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エピソード

276_03

パール判事と日本無罪論(2)
 私は、歴史修正主義者の主張は、いずれ破綻すると思っています。
 ある史料を使うことは同じですが、自分の都合のいい史料は使うが、自分の主張と異なる史料は排除するというい性格があるからです。歴史修正主義者は、学者であったり、評論家であったり、すなわち専門家ですので、一般人にはなかなかボロを出しません。
 しかし、根拠となる史料が分れば、排除している史料が何かが分ります。
 最も、露骨に検証されたのが、パール判事の日本無罪論です。
 残念ながら、1952年に、田中正明氏が刊行した@『日本無罪論-真理の裁き』(太平洋出版会)は絶版で、手に入りません。2007年に、北大准教授中島岳志氏が刊行したA『パール判事-東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社)にその一部が紹介されています。
 1963年に、田中正明氏が刊行した『パール判事の日本無罪論』(彗文社)は、現在、B『パール判事の日本無罪論』(小学館文庫)として入手できます。
 1966年に刊行されたC『共同研究パル判決書』(東京裁判研究所)は、現在、『共同研究パル判決書』(講談社学術文庫)として入手できます。
 1963年に、田中正明氏が刊行したB『パール判事の日本無罪論』を紹介します。
 田中氏は、パール判事の原文をそのまま表示するのではなく、必要な部分を、抜き出して解説しています。
 まず、東京裁判が扱う管轄権についてです。
 Bつぎに問題は、一九三七年七月七日の虚構橋事件をもって開始されたいわゆる日中事変が、本裁判所の管轄権内に入るかどうかという問題である。弁護人側は、日本が中国に宣戦を布告したのは一九四一年十二月九日であり、したがってそれ以前の敵対行為の過程において犯されたと主張している罪は、本裁判所の管轄権外にあることを主張している。
 これに対してパール博士は「連合国がカイロならびにポツダム宣言中に戦争″という語を用いたのは、それによって一九四一年十二月七日(日本では八且に開始された、宣言三当事国(米・中・ソ)が共同で遂行しつつあった戦争を指すものにすぎず、したがって、降伏もただこの戦争を終止させるものと考えられねばならないとする弁護側の主張は、きわめて有力である。したがって、本裁判所の管轄権は、右の戦争中の、またはこれに関連する行為に限られなければならない」と判定を下している(163P)。
 ポツダム宣言の当事国中の二カ国である中国と米国は、いずれも真珠湾攻撃までの中国における敵対行為を「戦争」とはしなかったのである。それが後になって、実はあれは戦争であったと宣言し、その戦争行為を裁くというのでは筋が通らない。パール博士はこの点を指摘して、「本裁判所における管轄権は、一九四一年十二月七日以降、日本降伏までの間に起きた、いわゆる太平洋戦争中の戦争犯罪に対してのみ限定すべきである」と主張するのである(165P)。
 それ(B)への反論として、田中正明氏が1952年に刊行した@『日本無罪論-真理の裁き』(太平洋出版会)と、
C『共同研究パル判決書』(東京裁判研究所)の内容を紹介します。
 @パール判事は、結論として虚構橋事変以後の敵対行為を含めることが妥当であろうという見解をのべている。
 C本官は一九四五年九月二日の日本の降伏をもって終った中国との戦争は、一九三七年七月七日に盧溝橋事件をもって開始されたという主張には大した困難をともなわないと思う(下513P)。
 次に南京事件を検証します。1937年12月14日から約6週間にわたって行われた南京城の城内・城外の掃討でも、大規模な残虐行為が行われたと言われている。城内は主に第16師団(師団長:中島今朝吾)が掃討を行った。東京裁判では、中支那方面軍司令官であった松井石根(当時、陸軍大将)が、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となった。
 Bでは、次の様に記述されています。
