print home

エピソード

236_01

社会主義運動の高揚と挫折(1)
 今(2006年)、日本で、人気がなく、批判の対象になっている主義はなんでしょうか。軍国主義ではありません。正解は、社会主義です。日本人を拉致した北朝鮮は、社会主義の国です。反日行動を繰り広げる中国も、社会主義の国です。
 二大陣営とは、資本主義の代表であるアメリカと、社会主義の代表であるソ連でした。アメリカが原爆を持つと、ソ連も開発しました。ソ連が人工衛星を打ち上げると、アメリカも追い上げました。人々には、資本主義の持つ自由という夢と、社会主義の持つ平等というパラダイスの競争を楽しみに見ていました。
 しかし、1991年にソ連が解体して社会主義のパラダイスが霧散したことで、社会主義への失望感が拡大していきました。
 最近(2006年)の政治的主導者は、社会主義国の北朝鮮・中国や韓国に対して、敵意をむき出しにする発言を繰り返しています。戦前のABCD包囲陣の状況を意図的に作り出そうとしています。私たちをどこを導こうとしているのでしょうか。
 しかし、本当に社会主義のパラダイスは「夢のまた夢」だったのでしょうか。社会主義を知らずして、政治家の言動で、社会主義を遠ざけていいのでしょうか。ここでは、社会主義とは何かを調べて見ました。
 資本主義とは、生産・配分手段の私有を原則としています。そのため、経済的不平等は結果悪となります。社会主義は、経済的平等を目標として、生産・配分手段の共有を原則としています。社会民主主義は、経済的・政治的平等を追求します。
 生産手段とは、人間の生活に必要な財貨を生産する手段のことです。生産する過程で使用される資本(お金)・土地・原料などや機械・工場・交通などがあります。
 生産・配分手段を所有している人を資本家といいます。生産・配分手段が共有になると、資本家のいない社会になります。
 1911年に、労働者を保護する工場法が公布されました。(1)12歳未満の児童の採用禁止(2)女子の1日12時間以上の就業・深夜業禁止(3)休日は月2回という、今では信じられない内容です。しかし、資本家の反対で施行が延期されました。
 1916年、工場法が施行される事になりましたが、これも、資本家の反対で、条件があれば、15年間施行が猶予されました。
 1929(昭和4)年、工場法が施行され、やっと、女子の深夜業(午後8時から午前8時)が禁止されました。ということは、今から77年前は女子でも、深夜業をしていたのです。
 社会主義とは以上に見た内容です。社会主義運動とは、生産・分配手段を共有化しようとする革命的なものから、労働条件の改善を図ることにより労働者の生活を向上させようとする運動までさまざまです。
 以下、その歴史を概観します。
 1916(大正5)年、帝大教授吉野作造(39歳)が民本主義を主張しました。
 1917(大正6)年、ロシア革命がおこり、社会主義者の活動が活発化しました。
 1918(大正7)年8月、北一輝は、上海で、『国家改造案原理大綱』を脱稿しました。
 9月、@19原敬内閣が誕生しました。
 10月、大川周明満川亀太郎らは、急進的国家主義団体である老荘会を結成しました。
 12月上旬、東京帝大法学部の学生である赤松克麿宮崎竜介らが東大新人会を結成しました。
 12月23日、吉野作造・福田徳三らは、「世界の大勢に逆行する頑冥思想の撲滅」を期して、黎明会を結成しました。
 1919(大正8)年4月、高畠素之(34歳)は、堺利彦と別れて、国家社会主義を提唱しました。
 8月1日、大アジア主義者の大川周明・国粋主義者の北一輝らは、国粋主義団体の猶存社を結成しました。
 10月、友愛会は、大日本労働総同盟友愛会と改称し8時間労働・幼年労働廃止を主張しました。
 1920(大正9)年3月、平塚雷鳥(35歳)・市川房枝(28歳)・奥むめお(26歳)らは新婦人協会を設立して、婦人参政権の獲得を目指しました。
 5月2日、日本で最初の労働者の祝日であるメーデー(5月1日)が日曜日に行われました。
 12月、共産主義者・無政府主義者・改良主義者が大同団結して日本社会主義同盟を結成しました。
(1)大杉栄らのアナーキストは、資本主義・国家・議会など一切の権力を否定し、政治闘争(選挙など)を軽視し、直接行動主義を主張しました。また、アナ−キズムと労働組合主義(サンディカリズム)を結合させる革命的労働組合主義(アナルコ=サンディカリズム)を主張しました。
(2)ボルシェビズムの立場にたつ堺利彦や山川均らは、政治闘争を重視し、共産主義革命を主張しました。
 1921(大正10)年4月、山川菊栄が婦人の社会主義者団体である赤瀾会を結成しました。
 5月、日本社会主義同盟の第2回大会で、アナーキスト派とボルシェビキ派が対立し、アナ=ボル論争が活発化しました。
 10月、大日本労働総同盟友愛会は、日本労働総同盟総同盟)と改称しました。
 11月、@20高橋是清内閣が誕生しました。
 1922(大正11)年3月、全国水平社創立大会が開かれ、全国水平社宣言を発表しました。
 4月9日、賀川豊彦杉山元次郎らは、日本農民組合を設立しました。
