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エピソード

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戦後恐慌・金融恐慌と財閥
 この項では、経済問題を取り上げます。
 堀江貴文氏が逮捕されるまで、ホリエモンのブームで沸いた2005年でした。政治評論家の多くは、フジテレビの年配の社長がスーツにネクタイ姿であるのに、ホリエモンは気楽のノーネクタイ姿など外見の胡散臭さは指摘しても、経済活動については、口をつぐんでいました。というより、分からなかったというのが本当です。
 ホリエモンの経済活動に詳しい学者は公認会計士から指摘を受けただけで、私も、本当は分かりません。金融恐慌や財閥についても同じです。しかし、本に書いてあることをただ説明するのでなく、自分で理解して生徒に解説するよう努めました。
 1918(大正7)年9月、@19原敬内閣が誕生しました。
 1919(大正8)年は、第一次世界大戦後の影響を受けて、戦後ブームと言われています。株式市場・商品市場の投機ブームに沸いたり、土地投機ブームが起こっています。東京日本橋付近では坪(畳2枚分)単価が1000円から3000円、大阪北浜付近では1700円が4500円に暴騰しています。教員の初任給が20円の時代です(大正7年)。現在が20万円です。1万倍です。日本橋の地価は3000万円、北浜の地価は4500万円ということになります。 
 1920(大正9)年3月、株式市場は、株価が暴落して混乱し、東京と大阪の株式取引所が一時休業しました。これを戦後恐慌の始まりといいます。
 4月7日、株式市場が株価暴落で再び混乱し、地方の株式取引所が一時休業しました。
 4月13日、商品相場が暴落(生糸価格は75%に、綿糸価格は66%に下落)して、東京・大阪・横浜の取引所が一時休業しました。
 5月10日、大日本紡績連合会は、第九次操業短縮を実施しました。その内容は、1ヶ月6昼夜休業というものでした。
 5月24日、戦後恐慌の影響で、横浜の貿易商である茂木商店が倒産し、茂木商店の主要取引銀行であった七十四銀行が破綻しました。その結果、各地で銀行で取付騒ぎ(169行)や休業(21行)が起こりました。鈴木商店・久原商事・吉河商事・高田商会なども多大の損害を受けました。
 12月末、日本銀行が銀行救済のための支払い準備金特別融資を行った額は35行1億522万円に達しました。
 1921(大正10)年11月、@20高橋是清内閣が誕生しました。
 12月末、銀行の合同が盛んに行われました(普通銀行45行)。会社の解散が激増しました(解散会社の資本金5億7000万円)。貿易収支は3億6132万円の輸入超過となりました。
 1922(大正11)年6月、@21加藤友三郎内閣が誕生しました。
 12月末、会社の解散が激増しました(解散会社の資本金6億3000万円)。貿易収支は2億5286万円の輸入超過となりました。
 1923(大正12)年9月1日、関東大震災がおこりました。被害総額は、100億円(今の3兆円)といわれ、関東経済界が麻痺しました。
 9月2日、@22第二次山本権兵衛内閣が誕生しました。外相は山本権兵衛が兼務、内相に後藤新平、蔵相に井上準之助、陸相に田中義一、海相に財部彪、文相に犬養毅などが任命されました。
 9月7日、蔵相の井上準之助は、被害地の銀行・会社を救済するために、緊急勅令で支払猶予令を公布しました。これをモラトリアムといいます。債務の支払いを9月1日から9月30日まで1ヶ月猶予するという内容です。
 9月27日、蔵相の井上準之助は、緊急勅令で日銀震災手形割引損失補償令を公布しました。その内容は、震災前に銀行が割り引いた手形で、震災のために決済できない場合は、日本銀行が再割引して銀行の損失を救う。それによって日銀に損失が生じた場合は、一億円を限度として政府が補償するというものです。これを震災手形といいます。
