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エピソード

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張作霖爆殺事件、ロンドン海軍軍縮条約、統帥権干犯問題
 1927(昭和2)年4月20日、@26田中義一(政友会)内閣が誕生しました。外相には田中義一(兼任)、蔵相には高橋是清、陸相には白川義則、海相には岡田啓介らが任命されました。
 1928(昭和3)年2月20日、@第16回総選挙が行われました。これが最初の普通選挙です。その結果、与党の政友会は217人、野党の民政党は216人、無産諸派は8人、実業同志会は4人、革新は3人、中立その他は18人が当選しました。田中義一率いる政友会は、かろうじて、第一党を維持しました。
 2月2日、南京で国民党第二次4中全会を開き、北伐再開を決定しました。国民革命軍総司令の蒋介石は、中央政治会議主席に就任し、軍政両権を把握しました。
 2月中旬、藤井斉ら海軍の青年将校は、天皇を奉じた国家改造をめざして王師会を結成しました。
 3月15日、日本共産党員が全国的に検挙され、488人が起訴されました。これが3・15事件です。
 4月7日、国民革命軍は、北伐を開始しました。
 4月19日、田中義一内閣は、第二次山東出兵を決定し、第6師団5000人に動員命令を出しました。
 4月、朱徳沈毅林彪らの紅軍は、井崗山の毛沢東軍と合流し、第四軍を編成しました。
 5月3日、山東出兵の日本軍は、山東省済南で、北伐途中の国民革命軍と衝突しました。これを済南事件といいます。
 5月8日、田中義一内閣は、山東派遣軍に増援のため第3師団を動員しました。
 5月10日、国民政府は、日本の山東出兵を国際連盟に提訴しました。
 5月11日、山東派遣軍は、済南城を占領しました。中国各地で、排日運動がおこりました。
 5月15日、張作霖と満鉄社長の山本条太郎との間で、吉会・長大両鉄道に関する工事請負契約が成立しました。
 5月18日、田中義一内閣は、中国南北両政府に、戦乱が満州に波及した場合は、治安維持のために適当・有効な措置をとると通告しました。同時に、駐華公使の芳沢謙吉は、北京にいた張作霖に対して、東三省に復帰するように勧告しました。
 5月19日、アメリカ国務長官は、日本の対華通告を容認しがたいと通告しました。中国南北両政府も日本の対華通告に対して、抗議しました。
 5月30日、張作霖は、北京総退却を命令しました。
 5月31日、北伐軍は、保定を占領しました。
 6月4日、張作霖は、奉天に引揚げの途中、関東軍の一部の謀略で、列車を爆破されて、死亡しました。
 6月9日、北伐軍(閻錫山軍)は、北京に入城しました。これで北伐戦争が終了しました。
 6月21日、中国側は、張作霖の死亡を公表しました。これを張作霖爆死事件といいます。
 6月21日、民政党は「田中義一内閣の山東出兵は軽挙妄動である」と非難する声明を発表しました。
 6月29日、田中義一内閣は第55議会で審議未了の治安維持法を、緊急勅令で公布しました。その内容は、死刑・無期懲役を追加し、即日実施されました。
 7月3日、内務省保安課を拡充強化し、未設置の全県警察部に特別高等課設置を公布しました。
 7月3日、張学良は、東三省保安総司令官に任命されました。
 7月16日、日米間に、不戦条約第一条中の「人民の名に於て」の解釈に関し、覚書を交換しました。
 7月19日、奉天総領事の林久治郎は、張作霖の息子である張学良に対して、東三省の青天白日旗掲揚に反対と通告しました。
 7月22日、しかし、張学良は、奉天総領事の林久治郎の通告を無視して、青天白日旗掲揚を決定しました。
 8月6日、田中義一首相は、民政党総裁の浜口雄幸に、外交調査会参加を要請していましたが、浜口民政党総裁は、これを拒絶しました。
