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エピソード

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社会主義運動の高揚と挫折(2)
 1926(大正15)年1月19日、共同印刷所の職工2300人が操業短縮に反対し、ストライキに突入しました。
 1月20日、共同印刷所の経営者は、工場を閉鎖し、全員を解雇して対抗しました。これが60日間も続いた共同印刷所の大争議といいます。共同印刷の職工だった徳永直は、この時の様子を『太陽のない街』として小説化しました。
 1月30日、@25若槻礼次郎内閣(憲政会総裁)が誕生しました。
 3月5日、共産党系の評議会など左翼3団体を除外して、合法的無産政党である労働農民党が結成されました。委員長に杉山元治郎が就任しました。
 4月18日、労働農民党中央委員会は、加入範囲をめぐって対立しました。
 4月26日、浜松にある日本楽器の職工1200人が待遇改善を要求してストライキに突入しました。評議会は、全組織をあげて支援し、105日間の大争議に発展しました。これが日本楽器の大争議です。
 5月5日、新潟県の木崎村での4年越しの小作争議が激化し、立入り禁止処分に反対する農民が警官隊と衝突し、28人が検挙されました。
 7月27日、労働農民党中央委員会は、左翼4団体員への門戸閉鎖を決定しました。
 10月17日、日本農民組合の右派などが日本農民党を結成しました。幹事長に平野力三を選出しました。
 10月19日、議会解散請願運動全国協議会が開催され、労働農民党に左派への門戸開放運動が強まりました。
 10月24日、労働農民党の総同盟右派・中間派は、左派への門戸開放に反対して、労働農民党から脱退しました。
 11月4日、安部磯雄吉野作造堀江帰一らは、連盟で堅実な無産政党の結成を提唱し、総同盟は支持を決議しました。
 12月4日、日本共産党を再建するため、山形県五色温泉で、第3回大会を開きました。
 12月5日、労働農民党を脱退した総同盟など右派は、社会民衆党を結成しました。委員長に安部磯雄を選出しました。
 12月9日、総同盟反幹部派と日本農民組合脱退派の中間派は、日本労農党を結成しました。書記長に三輪寿壮を選出しました
 12月12日、労働農民党の残留派は、大会を開き、左翼無産政党して再出発する事になりました。委員長に大山郁夫を選出しました。
 12月25日、大正天皇(48歳)が亡くなり、摂政の裕仁親王が即位して昭和天皇となりました。
 1926(昭和元)年12月25日、年号を昭和と改元しました。
 1927(昭和2)年3月14日、片岡直温蔵相の失言が金融恐慌の発端になりました。
 4月20日、@26田中義一内閣が誕生しました。
 1928(昭和3)年2月20日、@第16回総選挙が行われました。これが最初の普通選挙です。その結果、与党の政友会は217人、野党の民政党は216人、無産政党は8人、実業同志会は4人、革新は3人、中立その他は18人が当選しました。日本共産党が公然と選挙活動をして、無産政党の総得票は47万1000票を獲得しました。その内19万票は共産党の合法政党である労働農民党の得票でした。山本宣冶(労働農民党京都府委員長)・安部磯雄(社会民衆党)は、この最初の普選で当選しました。田中義一内閣には衝撃が走りました。
 3月15日、田中義一内閣は、全国1道3府27県の警察に通知して、共産党員の自宅や労農党本部・日本労働組合評議会本部など約50ヶ所を家宅捜索しました。そして、1568人を逮捕し、484人を起訴しました。これを3・15事件といいます。小林多喜二は、この時の拷問の様子を小説『一九二八年三月一五日』で描いています。
 4月10日、田中義一内閣は、共産党系の労働農民党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟の3団体に解散命令を出しました。
 4月11日、田中義一内閣は、3・15事件についての記事を解禁しました。
 6月4日、張作霖は奉天に引揚げの途中、関東軍の一部の謀略で、列車を爆破されて死亡しました。これを張作霖爆死事件といいます。
 6月29日、田中義一内閣は第55議会で審議未了の治安維持法を、緊急勅令で公布しました。その内容は、死刑・無期懲役を追加し、即日実施されました。
 7月3日、内務省保安課を拡充強化し、未設置の全県警察部に特別高等課設置を公布しました。
 7月22日、無産大衆党が結成されました。書記長に鈴木茂三郎が選出されました。
 12月20日、日本労農党などの中間派は、合同して日本大衆党を結成しました。委員長に高野岩三郎を選出しました。
