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エピソード

239_01

大衆文化の時代(2)、自然科学、哲学、民俗学
 ここでは、自然科学の部を紹介します。
 数学では、高木貞治が類体論・整理論を発表しました。
 物理学では、仁科芳雄が有名です。
 工学では、本多光太郎が磁石鋼(強力鋼)を発明しました。三徳徳七がMK鋼を発明しました。
 医学では、野口英世がアフリカの風土病である黄熱病を研究しました。
 人類学では、清野謙次がいました。
 ここでは、哲学を紹介します。
 西田幾多郎は、『善の研究』を出版しました。これは新カントにベルグソンを加味し、それに禅などの東洋思想を注入するという主観的観念論をまとめたものです。
 田中王堂はプラグマティズムを研究しました。
 桑木厳翼はカント哲学を研究しました。
 その他には、『三太郎の日記』を書いた阿部次郎、『古寺巡礼』を書いた和辻哲郎、『哲学叢書』を書いた田辺元がいます。
 ここでは、歴史学を紹介します
 津田左右吉は、日本古代史を科学的に研究しました。『記紀』を文献学的に批判した『日本古代史の研究』や、『神代史の研究』・『神代史の新しい研究』・『古事記及日本書紀の研究』などの著作を世に出しました。
 その他には、東西交渉史研究を開拓した白鳥庫吉、東洋史学の内藤虎次郎、日本中世史・法政史の
三浦周行がいます。
 ここでは、経済学を紹介します。
 河上肇は『貧乏物語』を書いて、マルクス主義経済学の立場から、奢侈の根絶による貧乏の廃絶を主張しました。
 野呂栄太郎は、『日本資本主義発達史講座』を編集して、講座派の論客となりました。寄生地主制・天皇制を絶対主義とする講座派理論を主導しました。これを講座派といいます。
 講座派と論争したのが、労農派です。労農派は、寄生地主制も近代的土地所有の上に成立していると主張しました。
 その他には、『資本論』を紹介した福田徳三、『資本論』を完訳した高畠素之がいます。
 ここでは、法学を紹介します。
 美濃部達吉は、天皇機関説を主張しました。その内容は、法人としての国家が主権の主体で、君主は
 国家の最高機関である憲法の条規に従って統治権を行使するという憲法学説です。多くの学者の支持を受け、定説になっていました。
 これに反対したのが、上杉慎吉で、絶対主義的解釈で天皇主権説を主張しました。
 その他には、憲政史を研究した尾佐竹猛がいます。
 最後に、民俗学を紹介します。柳田国男は、『郷土研究』を通して、民間伝承や風俗の調査研究を行いました。
高校時代に薦められた1冊の本、民俗学との出会い
 高校時代に、色々な先生から薦められた本があります。
 西田幾多郎の『善の研究』があります。観念的形而上学的な言葉が羅列しており、さっぱり分かりませんでした。でも、『善の研究』を読んでいるというと、格好いいアクセサリーでした。
 阿部次郎の『三太郎の日記』も読みました。『善の研究』ほどではありませんが、難解な日記で、何回も読んだものです。
 和辻哲郎の『古寺巡礼』はなんとか読めました。しかし、本当の意味を理解していたかは分かりません。
 津田左右吉の『日本古代史の研究』を読んで、津田が早稲田大の教授だったので、早稲田に進んだ生徒がいました。
 今、読み直せるかというと、集中力と忍耐力に欠けて、数ページ読んだだけで、中断してしまいます。古典的名著と言われるものは、若い時に読まないと、読む時期がないと感じました。
 年老いてから読める本は、後回しにして、古典的作品に挑戦して欲しいと思います。
 河上肇の『貧乏物語』は、京大の教授の書ですが、とても読みやすかったです。
 「人はパンのみにて生くものにあらず、されどパンなくして人は生くものにあらずというが、この物語の全体を貫く著者の精神の一である。思うに経済問題が真に人生問題の一部となり、また経済学が真に学ぶに足るの学問となるも、全くこれがためであろう」で始まります。