 8月27日、日本全権の内田康哉は、主要15カ国と、「国策としての戦争の放棄する」という不戦条約に調印しました。別名ケロッグ・ブリアン条約といいます。日本では、後に「人民の名に於て」の一句が政治問題化しました。
 10月8日、蒋介石は、国民政府主席に就任しました。
 11月3日、アメリカは、国民政府を正式に承認しました。
 11月10日、久原房之助逓相は、民政党を脱党して結成した憲政一新会と会合し、対華外交で提携が成立しました。
 12月2日、田中義一首相は民政党を脱党した元民政党顧問の床次竹二郎と会見し、対華外交につき了解が成立しました。
 12月20日、イギリスは、国民政府を承認しました。
 12月22日、フランスは、国民政府を承認しました。
 12月29日、張学良は、東三省の易幟を通電し、国民政府に合流しました。これは東三省が中央化したことを意味します。
 1929(昭和4)年1月25日、民政党の中野正剛は、衆議院予算委員会で、満州某重大事件(張作霖爆死事件)について、田中義一首相を追及しました。
 1月31日、衆議院は、満州某重大事件の調査結果発表要求決議案を否決しました。
 2月22日、貴族院は優諚問題に関し、田中義一首相非難決議案を可決しました。その結果、主要法案の多くは貴族院で審議未了となりました。優諚とは「天皇から臣下に賜るねんごろなお言葉」です。
 3月5日、衆議院本会議で治安維持法に反対した山本宣冶が刺殺されました。言論がテロに封殺された事件です。
 4月16日、日本共産党員が全国的規模で大検挙され、339人が起訴されました。市川正一鍋島貞親らの幹部も検挙されて、共産党の組織は壊滅的打撃を受けました。これを4・16事件といいます。
 5月19日、陸軍の中堅将校は、一夕会を結成して、満蒙問題の解決を申し合わせました。
 6月3日、田中義一内閣は、中国の国民政府を正式に承認しました。
 6月26日、枢密院は、留保宣言付で不戦条約を可決しました。枢密顧問官の内田康哉は、不戦条約締結の責任者として辞表を提出しました。
 7月1日、田中義一内閣は、満州某重大事件の責任者を処分すると発表し、昭和天皇に対しても、関係者の処罰を約束しました。しかし、陸軍が真相公表に反対したので、河本大作大佐を停職とするにとどめました。その結果、田中首相は天皇に叱責されました。
 7月2日、田中義一内閣が総辞職しました。
 7月2日、@27浜口雄幸(民政党)内閣が誕生しました。外相には幣原喜重郎、蔵相には井上準之助、陸相には宇垣一成、海相には財部彪らが任命されました。第二次幣原外交が始まりました。これを協調外交といいます。
(1)井上財政の基本は、緊縮財政・産業合理化により金解禁断行でした。
(2)幣原外交の基本は、日中の平和外交と軍備縮小でした。
 10月24日、ニューヨークのウオール街の株価が大暴落しました。これを暗黒の木曜日といい、アメリカで恐慌がはじまりました。
 11月9日、浜口雄幸内閣はは、前年度比9165万円減という大幅緊縮予算案を決定しました。
国家予算に占める軍事費の割合(1924年から1945年。単位%)
24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45
29.6 29.4 27.7 28.1 28.6 28.6 28.5 31.2 35.9 39.1 43.8 47.1 47.6 69.5 77.0 73.7 72.5 75.7 77.2 78.5 85.3 72.6
 1930(昭和5)年1月11日、金輸出解禁を実施しました。これを金解禁といいます。
 1月21日、ロンドン海軍軍縮会議が開会され日本全権若槻礼次郎元首相・財部彪海相らが出席しました。イギリスのマクドナルドが補助艦の制限交渉を提唱して、日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリアの五カ国が参加しました。
