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エピソード

240_01

文学(耽美派、白樺派と武者小路実篤、新思潮派)
 文学とは、国語辞典を調べると、「言語で表現された芸術」とありました。
 エピソード日本史の冒頭の部分で、次のような紹介をしています。
 作詞家に阿久悠という人がいます。本名は深田公之さんです。阿久悠という名前のいわれを本人が説明していました。それによると、高校時代、友人からラブレターの代筆を頼まれ、彼が書くと必ず返事が来たといいます。代筆のことを知った女生徒から「悪友ね」と言われたことから来ているというのです。文字は人の心を揺さぶる力を持っているのです。
 尾崎豊を世に出した人の証言です。歌手として売り込みに来た高校時代の尾崎豊の歌は普通だったそうです。断った時、尾崎豊は学生カバンから大学ノートを数十冊も取り出し、見せたそうです。そこには尾崎豊の文字でぎっしりと詩が書き綴られていたといいます。彼は尾崎豊のあり余るメッセージに、すごさを感じて、契約を結んだと言います。歌もやはり自分のメッセージを伝える道具であるということが分かります。
 次は『古今和歌集-仮名序』です。
 「やまと歌は 人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける
 世の中にある人 事 業しげきものなれば 心に思ふことを見るもの聞くものにつけて
言ひいだせるなり
 花に鳴くうぐひす 水に住むかはづの声を聞けば 生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける
力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女のなかをもやはらげ
猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」
 「天地を動かしたり、鬼神をもあはれ(心に深くしみる感動)を覚えさせる」と書いています。
 では、この時代の作品は、当時の人々の心にどう響いたのでしょうか。
 明治の文学を引き継ぎ、森鴎外・夏目漱石らを指導者として、耽美派があります。耽美派の特徴は、雑誌『スバル』を中心に、自然主義の反動として芸術至上主義・感覚美・官能美を主張しています。
 その代表が谷崎潤一郎です。24歳の時の刺青をした一女性の官能的姿を描いた『刺青』や、39歳の時の娼婦的女性ナオミに対する主人公の情念を描いた『痴人の愛』などが有名です。
 『鍵』は、肉体的に老いた大学教授の夫は、妻の旺盛な性欲を満足させられない。そこで、若い肉体の男を妻に近づけ、その妄想を「鍵」のある机の中の日記に書き連ねる。その日記を妻が盗み見ることを想像した、衰えた性欲に刺激を与えるという物語です。
 私は、吉永小百合ファンではありませんが、映画『細雪』の吉永小百合が素晴らしいと思っています。しかし、原作は『中央公論』で連載され、1943(昭和18)年には、戦時中にも関わらず、贅沢な場面が多いとして、2回も掲載をストップさせられています。
 永井荷風は、29歳の時の風流人を集め、木像や人形を相手に通飲する様を描いた『冷笑』や、38歳の時の芸者駒代を通して見た花柳界の人情を描いた『腕くらべ』が有名です。永井荷風は、ストリップ小屋に寝泊りして、ストリップをする娘を悲惨的と思う庶民の先入観を払拭し、厳しい中にも人間として懸命に生きる彼女たちを紹介しています。
 佐藤春夫は、谷崎潤一郎との間で「妻譲渡事件」をおこしています。詳細は、下段で紹介します。
 こうした一連の作品群を耽美派といいます。
 自然主義派の暗さや耽美派の性の露骨な描写に対立して現れたのが白樺派です。雑誌『白樺』を通して、上流人で都会的感覚と西欧的教養を身につけた作家が、明るい人道主義的作風を発表しました。
 その代表が、武者小路実篤で、名前から分かるように、家系は、室町時代以来の公卿である武者小路家です。父は子爵である武者小路実世です。志賀直哉とは学習院の同級生です。作品には、31歳の時の戦争による盲目画家とその妹の葛藤を描いた『その妹』や、38歳の時の創造の神の偉大さと人間も神となれるというテーマに取り組んだ『人間万歳』が有名です。