 1929(昭和4)年2月8日、労働農民党の山本宣治は、衆議院予算委員会で、3・15事件の拷問や長期拘留の不当・不法を追及しました。
 3月4日、労働農民党の山本宣治は、大阪の全国農民組合大会で、「明日は死刑法である治安維持法が上程される。私はその反対のために今夜東上する。反対演説もやるつもりだが、質問打切りのためにやれなくなるだろう。実に今や階級的立場を守る者は唯一人だ。だが僕は淋しくない。山宣一人孤塁を守る。併し、背後には多数の同志が…」と演説しました
 3月5日、衆議院は、山本宣冶の登壇を阻止し、賛成249、反対170で、治安維持法改正緊急勅令を事後承認しました。
 3月5日、衆議院本会議で治安維持法に反対した山本宣冶が刺殺されました。言論がテロに封殺された事件です。
 4月16日、特高警察は1道3府24県の全組織を動員して、日本共産党員400人を全国的に検挙し、339人を起訴しました。市川正一鍋島貞親らの幹部も検挙されて、共産党の組織は壊滅的打撃を受けました。これを4・16事件といいます。
 7月2日、@27浜口雄幸(60歳。立憲民政党)内閣が誕生しました。
 11月1日、労農党結成大会で、中央執行委員長に大山郁夫が選出されました。
 以上見てきたように、不況下で労働・農民運動は高揚していきました。しかし、社会主義政党は弾圧と分裂で、国民を政治的に結集ができなかったとはいえ、自らも多派に分裂し、労働組合・農民組合も多派に分裂して責任も重大です。
 その結果、国家社会主義や国粋主義的・右翼的に国家改造を企図するグル−プが本格的に活動しました。
 以前、スペンサー=トレーシーが主演する『ニュールンベルグ裁判』を見ました。ヒトラーらを国家社会主義者として描いていました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
『太陽のない街』、山本宣冶こと山宣
 徳永直は、熊本県の小作農の長男として生まれました。家が貧しく、小学校の6年生の時、中退して、熊本の印刷工場に就職しました。のちに、東京の共同印刷所に植字工として就職しました。
 徳永直が勤めた共同印刷所は従業員3000人を有する大企業です。しかし、そこの労働組合は、日本共産党と共同歩調をとる日本労働組合評議会系でした。そこで、経営者側は、労働組合の弱体化を謀って、狙い撃ちに、一部の操業短縮と、職工38人を解雇します。経営者側の巧妙な弾圧と懐柔策により、争議団は、32万円を受け取って、1200人の解雇に同意します。その後、200人が再雇用されました。徳永直が28歳の時の1926年、この共同印刷争議に巻き込まれ、解雇されました。
 1929年、共同印刷争議の体験を『太陽のない街』として「戦旗」に連載しました。このような作品をプロレタリア文学といいます。現在は、「額に汗して働く人が報われる社会」と色々な立場の人がもっともらしく喋っていますが、映画にしろTVにしろ、「額に汗して働く人」を主人公にした作品は少ないです。
 1954年に映画『太陽のない街』が制作されています。監督は山本薩夫で、シナリオは 立野三郎でした。主人公の春木高枝に日高澄子、父役が薄田研二、その他の配役には信欣三・殿山泰司らが出ていました。
 物語は、大同印刷で、労働者38人が解雇されることから始まります。緑が豊かな山の手には、上流階級の人々の姿が描かれています。他方、谷底には太陽がほとんどささない街(題名の『太陽のない街』はここから来ています)には、大同印刷の職工が住んでいます。
 行商しながらストライキを続ける家の様子が描かれています。
 春木高枝(映画では日高澄子)は、病父(映画では薄田研二)とおとなしい妹加代に気を使いながら、争議団を支えています。やさしい春木加代は、争議に反対の昔気質の病父と争議団で頑張っている姉高枝の板ばさみになって悩んでいます。そんな加代を宮地が励ます。
 短気な宮地は、策略にはまって、敵と思い込んだ大川社長の豪邸に放火します。放火容疑で、警察は争議団の幹部を次々と検挙します。そこで、宮地は自首します。
 長期化したストに、市会議員らが調停を買って出ます。しかし、大川社長は、財閥のボスと話し合い、全員の解雇を発表します。
 日高高枝は、暴力団に襲われて入院した争議団の幹部である萩村を看護します。やがて、2人の間に愛が芽生えます。
 ある晩、工場が炎上します。放火容疑で、警察は、萩村ら争議団の幹部を次々と検挙します。残された幹部は保身から、会社の要求の受け入れました。こうして、大争議は争議団側の敗北で終わります。
 経営者側には、市会議員や警察署長、それに財閥などを登場させ、国家権力とは何かを描いています。こういう視点を、プロレタリア文学というのでしょうか。
