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エピソード

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大衆演劇(新劇、新国劇、新派劇)
 ここでは、演劇と絵画を取り上げます。
 私は、大学生時代から、様々な分野の、色々な内容の演劇を見てきました。
 ある生徒が登場するまでは、演劇部の生徒が「演劇関係の大学に進学したい」と相談に来ると、「夢を果たすのもいいかも知れないね」と無責任な応対をしていました。
 ある生徒が、入学してきました。入学早々には、どの学校でも、合宿形式で、1週間近いオリエンテーションを行います。最終日の前夜には、クラス対抗の出し物をします。その生徒は、自分でシナリオを書き、クラス仲間に演技指導し、自分が主役を務めました。400人の生徒を前に、拍手大喝采の演劇をやってのけました。
 彼が2年生になりました。1200人の全校生の前で文化祭が行われました。吹奏楽部の演奏の後、次の準備までにかなり時間がかかります。せっかく盛り上がった雰囲気を壊さないようにと、生徒会が考えてことは、彼を起用することでした。彼は、文化祭のパンフレットを持って壇上にあがり、「…ただいま奈良県の○○さんからこのようなお便りが来ました…」という感じで、即興で15分の幕間を爆笑の渦で包んでいきました。
 彼が3年生になりました。時間をかけて、丁寧な舞台を教室につくり、再々演までしました。
 彼の名は、「ゼンジロウ」です。本名は金谷善次郎です。そんな彼もブームが去り、今はあまりTVで見なくなりました。それほど、演劇の世界は厳しいのです。彼と出会って以来、趣味として演劇をするのはいいが、プロとしてやっていくには、「それだけの芽がない」と彼を引き合いに出して説得しています。
 この時代の演劇は、新劇と新国劇と新派劇の3つと大衆演劇がありました。
 新劇とは、旧劇(歌舞伎)や新派劇(書生芝居)の商業主義に対して、ヨーロッパの近代的な翻訳劇を中心に、芸術至上主義を目指しました。
 1906(明治39)年、新劇は、坪内逍遥島村抱月らが設立した文芸協会がそのはじまりです。
 1909(明治42)年、小山内薫2世市川左団次らが研究劇団の自由劇場を設立しました。
 1913(大正2)年、島村抱月は文芸協会を脱会して、女優の松井須磨子らと芸術座を結成しました。『人形の家』・『復活』などが有名です。特に、松井須磨子は、『人形の家』のノラ役や、『復活』では劇中歌である「カチューシャの唄」を歌い、絶大な人気を得ました。
 1918(大正7)年、島村抱月が病死しました。
 1919(大正8)年、松井須磨子は、「カルメン」に出演中、後追い自殺をしました。
 1924(大正13)年、小山内薫・土方与志らは、新劇運動の拠点として、築地小劇場を建設しました。その特徴は、荒唐無稽でない現実的な内容と緻密な演出が必要な小劇場にあります。森鴎外訳のイプセン『ジョン=ガブリエル=ボルクマン』を公演しています。知識階層の歓迎を受けました。
 小山内薫の死後、築地小劇場はプロレタリア演劇へと変貌を遂げました。
 新劇は、戦後も宇野重吉杉村春子ら重厚な役者に支えられ、多くのタレントを輩出しました。
 私が知っている新国劇は、辰巳柳太郎氏が私の務めていた赤穂市出身であるということです。もう1つは、私の好きな俳優の1人である緒方拳さんが新国劇の出身だということです。
 新国劇を創始した人が、沢田正二郎(俗称して沢正=さわしょう)です。沢田正二郎は、坪内逍遙らが設立した文芸協会で修行しました。しかし、沢田は物足らなさを感じていました。
 1917(大正6)年、沢田正二郎は、従来の新劇とは異なる剣劇的な要素を取り入れた大衆本位の国民劇を樹立しました。坪内逍遥は沢田の劇団に「新国劇」と名づけました。『国定忠治』・『月形半平太』・『大菩h峠』などが、新国劇の当たり芸となりました。
 1923(大正12)年、島田正吾は、新国劇に入団しました。
 1927(昭和2)年、辰巳柳太郎は、大阪の浪花座で公演していた新国劇を見て感動しました。辰巳はすぐに、沢田正二郎に直談判して入団しました。芸名は、自分の生まれた巳年と沢田の生まれた辰年からとり、辰巳としました。