 その背景としては、世界恐慌の中で軍縮が大きなテーマになっていました。しかし、ワシントン条約では、主力艦保有トン数の比率をイギリス5・アメリカ5・日本3・フランス1.67・イタリア1.67としていましたが、補助艦については巡洋艦排水量1万トン、砲口径8インチ以内という規定だけでり、逆に、各国の補助艦の建造競争が激化していたからです。
 2月20日、@17回総選挙が行われました。その結果、与党の民政党は273人で圧勝し、金解禁に反対の政友会は174人が当選しました。
 3月14日、ロンドン会議に出席の日本全権は、「アメリカが提示した最終妥結案につき、これ以上の譲歩は得がたい」として請訓しました。請訓とは「外国にいる外交官などが、本国政府に指示を求めること」をいいます。
 4月1日、首相の浜口雄幸は、アメリカ妥協案承認の訓令を海軍軍令部長加藤寛治らに内示して、その後、閣議で決定しました。
 4月2日、ロンドン軍縮会議で、日本・イギリス・アメリカ三国間に、補助艦の比率につき妥協成立しました。
 4月20日、海軍軍令部次長の末次信正は、ロンドン海軍軍縮条約案に不同意の覚書を海軍次官山梨勝之進あてに送付しました。海軍軍令部は対米7.00割を要求していました。条約案は対米6.9824割であり、その差は0.018です。
 しかし、海軍は、補助艦・大型巡洋艦はともに対米7割、潜水艦は7万8.000トンを主張しました。浜口雄幸内閣は、財政緊縮と国際協調の立場から条約案に賛成しました。
 4月22日、岡田啓介軍事参議官らの努力で、軍部・右翼の反対を抑え、ロンドン海軍軍縮条約に調印しました。その内容は、次の通りです。主力鑑の建造は今後5年間禁止を延長する。
ロンドン海軍条約による補助艦の保有制限量(単位は万トン)
大型巡洋艦 小型巡洋艦 駆逐艦 潜水艦 比率
イギリス 14.68 19.22 15.00 5.27 10.00
アメリカ 18.00 14.35 15.00 5.27 9.71
日本 10.84 10.05 10.55 5.27 6.78
10  4月25日、衆議院で、総選挙に惨敗した政友会総裁の犬養毅鳩山一郎は、ロンドン海軍軍縮条約に関して、海軍の強硬派と連携して、多数派の民政党政府を攻撃し、倒閣運動に利用しました。
 犬養毅は、「艦種の選択力量の決定は作戦計画に成りまったく専門的知識を俟つべきものである。然して専門家の説を徴するにこれでは国防危険なりとの定論である。果して然らば国家安危の係るところで、真に憂慮に堪えぬのである」と発言しました。ここでいう専門家とは、海軍軍令部のことです。犬養毅の発言は、兵力量の決定を専門家の軍令部に任せ、議会の埒外に置くという内容です。これは倒閣運動とはいえ、重要な憲法違反の言動でした。
 鳩山一郎は、「軍令部長の意見に反し、あるいは、これを無視して回訓を決定したのは、統帥権干犯のおそれがある」と攻撃し、さらに続けて「憲法第十一条には”天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス”とある。すなわち、軍の統帥に関しての輔弼機関は内閣ではなくして、軍令部長または参謀総長が直接の輔弼機関であるということは今日まで異論がない。統帥権の作用について直接の機関があるにもかかわらず、その意見を蹂躙して、輔弼の機関でもないものが飛出して、軍令部長の意見を変更したということは、まったく乱暴で、海軍軍令部長の意見と、内閣の意見と、異なる意見を陛下に進言申上げて宸襟を悩し奉っても、なお総理大臣に責任なしということは私は断じて承認できないのである」と追求しました。これが統帥権干犯問題のおこりです。その結果、軍縮に反対の軍部や政党政治に不満な右翼を元気付けました。