 続いて、「孔子また言わずや、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりと。言うこころは、人生唯一の目的は道を聞くにある、もし人生の目的が富を求むるにあるならば、決して自分の好悪をもってこれを避くるものにあらず、たといいかようの賎役なりともこれに従事して人生の目的を遂ぐべけれども、いやしくもしからざる以上、わが好むところに従わんというにある」と書いています。「
 ラスキンの有名なる句にThere is no wealth, but life(富何者ぞただ生活あるのみ)ということがあるが、富なるものは人生の目的― 道を聞くという人生唯一の目的、ただその目的を達するための手段としてのみ意義あるに過ぎない。しかして余が人類社会より貧乏を退治せんことを希望するも、ただその貧乏なるものがかくのごとく人の道を聞くの妨げとなるがためのみである」と序論を締めくくっています。
 河上肇は、『貧乏物語』の最後のほうで、次のように書いています。
 「私が貧乏退治の第一策として…富者の奢侈廃止である」「需要と生産との間にはもとより因果の相互関係ありといえども、しかもそのいずれが根本なりやと言わば、需要はすなわち本で、生産はひっきょう末である。されば社会問題の解決についても、消費者の責任が根本で、生産者の責任はやはり末葉たるを免れぬ。何ゆえというに、極端に論ずれば、元来物そのものにぜいたく品と必要品との区別があるのではなくて、いかなる物にてもその用法いかんによって、あるいは必要品ともなりあるいはぜいたく品ともなるからである。
 たとえば米のごときは普通には必要品とされているけれども、これを酒にかもして杯盤狼藉の間に流してしまえば、畳をよごすだけのものである。世の中には貧乏人の多いのは生活必要品の生産が足りぬためだという私の説を駁して、貴様はそういうけれども、日本では毎年何千万石の米ができているではないかと論ぜらるるかたもあろうが、実はそれらの米がことごとく生活の必要を満たすために使用されているのではない。徳川光圀卿の惜しまれた紙、蓮如上人の廊下に落ちあるを見て両手に取っていただかれたという紙、その紙が必要品たるに論はないけれども、いかなる必要品でも使いようによっては限りなくむだにされうるものである。たとえばまたかの自動車のごときは、多くの人がこれをぜいたく物というけれども、しかし医者が急病人を見舞うためなどに使えば、無論立派な必要品になる。
 かくのごとく、すべての物がその使用法のいかんによって必要品ともなればぜいたく物ともなりうるものであるから、いくら生産者の方で必要品を作り出すように努めたからといって、消費者が飽くまでも無責任に濫用すれば、到底いたしかたのない事になる。それゆえ、私は生産者の責任よりも消費者の責任を高調し、一般消費者の責任よりも特に富者の責任を力説したのである。しかし、富者も貧者も消費者も生産者も、互いに相まっておのおのその責任を全うするに至らなければ、完全に理想的なる経済状態を実現するを得ざること言うまでもなきことである」
 次に民俗学について書きます。
 島崎藤村の「椰子の実」(『落梅集』)という詩は有名です。
 「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ 故郷の岸をはなれて なれはそも波にいく月
  もとの樹は 生いや茂れる 枝はなお かげをやなせる われもまた なぎさを枕 ひとり身の
  うき寝の旅ぞ
  実をとりて 胸にあつれば 新たなり 流離のうれい 海の日の 沈むを見れば たぎり落つ
  異郷の涙
  思いやる八重の汐々 いずれの日にか国に帰らん」
 この詩に大中寅二が作曲して、多くの人々が愛唱しています。
 私は、在職中、大衆文化の説明の時には、本物の椰子の実を持参して、「この椰子の実が、高校時代の私の大学進路を決定した」と説明することにしています。生徒は、私の発言にか、椰子の実にか、びっくりします。
 1898(明治31)年8月、柳田国男は、約1ヶ月の間、伊良湖に滞在しました。この時、椰子の実が漂着しているのを見つけました。