 1929(昭和4)年、沢田正二郎は、新橋演舞場で開演中に倒れて、そのまま亡くなりました。時に36歳という若さでした。支配人の俵藤丈夫は、島田正吾と辰巳柳太郎の2枚看板で、沢正亡き後の新国劇を盛り立てることを考えました。辰巳は荒技が得意で『国定忠治』・『月形半平太』を当たり役にし、島田は技巧が得意で『一本刀土俵入り』・『瞼の母』を当たり役としました。
 1987(昭和62)年、時代の流れに逆らえず、看板役者の緒方拳らが退団し、新国劇は解散しました。
 この時、辰巳柳太郎は、「新国劇をなくしたことは、沢田先生に対しまことに申しわけない。それでも先生の没後60年近く支えてこられたのは島田正吾のおかげだ。…あいつのほうが8か月ほど遅く生まれたが、人間的にはずっと大人だなあ」と語っています。
 その島田正吾は、「時勢に負けました。でも、誇り高く負ければ、意義も価値もあります」でいってます。
 次は新派劇を取り上げます。
 新派劇は、自由民権運動時代の書生芝居の系譜を引き、旧派(歌舞伎)に対して、新派といわれます。
 新劇と違って、演題が尾崎紅葉の『金色夜叉』、泉鏡花の『高野聖』・『婦系図』、徳富蘆花の『不如帰』など日本的なものをテーマに、女形芸で家庭悲劇を描くことを特徴としています。
 1899(明治32)年、川上音二郎が妻の川上貞奴を女優にし、欧米に巡業して話題をよびました。
 1921(大正10)年、花柳章太郎は、伊志井寛らと新劇座を結成しました。
 1924(大正13)年、新劇から出発した水谷八重子らが第二次芸術座を結成し、『何が彼女をさうさせたか』を上演しました。この結果、水谷らは、松竹と提携することに成功しました。
 1936(昭和11)年、井上正夫は、新派劇でもない新劇でもない中間演劇を目指して、井上演劇道場を結成し、岡田嘉子らの女優陣や新劇の村山知義杉本良吉らを演出に迎えました。岡田嘉子と杉本良吉は、これが縁でソ連に亡命したことで有名です。
 1938(昭和13)年、花柳章太郎が迎えた川口松太郎は、高橋お伝を描いた『明治一代女』を上演しました。
 1949(昭和24)年、井上正夫は、井上演劇道場を解散し、伊志井寛らの新作座と合同して、劇団新派を結成しました。水谷八重子は滝沢修、花柳章太郎は森雅之らと競演して、評判になりました。東京築地の新橋演舞場を拠点に、京塚昌子金田竜之介安井昌二水谷良重波乃久里子らも新たに参加して、人気を博しました。
 その後、第一線の花柳章太郎・水谷八重子らが亡くなると、人気は凋落しました。水谷八重子の娘の水谷良重が二代目水谷八重子をついたのでは、人気を挽回することは出来ません。
 ここからは、絵画を取り上げます。
 1887(明治20)年、校長の岡倉天心(25歳)とフェノロサ(35歳)は、西洋美術を除外して、東京美術学校を設立しました。た授業内容を決定しました。
 1889(明治22)年、浅井忠らは、東京美術学校の対抗して、明治美術学校を設立しました。
 1896(明治29)年、黒田清輝(31歳)も、東京美術学校の対抗して、白馬会を設立しました。
 1898(明治31)年、岡倉天心とその弟子橋本雅邦らは、日本美術院を創立しました。
 1902(明治35)年、浅井忠門下の満谷国四郎は、白馬会に対抗して、太平洋画会を設立しました。
 1906(明治39)年、浅井忠(51歳)は、京都に関西美術院を設立しました。
 1907(明治40)年、文初の官選の美術展として文部省美術展覧会文展)を開催しました。
 1912(明治45)年、岸田劉生は、高村光太郎萬鉄五郎らと、ゴッホやセザンヌのなど新印象主義の画風の影響が強いヒュウザン会を結成しました。
 1914(大正3)年、梅原龍三郎らは、二科会を結成しました。
 1914(大正3)年、横山大観は日本美術院を再興して、近代絵画としての新しい様式を開拓しました。
 1915(大正4)年、岸田劉生・木村荘八中川一政らは、草土社第1回展を開きましたです。
 1919(大正8)年、帝国美術院が新設され、帝国美術院美術展覧会帝展)に改組されました。
 1922(大正11)年、日本美術院の洋画部脱退派と二科会の梅原竜三郎らは春陽会を設立しました。
沢田正二郎、松井須磨子