 美濃部達吉は、天皇機関説の立場(天皇の権限も法的に制限を受ける)から、「統帥大権の及ぶ範囲は唯軍隊を指揮し其戦闘力を発揮することにのみ止まることを本則とす」(『憲法撮要』)と述べています。つまり、美濃部は、「軍の編成・装備は統帥権の外にあり、したがって軍縮も政府の権限である」といい、浜口雄幸内閣の法的根拠となり、ロンドン海軍軍縮会議が天皇の裁可を受けて批准されたのでした。
天皇の統帥権(とうすいけん)がどの程度の独立性をもつかが大きな問題になった。美濃部の学説は、当然これをできるだけ狭く解釈する立場をとっており、「統帥大権の及ぶ範囲は唯軍隊を指揮し其戦闘力を発揮することにのみ止まることを本則とす」(『憲法撮要』)というものだった。つまり軍の編成・装備は統帥権の外にあり、したがって軍縮も政府の権限できめうるということになる。この美濃部説が浜口(雄幸)内閣の有力な武器とされたことも、美濃部が軍ににらまれた一つの原因であった。
11  5月17日、浜口雄幸内閣は、前年度比7242万円減の大幅緊縮追加予算を公布しました。
 6月10日、加藤寛治海軍軍令部長は、統帥権干犯を批判し、帷幄上奏して昭和天皇に辞表を提出しました。後任に谷口尚真を任命しました。
 7月、この頃、ドイツの不況が深刻化しました。アメリカの恐慌が世界恐慌に発展して行きました。
 9月下旬、陸軍中佐の橋本欣五郎(31歳)らは、桜会を結成し、国家改造のために武力行使も辞せずとの決議を行いました。
 10月1日、ロンドン海軍軍縮条約は、枢密院本会議で可決されました。
 10月2日、ロンドン海軍軍縮条約は、昭和天皇の裁可を受けて、批准されました。
 10月6日、間島竜井村で、中国の兵士が日本人の警察官2人を射殺し、情勢が険悪化しました。これを間島事件といいます。
 10月27日、台湾の能高軍霧社の原住民が放棄し、日本人136人を殺害しました。鎮圧に日本軍隊が出動しました。これを霧社事件といいます。
 10月、世界恐慌が日本に波及しました。これを昭和恐慌の始まりといいます。
 11月14日、浜口雄幸首相は、東京駅頭で右翼団体愛国社の佐郷屋留雄に狙撃され、重傷を負いました。言論がテロに封殺された事件です。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
東三省(満州)、張作霖爆殺事件、軍事費と民事費
 ここで東三省(満州)の地理と歴史を調べてみました。
 東三省とは、現在の中国東北部にある遼寧省・吉林省・黒竜江省のことです。清朝の発祥の地です。
 遼寧省は北京のある湖北省と接しています。遼寧省には、遼東半島があり、この半島には大連・旅順があります。鞍山の鉄鉱石や撫順の石炭もあります。
 吉林省は朝鮮半島に接しています。吉林省には、長春があります。
 黒竜江省は東三省の北部にあり、モンゴルやロシアに接しています。黒竜江省には、ハルビンがあります。
 吉林省と黒竜江省にまたがる東北平野は肥沃な農業地帯になっています。
 清朝は、東三省を神聖視して漢民族の移入を禁止していました。20世紀初頭、ロシアと日本の侵略がはじまると、光緒帝は漢民族の移入を奨励し、東三省総督を置き、三省に3巡撫使を派遣しました。
 張作霖を調べてみました。
 張作霖は、1873(明治6)年に東三省の1つ奉天(遼寧)省の貧しい家に生まれました。早くに両親を亡くしたので、生活するため、吉林省に移り、朝鮮人参やアヘンを売買する馬賊になりました。
 1904(明治37)年の日露戦争では、張作霖は、ロシアのスパイとなりましたが、日本軍に捕まり、処刑される所を、陸軍参謀次長の児玉源太郎によって九死に一生を得ました。この時、助命を伝えた使者が田中義一少佐でした。児玉源太郎は、「毒を制するには毒を以って制す」ということで、カリスマ的な存在である張作霖の利用を考えたのでしょう。
