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エピソード

234_01

国共合作と蒋介石の北伐、田中義一内閣の強硬外交
 1920年代の日本はどうだったのでしょうか。 
中国への輸出額 (1)左の表を見ると、日本の貿易相手国の1位は
 中国で、その市場の重大さが理解出来ます。
(2)当時の中国には、民族主義が台頭して、日本
 の協調外交には、危険信号が灯りました。
1922年 1926年
47% 41%
 1916(大正5)年10月9日、@18寺内正毅内閣が成立しました。
 1917(大正6)年1月、段祺瑞内閣に借款500万円を供与しました。これが西原借款の最初です。
 2月、英国覚書を発表しました。その内容は、次の通りです。
(1)イギリスは、講和会議での日本の利権を約束する。
(2)山東省のドイツ権益ならびに赤道以北のドイツ領諸島に関する日本の要求を支持する。
 3月、フランス・ロシアもイギリスの提案を支持すると回答しました。
 11月2日、中国における利害を調節する石井・ランシング協定に調印しました。
 11月7日、ロシア10月革命がおこりました。
 1918(大正7)年9月28日、西原借款の合計は1億4500万円に達しました。中国の特殊利益につながる政治的借款として内外から非難がおこりました。
 9月29日、@19原敬内閣が誕生しました。
 11月、第一次世界大戦が終了しました。
 1919(大正8)年1月18日、パリ講和会議が開かれました。
 1月27日、講和会議で、牧野伸顕全権は、山東半島のドイツ利権の譲渡を要求しました。
 1月28日、中国代表は、山東の中国還付を要求しました。
 4月12日、関東庁官制・関東軍司令部条例が公布されました。その結果、関東都督府は関東庁に改組され、関東庁の陸軍部は独立して関東軍となり、その司令部は旅順に置かれました。初代関東庁官に林権助、関東軍司令官に立花小一郎が任命されました。関東軍は、満鉄や関東州の警備軍の任務を負いました。
 5月4日、講和会議は、ドイツ領山東半島利権を日本に認める決定をしました。
 5月4日、北京の学生3000人は、山東問題で抗議運動を展開しました。これが五・四運動です。
 6月10日、北京政府は、講和条約不調印を決定しました。
 10月10日、孫文の中国革命党が中国国民党に改組されました。
 1920(大正9)年5月22日、中国は、山東問題につき直接交渉拒絶の覚書を提示しました。
 7月14日、日本が後援し、段祺瑞が指導する安徽派は、アメリカ・イギリスが後援し、呉佩孚らが指導する直隷派が戦争を開始しました。これを安直戦争といいます。
 7月19日、安徽派が破れ、段祺瑞が辞職しました。
 8月、陳独秀らは、上海で、中国社会主義青年団を結成しました。
 10月、毛沢東は、湖南でで、中国社会主義青年団を結成しました。
 10月31日、徐世昌は、中国の南北和平統一を宣言しました。孫文・唐紹儀伍廷芳唐継堯らは連盟して、不承認と通告しました。
 1921(大正10)年5月5日、孫文は非常大総統に就任し、広東新政府が成立しました。
 5月16日、東方会議を開催しました。出席者は首相の原敬、朝鮮総督の斉藤実、関東庁長官山県伊三郎、駐華公使の小幡酉吉、関東軍司令官の河合操らでした。
 5月17日、閣議は、張作霖が東三省の内政・軍備を充実する限り援助するが、中央への進出は援助しないとの方針を決定しました。
 7月1日、上海で、中国共産党創立大会が開かれ、毛沢東董必武ら12人が出席しました。
 10月12日、原敬首相は、海軍大臣臨時事務管理に就任しました。これは最初の文官による軍部大臣事務管理で、陸軍は猛反発しました。
 11月4日、原敬首相(66歳)は、東京駅頭で、中岡艮一に刺殺されました。外相の内田康哉が臨時首相を兼任しました。
