各地の自治会は自警団を組織しました。朝鮮人を識別するために、「15円50銭」と言わせたり、「教育勅語」を暗誦させたりしました。朝鮮人は「15円50銭」を「チュウゴエンコチュッセン」と発音するというのです。当然「教育勅語」は暗記できません。殺気だった自警団は、集団ヒステリーの状態になり、このような方法で朝鮮人を虐殺したというのです。
 殺害された朝鮮人は、内務省警保局調査では、朝鮮人の死亡は231人・重軽傷は43名となっています。同じ調査によると、朝鮮人と間違われた殺害された日本人は59人、重軽傷者は43人いました。
 朝鮮人が経営する独立新聞によると、朝鮮人の死者は6415人となっています。
 一部の人は、この死者の数の違いから、朝鮮人虐殺事件を過大扱いしていると主張していますが、数の問題でなく、日本人が集団で朝鮮人を襲撃した事実が存在するのです。このことを確認したいと思います。
 9月4日、東京府南葛飾郡亀戸町にあった亀戸署は、大震災の混乱の最中に、以前から労働争議で要注意人物として監視していた合義虎平沢計七ら社会主義者・労働運動活動家10人を逮捕・連行しました。川合義虎は日本共産青年同盟(日本民主青年同盟の前身)の初代委員長でした。
 9月5日、川合義虎らは、停電のため真暗であった留置場をものともせず、革命歌を高唱して気勢をあげていました。亀戸署は、川合らが他の検束者を煽動して騒ぎを大きくするのではないかと思い、近くに駐屯していた軍隊に応援を求めました。軍人らは、川合義虎らを警察の広場で、銃剣を使って殺害しました。死体は近くの川原に遺棄・埋葬しました。これを亀戸事件といいます。
 9月16日、大杉栄は、内縁の妻である伊藤野枝と、神奈川の鶴見に住む大杉勇(大杉栄の弟)を見舞った後、大杉勇の息子である橘宗一(6歳)を連れて東京への帰途、行方不明になりました。憲兵隊が連れ去ったという噂が広がりました。
 9月20日、『読売新聞』などが大杉栄ら3人の殺害を報道しました。軍部と主導権争いをしていた警視庁は、捜査を要求しました。橘宗一はアメリカ国籍を有していたので、アメリカ大使館から抗議を受けた政府はその対応を迫られました。
 9月20日、軍部は、東京憲兵隊の甘粕正彦大尉を軍法会議に送致し、憲兵司令官小泉六一少将・小山介蔵東京憲兵隊長を停職としました。また、福田雅太郎戒厳司令官を更迭し、後任に山梨半造を任命する人事を発表しました。
 9月24日、軍法会議予審が行われました。そこで判明したことは次の通りです。
 憲兵隊の甘粕正彦太尉らは、大震災の混乱に乗じて、アナーキストの大杉栄らが政府の転覆を図るのではないかと考え、殺害を決心しました。9月16日、大杉栄ら3人を自宅付近で、甘粕正彦大尉と特高課の森慶次郎曹長が3人を拉致し、麹町憲兵分隊に連行しました。16日夜、取り調べと称して、鴨志田安五郎本多重雄の両上等兵が大杉栄ら3人を殺害し、死体は分隊裏の井戸に投げ込みました。
10  10月10日、亀戸事件の遺族などが真相を究明したため、警察は「革命歌を歌うなど検束者を扇動したため、戒厳令下の適正な軍の行動である」と発表し、虐殺の合法性を主張しました。
 10月16日、ギロチン社のアナーキスト古田大次郎は、銀行を襲撃して、銀行員を刺殺しました。
 12月8日、軍法会議は、甘粕正彦大尉に懲役10年、森慶次郎曹長に懲役3年、殺害に関与したとされていた部下の鴨志田安五郎・本多重雄の両上等兵に無罪の判決を下しました。
 軍法会議の最中、警察や軍部を批判する声もありましたが、甘粕正彦大尉が「私個人の考えで3人を殺害した」と主張しました。「国賊・大杉栄」を処断した甘粕正彦大尉に対して減刑を求める声もあり、世論が二分したといいます。
 殺害に関与したとされた部下は「憲兵司令官の指示により殺害した」など軍の関与を認める供述をしましたが、軍法会議では、この部分は無視して、主犯甘粕・共犯森と決定しました。甘粕正彦は、千葉刑務所に服役しました。