 1907(明治40)年、清朝の直隷総督兼北洋大臣である袁世凱は、腹心の部下である徐世昌を東三省に派遣しました。徐世昌は、東三省の実力者張作霖と接近します。
 1911(明治44)年、東三省でも辛亥革命の影響で、多数の漢民族が蜂起します。これを弾圧した功により、張作霖は中将で陸軍第27団の師団長に任命されます。
 1916(大正5)年、袁世凱が亡くなると、地元とは縁が薄かった関係で、統治能力がなかった東三省総督の段芝貴奉天将軍を、張作霖は失脚させ、奉天督軍兼省長に就任しました。
 1919(大正8)年、張作霖は、東三省の実権を握りました。張作霖のグループを奉天派とか奉天軍閥といいます。
 1920(大正9)年、直隷(河北)省出身の憑国璋・王士珍らは、安徽派の段稘瑞と交戦しました。これが安直戦争です。イギリス・アメリカの支持を受けた直隷派は、安徽派を裏切った張作霖の奉天派に援助されて、北京政府で実権を握りました。その結果、張作霖も東三省から北京に進出しました。
 1922(大正11)年、奉天派の張作霖は、直隷派の呉佩孚と交戦しました。これが第一次奉直戦争です。この戦いで、張作霖は敗北しました。
 1924(大正13)年、イギリス・アメリカが支持する直隷派は、洛陽派・保定派・天津派に分裂して、抗争したので、日本が支持する奉天派の張作霖が戦争をしかけました。これを第二次奉直戦争といいます。
 1926(大正15)年、奉天派の張作霖は、直隷派と結んで北京に入城し、陸海軍大元帥として北京政府を支配しました。国共合作の国民革命軍を敬遠するイギリス・アメリカは張作霖に接近しました。
 1927(昭和2)年、反共クーデタを指導した蒋介石は、イギリス・アメリカの支持を得て、再び、北伐を開始しました。イギリス・アメリカの支持を失った張作霖は、北京を引き上げて、奉天に向かいました。
 張作霖を調べてみて、国内が分裂していると、外国勢に利用されることが分かりました。
 この段階では、日本の介入がクローズアップされていましたが、イギリス・アメリカの暗躍が目を引きました。ただ、中国の権力者は、日本を離れ、イギリス・アメリカに接近する姿勢が見られます。その理由は、どこにあるのか、今後の検討課題です。
 いよいよ満州某重大事件(張作霖爆殺事件)に入ります。
 張作霖は、ある時は日本に接近し、ある時はイギリス・アメリカに接近します。日本政府は、簡単に寝返る張作霖の扱いに苦慮します。
 済南事件後、蒋介石は日本政府に「山海関以東(東三省)には侵攻しない」と約束しました。その結果、張作霖を知る田中義一首相は、張作霖を東三省に復帰させ、政治的に利用しようと画策しました。駐華公使の芳沢謙吉は、張作霖に東三省復帰を勧告しました
 しかし、現地にいて満州国樹立の計画を持っている関東軍にとっては、地元で人気のある張作霖が東三省に復帰することには強い不満を持っていました。
 張作霖に扱いが、中央と現地で違っている。すでに、日本の悲劇が始まっていたのです。
 1928(昭和3)年6月3日、張作霖は、田中義一首相の勧告に従って、北京から特別列車に乗って、京奉線で奉天に向かいました
 6月4日午前5時、特別列車が奉天近郊の京奉線と満鉄線の交差する地点付近の徨古屯に来た時、線路際に仕掛けられていた黄色火薬が爆破され、3両目の食堂車と4両目の寝台車が吹っ飛びました。3両目の食堂車にいた張作霖は、自動車で自宅に着いたときには息を引き取っていました。
 関東軍は、即座に、「国民革命軍の便衣隊(ゲリラ)の犯行である」と発表し、犯行を企てた中国人2人を現場で射殺したと報道しました。相当な爆薬の仕掛けの知識がなければ、通過する列車の3両目の食堂車と4両目の寝台車を、正確に爆破できない。しかし、殺害された中国人にはそのような知識・技術があるようには見えませんでした。