 12月末、日銀券発行残高は17億359万円に達し、過去最高を記録しました。貿易収支は5億3448万円の輸入超過となりました。
 1924(大正13)年1月、@23清浦奎吾内閣が誕生しました。
 3月末、日銀の震災手形は、4億3081万円に達しました。
 6月、@24加藤高明内閣が誕生しました。蔵相には浜口雄幸が任命されました。
 12月末、貿易収支は6億4637万円で、過去最高の輸入超過となりました。
 1925(大正14)年3月31日、経営が好転せず、手形決済が順調に進まなかったので、政府は、震災手形割引の期間延長に関する件を公布しました。その内容は、期限を1926年9月30日まで延長するというものです。
 5月、日銀の兌換券発行高・一般貸出高は、関東大震災来の最低を記録しました。
 8月27日、朝鮮銀行の臨時株主総会が開かれ、損失整理案を決定しました。その内容は、(1)資本金は半額に減資する(2)積立金の全額を取り崩すなどでした。
 9月1日、台湾銀行の株主総会が開かれ、損失整理案を決定しました。その内容は、(1)資本金は4分の1を減資する(2)積立金を取り崩すなどでした。
 1926(大正15)年1月30日、@25若槻礼次郎内閣が誕生しました。蔵相には浜口雄幸、外相に幣原喜重郎が任命されました。
 3月29日、経営が好転せず、手形決済が順調に進まなかったので、政府は、震災手形割引期間の再延長に関する件を公布しました。その内容は、期限を1927年9月30日まで1年間延長するというものです。
 6月3日、蔵相には早速整璽が任命されました。
 9月14日、蔵相には片岡直温が任命されました。
 11月7日、若槻礼次郎首相は、松島遊郭事件の証人として取調べを受けました。
 11月19日、箕浦勝人は、若槻礼次郎首相を偽証罪で告発しました。
 11月20日、政府・日銀は、鈴木商店・日本製粉の救済のため、資金援助措置を決定しました。その結果、台湾銀行は、鈴木商店と日本製粉に各800万円を融資しました。
 12月13日、生糸相場が暴落したので、全国の製糸会社は12月31日まで操業を休止しました。
 12月25日、大正天皇(48歳)が亡くなり、摂政の裕仁親王が即位して昭和天皇となりました。
 12月25日、年号を昭和と改元しました。
 1926(昭和元)年12月末、日銀の震災手形は、まだ2億700万円の水準を維持しています。この内台湾銀行の手形が1億万円(48%)を占め、1億円の70%が鈴木商店でした。この制度を徹底的に利用したのが台湾銀行と鈴木商店だったことが分かります。鈴木商店の番頭である金子直吉は、「鈴木商店が潰れたら、日本財界が潰れる。絶対、政府は鈴木を潰さない」と周囲に豪語したといいます。
10  1927(昭和2)年1月20日、政友会政友本党は、内閣不信任案を提出しました。若槻礼次郎首相は、政友会の田中義一総裁・政友本党の床次竹二郎総裁と会談し、政争の中止を申し合わせました。これを三党首会談といいます。
 1月21日、イギリスの日本大使は、上海防衛のための共同出兵を提議しましたが、幣原喜重郎外相はこれを拒否しました。
 2月25日、憲政会(若槻礼次郎)と政友本党(床次竹二郎)は、憲本連盟の覚書を交換しました。
 3月3日、憲本連盟に憤激した政友会(田中義一総裁)は、震災手形前後処理法案・震災手形損失補償公債法案に反対したので、議場は混乱しました。
 3月14日午前、東京渡辺銀行の渡辺専務は、資金繰りに困り、大蔵省の事務次官に救済を依頼しました。しかし、東京渡辺銀行は資金繰りがうまくいって、破綻を免れていました。