 11月5日、原敬内閣は総辞職しました。
 11月12日、西園寺公望は、元老の意向として高橋是清を後継首相に推薦しました。
 11月12日、ワシントン会議が開催されました。
 11月13日、@20高橋是清内閣が誕生しました。外相に内田康哉、蔵相に高橋是清(兼任)、陸相に山梨半造、海相に加藤友三郎らが全員留任しました。
 12月13日、日本・アメリカ・イギリス・フランスにより四カ国条約が調印され、日英同盟条約も終了することになりました。
 1922(大正11)年2月2日、ワシントン会議で、日本全権の幣原喜重郎は、対華21ヶ条中の第五号要求の撤回、満蒙投資優先権の放棄を声明しました。
 2月4日、日中両国は、山東懸案解決に関する条約に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)日本の膠州湾租借地の還付
(2)中国の膠州湾租借地の開放
(3)日本軍の撤退など
 2月27日、孫文は、桂林で北伐を宣言しました。
 4月、孫文は、第一次北伐を開始しました。
 4月26日、張作霖の奉天軍は、長辛店で、呉佩孚の直隷軍と開戦しました。これを第一次奉直戦争といいます。
 5月12日、張作霖は、東三省の独立を宣言しました。
 6月6日、高橋是清首相は、内閣改造問題で閣内不一致のため総辞職しました。内閣改造に反対した中橋徳五郎文相・元田肇鉄相ら6人を政友会から除名しました。
 5月、中国共産党第二回全国大会は、国民党内の革命的民主派との統一戦線を樹立し、コミンテルンの加盟を決定しました。
 6月9日、元老は、海相の加藤友三郎を後継首班に推薦しました。
 6月12日、@21加藤友三郎内閣が誕生しました。外相に内田康哉、蔵相に市来乙彦、陸相に山梨半造、海相に加藤友三郎(兼任)らが任命されしました。
 6月14日、呉佩孚率いる直隷軍は、長城を越えて張作霖率いる奉天軍を追撃しました。
 6月16日、珍炯明は、呉佩孚と通じて、孫文の広東政府を攻撃しました。
 6月17日、呉佩孚率いる直隷軍は、張作霖率いる奉天軍と和議を結びました。これを第一次奉直戦争の終了といいます。
 8月9日、孫文は、上海の逃れ、第一次北伐は失敗しました。
 12月17日、青島の日本軍守備軍が撤退を完了しました。
 12月20日、閣議は、張作霖の中央進出に反対の方針を決定しました。
 1923(大正12)年1月26日、上海で、孫文・ヨッフェ共同宣言を発表し、ソ連は、中国革命支援を表明しました。
 2月21日、孫文は、広東に帰り大元帥に就任しました。これを第三次広東政府といいます。
 3月10日、中国は、日本に21か条条約廃棄を通告しました。この頃、中国各地で、旅順・大連回収を要求する排日運動がおこっています。
 4月14日、石井・ランシング協定が廃棄されました。
 6月、広州で、中国共産党第三回全国大会(3全会)を開き、革命統一戦線の樹立・国共合作を決定しました。
 8月24日、加藤友三郎首相(63歳)が病死しました。
 9月1日、関東大震災がおこりました。
 9月2日、@22第二次山本権兵衛内閣が誕生しました。
 11月、孫文は、連ソ・容共・扶助工農の三大政策を決定し、中国国民党の改組宣言を発表しました。
 12月27日、アナーキストの難波大助が摂政宮を狙撃しました。これを虎の門事件といいます
10  1924(大正13)年1月7日、@23清浦奎吾内閣が誕生しました。
 1月20日、中国国民党第一回全国代表大会(1全大会)で、連ソ・容共・扶助・工農という中国国民党綱領を採択し、軍閥打倒を目的とする第一次国共合作を発表しました。これは共産党の李大□と国民党の孫文が尽力して(国民党)と(共産党)が合作(連携)するという画期的な内容です。何が画期的かというと、国民党は資本主義を党是とし、共産党は社会主義を党是としており、資本主義と社会主義は相容れない経済政策だったからです。