 学習院で武者小路実篤と同級生であった志賀直哉は、34歳の時の主人公順吉の父との不和から和解へを描いた『和解』や、38歳の時の精神の平安と自足とを全人的に模索した『暗夜行路』が代表作です。
 有島武郎は、薩摩藩出身の大蔵官僚の父を持つ恵まれた家庭で育ちました。学習院では、皇太子(後の大正天皇)のご学友に選ばれています。学習院を卒業すると、農学者になろうと札幌農学校に進学しましたが、そこで、クリスチャンになりました。その後、渡米して、ハーバード大学に学び、社会主義に傾倒していきました。しかし、帰国後は、棄教し、武者小路実篤・志賀直哉らと「白樺」に参加しました。ロシア革命を知った有島武郎は、「有産階級の知識人」として苦悩し、45歳の時、北海道狩太村(今のニセコ町)にあった有島農場を小作人に解放しました。46歳の時、婦人公論記者で人妻であった波多野秋子と軽井沢の別荘である浄月庵の応接間で心中しました。原因は、創作力の衰えとされています。
 そんな有島武郎は、33歳の時の個性を貫いた女性の転落する一生を描いた『或る女』や、小作人の惨めな生活と人間の希望・獣性を描いた『カインの末裔』が有名です。
 小山内薫が創刊した雑誌『新思潮』に集う作家グループを新思潮派といいます。
 第一次は小山内薫、第二次は谷崎潤一郎・和辻哲郎、第三次は久米正雄、第四次は芥川龍之介・菊池寛らです。普通、新思潮派とは久米正雄・芥川龍之介・菊池寛らをいいます。その特徴は、現実の矛盾を理知的にえぐりだすことを主張しています。
 芥川龍之介が24歳の時、死者の髪抜く老婆と盗賊の物語を描いた『羅生門』が有名です。25歳の時の異常な鼻の持主の心情を描写した『鼻』や芋粥をあくほど食べたい下級官吏の心理を描いた『芋粥』、36歳の時の河童を借りて人間存在に厳しく批判した『河童』などがあります。36歳の時に、自殺します。
 菊池寛は、耶馬渓の青の洞門にまつわる物語を描いた『恩讐の彼方に』や20年前に妻子を捨てた父が帰ってきた様子を描いた『父帰る』が有名です。私は『恩讐の彼方に』と『忠直卿行状記』が好きです。
芥川龍之介の死後、文藝春秋の社主だった菊池寛は、純文学の新人登竜門である芥川賞を新設しました。
谷崎と佐藤の「妻譲渡事件」、武者小路の『友情』、有島の土地解放、芥川の自殺
 文壇で有名になった谷崎潤一郎は、向島の芸者お初のチャキチャキさがが気に入り、結婚を申し込みました。しかし、お初には既に檀那がいたので、お初の妹千代と結婚しました。千代の美しさは、お初より上でしたが、性格が温和でした。そこで、潤一郎は、千代の妹おせいがお初に似た性格だったので、心を移すようになりました。そんな関係で、潤一郎と千代には娘鮎子がいましたが、夫婦関係はうまくいっていませんでした。
 この頃、佐藤春夫が谷崎潤一郎の家を訪ねました。谷崎潤一郎は、佐藤春夫が来ていても、妻の千代を残し、千代の妹おせいと、よく外出しました。それを見た佐藤は、千代に同情しましたが、2人の間にはお互いを思う気持ちが湧き上がってきました。
 そのことを知った谷崎潤一郎は、佐藤春夫に、「千代を譲ろう」と約束しました。その譲り状は以下の通りです。
 「拝啓 炎暑之候尊堂益々御清栄奉慶賀候 陳者我等三人此度合議を以て千代は潤一郎と離婚致し春夫と結婚致す事と相成潤一郎娘鮎子は母と同居致す可く素より双方交際の儀は従前の通に就き右御諒承の上一層の御厚誼を賜度何れ相当仲人を立て御披露に可及候へ共不取敢以寸楮御通知申上候                                                        敬具
                                谷崎 潤一郎
                                     千代
                                佐藤  春夫」
 しかし、潤一郎はその約束を反故にしました。佐藤は、潤一郎との友好を絶ち、田舎に帰っていきました。佐藤がその頃の気持ちを読んだのが『秋刀魚の歌』です。