 一、それでも松井大将は南京攻略を前にして、全軍に対し「南京は中国の首都である。これが攻撃は世界的事件であるゆえに、慎重に研究して日本の名誉を一層発揮し、中国民衆の信頼を増すようにせよ。…できうるかぎり一般居留民ならびに中国民衆を紛争に巻き込まざるように常に留意し、誤解を避けるため外国出先当局と密接なる連絡を保持せよ」と詳細なる訓令を出した。塚田参謀長ほか十六名の参謀は右の訓令を全軍に伝えた。
 一、前記の訓令と同時に「南京城の攻略および入城に関する注意事項」が伝達された。それには軍規風紀の厳正を伝え、外国の権益を侵した者、掠奪行為や火を失する者は厳重に処罰すべしと命じた。
 一、十二月十二日南京は陥落し、病気中の松井大将は十二月十七日に入城した。そして軍規風紀に違反のあった旨の報告を受けた。
 一、そこで松井大将は、軍規風紀に違反した第十軍を蕪湖方面に引き返させ、南京警備のため第十六師団のみを残留させた。そしてさらに、先の命令の厳重なる実施を命じた。
 一、みずから上海に引き揚げた松井大将は、南京警備のために残した部隊に不法行為のあることを聞き、三度、軍規風紀の粛正ならびに違反者の厳罰、損害の賠償を訓令した。
 「かように措置された松井大将の手段は効力がなかった。しかし、いずれにしてもこれらの手段は不誠意であったという示唆にはならない。本件に関連し、松井被告が法的責任を故意かつ不法に無視したと見なすことはできない。検察側は、処罰の数が不十分であったことに重点を置いているが、方面軍には違反者を処罰することを任務とする係官も法務部も配置されていなかった」と具体的に無罪の根拠を明らかにしている。
 松井大将もこれで初めて晏如として地下に眠ることができよう。
*解説(松井石根氏の私設秘書である田中正明氏は、松井氏の無罪の証明しようとして、パール判事の判決書をほぼそのまま引用しています。しかし、そこに歴史修正主義者の落とし穴がありました。南京における軍規風紀に違反する行為や不法行為があったことを暴露してしまったのです。田中正明氏の日本無罪論を引用する一部の学者や評論家が、南京事件はでっち上げだと声高に主張しています。逆に田中氏が彼らの足を引っ張っている図です)
 CからBと同じ部分を引用しました。
 十二月五日、中支方面軍司令部は南京から二四〇マイル離れた蘇州に移った。松井大将は当時病気であったが、かれは、重要問題については参謀と協議のうえ病床で決裁した。
 十二月七日、上海派遣軍にたいして別の司令官が任命された。したがって、その日以後松井大将は中支方面軍司令官であって、それは一司令官の指揮下にある第十軍と、いま一人の司令官の指揮下にある上海派遣軍から組織されていた。
 南京を攻撃せよという大本営の命令を実施する以前に、松井大将は日本軍にたいして、以下の要旨の命令を示した。すなわち、「南京は中国の首都である。これが攻略は世界的事件であるがゆえに、慎重に研究して日本の名誉をいっそう発揮し、中国民衆の信頼の度を増すようにせよ。上海周辺の戦闘は支那軍を屈服せしめるをその目的とするものなり。できうるかぎり一般官民はこれを宣撫愛護せよ。かつ軍は外国一般居留民ならびに軍隊を紛争に巻き込ましめざるようつねに留意し、誤解を避くるため外国出先当局と密接なる連絡を保持すべし」。

 ここにおいて飯沼派遣軍参謀長らは、松井大将磨下の将兵にたいして、ただちに、前述の命令を伝えた。塚田中支方面軍参謀長は、部下六名の参謀とともに左記要領の命令を準備した。
 一、中支方面軍は南京城を攻略せんとす。
 二、上海派遣軍ならびに第十軍は南京攻略要領に準拠し南京を攻略すべし。
  右に言及した南京攻略に関する命令の要点は左のとおりである。
  一、両軍(上海派遣軍および第十軍)は、南京城外三、四キロの線に進出したときは停止し、南京城攻略を準備する。
  二、十二月九日飛行機で南京城内の中国軍に断僻整憲を配軒する
  三、中国軍が降伏した場合には、各師団から選抜した二、三個大隊と憲兵だけを城内に入れ、地図に示した担任区域の警備をする。とくに図示された酵酢樅出または文化施設の保護を完うすること。
  四、中国軍が降伏勧告に応じない場合には、十二月十日午後から攻撃を開始する。この場合にも城内に入る部隊の行動は前記と同様に処置し、とくに軋野郎紆を蹴献正し、すみやかに城内の治安を回復する。