 1923年9月1日、沢田正二郎が率いる新国劇の座員が車座になって差し入れの寿司を食べていた時に、警察官に花札賭博の現行犯で誤認逮捕されました。その時、若い座員が警察官を殴ってしまいました。沢田正二郎も座長ということで、刑事の尋問を受けました。沢田は尋問している刑事に、「正義の士をそんなふうに扱ったりすると、天変地異がおこりますぞ」と脅かしました。その後、関東大震災が勃発したということです(戸板康二『ちょっといい話』)。
 昔、『殺陣師段平』(1950年)という映画を見たことがあります。改めて当時のパンフレットを見ると、監督は、マキノ雅弘です。脚本は、のち『羅生門』などの日本を代表する監督となった黒澤明となっています。沢田正二郎役に市川右太衛門、段平役に月形龍之介、その妻役に山田五十鈴という顔ぶれです。
 ストーリーは、沢田正二郎に頼まれ、新しい殺陣を考案しようと苦悩する殺陣師段平の物語です。
 私が学生時代、下宿していたのが、ある女優さんの家でした。「新国劇に人に殺陣の指導をして頂きました」という話を思い出します。殺陣は新国劇のお家芸だったのですね。
 1886(明治19)年、小林正子は、長野県で誕生しました。
 1901(明治36)年、小林正子(17歳)は、結婚しました。
 1902(明治37)年、小林正子(18歳)は、離婚しました。
 1903(明治38)年、小林正子(19歳)は、女優への決意をし上京しました。
 1908(明治41)年、小林正子(22歳)は、東京俳優養成所の講師である前沢誠助と再婚しました。彼女は17歳から22歳までの5年間に結婚・離婚・再婚を繰り返しています。恋多き女性?でしょうか。当時としては、破廉恥な女性として有名だったことでしょう。
 1909(明治42)年、小林正子(23歳)は、文芸協会付属演劇研究所に第1期生として入所し、坪内逍遥・島村抱月らの指導を受けました。
 1910(明治43)年、小林正子(24歳)は、演劇に専念するためと称して、前沢誠助と離婚しました。
 1911(明治44)年5月、小林正子(25歳)は、芸名を松井須磨子と改め、帝国劇場で、文芸協会第1回公演の『ハムレット』のオフェリア役を演じ、新劇女優として名声を得ました。
 11月、松井須磨子は、帝国劇場で、イプセン作・島村抱月訳・演出の『人形の家』でノラ役を演じ、好評を得ました。
 1912(明治45)年、松井須磨子(26歳)は、妻子のある島村抱月(41歳)と恋愛関係になり、文芸協会から除名されました。
 1913(大正2)年、島村抱月は、早稲田大学教授を辞職して芸術座を結成し、松井須磨子も、芸術座に移りました。
 1914(大正3)年、松井須磨子(28歳)は、トルストイの「復活」の主役を演じ、劇中歌の「カチューシャの唄」を歌い、人気を博した。
 1918(大正7)年、島村抱月がスペイン風邪で急死しました。時に、47歳でした。
 1919(大正8)年、島村抱月の命日に、松井須磨子は、「カルメン」に出演中、芸術倶楽部の舞台裏で首をくくって、後追い自殺をしました。時に33歳でした。遺書には、「またご面倒をお願い申さなければなりません。私はやはり後を追います。…墓だけを一緒にして頂きますよう幾重にもお願い申し上げます。同じ所に埋めて頂くようくれぐれもお願い申し上げます」とありました。
 松井須磨子が歌ったという「カチューシャの唄」を紹介します。
 作詞は、島村抱月で、中山晋平が作曲しています。
「1.カチューシャ可愛や別れのつらさ せめて淡雪とけぬ間と 神に願いを(ララ)かけましょか  
 2.カチューシャ可愛や別れのつらさ 今宵ひと夜にふる雪の 明日は野山の(ララ)路かくせ
 3.カチューシャ可愛や別れのつらさ せめて又逢うそれまでは おなじ姿で(ララ)いてたもれ
 4.カチューシャ可愛や別れのつらさ つらい別れの涙の隙に 風は野を吹く(ララ)日は暮れる 
 5.カチューシャ可愛や別れのつらさ 広い野原をとぼとぼと ひとり出て行く(ララ)明日の旅」
 私の家にも、復刻版ではありますが、松井須磨子が歌っている「カチューシャの唄」のレコードがあります。

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