 「あはれ秋風よ 情あらば伝えてよ 男ありて 今日の夕餉に ひとり さんまを食ひて思いにふけると。
さんま、さんま。そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて さんまを食ふはその男のふる里のならひなり。そのならひをあやしみなつかしみて女はいくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。あはれ、人に捨てられんとする人妻と妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、愛うすき父を持ちし女の児は小さき箸をあやつりなやみつつ父ならぬ男にさんまの腸をくれむと言ふにあらずや…」
 「さんま、さんま、さんま苦いか塩っぱいか。そが上に熱き涙をしたたらせて さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。あわれげにこそは問はまほしくをかし」。
 白樺派の中で、高校生に一番人気があったのが、武者小路実篤の『友情』でした。
 野島が初めて仲田杉子に会ったのは、帝国劇場の二階正面の廊下でした。野島にとって結婚がすべてでした。野島は、自分だけを頼つてくれる女性を求めていました。野島の目には仲田杉子がそういう女性として映り、自分勝手に、杉子を理想の女性像としていました。
 野島はある晩、親友の大宮に仲田杉子への思いを告白しました。大宮はこの恋が成就することを心から応援すると野島に約束しました。
 ある時、野島は、大宮の腹を探るために、杉子の兄の仲田の恋愛観を大宮に話しました。大宮は「恋をばかにしないほうがいい。恋があって相手の運命が気になり、相手の運命を自分の運命と結びつけたくなるのだ。…本当の恋というものを知らない人が多い。純金を知らない者がメッキをつかまえるのだ」と語り、美しい女や不誠実な男に迷わされず、本質を見破る術を教えることも大切だと付け加えました。
 野島は、大宮というよき友がいることに感謝しました。
 野島は、仲田と会いたいのに、会うことで、仲田は自分が杉子を愛していることに勘づくのではないかと自分勝手に判断して、仲田と会うことを敬遠すします。
 ある時、仲田に誘われて下手なピンポンをやつていると、仲田の妹の杉子が加わり、野島と対戦しました。野島は、そのことを、「杉子が自分をいたわってくれた」と自分勝手に判断して、とても喜びます。その後、野島は「杉子は自分を嫌ってはいない。自分があなたの夫に値する人間になるまで、どうかほかの人と結婚しないでください」と興奮しながら、あいこち歩き回りながら帰途に着きました。
 野島が仲田杉子に会ったことがありました。この時は、杉子は態度がよそよそしかったので、野島は「自分が図々しいので、怒ったのかもしれない」と自分勝手に思い込んで、沈み込んでしまいました。
 落ち込んでいた時、仲田杉子の周囲には男たちが群れ集まります。しかし、大宮だけは杉子に冷淡でした。それを見て、野島は、自分に味方してくれている大宮をうれしく感じました。
 大宮は、急に、9月に、フランスに留学することになりました。大宮は別れ際に、野島に「君の幸福を祈るよ。僕が向うにいる間に2人でフランスに来ればいい」と言いました。しかし、人混みに隠れて、大宮をじっと見ている仲田杉子を見つけました。野島は、喜びもつかの間、不安が広がるのを覚えました。
 そこで、野島は、仲田に、仲田の妹杉子の気持ちを聞いてもらうことにしました。仲田は、「妹は今、結婚する意思がない」と言われました。納得できない野島は、直接仲田杉子に手紙を書きました。杉子は、手紙できっぱりと断ってきました。
 野島は、フランスにいる大宮に加勢を頼みたくて、泣きつきました。今度は、大宮からピタッと手紙が来なくなりました。野島は、手紙が来なくなった理由を、自分を傷つけたくないからだと自分勝手に解釈しました。
 大宮が留学して1年後、仲田杉子がフランスヘ出かけました。。その後、野島は、大宮から「自分は君に謝罪しなければならない。同人雑誌に自分の告白を書いた。それで僕たちを裁いてくれ」という手紙を受け取りました。野島は、同人雑誌の大宮の告白小説を読み、泣き、怒り、大宮がパリから贈ったベートーヴェンのデスマスクを庭に叩きつけて、粉々にしました。