 上記の命令を作ると同時に、「南京城の攻略および入城に関する注意事項」と題する訓令
が作成された。その要旨は次のとおりである。すなわち、
一、皇軍ガ外国ノ首都ニ入城スルハ有史以来ノ盛事ニシテ、永ク竹帛ニ重ルベキ事績タルト世界ノ斉シク注目シタ  ル大事件タルニ鑑ミ、正々堂々将来ノ模範タルベキ心組ヲモッテ各部隊ノ乱入、友軍ノ相撃、不法行為等絶対ニ  ナカラシムベシ。
二、部隊ノ軍規風紀ヲトクエ厳重ニシ、中国軍民ヲシテ皇軍ノ威風ニ敬仰帰服セシメイヤシクモ名誉ヲ毀損スルガゴト キ行為ノ絶無ヲ期ス。
三、別ニ示ス要図ニモトヅキ、外国権益、コトニ外交機関ニハ絶対ニ接近セザセザルハモチロントクニ外交団ノ設定 シタル中立地帯ニハ、必要ノ外立入リヲ禁ジ、所要ノ地点ニ歩哨ヲ配置スベシ。マタ城外ニオケル中山陵ソノ他革 命志士ノ墓オヨビ明考陵ニハ立入ルコトヲ禁ズ。
四、入城部隊ハ師団長がトクニ選抜シタルモノニシテ、アラカジメ注意事項、トクニ城内ノ外国権益ノ位置ヲ徹底セシ メ絶対ニ過誤ナキヲ期シ、要スレバ歩哨ヲ配置スベシ。
五、掠奪行為ヲナシマタ不注意トイエドモ火ヲ失スルモノハ厳重ニ処罰スベシ。軍隊ト同時ニ多数ノ憲兵オヨビ補助  憲兵ヲ入城セシメ、不法行為ヲ防止セシムベシ。

 十二月十七日松井大将は南京に入城して、初めて、あれほど巌戒したのにかかわらず、軍規風紀違反のあったむねを報告によって知った。かれはさきに発した命令の厳重な実施を命じ、城内にある軍隊を城外に出すことを命じた。塚田参謀長および部下参謀は、南京城外の宿営地を調査したところ、関係場所は軍隊の宿営に不適当なことを知った。
 よって十二月十九日、第十軍は上海派遣軍のいた蕪瑚方面に引返した。第十六師団だけが南京警備のために残され、他の部隊は逐次、揚子江の北岸および上海方面に撤退するように命令された。

 松井大将が部下の参謀とともに上海に帰還した後、大将は南京において日本軍の不法行為があるむねの噂をふたたび聞いた。これを聞いて同大将は、部下の一参謀に十二月二十六日または二十七日、つぎのような訓令を上海派遣軍参謀長に伝達させた。すなわち、
 「南京デ日本軍ノ不法行為ガアルトノ噂ダガ、入城式ノトキモ注意シタゴトク、日本軍ノ面目ノタメニ断ジテ左様ナコトガアツテハナラヌ。コトニ朝香宮ガ司令官デアラレルカライッソウ軍規風紀ヲ厳重ニシモシ不心得者ガアツタナラ厳重ニ処断シマタ被害者ニタイシテハ賠償マタハ現物返還ノ措置ヲ講ゼラレヨ」。
 かように措置された松井大将の手段は効力がなかった。しかしいずれにしてもこれらの手段は不誠意であったという示唆はない。この証拠によれば、本官は松井大将としては本件に関連し、法的責任を故意かつ不法に無視したとみなすことはできない
*解説(田中正明氏は、パール判事は「松井大将に対しては無罪の根拠を明らかにしている」と記録していますが、パール判事の原文では「法的責任を故意かつ不法に無視したとみなすことはできない」と記録されています。法律に素人の私は、この違いは分りません。
 南京事件については、南京に入城した時の記述は同じですが、上海での噂になると、Bの日本無罪論では「不法行為のあることを聞き」となっていますが、Cの原文では「不法行為があるむねの噂をたびたび聞いた」となっています。表現はともかく、田中氏もパール判事も南京事件の事実を認めています)
 日本人は、南京事件を東京裁判で初めて知りました。それだけに、強大な衝撃を与えました。Wikipediaなどをもとにその人数と主張している人々を紹介します。
(1)中国の孫宅巍氏(江蘇省社会科学院研究員)や高興祖氏(南京大学教授)が30万人説を主張しています。
(2)笠原十九司氏(都留文科大学教授)・洞富雄氏(元早稲田大学教授)・藤原彰氏(元一橋大学教授)・吉田裕氏
(一橋大学大学院教授)・本多勝一氏(元朝日新聞記者)らは、日本軍の戦闘記録やラーベの日記・埋葬記録などから10万〜20万人説を主張しています。
(3)秦郁彦氏(日本大学講師)は、『南京事件』(中公新書)で、市民と兵士の虐殺総数を3万8000人〜4万2000人と主張しています。
(4)板倉由明(元南京戦史編集委員)は虐殺総数を8000人と主張し、原剛(防衛研究所調査員)・中村粲(獨協大学教授)らは、数千人説を主張しています。