 4月20日、治安警察法第5条が改正され、婦人が政治運動に参加すること許可されました。
 6月、@21加藤友三郎内閣(海軍大将)が誕生しました。
 7月、堺利彦山川均荒畑寒村らは、暁民共産党を母体に、ボルシェビズムに立脚して、非合法組織の日本共産党を結成しました。
 1923(大正12)年5月、北一輝は、『国家改造案原理大綱』を『日本国家改造案大綱』として刊行して、国家社会主義を提唱しました。。
 巻1の憲法の停止として、「天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんがために天皇大権の発動によりて三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を布く」とし、「現時の枢密顧問官その他の官吏を罷免しもって天皇を補佐し得べき器を広く天下に求む」と書いています。
 華族制の廃止では、「華族制を廃止し、天皇と国民とを阻隔し来れる藩屏を撤去して明治維新を明らかにす」としています。
 そして何をするのかというと、以下の通りです。
(1)「二十五歳以上の男子は大日本国民たる権利において平等普通に衆議院議員の被選挙権および選挙権を有す」として普通選挙を導入します。しかし、時代を反映して「女子は参政権を有せず」として、女子には選挙権を認めていません。
(2)「天皇はみずから範を示して皇室所有の土地山林株券等を国家に下附す」とあるように、皇室財産の国有化を宣言し、「日本国民一家の所有し得べき財産限度を壱百万円とす」「私有財産限度超過額はすべて無償をもつて国家に納付せしむ」とあるように、大金持ちの所有100万円に制限し、残金は国有化するとしています。
(3)「私人生産業の限度を資本壱千万円とす」とあるように、一定額以上の生産手段は国有化するとしています。
(4)労働者については、「労働時間は一律に八時問制とし日曜祭日を休業して賃銀を支払うべし」とか、「労働者はその純益の二分の一を配当せらるべし」・「婦人の労働は男子と共に自由にして平等なり」など美辞麗句が並べられています。
 つまり、クーデタにより戒厳令を布き、天皇を中心に、私有財産制限・大企業の国営化・利益の労働者配分という国家社会主義的な改造を行うという主張です。
 6月、堺利彦ら共産党員が検挙されました。これを第一次共産党事件といいます。
 9月1日、関東大震災がおこりました。
 9月2日、@22山本権兵衛内閣が誕生しました。
 9月2日、非常事態に対して軍隊に与えた治安権限である戒厳令が発布されました。
 9月3日、この頃、朝鮮人暴動の流言があり、自警団が結成されました。この時、朝鮮人多数が虐殺されました。これを朝鮮人虐殺事件といいます。
 9月5日、亀戸署と駐屯軍らは、逮捕していた合義虎平沢計七ら社会主義者・労働運動活動家を銃剣で殺害しました。これを亀戸事件といいます。
 9月16日、憲兵隊の甘粕正彦大尉らは大杉栄と内縁の妻である伊藤野枝、甥の橘宗一(6歳)を虐殺しました。これを甘粕事件といいます。この結果、大杉栄の指導するアナルコ=サンディカリズム派が衰退しました。
 12月27日、アナーキストの難波大助が摂政宮を狙撃しました。これを虎の門事件といいます。
 1924(大正3)年1月、@23清浦奎吾内閣が誕生しました。非政党内閣です。
 3月、第一次日本共産党は、政治方針の対立で解党しました。
 5月、@15回衆議院議員総選挙が行われ、護憲三派が大勝しました。
 6月、@24加藤高明護憲三派内閣が誕生しました。
 9月、学生連合会は、学生社会科学連合会と改称し、全日本学生社会科学連合会に発展しました。
 12月10日、総同盟関東労働同盟会は、左派4組合を除名しました。
 12月13日、市川房枝らが婦人参政権獲得期成同盟会を結成しました。
 12月20日、左派の6組合は、総同盟関東地方評議会を結成しました。
10  1925(大正14)年2月、日ソ基本条約が公布され、社会主義国のソ連と国交を回復しました。
 3月2日、衆議院で、衆議院議員選挙法改正案を修正可決しました。これが普通選挙法案です。労働者や農民ら無産階級を代表する政党である合法的な無産政党が誕生するきっかけとなりました。
 3月7日、衆議院で、治安維持法案(旧法)を修正可決しました。
 4月22日、普通選挙法より先に、治安維持法が公布されました。
 5月5日、衆議院議員選挙法改正が公布されました。男子の普通選挙制が実現しました。
 12月1日、評議会・総同盟系を除いた合法的無産政党である労働農民党が結成されました。書記長に浅沼稲次郎を選出しましたが、即日禁止されました。 
 1926(大正15)年1月、@25若槻礼次郎内閣(憲政会総裁)が誕生しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
「たかが選手」と言われたのは労組会長古田選手、北一輝の『日本改造法案大綱』
 労働者の権利と、資本家の権利が対立した時、どうなりますか。
 読売新聞の渡邊恒雄氏は本音を発言するために、よくマスコミからバッシングを受けますが、私たちには、経営者の感覚を知るには、格好の素材になります。