 5月31日、中ソ協定が成立し、ソ連は、旧ロシアの在華特殊権益・治外法権・義和団賠償金などを放棄し、中ソ両国の外交関係を樹立しました。
 6月11日、@24加藤高明(護憲三派)内閣が誕生しました。
 6月16日、孫文は、黄埔軍官学校を開校し、校長に蒋介石を抜擢しました。また、幹部に国民党代表寥仲ト、政治部主任周恩来、顧問にロシア人ガレンを任命しました。
 9月18日、孫文は、呉佩孚打倒の北伐を宣言しました。これを第二次北伐宣言といいます。
 9月18日、奉天軍と直隷軍が全面的交戦を開始しました。これを第二次奉直戦争といいます。
 10月13日、政府は、中国に内政不干渉と満蒙利権擁護の覚書を交付しました。
 10月23日、呉佩孚の部下である馮玉祥は、クーデタで北京を占領し、国民軍を組織しました。これを北京政変といいます。
 11月3日、呉佩孚が敗走し、第二次奉直戦争は終了しました。
 11月5日、馮玉祥は、紫禁城からの溥儀追放を命令しました。
 11月12日、孫文は、日本経由で、北京の善後会議に出席するため、広東を出発しました。
 11月24日、段祺瑞は、張作霖・馮玉祥に推されて臨時執政に就任しました。
 11月24日、孫文は、広東より北京に向かう途中、神戸に立ち寄り、日本の対華政策に警告する大アジア主義を演説しました。
 11月29日、溥儀は、日本公使館に避難しました。 
11  1925(大正14)年2月1日、段祺瑞は、善後会議を招集しました。
 3月1日、共産党と国民党左派は、国民会議促進大会を北京で挙行し、善後会議に対抗しました。
 3月12日、孫文(59歳)が北京で病没しました。
 4月19日、青島の日本紡績工場の労働者1万8000人が第一次ストを開始しました。
 5月14日、上海の日本内外綿紡工場でストが再開されました。
 5月15日、日本の資本家は中国人労働者10人を殺傷し、2万人の労働者が抗議ストを開始しました。
 5月25日、青島の日本紡績工場の労働者が第二次ストを開始しました。
 5月28日、日本と奉天派軍閥は、ストを弾圧し、8人の死者を出しました。これを青島虐殺事件といいます。
 6月29日、香港の労働者13万人は、広州に引揚げを開始しました。これが香港大ストライキです。
 7月1日、広東国民政府が成立しました。汪兆銘・寥仲ト・胡漢民・蒋介石ら政治委員16の合議制を採用しました。
 11月22日、奉天派の郭松齢は馮玉祥と通じて、張作霖に反旗を翻しました。
 12月15日、日本軍は、郭松齢軍の進撃を阻止しました。
 12月23日、この結果、郭松齢軍は、張作霖軍に敗北しました。これを郭松齢事件といいます。このあと排日運動が激化します。
 12月23日、国民党の右派は、北京西山に会合し、西山派を結成し、中国共産党員の除名・ロシア人ボロジン顧問の解雇を決議しました。
12  1926(大正15)年1月4日、広東で中国国民党第二回全国代表大会(2全大会)が開かれ、汪兆銘・蒋介石らが実権を掌握し、西山派を除名しました。執行委員36人中7人が中国共産党員で、宣伝部長代理に毛沢東を選出しました。
 1月28日、加藤高明首相(67歳)が病没しました。
 1月30日、@25若槻礼次郎内閣が誕生しました。
 3月20日、蒋介石は、戒厳令を公布し、広州を封鎖し、共産党員で、中山艦艦長李之竜・国民革命軍第一軍政治部主任周恩来ら軍隊内の共産党員を逮捕しました。これを中山艦事件といいます。この結果、国民政府は、蒋介石ら国民党右派が実権を掌握しました。
 5月15日、蒋介石は、中国共産党員の活動を制限する党務整理案を国民党中央執行委員会に提出しました。その結果、毛沢東宣伝部長代理らは退陣しました。