 しかし、張作霖の息子の張学良は、「北京から逃げ帰る父を蒋介石が殺す理由はない」と、本質を見抜きました。
 そこで、内々に調査が開始されました。その結果、次の事が判明しました。計画・立案したのは、関東軍の高級参謀河本大作大佐でした。爆薬を仕掛けたのは朝鮮軍から関東軍に派遣されていた亀山工兵隊に所属する桐原貞寿工兵中尉でした。それを黙認したのは、現場付近の鉄道警備を担当する独立守備隊の東宮鉄男大尉でした。犯人には中国人浮浪者2人をゲリラに仕立て、殺害して現場に放置しました。
 元老西園寺公望は、田中義一首相に「日本の軍人関与していることが明らかになったら、断然処罰して我が軍の綱紀を維持しなければならぬ」と話しました。
 昭和天皇も、田中義一首相に対して、真相究明を命じました。田中首相は、天皇に「張作霖横死事件には遺憾ながら帝国軍人関係せるものある如く、もし事実であれば法に照らして厳然たる処分を行うべく・・・」と奏上しました。
 しかし、村岡長太郎関東軍司令官や荒木貞夫参謀本部作戦部長ら上原勇作元帥系のグループは真相隠蔽を謀りました。 そこで、田中首相は、この事件に日本人は無関係であるとし、警備上の責任から村岡関東軍司令官を予備役に、河本大佐を退役などの行政処分にしました。
 それを知った天皇は、田中首相を約束が違うと叱責し、田中首相は責任を感じて総辞職しました。
 さらに、関東軍の奥深い計画が表面化しました。それによると、張作霖爆殺事件をきっかけに、満州を武力で占領し、傀儡政権を樹立しようとしていたのです。しかし、田中義一首相は、関東軍の出動が認められず、傀儡政権樹立の計画は失敗に終わりました。
 しかし、これが、後の柳条湖事件をきっかけとする満州事変に発展するのです。
 私は、張作霖爆殺事件で、中央政府が毅然と対処しなかったことが、第一ボタンの掛け間違いでだったと思っています。日本は一気に軍国主義へと邁進する事になります。
 最近まで私は、軍事費が有効需要になると考えていました。ところがイギリスの国際戦略研究所などによると、軍事費は、固定償却され、GDPにはマイナスになるという報告に接しました。
 「GDPに占める防衛費の割合が1%の時、10年後のGDPは675兆円になります。しかし、GDPに占める防衛費の割合が2%になった時、10年後のGDPは660兆円になります。つまり、1%防衛費が上昇すると15兆円もGDPが下落するのです。これは、防衛費の割合が上昇することによって、潜在成長率が低下するからです。
 戦争によって儲ける死の商人がいます。戦争によって犠牲になる国民がいます。
 統帥権干犯問題とは、何か調べてみました。明治憲法の規定ではどうなっているのでしょうか。
 第五条  天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行ふ
 第十一条  天皇は陸海軍を統帥す
 第十二条  天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む
 第五十五条 国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任す
   凡て法律勅令其の他国務に関る詔勅は国務大臣の副署を要す
 第六十四条 国家の歳出歳入は毎年予算を以て帝国議会の協賛を経へし
   予算の款項に超過し又は予算の外に生したる支出あるときは後日 帝国議会の承諾を求むるを要す
10  明治憲法11条では、天皇に陸海軍の統帥権は属しています。統帥権は、軍隊の最高指揮権で、天皇大権の1つとして国務大臣の輔弼の外にあり、内閣も議会も関与できない仕組みになっていました。これを統帥権の独立といいます。
 統帥権については、軍令部(陸軍の参謀総長。海軍の軍令部総長)が補弼することになっています。