 2003年9月23日、リーグ優勝から離脱・TV視聴率の低迷により、巨人軍は原辰徳監督を解任して、後任に監督経験のない堀内恒夫氏を指名しました。これについて渡邉恒雄氏は、「読売グループ内の人事異動だ」とTVカメラの前で言い放って、物議をかもしました。
 2005年7月8日、これまでの労使交渉は各球団代表としていましたが、靴の上から足を掻いている状況にいらだった労組日本プロ野球選手会の古田敦也会長は、合併や球界再編などについて、「オーナーたちと話をしたいという気持ちはある。その方が議論が開かれた感じがしていいのではないか」と提案しました。それに対して、読売巨人軍の渡邊恒雄オーナーは「無礼なことを言うな。分をわきまえないといかん。たかが選手が。立派な選手もいるけど。オーナーと対等に話をする協約上の根拠はひとつもない」とTVカメラの前でタンカを切ったので、大騒動になりました。
 戦後の労働者保護のバイブルといわれる労働基準法を調べて見ました。
 第2条、労働条件は、労働者と使用者が、対等の立場において決定すべきものである。
 第3条、使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱をしてはならない。
 第4条、使用者は、労働者が女子であることを理由として、賃金について、男子と差別的取扱をしてはならない。
 第32条第1項@、使用者は、労働者に、休憩時間を除き1週間について40時間を超えて、労働させてはならない。
 第1項A、使用者は、1週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き1日について8時間を超えて、労働させてはならない。
 第39条@、使用者は、1年間継続勤務し全労働日の8割以上出勤した労働者に対して、継続し、又は分割した10労働日の有給休暇を与えなければならない。
 A使用者は、2年以上継続勤務した労働者に対しては、1年を超える継続勤務年数1年ごとに、前項の日数に1労働日を加算した有給休暇を与えなければならない。
 私たちが毎日お世話になっている1日8時間・1週40時間の労働時間制、週休2日制、有給休暇制などの制度は、社会主義の成果です。「揺り篭から墓場まで」という言葉で代表される社会福祉の考えや制度も社会主義の成果です。
 ケインズの有効需要(公共事業)によって、英米は、戦争を回避して、世界恐慌から立ち直りました。この発想も社会主義から来ています。
 独裁政治は嫌ですが、その物差しだけで、社会主義の思想を全て葬り去ることも嫌です。
 北一輝の「日本改造法案大綱」は、2・26事件の首謀者である青年将校村中孝次・磯部浅一・栗原安秀・中橋基明らのバイブルと言われました。戦後、総理大臣になった岸信介も強い影響を受けたといいます。
 本文は上記で紹介しましたが、注には面白い事が書かれています。
(1)いかなる憲法をも議会をも絶対視するは英米の教権的「デモクラシー」の直訳なり。…由来投票政治は数に絶対の価値を附して質がそれ以上に価値を認めらるべきものなるを無視したる旧時代の制度を伝統的に維持せるに過ぎず…。
(2)両院を解散するの必要はそれによる貴族と富豪階級がこの改造決行において、天皇および国民と両立せざるをもつてなり。…戒厳令を布く必要は彼らの反抗的行動を弾圧するに最も拘束されざる国家の自由を要するをもってなり。しかして無智半解の革命論を直訳してこの改造を妨ぐる言動をなす者の弾圧をも含む。
 教育についても、当時としてはなかなかユニークなことを書いています。
(1)国民教育の期間を、満六歳より満十六歳までの十ヵ年間とし、男女を同一に教育す。
(2)学制を根本的に改革して、十年間を一貫せしめ、日本精華に基づく世界的常識を養成し、国民個々の心身を充実具足せしめて、おのおのその天賦を発揮し得べき基本を作る。
(3)英語を廃して国際語(えすぺらんと)を課し第二国語とす。
 北一輝は、男女同一教育や、和魂洋才、第2外国語としてエスペラントを主張しています。北一輝の思想は、当時の若者にはとても新鮮で、輝いていたことでしょう。
 私も20代に一時、エスペラントを習っていました。
 エスペラントは、1887年、ポーランドの眼科医であるザメンホフによって考案された人工語です。ザメンホフがエスペラントを考案した理由は、地上に3000以上もある言語の民族の歴史・文化を無視して、英語を擬似国際語にしている常態を憂えてのことでした。
 つまり、英語を母国語している民族の優位性を否定し、相手の言葉を尊重して対話することで、相互の理解を計ろうとしたのです。
 今も、現実に、エスペラントを通して、日韓中青年セミナーが毎回行われているということです。
 北一輝の描いた夢は輝いていますが、その夢そのものが相矛盾しており、そこへのプロセスが軍部の力を借りてクーデタをおこし、戒厳令を布いて、議会政治を否定しています。
 昨年(2005年8月)の衆議院選挙に立候補したホリエモンの語る夢は輝いていました。しかし、夢の中身を吟味することなく、夢に踊りました。昔の話でなく、今も現実に、軍国主義化する要素があるということのようです。

index