 7月1日、広東国民政府は、北伐を宣言しました。
 7月9日、蒋介石(40歳)は、国民革命軍総司令に就任し、広州を出発し、北伐を開始しました。
 7月11日、国民革命軍(北伐軍)は、長沙を占領しました。
 7月12日、中国共産党中央は、第五次時局声明を発表し、革命的連合戦線の強化・国内軍閥と帝国主義打倒を呼びかけました。
 9月6日、北伐軍は、漢陽を占領しました。
 9月7日、北伐軍は、漢口を占領しました。
 10月10日、北伐軍は、武昌を占領しました。
 11月7日、北伐軍は、南昌を占領しました。
 11月26日、国民党の左派は、武漢遷都を決議しました。蒋介石は、南昌遷都を主張しました。
13  1927(昭和元)年2月21日、汪兆銘の国民党左派と共産党は、武漢に国民政府を樹立しました。これを武漢政府といいます。
 3月15日、金融恐慌がおこりました。
 3月24日、中国革命軍(北伐軍)は、南京入城に際し、日本・イギリス・アメリカなどの領事館に暴行を働き、日本の海軍軍人に対しても無抵抗で武装解除しました。これを南京事件といいます。
 3月、共産党の指導する労働者らは、上海を解放しました。これを上海解放事件といいます。
14  4月3日、中国の漢口で、中国人と日本陸戦隊が衝突しました。これを漢口事件といいます。
 4月6日、幣原喜重郎外相は、駐華公使芳沢謙吉に「南京事件の解決は外交交渉による」と訓令しました。
 4月7日、陸相の宇垣一成は、若槻礼次郎首相に対して、中国の共産派抑圧のため列強と協調して積極策をとるよう申し入れました。
 4月11日、日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリアは、国民政府に対して、最後通牒を出して、南京事件に関し謝罪と責任者処罰を要求しました。蒋介石はこれを受け入れました。これを蒋介石の妥協といいます。
 4月12日、上海解放事件に衝撃を受けた蒋介石は、浙江財閥を支援を受けて、上海で、反共クーデタを敢行し、労働者糾察態・上海総工会を解散し、共産党幹部ら300人を銃殺しました。これを4・12クーデタといいます。この結果、第1次国共合作は崩壊しました。
 4月17日、枢密院は、協調外交を推進する若槻内閣に反発して、若槻内閣の提案した台湾銀行救済緊急勅令案を否決しました。
 4月17日、若槻礼次郎内閣が総辞職しました。
 4月18日、国民党左派の汪兆銘や共産党が樹した武漢政府に対抗し、蒋介石は、南京に国民政府を樹立し、共産党排撃(清党)を宣言しました。これを南京政府といいます。
 4月20日、@26田中義一(政友会)内閣が誕生しました。外相に田中義一(兼任)、蔵相に高橋是清、陸相に白川義則、海相に岡田啓介らが任命されました。
 4月22日、田中義一首相は、施政方針を発表し、「中国における共産党の活動に日本は無関係であり得ず」と声明しました。これを田中義一の強硬外交といいます。
 4月27日、中国共産党第五回全国大会(5全大会)で、大地主のみの土地を没収するという農業綱領を決議しました。
 4月28日、労働農民党・日本労働党は、中国国民党駐日総支部の申し入れ(2月13日付け)を受け入れ、対支非干渉同盟準備会を結成しました。
15  5月18日、モスクワで、第八回コミンテルン執行委総会を開催し、中国の土地革命・労働者農民の武装・武漢政府の改革を指示しました。
 5月28日、田中義一内閣は、日本人居留民の保護を名目に、山東出兵を声明し、関東軍2000人に出動を命令しました。これを第一次山東出兵といいます。真の目的は、年表から分かるように、国民革命軍の北上を阻止するためでした。
 6月5日、汪兆銘の武漢政府は、ソ連人顧問の罷免を決議し、反共に転じました。その結果、ボロジン・ガロンら140人のソ連人顧問が退去しました。
