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エピソード

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金解禁と世界恐慌(2)、昭和恐慌と農業恐慌
 1929(昭和4)年7月2日、@27浜口雄幸(60歳。立憲民政党)内閣が誕生しました。外相は幣原喜重郎、蔵相は井上準之助が任命されました。
(1)井上財政の基本は、緊縮財政・産業合理化により金解禁断行でした。
(2)幣原外交の基本は、日中の平和外交と軍備縮小でした。
 7月、この頃の為替相場は100円=43.5ドルでした。
 10月7日、イギリスは、日本・アメリカ・フランス・イタリアをロンドン海軍軍縮会議に招請しました。
 10月24日、ニューヨークのウオール街の株価が大暴落しました。これを暗黒の木曜日といい、アメリカで恐慌がはじまりました。
 11月9日、閣議は、前年度比9165万円減の一般会計16億800万円という1930(昭和5)年度予算案を決定しました。これは1907(明治40)年以来はじめて一般会計で公債を発行しない予算案でした。国債の発行も3924万円減でした。
 11月21日、金輸出解禁の省令を公布しました。
 11月21日、内閣に産業合理化審議会を設置し、産業合理化政策が本格的に始まりました。
 11月26日、閣議は、ロンドン会議全権に対して、対米英7割という訓令を決定しました。
 1930(昭和5)年1月11日、金輸出解禁を実施しました。その結果、金本位制に復帰することになりました。これを金解禁といいます。
(1)日本の通貨(円)と外国の通貨(例アメリカではドル)の価値を比較する基準値を平価といいます。
(2)共通の価値を計る尺度は金(ゴールド)です。
(3)金輸出解禁の前の日本の1円=金0.75g、アメリカの1ドル=1.5gでした。つまり、100円=49.85ドルになり、これを為替相場といいます。これは実質14%の円の切上げになります。
(4)金の重量比較で決まる為替相場を法定平価金平価)といいます。
 1月21日、ロンドン海軍軍縮会議が開会され、日本全権若槻礼次郎元首相・財部彪海相らが出席しました。
 2月20日、@17回総選挙が行われました。金解禁を問う選挙の結果、与党の民政党は273人で圧勝し、金解禁に反対の政友会は174人、国民同士会は6人、無産諸派は5人、革新党は3人、中立その他は5人が当選しました。
 3月14日、ロンドン会議に出席の日本全権は、「アメリカが提示した最終妥結案につき、これ以上の譲歩は得がたい」として請訓しました。請訓とは「外国にいる外交官などが、本国政府に指示を求めること」をいいます。
 4月1日、首相の浜口雄幸は、アメリカ妥協案承認の訓令を海軍軍令部長加藤寛治らに内示して、その後、閣議で決定しました。
 4月2日、ロンドン軍縮会議で、日本・イギリス・アメリカ三国間に、補助艦の比率につき妥協成立しました。
 4月20日、海軍軍令部次長の末次信正は、ロンドン海軍軍縮条約案に不同意の覚書を海軍次官山梨勝之進あてに送付しました。
 4月22日、ロンドン海軍軍縮条約に調印しました。
 4月23日、@第58特別議会が開会されました。これを58議会といいます。
 4月25日、衆議院で、政友会の犬養毅・鳩山一郎は、ロンドン海軍軍縮条約に関して、「国防上の欠陥と統帥権干犯」につき、政府を攻撃しました。これが統帥権干犯問題のおこりです。
 5月17日、1930(昭和5)年度追加予算が公布されました。一般会計総額は16億863万円で、これは前年度実行予算より7242万円減で、公債は募集しませんでした。
 6月10日、加藤寛治海軍軍令部長は、帷幄上奏して昭和天皇に辞表を提出しました。後任に谷口尚真を任命しました。
 6月30日、円の切り上げにより、1月から6月までの正貨の流失は2億3000万円となりました。
 7月、この頃、ドイツの不況が深刻化しました。アメリカの恐慌が世界恐慌に発展して行きました。
 7月23日、海軍軍事参議官会議は、ロンドン条約に関する諮詢に奉答して、兵力の欠陥を補うため制限外艦船・航空兵力充実などの対策を要望しました。
 8月6日、枢密院議長の倉富勇三郎は、浜口雄幸首相に対し兵力量に関する奉答文提示を要求していましたが、浜口首相はこれを拒否しました。