 次は山本宣冶の話です。私の記憶には、ただ一人治安維持法に反対した時「山宣一人孤塁を守る」と言ったということが鮮明に残っています。他の事はあまり知りませんでした。そこで、山本宣冶を調べて見ました。
 山本宣冶の父である山本亀松は、とても極道で、「泥亀」と呼ばれていました。25歳の時、急に思いついて、クリスチャンになりました。
 母の山本多年は、足袋屋の娘で、ハイカラで通っていました。彼女は、やがて亀松と出会い、結婚を約束するようになりました。しかし、多年の父は、「ヤソ(クリスチャン)には嫁にやれん」と反対しましたが、そこは泥亀とハイカラさんです。何も気にすることなく、結婚してしまいました。当時としては恋愛は勿論、親に反対されての結婚は破天荒なものでした。
 2人は京都の新京極で店を開き、アメリカから輸入した雑貨を売るようになりました。店の名前も「わんぷらいすしょっぷ」という当時としては、ハイカラな名前にしました。「まけぬといふたらほんまにまけぬ」とか「日曜日は安息日として休業します」という看板を掲げたので、京都でも評判になり、大繁盛したということです。
 こんな父母の元で、山本宣冶が生まれ、育ちました。
 最初の普選の時(1928年)に立候補した人に、山本宣冶や大山郁夫がいます。激しい選挙干渉がありました。後(1948年)に文化勲章を受賞した長谷川如是閑は、香川2区で立候補した労働農民党の委員長である大山郁夫の選挙応援をしていました。その時の体験を記録しています。それによると、長谷川如是閑は、応援演説を禁止され、その結果、大山郁夫は次点で落選しました。「これで大山郁夫が当選すれば、黙って突っ立っている琴平神宮の石灯篭でも当選するだろう」と。
 これほどの選挙干渉にも関わらず、山本宣冶は当選しました。刺殺されました。
 労働運動や労働政党は、労働者の味方であるはずが、主義・主張の差で、四部五裂の状態である。これは、どこに原因があるのだろうか。
 ただでさえ、一致団結しなければ、弱い立場なのに…。
 小林多喜二が書いた『一九二八年三月十五日』の中の一部を紹介します。
 「渡は裸にされると、いきなりものもいわないで、後から竹刀でたたきつけられた。力一杯になぐりつけるので、竹刀がビュ、ビュッとうなって、その度に先がしのり返った。彼はウン、ウンと、身体の外面に力を出して、それに堪えた。それが三十分も続いた時、彼は床の上へ、火にかざしたするめのようにひねくりかえっていた。…ブルブルっと、けいれんした。そして、次に彼は気を失っていた」
 「水をかけると、息をふきかえした。…一人が渡の後から腕をまわしてよこして、首をしめにかかつた。
”この野郎一人で、小樽がうるさくて仕方がねエんだ”。それで渡はもう一度気を失った。
 「次に渡は裸にされて、爪先と床の間が二、三寸位離れる程度に吊し上げられた。…渡は、だが、今度のにはこたえた。それは畳屋の使う太い針を身体に刺す。一刺しされる度に、彼は強烈な電気に触れたように、自分の身体が句読点位にギュンと瞬間縮まる、と思った。…しまいに、警官は滅茶苦茶になぐったり、下に金の打ってある靴で蹴ったりした。それを一時間も続け様に続けた。渡の身体は芋俵のように好き勝手に転がされた。彼の顔は「お岩」になった。そして、三時間ブッ続けの拷問が終って、渡は監房の中へ豚の臓物のように放りこまれた。彼は次の朝まで、そのまま、動けずにうなっていた」。
 どうして拷問をするのか考えてみました。
 小林多喜二が書いた『一九二八年三月十五日』の中に、次のような一節がありました。
 「いくら拷問したって、貴方達の腹が減る位だよ。――断然何もいわないから。」
 「皆もうこッちでは分ってるんだ。いえばそれだけ軽くなるんだぜ。」
 「分ってれば、それでいゝよ。俺の罪まで心配してもらわなくたって。」
 つまり、内部から情報を得ることが重要だったのです。それで組織を摘発・破壊させ、幹部に裏切らせることで、精神面での破滅を目論んでいたのです。江戸時代の「転ぶ」の効果です。
 最近(2005年)、憲法を改める動きが加速しています。改正なら賛成ですが、平和主義を象徴する憲法第9条を変えようというのです。
 現在のスポーツ界には精神主義的で、軍国主義的な思想が残存しています。丸坊主にしたり、先生や先輩には絶対服従的な態度のことです。
 私は、軍隊に反対しているわけではありません。私は軍隊を持った時の日本人の体質が怖いのです。山本宣冶が1人で自分の主義を主張して殺害されました。小林多喜二も殺害されました。想像力が強すぎるからかもしれませんが…。「本当に憲法9条を変えていいの。賛成した人が、戦争に行ってね」
 オーストリアに行った時に体験した市民と一体化した軍隊の在り様には感心しました。

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