 6月27日、中国関係の外務省と陸軍省・関東軍ら首脳を東京に召集して、対華政策決定のために東方会議を開催しました。そこで、満蒙での日本の権益を死守するという対華の基本政策である「対支政策綱領」を決定しました。
 7月7日、田中義一首相兼外相は、「対支政策綱領」を発表し、満州の権益自衛の方針を声明しました。しかし、これは張作霖に利害と対立することになります。
 7月13日、中国共産党中央委員会は、対時局宣言を発し、武漢の国民政府(武漢政府)から退出しました。その結果、第一次国共合作が終了しました。
 7月15日、汪兆銘の武漢政府は、共産党との分離を決定し、共産党取締令を公布しました。
 7月20日、満鉄社長に山本条太郎、副社長に松岡洋右を任命しました。
16  8月1日、中国共産党軍(賀竜葉挺朱徳の3軍)は、南昌で武装蜂起しました。
 8月4日、奉天総領事の吉田茂は、奉天省長に、対日態度を改めなければ、京奉線軍用列車の満鉄付属地通過を停止すると警告しました。
 8月5日、中国共産党軍は、南昌を放棄して広東に向かいました。
 8月5日、田中義一外相は、強制手段の実行延期を訓令しました。
 8月7日、中国共産党中央委員会は、緊急会議を開き、陳独秀の右翼日和見主義を拝し、秋の収穫期の農民武装蜂起を決定しました。これを秋収蜂起といいます。
 8月14日、外務政務次官の森恪は、関東軍司令官・駐華公使・奉天総領事らと、大連・旅順で満州問題を協議しました。これを大連会議といいます。
 8月30日、田中義一内閣は、第一次山東出兵の派遣軍の撤退を声明しました。
 9月6日、汪兆銘の武漢政府は、蒋介石の南京政府に合流しました。主席は蒋介石です。
 10月、毛沢東は、江西・湖南省境の井崗山に革命根拠地を建設しました。
 11月5日、来日中の蒋介石は、田中義一首相らと会見し、国民政府による中国統一に協力を要請しました。
 11月12日、満鉄社長の山本条太郎は、張作霖と会談し、満蒙5鉄道建設に関する了解が成立しました。
17  1927(昭和2)年2月21日、
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
交渉する相手はファッションでなく、「こころ」である
 私は、子供の頃、近所の人から戦争の話をよく聞かされました。中国人に対しては、多くの人が蔑視的な表現をしていました。
 最近、中国を旅行した人も、農村へ入ると、日本の終戦直後の状態で、非常に貧しいものだと話してくれました。
 私は、今から25年前に1981年と、22年前の1984年と、今から7年前の1999年の3回中国に行っています。
 今から20年ほど前の印象です。桂林市の教育局副局長らの出迎えを受け、榕湖ホテルに向かう途中で、下校中の児童に出会いました。道路は舗装されておらず、ぬかるんだ道をゴムぞうりを履いて、次のあたった服を着ていました。とっさに、今から50年前の私を重ねてしまいました。
 上海では、上海市の教育局長らの出迎えを受け、現地通訳として、小学校の女先生にお世話になりました。彼女の服装はシンプルで、多分戦後の女性のファッションだったと思います。
 大便所にも男女とも、扉がないので、ホテルか友誼嬪店(デパート)でするようにとの指示でした。
 なるほど、外観から見るファッションは貧しかった。しかし、交渉するのは外観ではありません。彼らの心とします。
 農村では、小さい子供たちが牛を追ったり、飼い葉を担いだり、日本人が失った田園風景が残っていました。
 北京の現地通訳としてお世話になった北京第二外国語学院の若い女性講師は、質素ではあるが、高級感のある服装でした。その対応にも真心を感じました。
 全行程を通訳してくれた教育部外事局の若い官僚は、日本人が置いてきた教育の原点を思い出させてくれました。