 告白小説には、大宮の洋行は仲田杉子をあきらめるためにしたこと、野島より先に杉子を愛していたこと、杉子の大宮への真実に触れ、杉子をパリに呼び寄せたことが書かれていました。
 野島は「僕は1人で耐える。そしてその淋しさから何かを生む」という手紙を大宮に出しました。
 そして、野島は、大宮らが帰国した時は、立派な小説家になっていました。つまり、この野島こそ若き武者小路実篤だったのです。
 どうして、これが高校生の共感を呼ぶのか、聞いてみました。男女ともに、好きな異性には、自分で勝手に想像したり、判断したり、解釈して一喜一憂するということでした。この辺の描写が「自分たちの思いとぴったりだ」といいます。
 私の教え子の話です。バスケット部のキャプテンで、西城秀樹(この頃は人気のアイドル歌手)に似の好青年です。卒業式後、教官室にやってきて「先生、聞いて、聞いて!」とはしゃぐのです。心の中にずーっと思っていた女生徒がいて、今日打ち明けないと一生言えないと思い、恋心を訴えたというのです。女生徒も「私も好きだった」と言ってくれたというのです。私が「君ならいくらでも彼女はいただろう」と問うと、「どうでもええ子には、簡単に喋れるけど、本当に好きな子には、打ち明けて振られたら怖いので、じーっと見守るだけだった」と答えました。今も昔も、恋心というのは変わらないものですね。
 ただ、友達から「誰々が好きだ」と打ち明けられたら、「自分も好きだ」と答えるといいます。ここは、ドライになっていますね。
 有島武郎は、父の有島武から譲り受けた農地が440ヘクタール(440町)ありました。現在も1ヘクタール(1町)あれば、専業農家としてやっていける土地の広さです。敗戦後の農地改革で北海道は4町歩以上を解放させていますから、北海道の専業農家の土地は4ヘクタールだったのでしょうか。その110倍の土地を有島武郎は所有していたのです。羊蹄山が一望できるニセコ町にあります。実際、行ったことがあります。次のようなことが、思い出されました。
 1922(大正11)年、有島武郎は、小作人を集め、共同所有ということを前提に、自分が所有する農地440ヘクタールを解放しました。理想主義的な白樺派の行動でした。地元の新聞に、有島は「自分の良心を満足せしむる為めの已むを得ない行為だった」と述べています。
 1923(大正12)年、有島武郎は、軽井沢で『婦人公論』の女性記者と心中します。
 自分の美学を貫くために、女性記者の夫や家族を犠牲にすることを考えない、白樺派らしい生き方だと私は、考えています。
 黒澤明が1950(昭和25)年に、監督した、映画『羅生門』が1951(昭和26)年にヴェネチア国際映画祭金獅子賞・イタリア記者全国連盟最優秀外国映画賞・アカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞しました。その結果敗戦で絶望していた日本人に勇気を与えました。但し原作は、芥川龍之介の『薮の中』です。
 芥川龍之介は、36歳の時、自殺します。
 龍之介の友人である北原白秋は、愛人松下俊子の夫に姦通罪で告訴・逮捕され、その結果、名声を失いました。龍之介は、秀の妻しげ子を愛人にしていました。
 白秋の話から、龍之介(35歳)は、友人の小穴隆一に、「事実顕れて後、事を決するよりも、未然に自決してしまいたい」とか「僕は過去の生活の総決算のために自殺するのである。…僕が秀夫人と罪を犯したことである」と書き残しています。
 芥川龍之介(36歳)は、妻の文の友人である平松麻素子と4月と5月に、帝国ホテルで、心中を図ります。2度とも、失敗に終わりました。龍之介は、駆けつけた妻の文に対して、「麻素子が死ぬのが怖くなったからだ」と言ったそうです。すると、文は「死に急ぐべきではない」と言葉を返したといいます。
 7月、芥川龍之介は、薬を飲んで、今度は、本当に帰らぬ人となりました。
 「水洟や 鼻の先だけ 暮れ残る」という俳句が最後の言葉でした。
 芥川龍之介は、上記のことから分かるように、自殺癖がありました。自殺の原因には、諸説あります。