 8月19日、閣議は、農漁村救済のために7000万円の融資を決定しました。
 9月26日、横浜正金銀行は、政変と金輸出再禁止の懸念によりドル為替思惑買いへの対策として、ドル買いに走りました。これがドル買い問題です。
 9月下旬、陸軍中佐の橋本欣五郎らは、桜会を結成し、国家改造のために武力行使も辞せずとの決議を行いました。
 10月2日、枢密院本会議で可決されたロンドン海軍軍縮条約案が批准されました。
 10月3日、海軍大臣の財部彪が辞任して、後任に安保清種が任命されました。
 10月6日、中国の間島竜井村で日本の警察官2人が中国兵士に射殺されました。これを間島事件といいます。
 10月27日、ロンドン海軍軍縮条約の寄託式で、浜口雄幸首相・マクドナルドイギリス首相・フーバーアメリカ大統領は、世界に向けて軍縮記念の放送を行いました。
 10月、生糸価格は、100斤(60kg)=500円台に崩落しました。この数値は1896(明治20)年以来の安値でした。これは世界恐慌が日本に波及したことによる昭和恐慌の始まりです。
(1)豊作飢饉で、米価が3分の2に暴落するなど農産物価格の下落が顕著でした。その結果、物価は前年度より18%も下落しました。農家の負債額は55億円となりました。
(2)事業会社の解散が激増し、資本金額は5億8200万円に達しました。
(3)輸出総額は前年より34%減少しました。その結果、正貨(ゴールド)が2億7550万円と大量に流出して、正貨残高は前年度より3億8354万円も減少して9億5968万円になりました。
(4)輸出の減少で、操業短縮・賃金引下・企業倒産・失業者増大という現象が日常化する恐慌状態となりました。
 11月9日、安保清種海相と井上準之助蔵相との間で、主力艦建艦の保留財源のうち、海軍補充計画割当額と減税割当額とに関し諒解が成立しました。
 11月11日、閣議は、1931(昭和6)年度総予算14億4800万円、海軍補充計画3億9400万円と決定しました。
 11月14日、浜口雄幸首相は、東京駅頭で右翼の佐郷屋留雄に狙撃され、重傷を負いました。この時浜口首相は「男子の本懐だ」と口にしたといいます。
 11月15日、外相の幣原喜重郎が首相臨時代理となりました。
 12月5日、閣議は、失業対策公債として3400万円の発行を決定しました。この結果、浜口雄幸内閣の重要な柱であった非募債方針が崩壊しました。
 1931(昭和6)年3月、政党政治に反発する陸軍の橋本欣五郎中佐・長勇少佐・田中清少佐など桜会の一部将校および右翼の大川周明らは、軍部クーデタによる軍部内閣の樹立を計画しました。その計画によると、大川周明らが1万人のデモ隊を率いて国会を包囲し、首相官邸などを襲撃して、戒厳令を出す。そして国会に軍隊を導入して、現内閣を総辞職させ、陸相の宇垣一成を中心にする軍事政権を樹立しようとするものです。
 この計画は、相互の連絡が不十分で、宇垣一成が消極的となったので、未遂に終わりました。これを三月事件といいます。
 4月1日、重要産業統制法を公布しました。その内容は、各種重要産業部門におけるカルテル結成を助長し、その生産と価格の制限するという統制経済のさきがけになるものでした。この結果、国家独占資本主義へと日本経済は移行して行きます。
 4月13日、浜口雄幸首相が病状悪化のため、内閣総辞職しました。若槻礼次郎が民政党総裁に就任しました。
 4月14日、@28若槻礼次郎内閣が誕生しました。外相に幣原喜重郎、蔵相に井上準之助、陸相に南次郎、海相に安保清種が任命されました。
 7月2日、満州の万宝山で、朝鮮人農民と中国農民・警察官が大衝突しました。これを万宝山事件といいます。
 7月4日、万宝山事件の結果、朝鮮各地で、朝鮮人の中国人に対する報復事件が発生しました。
 8月17日、新聞の夕刊は、報道解禁となった中村震太郎大尉殺害事件を次のように報道しました。それによると、「6月26日に、日本人のみ通行を禁止されていた北満の大興安嶺東側地帯を視察中の中村震太郎太尉(35歳)とその案内人ら4人が中国軍兵士に襲撃され、6月27日に、銃殺されました。中村大尉の死体は耳を裂かれ、鼻をそがれ、手足を切断されていた」というものでした。この記事は、日本人の反日感情に火を注ぎました。