 12月26日、大杉栄の葬儀が行われていた時、右翼団体「大化会」の岩田富美夫らが大杉栄の遺骨を奪うという事件がおこりました。
 12月27日、アナーキストの難波大助が摂政宮を狙撃しました。これを虎の門事件といいます。
11  1924(大正13)年9月1日、アナーキストの和田久太郎らは、大杉栄虐殺事件の報復として、前の戒厳司令官であった福田雅太郎大将を狙撃する事件をおこしました。
 11月15日、難波大助が処刑されました。難波の遺体を引き取りに来たアナーキスト山田作松らが逮捕されました。世論は、一連の過激なアナーキズムの動きについていけず、アナーキズム運動のみならず社会主義運動なども衰退していきました。
12  1926(大正15)年10月、甘粕正彦は、3年間、服役しただけで、模範囚として、大赦により仮出所しました。
 1927(昭和2)年、甘粕正彦は、陸軍の機密費でフランスに留学しました。
 1929(昭和4)年、甘粕正彦は、日本に帰国しました。
 1930(昭和5)年、甘粕正彦は、右翼の大物である大川周明の世話で、満州に移住します。
 1931(昭和6)年、甘粕正彦は、満洲事変では黒幕として活躍し、満洲国建設に貢献しました。
 1932(昭和7)年5月、甘粕正彦は、満州国が成立すると、その功で民政部警務司長となりました。また、満州における大政翼賛会的な政治団体である総務部長に就任しました。そのことから、人々は、「満州は昼間は関東軍が、夜は甘粕が支配する」と噂されました。
 1937(昭和12)年8月、満鉄は映画斑を独立させ、満州国との共同出資で株式会社満州映画協会を発足させました。赤字経営にもかかわらず、映画協会の幹部は満州国や関東軍と癒着して、その責任を回避しました。
 1939(昭和14)年、満州国総務庁の課長武藤富男と総務庁次長の岸信介は、協和会の総務部長であった甘粕正彦を満映(株式会社満州映画協会)の新理事長に抜擢しました。甘粕は、本格的に国策映画を制作し、満州国や日本を代弁して日満親善や王道楽土の宣伝・PRをしました。
 1945(昭和20)年8月20日、ソ連軍が新京(今のの長春)に侵入すると甘粕正彦は、満映の理事長室で青酸カリを飲んで自殺しました。「大ばくち、もとも子もなく、すってんてん」が辞世の句といわれています。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
ビートたけしさんの映画『血と骨』、アナ=ボル論争、甘粕正彦とはどんな人?
 アメリカ映画で1967年に制作された『招かれざる客招かれざる客』というのがあります。
 登場人物は、新聞社主のマット・ドレイトン(スペンサー・トレイシー)、その妻で画商のクリスティ(キャサリン・ヘップバーン)、一人娘ジョーイ(キャサリン・ホートン)、それに恋人で黒人の医者ジョン・プレンティス(シドニー・ポワチエ)です。監督はスタンリー・クレーマーです。
 進歩的なインテリであるドレイトン夫妻は、自分の娘を人種偏見を持たぬよう教育してきました。そんな両親に、娘のジョーイが黒人のジョンを婚約者として紹介しました。総論として人種差別に反対しても、現実に自分の娘の結婚相手が黒人と知って狼狽します。
 マット・ドレイトンは、自分の新聞社に電話し、ジョン・プレンティスの経歴を調べさせました。やがて返事がきました。その内容は「1954年にジョン・ホプキンス大学卒業、1955年にエール医大で助教授3年、ロンドン医大で教授3年、世界保健機構で副理事を3年です…」というものでした。
 次に、マット・ドレイトンは、相手の両親を招待し、相手の両親から反対をしてもらおうという作戦をたてました。
 しかし、双方の母親が賛成し、双方の父親は「せっかちすぎる」と考えます。
 ジョンは、マット・ドレイトンに気兼ねして躊躇する父親に対して、「僕は黒人としてでなく、人間として生きたいんだ」と訴えます。
 ジョンの母親は、マット・ドレイトンに対して、「あの二人は強く求め合っています」と語りかけます。