 明治憲法12条では、常備兵額を定めるのは「統帥権」ではなく、編成大権の管轄事項であり、内閣(海軍省)が決め、それを軍令部が承認していました。
 明治憲法55条では、国務大臣が天皇を補弼するとなっています。
 明治憲法64条では、軍を編成したり、維持する予算は議会の協賛が必要であると規定しています。協賛とは「賛成して、協力すること」です。
11  1878(明治11)年、参謀本部が設置されました。その結果、軍政(軍に関する行政事務)と軍令(作戦用兵に関する統帥事務)が分離されました。そして、天皇は、軍令機関である陸軍参謀総長・海軍軍令部長の輔弼を受けて、陸海軍を統帥するようになりました。統帥部とは、陸軍参謀本部と海軍軍令部とを総称します。
 また、軍部大臣(軍に関する行政事務の長官)には、軍事に関する事項は、閣議を経ずに天皇に上奏できる権限(帷幄上奏権)が与えられていました。この権限を利用して、編制大権を政党内閣の埒外に置くという説が出てきました。帷幄上奏権とは「陸軍参謀総長や海軍軍令部長などが、軍機・軍令に関する事項を天皇に直接上奏できる権限」をいいます。
 浜口雄幸首相は、財政・外交上の理由で、海軍軍令部を抑えて、ロンドン海軍軍縮条約に調印しました。海軍内でも、条約賛成の条約派と条約反対の艦隊派が対立しており、干犯問題以後、海軍の主流は、強硬派の艦隊派が握る事になりました。
 その結果、もともと内閣の輔弼事項であった編成権(軍隊編成・予算編成)が統帥権に含まれることになり、統帥部が編成権をも補弼するすることになりました。
12  1907(明治40)年9月12日に出された軍令の内容を調べてみました。
 第1条 陸海軍ノ統帥二関シ勅定ヲ経タル規程ハ之ヲ軍令トス
 第2条 軍令ニシテ公示ヲ要スルモノニハ上諭ヲ附シ親署ノ後御璽ヲ鈴シ主任ノ陸軍大臣海軍大臣年月日ヲ記入シ之二副署ス
 第3条 軍令ノ公示ハ官報ヲ以テス
 第4条 軍令ハ別段ノ施行時期ヲ定ムルモノノ外直二之ヲ施行ス
13  軍令1条では、天皇の命令を受けた規定を軍令としています。勅定とは「天皇の仰せ、天皇のご命令」のことです。
 軍令2条では、軍令を公示する場合、詔勅である旨の文書を付け、天皇が自ら署名し、天皇の印を押した文書に、陸海軍大臣が年月日を記入して署名すればよいと規定されています。上諭とは「天子が詔勅をくだした時の文書」のことです。
 つまり、総理大臣の書名がなくても、軍令が出せるようになったのです。
 しかし、政党内閣制の時代は、文民統制(シビリアンコントロール)が優勢でしたが、張作霖爆殺事件のころより、軍部の強硬派が台頭してきて、ロンドン海軍軍縮条約の締結・浜口雄幸首相の襲撃事件の頃には、軍国主義への流れが一気に加速する状況になり、統帥権干犯問題がおこったということが分かります。
14  後に、美濃部機関説問題が起こります。実は、そのルーツはワシントン海軍軍縮条約にあったというのです。
 浜口雄幸首相は、統帥権干犯問題で悩んでいた時に、相談したのが、美濃部達吉でした。美濃部達吉は、「海軍の軍縮に関する問題は、純粋に政治問題である」と憲法理論を主張しました。
 そこで、浜口雄幸首相は、侍従長の鈴木貫太郎らと相談し、海軍軍令部長の加藤寛治が天皇に上層することを阻止しました。枢密院も、美濃部達吉の憲法理論を参考にして、軍縮条約の批准に賛成しました。
 これでは、美濃部達吉が軍部や右翼から目の敵にされるのも理解されます。しかし、まだ時代はそこまで、進んでいませんでした。
15  犬養毅や鳩山一郎が、議会を軽視する発言をしたことにびっくりしました。
 後に首相となった犬養毅は、五・一五事件で、統帥権の独立を標榜する軍部によって暗殺されました。
 戦後首相となった鳩山一郎も、戦後すぐ、GHQによって軍国主義者として公職を追放されました。

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