 8月26日、元首相の浜口雄幸(62歳)が亡くなりました。
10  9月18日午後10時30分、関東軍参謀の石原莞爾板垣征四郎は、満州占領を企てて、奉天郊外の柳条湖の満鉄線路を爆破しました。しかし、関東軍司令官の本庄繁は、これを「中国軍の所為」として、総攻撃を命じました。これを柳条湖事変といいます。これがきっかけで満州事変が始まりました。
 9月21日、イギリスは、禁輸出を再禁止しました。その結果、他の列強も同調しました。
 9月21日、イギリスの金本位制停止の影響で、株式・商品市場の相場が暴落し、東京・大阪など株式市場の立会いが停止されました。
 9月24日、政府は、満州事変に関し不拡大方針の第一次声明を発表しました。
 9月、イギリスの金本位制停止により、日本の金輸出再禁止を見越して、ドルの為替思惑買いが激化しました。これをドル買いといいます。日銀と横浜正金銀行は、協議のうえ無条件に売りに応じました。
(1)真っ先にドル買いに走ったのが、情報をすばやくキャッチした三井ら財閥でした。
(2)彼らは、1週間で2億円のドル買いを行い、資産を確保したといいます。
(3)この実態に、国民の多くは、財閥と政治家の癒着を感じ、政党政治に不満を持つようになります。
11
ドル買いの実態(1930年7月31日から1931年12月12日。単位万円)
住友銀行 三井銀行 三井物産 三井信託銀行 三菱銀行 その他 合計
6400 5600 4000 1300 5300 3億2500 7億6000
12  10月17日、未遂に終わった三月事件以降、甘い処分に、陸軍内部では武力による国家改造の気運が盛り上がり、橋本欣五郎中佐・長勇少佐らは、首相官邸で行われている閣議を襲撃し、全閣僚を暗殺し、「錦旗革命本部」と書いた旗を掲げて、中将の荒木貞夫軍部内閣の樹立を計画しました。しかし、この情報を知った憲兵隊が関係者を逮捕して、この計画も未遂に終わりました。この時の処分も、首謀者の橋本欣五郎中佐は20日の重謹慎、長勇少佐らは重謹慎10日という甘い処分でした。これを錦旗革命事件とか、十月事件といいます。
 10月26日、政府は、満州事変に関し撤兵の前提条件の第二次声明を発表しました。
 11月8日、天津で日中両軍が衝突しました。
 11月10日、政友会議員総会は、金輸出再禁止断行を決議しました。これに対し、井上準之助蔵相は金本位制維持を表明しました。
 11月10日、清朝最後の皇帝であった宣統帝溥儀は、日本軍の手により天津を脱出し、関東州大連に向かいました。
 11月18日、閣議は、満州への軍隊増派を決定しました。
 12月11日、若槻礼次郎内閣は、足達謙蔵内相の辞職拒否により閣内不統一で総辞職しました。
 12月13日、@29犬養毅内閣が誕生しました。政友会内閣です。外相に犬養毅(77歳)が兼任し、蔵相に高橋是清、陸相に荒木貞夫、海相に大角岑生、文相に鳩山一郎が任命されました。これ以降を高橋財政といいます。
 12月13日、正貨が4億5450万円も流出している状況に接して、初閣議は、金輸出再禁止を決定しました。その結果、金本位制が停止され、管理通貨制度へ移行することとなりました。
 12月17日、銀行券金貨兌換停止令が公布されました。
 12月31日、金輸出再禁止で為替相場が暴落しました。内地の対米為替は35ドル4分の1で、ドル買いの思惑が成功したことになります。
13  世界恐慌に巻き込まれた日本の恐慌を昭和恐慌といいます。株価も物価も半分に下落しています。
1921年 1928年 1930年 1921年 1928年 1930年
株価指数 100 120 50 物価指数 100 80 65

 輸出額は、前年より20%減となりました。正貨の残高は5億5729万円で、前年より4億239万円も減少しています。来年度には、正貨の残高が0円ということも考えられます。国家の信用が破綻します。
 その結果、操短・賃下げ・倒産・産業合理化による人員整理が行われ、労働争議・失業者が激増します。都会で生活出来ない者は、農村に帰っていきます。
 帰って行った農村では、都市の消費者が作物を買う状態でなかったので、より貧困化していきました。
産業界の操短率 生糸の単価指数 米価指数
過燐酸石灰 セメント 洋紙 硫酸 鉄鋼 綿紡 絹紡 人絹 1929年 1930年 1929年 1930年
