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エピソード

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文学U(新感覚派、大衆文学、プロレタリア文学、近代詩歌・俳句)
 文学史の授業で、非常に説明がし難かったのが、新感覚派です。新感覚派は、教科書的には「自然主義的リアリズムに反発し、感覚的表現を主張」したということになっています。自然主義的リアリズムは、作品を読めば、感覚的に理解できます。しかし、横光利一の『機械』を読んでも、川端康成の『雪国』を読んでも、感覚的表現は理屈的でも感覚的にも分かりませんでした。
 ノーベル賞を受賞した時、川端康成は「美しい日本の私」と題して講演しています。ある人は、川端文学の結晶が込められていると言います。また、別な人は、「このキャッチーなコピーこそ、恐るべき川端ワールドへの道しるべ」だと大騒ぎします。ノーベル受賞作家だから、そう評価するのでしょうか。私にはとてもキザで、格好をつけているとしか思えません。
 そこで、新感覚派を調べてみました。
 その代表が横光利一川端康成です。
 1898(明治31)年、横光利一は、福島県の会津で生まれました。
 1899(明治32)年、川端康成は、大阪市で生まれました。
 1921(大正10)年、横光利一は、菊池寛に師事し、川端康成と出会い、一生の友となります。
 1924(大正13)年、全盛のプロレタリア文学に対抗し、ひたすら芸術の世界を志向した同人誌の『文芸時代』が創刊されました。そこに集った人々、横光利一・川端康成らを新感覚派といいます。『文芸時代』の創刊号に「暗示と象徴によつて、内部人生全面の存在と意義をわざと小さな穴からのぞかせるやうな、微妙な態度の芸術」という表現があったことから、新感覚派と命名されました。
 新感覚派は、新興芸術派とか新心理主義とも言われます。その主張は、出発の時点で、「奇抜な擬人法的手法の導入」が運命付けられていたといえます。
 1924(大正13)年、横光利一は、『新小説』に『日輪』を発表し、話題となります。
 1925(大正14)年、川端康成は、踊子の旅情と青春の哀歓を描写した『伊豆の踊子』を発表し、話題となります。
 1928(昭和3)年、横光利一は、芥川龍之介に薦められ、上海に移住します。
 1930(昭和5)年、横光利一は、ネ−ムプレ−ト工場で働く人の心理を実験的な手法で描いた『機械』を発表しました。これは心理主義小説といわれます。
 1932(昭和7)年、横光利一は、新感覚派の集大成というべき『上海』を発表しました。
 1935(昭和10)年、川端康成は、雪国に住む芸者と東京育ちの若者の愛情を描いた『雪国』を発表しました。
 1937(昭和12)年、横光利一は、軍国主義化していく風潮に迎合して、国粋主義的傾向を強め、文芸銃後運動に参加しています。
 1946(昭和21)年、横光利一は、西洋の思想と日本の古神道との対決をテーマに『旅愁』を発表しました。
 1947(昭和22)年、横光利一(49歳)は、胃潰瘍が悪化し、腹膜炎を併発して、亡くなりました。妻千代に「ヒコーキに乗りたい」「今日はね、怨霊が沢山出て来よった」と言ったのが最後の言葉となりました。
 川端康成が友人を代表した弔辞には、「君の名に傍えて僕の名の呼ばれる習わしも、かえりみればすでに25年を越えた」とありました。つまり、文壇的には、横光利一が一歩先を行き、その後を川端康成が追っていたというのです。
 「小説の神様」と言われた志賀直哉より文才があると言われた「文学の神様」横光利一は、戦前の国粋主義的傾向により、戦後の評価にはかなり厳しいものがあります。
 1961(昭和36)年、川端康成は、『古都』出筆のため、京都に移住する。
 1968(昭和43)年、川端康成は、ノーベル文学賞を受賞しました。
 1972(昭和47)年、川端康成(73歳)は、ガス自殺しました。
 次に大衆文学を取り上げました。大衆文学とは、新聞・大衆雑誌を舞台に、小市民階級の要求に応えた大衆読物と定義されます。