 3月14日午後、衆議院予算委員会では、与党の憲政会が提案した震災手形の繰り延べ法案を審議していました。その時に、事務次官は片岡直温蔵相に「本日正午、東京渡辺銀行が支払いを停止せり」というメモを渡しました。
 政敵の政友会(田中義一総裁)の吉植庄一郎の追求に対して、片岡蔵相は「正午頃、東京渡辺銀行が破綻しました」と言ってしまいました。この片岡蔵相の失言が金融恐慌の発端になりました。
 3月15日、東京渡辺銀行と姉妹銀行のあかぢ貯蓄銀行が休業しました。その結果、各地で取付騒ぎがおこりました。
 3月19日、中井銀行が休業しました。
 3月21日、左右田銀行八十四銀行中沢銀行が休業しました。
 3月21日、日銀は市中銀行に対し非常貸出を実施しました。
 3月22日、村井銀行が休業しました。
 3月23日、日銀の非常貸出は6億円を突破しました。
 3月22日、蔵相・日銀総裁の財界安定声明を出し、4月5日に台湾銀行調査会を設置し、会長に井上準之助を任命することを決定しました。
 3月26日、台湾銀行は、それを察知して、鈴木商店への新規貸出を停止しました。
 3月30日、震災手形損失補償公債法・震災手形前後処理法が公布されました。付帯決議として、「今後、台湾銀行の根本的整理を行い、その基礎を強固にすべし」という文言がありました。
11  4月1日、各新聞は、「台湾銀行の鈴木商店への新規融資停止」を報道しました。
 4月5日、鈴木商店は、新規取引を中止しました(鈴木商店が破綻しました)。この時点で、台湾銀行の鈴木商店への融資は3億5000万円に達しおり、しかも回収不能の金額でした。
 4月8日、鈴木商店系の六十五銀行(神戸)が取り付けに会い、休業しました。
 4月13日、閣議は、台湾銀行応急救済のため、緊急勅令で日銀の非常貸出・損失補償を行う方針を決定しました。
 4月17日、幣原外交(協調外交)に不満の枢密院・政友会は、19対11の差で、台湾銀行救済緊急勅令案(2億円)を否決しました。若槻内閣が総辞職しました。
 4月18日、その結果、台湾銀行は、台湾店舗を除き、全店休業しました。近江銀行(大阪)が休業し、銀行の取付騒ぎが全国化しました。 
 4月20日、@26田中義一内閣が誕生しました。政友会内閣です。外相は田中義一が兼務、蔵相は元首相の高橋是清が任命されました。
 4月20日21時、高橋是清蔵相は、自宅に日銀総裁・副総裁・大蔵事務次官を呼んで協議し、日銀の非常貸出を決定しました。その結果、紙幣を大増刷することになりましたが、間に合わなかったので、表だけ印刷し、裏は白紙という紙幣も使われました。
 4月21日、高橋是清蔵相は、三井銀行の池田茂彬と三菱銀行の串田万蔵を招き、「22日と23日の休業」を申し入れました。その結果、東京銀行集会所と東京手形交換所の緊急理事会が開かれ、「22日と23日の全国一斉休業」が決まりました。
 4月21日、東京の五大銀行の1つである十五銀行(預金3億7000万円)が休業しました。
 4月22日、枢密院で、金銭債務の支払延期および手形の保存行為の期間延長に関する緊急勅令公布の件が可決しました。枢密院は、政治的理由で、若槻内閣の案を否決し、田中内閣の案を可決したのです。これを3週間のモラトリアムといいます。即日実施されました。
 4月24日、日銀総裁は、取引先以外の銀行へも援助を与える旨を声明しました。
 4月25日、全国の銀行は、営業を再開しました。日銀の市中銀行貸出残高は20億円を突破しました。引き出された額は6億円で、全預金額90億円の6。7%でした。こうして金融恐慌は終わったのです。
 6月2日、高橋是清蔵相は辞任しました。わずか42日間に蔵相でした。、後任に三土忠造が就任しました。
12  金融危機が去っても人間の心理は残ります。働いてコツコツ貯めたお金が、銀行が倒産して元も子もなくなっては大変です。そこで不便であっても、つぶれない銀行に預けるようになります。その結果、三井・三菱・住友・安田・第一の五大銀行財閥)への預金の集中が進みました。この五大銀行の方針が日本の命運を握るようになっていったのです。