 柳田国男は、東京に帰って椰子の実の話を島崎藤村に話しました。『故郷七十年拾遺』では、「藤村は「『君、その話を僕に呉れ給へよ、誰にも云はずに呉れ給へ』」と言ったと書いています。
 1919(大正8)年12月、柳田国男は、黒潮の流れを確かめるように、鹿児島から奄美・沖縄の民俗調査をしました。
 1925(大正15)年4月、柳田国男は、奄美・沖縄の民俗調査をした時の紀行文である『海南小記』を発行しました。
 1952(昭和27)年、柳田国男は、椰子の実を発見して54年後に、『海上の道』発表しました。そこには「風のやゝ強かつた次の朝などに、椰子の実の流れ寄つて居たのを、三度まで見たことがある。一度は割れて真白な果肉の露はれ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遥かな波路を越えてまだ新らしい姿で斯んな浜辺まで、渡つて来て居ることが私には大きな驚きであった」と書いています。そして、日本人が南方から潮流に乗って島伝いに渡来したと主張しました。
 島崎藤村の椰子の実の詩と柳田国男の『海上の道』が、私を民俗学へと誘ってくれたのです。
 私の住んでいる兵庫県相生市から柳田国男の生家に行くには、電車で20分ほど乗って姫路に行きます。姫路から播但線(播磨の姫路から但馬の和田山まで)に乗って20分ほどで福崎に着きます。福崎駅より柳田の生家は、車で10分です。
 1875(明治8)年、柳田国男は、医者松岡操の8人兄弟の六男として生まれました。早世しなかった長男の松岡鼎は小学校の校長から東大を卒業して医者、次男の井上通泰も医者、七男の松岡静雄は言語学者、八男の松岡映丘は日本画家として、それぞれ名を残しました。
 「をさな名を 人に呼ばるゝ ふるさとは 昔にかへる こゝちこそすれ」という私の好きな和歌があります。これは柳田国男が貴族院書記官長時代に、ふるさとの福崎の辻川に帰ってきたとき、子供時代を懐かしんで読んだ歌です。
 柳田国男は、自分の生家を「日本一小さな家」と表現しています。4畳半の部屋が2間と3畳の部屋が2間の「田の字」が間取りです。9歳のとき、柳田国男は、姫路藩の大庄屋三木家に預けられたことがありました。この三木家で研究会をした時、柳田国男の生家を見物しました。何も知らない人が「日本一小さいいうけど、結構大きいや」と言うのを聞きました。小学校の校長だった長男の松岡操は妻を娶りましたが、両親と弟5人が同居する状況に我慢が出来なくなった妻は、1年余で実家に逃げ帰りました。
 この悲劇を少年時代に体験した柳田国男は「日本一小さな家」と表現したのです。悲劇をもたらした日本の家屋構造が原点となって、民俗学への道に進んだとも言えるのです。
 東京帝大に入学した柳田国男は、農政学を勉強し、農商務省農務局に就職しました。その後、従来の農本主義的政策を疑問を抱いた柳田国男は、農業の近代化・農民主体の農政を主張するようになり、公務の余暇を見つけては、国内各地の伝説・伝承を収集し、体系化していきました。
 民俗学と民族学という言葉があります。民俗学は、一国内の伝説・伝承を比較して、ルーツなどを探る学問です。他方、民族学は、世界の民族の伝説・伝承を比較して、ルーツなどを探る学問です。
 柳田国男の著作には上記で紹介した以外に、『遠野物語』・『石神問答』・『後狩詞記』・『蝸牛考』・『日本の昔話』・『桃太郎誕生』などがあります。
 私の高校教員採用試験には、日本史で72人が受験しました。最終的に採用されたのは8人ですから、9倍の競争でした。
 二次試験の面接では、「愛読書は?」と聞かれ、即座に「柳田国男先生の『妹の力』(いものちから)です」と答え、採用が決定しました。
 大学進学、教員採用試験、現在も、民俗調査は続けています。私にとって、昔も、今も、柳田国男は永遠の柳田国男先生なのです。

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