 こうした奥深い懐を持つ人々を相手に交渉するには、相当な学識・教養が必要だと思いました。
 何人かの中国人の高校生を教えたことがあります。父の仕事の関係で日本にやって来たまだ日本語も十分に理解出来ない生徒がいました。在日二世で生まれも育ちも日本という生徒がいました。
 彼らに共通しているのは、中国や中国人を誇りにし、自慢にしていることです。中華思想を感じました。
 彼らの「こころ」を大切にし、日本人として言うべきことをいう姿勢が大切です。しかし、日本の高校生の多くは中国人の話を聞くだけで、言うべき日本の誇りを知らないのです。私は、この時に言える日本の誇りを教えました。
 中国へ25年前の1981年に行ったことは先に書きました。全行程を通訳してくれたのが、教育部外事局の若い官僚の張国生さんでした。『中国教育事情視察報告書 1981』を参考にまとめました。
 余り日中の私的レベルの交流がない時代、私たちは中国教育学会の招きで中国を訪問しました。上海に着いたのが、7月26日(日)の昼の12時15分でした。中国教育部外事局の担当者と通訳の張国生さん、上海市教育局長らの出迎えを受けました。
 私は、少しでも時間があると、張国生に質問を投げかけました。早い時は午前7時の朝食の時に、遅い時は招宴が終わった後の午後10時に、質問した記録が残っています。あらゆる質問に的確に答えてくれるので、余計、聞きまわったのでしょう。今から25年前というと私も若かったものです。
 上海から同行して1週間が過ぎた8月1日(土)の午後5時35分、北京から天津行きの電車に乗ろうとした時、張国生さんが「しばらく皆さんと同行出来ません。皆さんが北京に帰ってこられたとき会いましょう」と言うのです。私は「えっ、どうしてですか?」と聞くと、張国生さんは「8月3日に日本に留学するためのテストがあります」と答えました。私はそんなことも知らず、16時間ほど拘束して質問攻めしていました。それに対して、張国生さんは、そんな大事なことを少しも口にせず、態度にも表しませんでした。日本人なら、「それは明日聞いてください」とか「分かりません」とかやんわり断るか、嫌な顔をして「大切なテストが控えていますので…」ずばり言うでしょう。
 私は、とてもショックで、「そんな大切な事があるなら、言ってもらえたら良かったのに」と弁解しました。しかし、張国生さんは「試験は多分大丈夫だと思います」と言って、笑顔で、天津行き列車を見送ってくれました。
 8月2日(日)、天津市教育局中学処処長らの出迎えを受けました。
 8月3日(月)、再び北京に帰りました。中日友好協会を訪問し、同協会理事の出迎えを受けました。人民日報社を訪問し、同社副編集長の出迎えを受けました。中国の著名人と同席しても、頭の中は張国生さんの事ばかりでした。
 午後6時15分、中国政治協商会議講堂の食堂で、中国教育学会の招宴がありました。そこへ、テストを終えたばかりの張国生さんがやって来ました。私は、恐る恐る「どうでした」と聞くと、張国生さんは「合
格していると思います」と涼しげに答えるのです。招宴の最後に、中国教育部外事局の局長の音頭で肩を組んで「サクラ・サクラ」を合唱しました。私は、「こころ」を込めて歌いました。
 翌年の1982年9月、1本の電話が入りました。張国生さんからです。「今、東京外国語大学大学院に来ています。来年の春、相生に行きたいです」というものでした。
 1983年4月、私たち家族は、張国生さんを迎えました。1週間ほどの滞在でしたが、私たち夫婦はもちろん、子供たちにも大きな影響を与えました。
 張国生さんの言動で感じた事は、教育(こころ)の原点、「教育は1日で成らず」でした。

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