60% 50% 50% 50% 30% 30% 30% 30% 85.3 59.7 28.9 18.4
14
1929年 1930年 1931年
GNP(万円) 13、941 11、245 10、678
労働者数指数 91.1 82.2 74.4
実質賃金指数 103.9 98.7 90.7
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
円高と円安、物価を考える
 私の高校生時代、1ドル=360円、1ポンド=1008円と覚えさせられました。この為替相場は固定していて、変化しなかったからです。これが固定相場です。
 今は覚える必要がありません。それは為替相場が毎日変動するからです。これが変動相場です。
 その前に、為替相場の歴史を調べてみました。
 1844年、イングランド銀行が金と交換できるポンド表示の紙幣を発行しました。金と交換できる紙幣を兌換紙幣といいます。金(ゴールド)で売買すると、いろいろ不都合なことが起こります。そこで、金の保有額だけ紙幣を発行し、流通手段として使用します。いつでも金(ゴールド)と交換できるので、兌換紙幣は信頼性が高いのです。
 金1オンス(31グラム)は紙幣の3ポンド17シリング10ペンスと交換できるようにしました。これを金本位制といいます。
 為替相場の歴史の続きです。
 世界恐慌の結果、金本位制の本国であるイギリスをはじめ、世界各国は、日本も含めて金本位制を離脱し、金の保有量と関係なく紙幣を自由に発行できるようにしました。これを管理通貨制度といいます。やがて世界各国は、金(ゴールド)を得ようとして、ブロック経済を採用し、持てる国と持たざる国の戦争に突入しました。
 1944年、アメリカのブレトンウッズで戦後の国際通貨体制の会議がもたれました。為替レートを安定させて、自由貿易を発展させるために、国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)を設立しました。同時に、アメリカの35ドル=金(ゴールド)1オンスを保証し、自国の通貨をドルで交換率を表示することにしました。為替相場の変動も上下1%以内と決めました。これをブレトンウッズ体制といいます。
 1949年、日本では、平価を1ドル=360円の単一為替相場となりました。これを固定相場制といいます。
 1971年、アメリカ大統領のニクソンは、ブレトンウッズ体制を否定するドルと金の交換を停止すると発表しました。アメリカのスミソニアンで、ドルの切り下げと為替変動幅の拡大が取り決められました。金とドルの交換率は、1オンス=35ドルから38ドルへ引き上げられました。これをドルの7.89%切り下げといいます。日本円は1ドル=360円から1ドル=308円に引き下げられました。これを円の16.88%切り上げといいます。為替変動幅も、ブレトンウッズ体制の上下1%以内から上下2.25%以内に変更されました。これをスミソニアン体制といいます。
 1973年、スミソニアン体制から金・ドルと交換されない国際通貨制度は変動相場制に移動するようになりました。
 1976年、ジャマイカのキングストンで、変動相場制が正式に承認されました。これをキングストン合意といいます。
 1978年、アメリカ大統領カーターは、ドル防衛策を発表しました。その結果1ドル=230円から1ドル=175円に引き下げられました。
 1985年、プラザ合意によって、日本円・ドイツマルクが切り上げられました。その結果、1ドル=240円が1ドル120円に引き下げられました。9月23日には、1日で10円も上昇しました。
 1995年、G7(先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議)合意の結果、1ドル=79円75銭を記録しました。これが円の最高値になりました。
 1949年、1ドル=360円と固定されました。
 1971年、1ドル=308円に引き下げられました。
 1995年、1ドル=80円を記録しました。
 1998年、1ドル=147円を記録しました。
(1)1ドル=360円から1ドル=308円になった場合、ドルを持っている人からすると、1ドルで308円の品物しか買えなません。ドルの価値が下がったことになります。逆に円を持っている人からすると、308円で1ドルの品物が買えます。円の価値が上がったことになります。これをドル安円高といいます。