 特に有名なのが、「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」という一節です。
 芥川龍之介は、久米正雄に宛てた『ある旧友へ送る手記』のなかで、「誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない…。僕は君に送る最後の手紙の中に、はっきりこの心理を伝えたいと思っている。…君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであろう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示しているだけである。自殺者は大抵レニエの描いたように何のために自殺するかを知らないであろう。それは我々の行為するように複雑な動機を含んでいる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」書いています。
 芥川龍之介は、新原敏三の長男として生まれました。しかし、龍之介が8ヶ月の時、母のフクが精神に異常をきたします。そこで、龍之介は、母フクの実家である芥川道章に預けられ、フクの姉フキの手で育てられました。龍之介が10歳の時、母のフク(43歳)が亡くなりました。
 龍之介(21歳)は、一高を2番目の成績で卒業し、東京帝国大学英文科に入学しました。
 龍之介(22)歳は、久米正雄・菊池寛・山本有三・土屋文明らと第3次「新思潮」を発刊しました。
 龍之介(23歳)は、青山女学院を卒業した吉田弥生と交際します。しかし、吉田弥生が士族でなかったり、私生児だったりということで、この話は壊されます。
 龍之介(24歳)は、第4次『新思潮』に書いた『鼻』を夏目漱石から激賞され、文壇に登場します。帝大英文科を20人中2番の成績で卒業しました。
 龍之介(26歳)は、塚本文(19歳)と結婚します。
 龍之介(27歳)は、人妻である秀しげ子と懇意になります。
 龍之介(28歳)は、上野の清凌亭の座敷女中をしていた佐多稲子と出会いました。
 龍之介(31歳)の時、有島武郎が波多野秋子と軽井沢で心中しました。
 龍之介(32歳)は、軽井沢に滞在中、松村みね子と出会いました。
 龍之介(34歳)は、胃潰瘍・神経衰弱・不眠症に悩まされます。小穴隆一に自殺の決意を告げ、夏頃に自殺を試みましたが、失敗しました。その後『点鬼簿』の中で、母フクの狂気を初めて描写しました。
 1927(昭和2)年1月、龍之介(36歳)の義兄が、保険金欲しさに自宅に放火した容疑者となり、鉄道自殺します。
 4月、評論「文芸的な、余りに文芸的な」を「改造」に発表し、谷崎潤一郎と小説の筋をめぐって文学史上有名な論争を繰り広げます。
 5月、発狂した宇野浩二を見舞いました。
 7月、内田百閧ェたずねた時、「龍之介は大量の睡眠薬でべろべろの状態で、起きたと思ったらまた眠っていた」と証言しています。
 7月24日、龍之介は、大量の薬を飲んで、自殺しました。
 私が知っている人に、このような人がいました。姉は秀才でした。兄はある病気で若死にしました。妹は秀才でした。弟はある病気で若死にしました。その人は、高校をトップの成績で卒業して、大企業に就職しました。その後、両親や姉妹とも音信を絶ちました。その姉も60近くになって、ある病気になりました。
 彼は、いつも何かに怯えていました。私は、彼が中学生の時、特に可愛がってもらって、たくさんの絵を描いてもらいました。彼が高校生になってからは、常に機嫌が悪く、近寄りがたい存在になっていました。
 芥川龍之介の心理をさぐると、「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」とは、精神を病んで死んだ母と同じ運命を辿るのではないかと不安だったように思うのです。
 芥川龍之介の死後8年目の時、親友で文藝春秋社主の菊池寛は、芥川の名を冠した新人文学賞を設けた。純文学の登竜門として、最も有名は賞となっています。

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