 中里介山は『大菩薩峠』を発表しました。
 吉川英治は『宮本武蔵』を発表しました。
 江戸川乱歩は『二銭銅貨』・『陰獣』などを発表しました。
 大佛次郎は『赤穂浪士』を発表しました。
 林芙美子は『放浪記』を発表しました。
 直木三十五は『南国太平記』を発表しました。1935年(昭和10年)、大衆文学の新人を対象に、文藝春秋社主の菊池寛がに芥川賞とともに創設したのが、直木三十五賞です。一般には直木賞と言われています。
 私が読んだ直木賞を列挙します。直木賞から私が愛読している作家が誕生していることが分かります。しかし、最近は殆ど読んでいません。東野圭吾の『容疑者Xの献身』を取り上げましたが、最近という意味です。
 第1回受賞は、川口松太郎の『明治一代女』などでした。
 第2回受賞は、海音寺潮五郎の『武道傳來記』などでした。
 第6回受賞は、井伏鱒二の『ジョン萬次郎漂流記』などでした。
 第12回受賞は、村上元三の『上総風土記』などでした。
 第17回受賞は、山本周五郎の『日本婦道記』でした。しかし、(受賞を辞退しました。
 第24回受賞は、 檀一雄の『長恨歌』『真説石川五右衛門』などでした。
 第25回受賞は、源氏鶏太の『英語屋さん』などでした。
 第34回受賞は、 新田次郎の『強力伝』でした。
 第35回受賞は、 南條範夫の『燈台鬼』でした。
 第36回受賞は、今東光の『お吟さま』でした。
 第39回受賞は、山崎豊子『花のれん』でした。
 第40回受賞は、 城山三郎の『総会屋錦城』でした。
 第42回受賞は、 司馬遼太郎の『梟の城』と戸板康二の『團十郎切腹事件』でした。
 第43回受賞は、池波正太郎の『錯乱』でした。
 第44回受賞は、 寺内大吉の『はぐれ念仏』と黒岩重吾の『背徳のメス』でした。
 第45回受賞は、水上勉の『雁の寺』
 第52回受賞は、永井路子の『炎環』でした。
 第56回受賞は、五木寛之の『蒼ざめた馬を見よ』でした。
 第58回受賞は、 野坂昭如の『火垂るの墓』などでした。
 第60回受賞は、 陳舜臣の『青玉獅子香炉』でした。
 第67回受賞は、井上ひさしの『手鎖心中』でした。
 第69回受賞は、 藤沢周平の『暗殺の年輪』でした。
 第71回受賞は、藤本義一の『鬼の詩』でした。
 第85回受賞は、青島幸男の『人間万事塞翁が丙午』でした。
 第86回受賞は、 つかこうへいの『蒲田行進曲』でした。
 第87回受賞は、深田祐介の『炎熱商人』と村松友視の『時代屋の女房』でした。
 第117回受賞は、浅田次郎の『鉄道員』でした。
 最近の第134回受賞は、東野圭吾の『容疑者Xの献身』でした。
 プロレタリア文学があります。
 詳しくは、小林多喜二の別項で扱います。
横光利一の『機械』と川端康成の『雪国』『古都』
 「私」はあるネームプレート製作所に勤めています。製作所の主人はお人好しで、お金を持つとすぐに落としてしまいます。そこで、しっかり者の主婦(妻)が工場をとりしきっています。製作所には、単細胞の職人軽部がいます。ある時、製作所に大量の注文がありました。そこで、頭のよい理論家の屋敷という職人が手伝いにきました。
 軽部は「私がこの家の仕事の秘密を盗みに這入って来たどこかの間者だと思い込んだのだ」「軽部は馬鹿は馬鹿でも私よりも先輩で劇薬の調合にかけては腕があり、お茶に入れておいた重クロム酸アンモニアを相手が飲んで死んでも自殺になるぐらいのことは知っているのだ」。
 仕事が一段落した頃、「或る日軽部は急に屋敷を仕事場の断裁機の下へ捻じ伏せてしきりに白状せよ白状せよと迫っているのだ。思うに屋敷はこっそり暗室へ這入ったところを軽部に見附けられたのであろう」「あれほど醜い顔をし続けながらまだ白状しない屋敷を思うといったい屋敷は暗室から何か確実に盗みとったのであろうかどうかと思われて、今度は屋敷の混乱している顔面の皺から彼の秘密を読みとることに苦心し始めた」。