五大銀行の預金占有率
1926年 1928年 1930年 1932年 1934年
銀行数 1427 1031 782 538 484
占有率 27。8% 34。0% 36。8% 40。0% 42。7%
三大財閥の企業占有率
鉄鋼 金属機械 紡績 運輸 商事 銀行
55% 38% 25% 65% 75% 30%
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
鈴木商店の金子直吉、『メリーポピンズ』と取付騒ぎ
 土佐の没落豪商の家に生まれた金子直吉は、20歳のとき、神戸に出て、鈴木商店の丁稚となります。しかし、丁稚奉公が厳しく、実家に逃げ帰ります。直吉を連れ戻したのが、鈴木岩次郎の妻鈴木よねでした。よねの信頼を得た直吉は、番頭として、台湾の樟脳に目を付けます。樟脳は特に昇華性防虫剤として有名です。これで得たお金で、小林製鋼所(今の神戸製鋼所)を買収します。
 第一次世界大戦では、海外に支店を設置し、多くの情報から必要な物資を選択し、樟脳はもちろん、砂糖・米・小麦・肥料・ゴム・木材などに手を広げました。
 スエズ運河を通過する船の10%は鈴木商店の所有だったといいます。ヨーロッパ戦線で戦争に使われる塹壕の土嚢も鈴木商店の扱った物がたくさんあったといいます。ついには、売上高は、三井物産の12億円を上回る16億円に達しました。
 神戸製鋼所のほかに帝人・日商岩井・石川島播磨重工業などは鈴木商店をルーツとしています。
 この資金を融資していたのが、樟脳の販売権のときに結託した台湾銀行です。鈴木商店の資本金は、1億3000万円でしたが、台湾銀行などからの借り入れ資金は10億円に達していました。
 第一次大戦後の反動恐慌で、鈴木商店は大打撃を受けました。
 金融恐慌の時、若槻礼次郎内閣の台湾銀行救済案が否決されます。その結果、成金の鈴木商店は破綻します。
 しかし、次の田中義一内閣のとき、救済案が可決されます。この経過を見ると、三井・三菱と結託した枢密院が、成金企業の鈴木商店を破滅させたのではないかと、疑いたくなります。
 最近の新聞(2006年1月26日)によると、ホリエモンがライブドアの取締役・社長を辞任し、全てを権限を放棄したと報道されています。一時、改革の旗手として小泉首相や竹中大臣・武部幹事長らから持ち上げられ、マス=コミの寵児として活躍していたことが嘘のようです。
 1964年に公開された『メリー・ポピンズ』は楽しい映画でした。原作はパメラ・トラヴァース、監督はロバート・スティーブンソン、主演はジュリー・アンドリュース、共演がディック・ヴァン・ダイクでした。
 金融恐慌となんの関係があると思われるでしょうが、実は大有りなのです。
 高校生も『メリー・ポピンズ』を大体見ていました。子供が鳩の餌を買うためにお金を持っていました。それを父が重役を勤める銀行で、貯金しなさいと取り上げるのです。子供は必死で取り返そうとします。これを見た預金者は、子供からお金を取り上げるほど経営に逼迫していると勘違いして、預金を引き出します。その噂を聞いた預金者がおおぜい銀行に駆けつけます。つまり、取付騒ぎが描かれていたのです。
 これは今から33年前の1973年に、愛知県豊川市で起こった取付騒ぎです。
 この年の12月8日、3人の女子高生が下校途中、その1人が就職が決まっている信用金庫の話になりました。冗談で、1人が「母が、あんたが内定している信用金庫はあぶないと言っていた」と言いました。
 その話を聞いた内定者の女子高生が下宿に帰宅後、下宿先の叔母(41歳)にその話をしました。