 そして最後に、決意したマット・ドレイトンは、「これからは多くの反感と嫌悪が待ち受けている。それを乗り越えていくことを信じよう」と2人の結婚を許すのです。
 私の好きなスペンサー・トレイシー(特に『ニュールンベルグ裁判』)、この映画で2度目のアカデミー主演女優賞を獲得したキャサリン・ヘップバーン、黒人初のアカデミー主演男優賞を受賞したシドニー・ポワチエが印象に残っています。しかし、物語は出来すぎています。進歩的なインテリの白人の父親と優秀な医者の黒人という設定です。アメリカ社会の上流階級の実相でしょうか。
 アメリカでは、人種差別を行う階層は、白人の貧困層だと報道されています。こころに余裕が無いからです。正しい情報を得る手段がないのです。
 梁石日原作を崔洋一さんが脚色・監督した映画『血と骨』がビートたけしさん主演で公開されました。
 原作者の梁石日さんは、在日朝鮮人で、職業を転々としながら、1998年に実父をモデルにして描いた『血と骨』で山本周五郎賞を受賞しました。
 ビートたけしさんは、金俊平の好色・強欲さをエネルギッシュに演じました。金俊平は猛烈な暴力と呆れるようなずる賢さで得た金を強欲な方法で守ろうとして、誰をも信じず、孤独な生き方をします。その生き方が妻や子、周囲を不幸にします。
 この映画を見た人は、ブログなどで感想を寄せています。ブログは安直な日記風ホームページですから、大して期待をしていなかったですが、やはり、ストーリを紹介してその感想を書いているだけでした。
「元日から悪夢「血と骨」でした
(2)ビートたけしが演じるDV(ドメスティック・バイオレンス)でした
(3)いろんな「暴力」の集大成です
 やはり、山本周五郎賞を受賞した作品ですから、その作者のメッセージやそれを脚色した崔洋一さんの意図、監督もするビートたけしさんの「こだわり」をさぐることが大切です。
 『血と骨』の意味は、「血は母より、骨は父より受け継ぐ」ということです。最後のシーンでは、あれほど父を憎んだ息子の正雄の回想シーンがあります。自分のみを信じ、孤独を愛し、孤独に活きた男が本当に望んだものは、何よりも家族という名の「血と骨」だったのです。
 『招かれざる客』の進歩的でインテリと違い、厳しい環境の在日朝鮮人にとっては、頭では理解できなくて、体で感じるしかないのです。
 関東大震災のとき、朝鮮人に対する虐殺事件がおこりました。
 阪神・淡路大震災の時、大阪で世界中の各種メディアの記者が大会を開いていました。彼らは現地に駆けつけ、その様子を自国に情報を発信しました。「世界一安全な国、日本」と。
 在日の朝鮮人や中国人はもちろん、人種(黄色・黒色・白色)・民族(同じ歴史・文化などを有する人種の集合)が異なっても、お互い助け合った姿を報道したのです。
 石原慎太郎東京都知事は、「阪神大震災では騒擾事件の事実はなかった」と指摘した記者に対して、次のように反論しました。「東京の場合にはもっと凶悪な犯罪をたくさんしている不法入国、不法駐留の外国人がたくさんいる」と。
 私は、阪神・淡路大震災の時のように、正しい情報が伝えられれば、人種・民族を超えて協力できると思います。しかし、石原氏のような意図的で恣意的な人がいれば、再び、関東大震災のような悲劇が生まれることを危惧しています。石原氏を評価する人がいますが、石原氏の何に対してなのでしょうか。
 例えば、『正論』の編集長の大島信三氏は、「朝日新聞”石原バッシング”の粗雑」の中で、凶悪な不法入国している外国人がいると指摘したことで、「石原発言が多くの支持を得たのもそのため」「強力なリーダーシップは不可欠」だと主張しています。
 大島氏の主張を提灯記事だと思う理由は、石原氏は、不安を煽るが、政治家に必要な「非常事態に冷静に対応できるシステムの構築」という具体的な提案がないからです。
 亀戸事件・甘粕事件などを通じて、事件の裏に政治ありということを学びました。普通、「罪と罰(罪があれば、罰がある)」。しかし、人間の心の問題(思想)を罪とする場合、危険視する立場の人の政治的背景があったのです。