 「殴る軽部の掌の音があまり激しいのでもう殴るのだけはやめるが良いというと、軽部は急に私の方を振り返って、それでは二人は共謀かという」「共謀であろうとなかろうとそれだけ人を殴ればもう十分であろうというと今度は軽部は私にかかって来て、…それでは貴様が屋敷を暗室へ入れたのであろうという。私は最早や軽部がどんなに私を殴ろうとそんなことよりも今まで殴られていた屋敷の眼前で彼の罪を引き受けて殴られてやる方が屋敷にこれを見よというかのようで全く晴れ晴れとして気持ちが良いのだ」。
 「しかし私はそうして軽部に殴られているうちに今度は不思議にも軽部と私とが示し合せて彼に殴らせてでもいるようでまるで反対に軽部と私とが共謀して打った芝居みたいに思われだすと、却ってこんなにも殴られて平然としていては屋敷に共謀だと思われはすまいかと懸念され始め、ふと屋敷の方を見ると彼は殴られたものが二人であることに満足したものらしく急に元気になって、君、殴れ、というと同時に軽部の背後から彼の頭を続けさまに殴り出した」。
 「すると、私も別に腹は立ててはいないのだが今迄殴られていた痛さのために殴り返す運動が愉快になってぽかぽかと軽部の頭を殴ってみた。軽部は前後から殴り出されると主力を屋敷に向けて彼を蹴りつけようとしたので私は軽部を背後へ引いて邪魔をすると、その暇に屋敷は軽部を押し倒して馬乗りになってまた殴り続けた」。
 「軽部は暫く屋敷を殴っていてから私が背後から彼を襲うだろうと思ったのか急に立上ると私に向かって突っかかって来た。軽部と一人同志の殴り合いなら私が負けるに決っているのでまた私は黙って屋敷の起き上って来るまで殴らせてやると、起き上って来た屋敷は不意に軽部を殴らずに私を殴り出した」。
 「結局二人から、同時に殴られなかったのは屋敷だけで一番殴られるべき責任のある筈の彼が一番うまいことをしたのだから私も彼を一度殴り返すぐらいのことはしても良いのだがとにかくもうそのときはぐったり私たちは疲れていた」。
 「屋敷がいうにはどうもあのとき君を殴ったのは悪いと思ったが君をあのとき殴らなければいつまで軽部に自分が殴られるかもしれなかったから事件に終りをつけるために君を殴らせて貰ったのだ、赦してくれという。実際私も気附かなかったのだがあのとき一番悪くない私が二人から殴られなかったなら事件はまだまだ続いていたにちがいないのだ」。
 主人が製品の代金を受け取ったが、代金を全部落としてしまいます。横光利一は「その間に一つの欠陥がこれも確実な機械のように働いていたのである」と表現しています。
 給金がもらえなくなった三人は自棄酒を飲みます。「その夜私たち三人は仕事場でそのまま車座になって十二時過ぎまで飲み続けたのだが、眼が醒めると三人の中の屋敷が重クロム酸アンモニアの残った溶液を水と間違えて土瓶の口から飲んで死んでいたのである」。屋敷の死因を考えてゆくうちに、「彼を生かしておいて損をするのは軽部よりも私ではなかったか。いや、もう私の頭もいつの間にか主人の頭のように早や塩化鉄に侵されてしまっているのではなかろうか。私はもう私が分らなくなって来た。私はただ近づいて来る機械の鋭い先尖がじりじり私を狙っているのを感じるだけだ。誰かもう私に代って私を審いてくれ」。
 横光利一は、この『機械』で、「新感覚派的手法を脱却して新しく心理派的傾向を示した」とされています。
 私は、喧嘩というものは、理屈ではしないものです。感情的だから、相手を殴ってしまうのです。このように分析し、理屈をつけて、殴り合いをする人間を気味悪く思います。それを作品にする横光利一も気味悪い作家なのでしょうか。
 次は、横光利一と生涯の友であったノーベル賞作家の川端康成の『雪国』を取り上げます。
 冒頭は有名な「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった」で始まります。
 汽車が越後湯沢駅に到着したとき、同時に降りた乗客に葉子という若い娘と病人と思われる男がいました。その葉子たちを駅まで迎えに出ていたのが、駒子でした。
 この年の5月、無為徒食の島村は、親の財産で気ままな生活していたので、自分自身と自然に対する真面目さを失わないように、山に入ったりしていました。山の温泉場から宿に戻った島村は、芸者を呼びましたが、出てきたのは、三味線と踊りの師匠のところにいる娘で19歳の駒子でした。