 12月8日夜、その叔母(41歳)は、信用金庫本店近くに住んでいる実兄の妻に、「信用金庫があぶないという噂があるが本当か調べてほしい」と電話しました。しかし、実兄の妻は「噂よ」と答えています。
 12月9日、実兄の妻は美容師(37歳)にその「噂」を伝えました。
 12月10日、美容師(37歳)は自分の親戚の女性(61歳)に「噂」を話しました。たまたま、親戚の女性(61歳)の家には、クリーニング屋が遊びに来ていました。クリーニング屋は帰宅後、クリーニング屋の妻に話していますが、この段階では、単なる「噂」として処理されています。
 12月13日午前、クリーニング屋に男性が電話を借り、男性の妻に個人的理由で「信用金庫からすぐに120万円を引き出すように」と指示しました。これを聞いたクリーニング屋の妻は、あの「噂」と連動させて、夫のクリーニング屋を信用金庫に行かせて預金180万円を引き出させました。
 クリーニング屋夫婦は、友人・知人に電話したり、出向いたりして「信用金庫があぶない」という話を伝えました。その中にはハム(アマチュア無線)仲間もおり、ハムを使って広く話を伝えました。
 12月13日昼、クリーニング屋の住んでいる小坂井支店へ預金を引き出す人が多くなりました。
 12月13日昼頃、タクシー運転手の証言によると、客は「あぶないらしい」と言っていた。
 12月13日14時半、タクシー運転手の証言によると、客は「あぶない」と言っていた。
 12月13日15時、預金を引き出した人は59人、その額は5000万円に達しました。
 12月13日16時半、タクシー運転手の証言によると、客は「つぶれる」と言っていた。
 12月13日夜、タクシー運転手の証言によると、客は「明日はシャッターは上がるまい」と言っていた。
 12月14日朝、100人が信金前に並んで預金を引き出しました。
 12月14日昼、150人が預金を引き出しました。
 12月14日15時、この取付騒ぎは信用金庫の5支店に拡大し、引き出された預金額は17億4000万円に達しました。小坂井支店では1650件、引き出された預金額は4億9000万円に達しました。
 12月15日朝、新聞各紙は「信用金庫の営業実績は健全で心配ない」と報道しました。
 12月15日午後、大蔵省の東海財務局長や日本銀行名古屋支店長は、連名で信用金庫の経営を保証する張り紙を出しました。信用金庫の理事長も直接に客との対応にあたり、取付騒ぎは沈静化しました。しかし、この日引き出された預金額は11億円に達しました。
 こうしたデマから、人々がパニックを起こす心理が分かります。噂を信じず、自分の目・耳・足で確認することを教訓としています。
 今から3年前の2003年にも、佐賀県にある銀行で取付騒ぎがありました。
 2003年8月、中小事業主が積み立てている共済を運営する佐賀商工共済協同組合が破綻しました。佐賀県は特別窓口を設置して、相談に応じたところ、852の相談件数がありました。
 12月24日、携帯電話に「26日に佐賀銀行がつぶれるそうです。預けている人は明日中に全額下ろすことをお勧めします。1000万円以下の預金は一応保護されますが、今度いつ佐銀が復帰するかは不明なので不安です」というメールが届きました。この形式がチェーンメールだったことから、受信者は、同じ内容を多くの知人の携帯電話に転送しました。チェーンメールは、「不幸な手紙」形式の電子メールです。その結果、「佐銀つぶれる」という情報は鼠算式に佐賀県内で増殖していきました。
 佐賀銀行は、預金額は1兆6984億円、貸出金額は1兆2416億円の地方銀行です。健全経営のバロメータである自己資本は9%で、基準の4%を倍以上も上回っている安定した銀行でした。「6月につぶれる」というのは、全くのデマ情報といえます。
 12月25日午前、佐賀銀行の窓口や現金自動預払機(ATM)の前に列が出来ました。