 これを書いている今(2006年1月23日)、ホリエモン(堀江貴文氏)が逮捕されたという報道がありました。昔なら、「悪いことをしたから捕まったのだろう」と罪と罰的に解釈していました。しかし、今は、単純にそう思えません。2005年の総選挙のとき、小泉改革の旗手として、ホリエモンは連日話題となりました。
 旗手として持ち上げたのは小泉首相であり、竹中金融相であり、武部幹事長でした。とうぜん、その成金趣味を批判する立場の政治家もいました。
 ホリエモンの行動を法的に許した状況の中から、私ももっと深い政治的意味を感じています。
 アナーキストというと、「怖い」というイメージを持つ人も多い。私のその1人でした。大杉栄を取り上げるうちに、もう一度、調べてみました。
 アナーキズムとは日本語で無政府主義と訳します。アナーキズムの考えを持つ人がアナーキストといいます。その主張は次の通りです。
(1)国家権力を否定し、個人の自由を追求する
(2)議会主義を否定し、労働者の直接行動に期待する
 これを最初に主張したのがプルードンで、バクーニンやクロポトキンらが継承・深化させ、マルクス主義と対立する思想として発展してきました。
 他方、ボリシェビキは、ロシアの社会民主労働党が分裂した時に、レーニンが率いたグループをいいます。その名称は、社会民主労働党内では、党員は少数でしたが、党幹部としては多数派だったので、多数派(ボリシェビキ)からきています。
 党のメンバーを少数の幹部(革命家)に厳しく限定し、武装革命の重視を主張した。1917年、ボリシェビキは11月革命を主導したのがボリシェビキであり、ロシア共産党の前身となりました。
10  アナーキストの大杉栄を虐殺した甘粕正彦を調べてみました。私の知っている甘粕正彦像は映画『ラストエンペラー』の音楽家坂本竜一です。ここでは、冷たい人間として描かれています。
 しかし、甘粕正彦を知っている人は、好意的な証言をしています。
(1)映画の中で中国人「李香蘭」を演じ続けることに疑問を持った山口淑子は、満映理事長室の甘粕正彦に対して、「満映を辞めたい」と恐る恐る言うと、「分かった」と言って契約書を破り捨ててくれました。
(2)満州国総務庁の武藤富男は「甘粕は私利、私欲を思わず、そのうえ生命に対する執着もなかった。彼とつきあった人は、甘粕の様な生き方に魅せられた人が多かった」と書いています。
(3)陸軍の陰謀だという考えが広まっている中、甘粕正彦は「大杉栄・伊藤野枝・橘宗一(6歳)を殺したのは、自分だ」と裁判で主張しました。この潔さに減刑運動も起こったという話を強調する人がいます。
(4)大杉栄は、李香蘭(日本人の山口淑子)の月給が250円、李明(中国人の俳優)の月給45円だったので、李明の月給を200円に引き上げることを提言し、「高い給与を出すと必ずよく働くものです」と言ったということを山口淑子が証言しています。
11  次の話は、甘粕正彦な好意的証言と感じていますが、どうでしょうか。
(5)甘粕正彦が北京の日本大使館員に行く途中、目印のある街路樹を何本も見ました。そこで、甘粕が街路樹のことを話すと、大使館員は「石炭の代用に伐採する街路樹です」と答えました。その話を聞いた甘粕正彦は、「古都の美しさを破壊した日本は世界から軽蔑される」と言って、関東軍に伐採を止めさせました。軍人でもないのに、甘粕の力は、泣く子も黙る関東軍に命令を出せる実力者だったということです。
(6)当時新京放送局に勤めていた森繁久弥氏は、「満州という新しい国に、ビルを建てようの、金をもうけようのというケチな夢じゃない。一つの国を立派に育て上げようという、大きな夢に酔った人だった」と述べています。他国で大ボラをふく夢想主義者だったというのです。

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