 島村は、その出会いがあって199日ぶりに、越後湯沢で駒子と再会しました。駒子はある家に島村を誘いました。島村は、駒子は蚕のような透明な体で、この部屋に住んでいるのだと思いました。また島村は、汽車で一緒だった葉子と病人らしき男がこの家に住人だということを知りました。葉子は、駒子の許婚の妹だったのです。
 その夜のマッサージ師から、駒子は病人らしき男の許婚で、芸者に出て、薬代を稼いでいると聞かされました。やがて、酔った駒子が島村の部屋にやってきました。島村の部屋で朝を迎えた駒子は、自分の家に帰らず、島村の部屋で三味線の稽古をしました。
 東京に帰る島村を駒子は駅まで見送りにきました。そこへ、葉子は、駒子の許婚で、自分の兄が危篤なので、早く帰ってきてほしい」とやってきました。しかし、駒子は「人の死を見るのはいやだ」と言って帰らず島村の乗っている汽車を見送りました。
 島村は、3年後、三度、この温泉場にやってきた。その間、駒子の許婚が亡くなっていました。それもあってか、駒子は、激しく体を島村に投げつけてきました。しかし、島村は、今度、東京の妻子の元に帰ったら、もうこの温泉場へは来れないだろうと考えていました。
 そんな時、映画をしていた繭倉が火事になりました。島村と駒子は、手を握り合って、現場に駆けつけました。繭倉の二階から葉子が投げ出されました。葉子の体を抱き上げた駒子の姿は、自分の犠牲か刑罰を抱いているように島村には写りました。
 『雪国』は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた」という有名な冒頭の部分があります。しかし、「日本国内で汽車に乗ってトンネルくぐるってだけなのに、なんで国境というのか」と不思議がる若者がかなりいます。こういう人が、「『雪国』は良かった、是非愛読すべきだ」といいます。ブランド志向ということでしょうか。「国境」は「くにざかい」と読み、上野国(群馬県)と越後国(新潟県)の境です。
 私は、『伊豆の踊子』も『雪国』も感覚的にしっくりきません。エリート高校生が気ままに伊豆を旅し、遊んでいて暮らせる妻子ある男が温泉で芸者遊びする物語です。言葉は洗練され、研ぎ澄まされてはいますが、生活実態が全く感じられません。
 その点、『古都』は好きです。「山は高くも、そう深くもない。山の頂にも、ととのって立ち並ぶ、杉の幹の一本一本が、見上げるほどである」という表現はさすがです。北山杉を育てる職人に双子の姉妹が誕生しました。田舎では、双子は縁起が悪いと思われていました。姉の千重子は、室町筋の大きな呉服問屋の前で捨てられ、そこで拾われ、「いとさん」として成長します。妹の苗子は、北山杉の杉皮をはぐ山の娘として成長します。そして、祇園祭の夜、姉妹が出会うのです。ここには生活が感じられます。TV映画では、姉と妹役を上手にこなす上戸彩が印象に残りました。
 横光利一と川端康成の共通点は、生活実態の薄い、心理的描写力に秀でたということでしょうか。私の知人で、横光利一派が2人いますが、偶然、生活観の少ない、どこか浮遊している点が似ています。この辺を知ると、新感覚派が理解できるのかもしれませんね。
 横光利一と川端康成の違う点は、横光利一は『旅愁』を戦前・戦後と書き連ねましたが、結局挫折しています。時代によって、哲学にブレがあったのです。川端康成も、『雪国』を戦前・戦後と書き連ねましたが、こちらは完成し、ノーベル賞受賞の1つにまで育て上げました。時代が変わっても、時代に左右されない哲学を持っていたのでしょう。
 有名な評論家臼井吉見の小説に『事故のてんまつ』というのがあります。川端康成のガス自殺前の半年間を描いたフィクションです。私も当時、一気に読み上げたものです。
 話は、お手伝いにきていた高校を卒業したての娘さんに振られて、自殺したというものです。これも新感覚派なのかと、思ってしまいました。
 事件は、その後、川端家から販売差止めの民事訴訟が出され、臼井吉見が謝罪し、和解が成立しました。その結果、臼井吉見は、ノーベル受賞作家を誹謗・中傷したということで、文壇から姿を消しました。

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