 12月25日午後、佐賀銀行の他の支店でも、窓口や現金自動預払機(ATM)の前に列が出来ました。一部の支店では、現金が不足して本店から取り寄せるという騒ぎもありました。
 12月25日15時、閉店後も預金を引き出す人で混雑しました。
 12月25日15時半、本店のATMの前には200人が並びました。
 12月25日16時、本店のATMの前にやってきたという人は、「テレビで言っていた」とか「建設会社が倒産したので、取引銀行の佐銀もつぶれる」・「佐賀商工共済が頭に浮かんだ」と話したということです。
 12月25日18時、佐賀銀行の頭取が記者会見を行い、「公表している決算内容をみてもらえれば、つぶれるということなどありえない」と発表しました。
 12月25日夜、財務省福岡財務支局は、支局長名で「佐賀銀行の経営内容・健全性は問題ない」という保証を緊急発表しました。
 12月26日、佐賀銀行は、70人を全支店に配置して、客に納得する説明をして、沈静化に成功しました。25日に引き出された額は180億円(前年の25日は60億円)、件数は9万2000件(前年の25日は6万件)だったので、取付騒ぎによる混乱が数字の上でも理解できます。
 2004年2月17日、佐賀県警は、チェーンメールの送信元である女性を信用棄損容疑で書類送検しました。
 人間も動物である限り、常にパニック・集団ヒステリーの中に放り込まれます。
(1)小さい頃の思い出です。バスの中で異様な臭いがしました。誰かが「爆弾と違うか」と言ったので、ほぼ満員のバスの中はパニックになりました。バスの運転手さんが「大丈夫です。私が確認しますから」と冷静に言ったので、乗客は落ち着きました。原因は、ファンベルトの加熱でした。
(2)1973年のオイルショックでトイレットペーパーや洗剤が不足しました。生まれた子供がいたので、困りましたが、「何時までもこんな状態を政治は放置しないだろう」と代用品でがまんして、乗り切りました。あるスーパー「紙がなくなる!」と宣伝しました。真意は、「激安の販売によって」ということだったのですが、不安心理に火をつけ、トイレットペーパーに殺到し、その現象を新聞・TVが報道したのです。
(3)1993年、突如米屋さんに行列が出来ました。スーパーでは米の値段がベラボウに高くなっているのです。自給自足農家である実家にも「親戚のものですが」とか「昔お世話になったものですが」と言って米を売ってほしいという電話がかかってくるようになりました。夜、米屋さんが襲撃され米が盗まれる騒動もおきました。私は、「いつまでもこんな状態は続くはずがない」とラーメンやパン・ウドンなどの代用品でがまんして、乗り切りました。1993年は、天候不順で作柄が心配されていましたが、備蓄米を補給すれば米不足になることはなかったのです。日本政府は、1986年の多角的貿易交渉(ウルグァイ・ラウンド)を承認し、米の輸入自由化を受け入れることになりました。しかし、日本の米の販売価格は1キロが512円ですが、タイ米・アメリカ米は68円です。この情報を国民に公表せず、その時期をねらっていたのです。タイ米で思惑が外れましたが、今は、米や牛肉の自由化の波は現実化しています。
 事件が起こると、学者や評論家が色々な分析・解説をします。しかし、私は、人間も動物である限り、人間は動物的な衝動で、動物的な行動をとると考えています。しかし、人間には冷静さと智恵があります。
 その時、大切なことは、冷静に分析して、正確な情報を、少しでも早く共有するシステムを構築することだということです。速報性ではTVの役割を大きい。分析力では新聞の役割を大きい。
 パニック・集団ヒステリー状態になったとき、一歩外に出て、状況を判断する智恵も必要です。

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