(2)1ドル=80円から1ドル=147円になった場合、ドルを持っている人からすると、1ドルで147円の品物が買えるようになります。ドルの価値が上がったことになります。逆に円を持っている人からすると、147円だしても1ドルの品物しか買えません。円の価値が下がったことになります。これをドル高円安といいます。
 余り概説書では触れられていないことですが、ドル安円高とかドル高円安という現象が、どうしておこるのかを探ってみました。
 ここでは理解しやすくするために、1ドル=100円とします。金(ゴールド)とは関係なく紙幣を発行できるという管理通貨制度下というのも条件です。
 生産量は同じなのに、今までの倍の紙幣が増刷され、発行されます。すると、100円で1個買えたパンが200円出さないと買えないようになります。これをインフレーションといいます。
 所が、為替相場になると、パン1個=200円=2ドルとなります。実態とかけ離れた相場になると、アメリカの批判をうけます。そこで、1ドル=200円=パン1個にします。これをドル高円安といいます。 
 規模を大きくして、貿易で考えてみました。
 1ドル=100円が1ドル=200円(ドル高円安)になると、アメリカ人は、以前1ドルでパン1個買っていたのが、今度は1ドルでパン2個買えるようになります。つまり、日本からすると輸出が増加します。逆に日本人は、100円でバター1個買っていたのが、今度は200円出さないとバター1個が買えません。つまり、日本からすると、輸入を手控えるようになります。
 逆にドル安円高になると、日本からの輸出が減少し、日本からの輸入が増えます。
 こうした一方的な状態が続くことは不正常なので、為替相場(為替レート)を調整して、正常に戻すのです。
10  こうした貿易上のシステムを利用して、働かずに金を儲ける人がいます。江戸時代末期、日米の金銀比価の違いを利用され、日本から50万両もの金(ゴールド)が流出しました。しかし、これは違法ではありません。
 面白い新聞記事を見つけました。宇沢弘文東大名誉教授の体験です。宇沢教授の同僚でシカゴ大学のフリードマン教授は、イギリスのポンドの切り下げが近いと感じて、シカゴ市内の銀行でポンドを売貿して儲けようとしました。すると、銀行の窓口の担当者から「我々は紳士だから、そういうことはできない」と断わられた。そこで、フリードマン教授は「資本主義の世界では儲かるときに儲けるのが紳士なのだ」と反論した。 
 宇沢弘文教授は、この話からフリードマン教授を「人間の尊厳を否定して自分たちだけの自由を主張する」と批判し、フリードマン教授の申し出をきっばり拒んだ銀行員のモラルを高く評価しています(朝日新聞2006年1月31日付け星浩編集委員の「政態拝見」より)
11  フリードマン教授がどうして金を儲けようとしたのでしょうか。
 ここでは、100ドル=50ポンドが100ドル=25ポンドになりそうだと仮定します。これを察知したフリードマン教授は100ドルを売って50ポンドを買います。100ドル=25ポンドになった時、買った50ポンドを売ると、200ドルが手に入ります。額に汗することなく、しかも短時間で、100ドルで200ドルを儲けるのです。これが1億ドルだったとしたら、2億ドルを手にするのです。これも違法ではありません。
 資本主義は倫理を精神構造の柱に据えないと、いずれ破綻するという教訓です。
12  星浩編集委員は、ホリエモン事件を考えるために、この話を紹介しています。
 三井などの財閥がドル買いをして資金を確保したことは合法です。しかし、国民は、その情報を政治家から得たと見ておりました。それが、昭和恐慌の困窮の時だったので、財閥と政党の癒着に猛烈な不満を持ちました。特に農村では、娘が色街に身を売って家族を養うという悲劇が蔓延していました。
 その結果、自分の妹が身を売ったという話を聞いた農村出身の若手将校は、いたたまれない気持ちを抱き、農村を救うには、国家改造が必要だという考えが急速に拡大して行きました。これを農本主義的国家改造運動といいます。

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