(5)鈴木明(元ノンフィクション作家)・田中正明(元私設秘書)・東中野修道(亜細亜大学教授)・冨澤繁信(新しい歴史教科書を作り会)・勝岡寛次(明星大学戦後教育史研究センター)・渡部昇一(上智大学名誉教授)らは、虐殺を完全に否定しているか、虐殺されても仕方がない便衣隊(ゲリラ)だったと主張しています。
(作る会会員)、(作る会と決別した八木秀次氏らの日本教育再生機構)
 そのほか、櫻井よしこ氏は、『諸君!』(2002年1月号)で、「南京虐殺の虚構」として、次の様に発言しています。
 「ちょうど、1年前に本誌(2001年2月号)が南京事件の特集を組んだ時、アンケートに応えたことがあります。南京で日本軍が虐殺(不法殺害)した中国人の数は何人ぐらいかという問いには、「1万人前後」ではないかとか指摘しました。でも、この本(立命館大学教授の北村稔氏の『「南京事件」の探究』)を1年前に読んでいたら、日本軍が虐殺したとされる中国人はもっと少なかったと判断したと思います。
*解説(多い少ないは別として、櫻井よしこ氏は、虐殺1万人弱と認めています。
 1968年3月16日、ベトナムのクアンガイ省のソンミ村で、ベトナム人がアメリカ兵によって殺害されました。これをソンミの大虐殺事件といいます。504人が殺されて、大虐殺ですよ。人数は関係ありません。虐殺は虐殺なのです。
 南京事件は、ヒトラーのホロコーストとは質や規模が違うという人々がいます。武士道とは恥を知る文化です。私は恥を知れ!と叫びたい)
 小林よしのり氏は、『いわゆるA級戦犯』(2006年6月)で、「松井石根」と題して、次の様に発言しています。
 「老将軍が、「A級戦犯」として逮捕された。その罪状の名は「南京暴虐事件」。俗に言う「南京大虐殺」である。
 では実情はどうだったのか。真相に迫るには、東京裁判でどんな立証がされたか検証すればよい。出廷した証人9名、宣誓供述書や陳述書による証言17名、その他の文書日通、以上合計37の証言・文書が、検察が提出した全証拠である。
 証言は裏づけのない伝聞が多数。体験談も、数万規模の虐殺が行われたはずなのに、同一現場からの複数の証言が一組もなく、なぜかほとんどの殺教事件で、常にたった一人の人間だけが、妙に似たような方法で生き残り、証言している。
 検察は、冒頭陳述で「組織的・計画的犯行」と主張したが、その証拠はついに提出できなかった。つまり、仮に南京で虐殺があったとしても、それはアウシュビッツや広島・長崎とは全く性格が違う、個人的・暴発的犯行に留まるのである。
 ところが、松井は南京の暴行事件を完全には否定せず、「興奮した一部若年将兵の間に忌むべき暴行を行った者があったらしく」と、一部を認めた。ただしそれはどこの占領地でも起こる軍紀違反の犯罪のことであり、検察が主張する「大虐殺」までは決して認めていなかった。それでも松井が認めた少数の「暴行事件」と検察の言う「大虐殺」の区別はよく伝わらず、反証が弱いという印象を与えてしまった。
 判決は弁護側の証拠のほとんどを却下し、検察側の証拠はほぼ全て採用し、指揮官の松井に虐殺を止める有効な対策を命じなかった「不作為責任」があるとして死刑を言い渡した。
 松井は最後まで、自分がナチスに匹敵する「人道に対する罪」を被せられたとは思っておらず、ただ明治の日本軍を知る古い軍人として、僅かな軍紀の弛みも許しがたく、痛恨の一大事と認識していたのだ。だがその潔癖さがかえって誤解を生み、「大虐殺」を認めたかのように思われてしまった」。
*解説小林よしのり氏は、「仮に南京で虐殺があったとしても、個人的・暴発的犯行」であったと主張しています。これは渡部昇一氏と同じ主張です)
10  次に、この文章を読んでいただこう。誰が書いたか、お分かりになるでしょうか。
 「日本が満州事変いらい十数年にわたって中国を侵略し、南京事件をふくめ中国国民に多大の苦痛と損害を与えたのは、厳たる歴史的事実である。それにもかかわらず、中国は第二次大戦終結後、百万を越える敗戦の日本兵と在留邦人にあえて報復せず、故国への引きあげを許した。昭和四十七年の日中国交回復に際し、日本側が予期していた賠償も要求しなかった。当時を知る日本人なら、この二つの負い目を決して忘れていないはずである。それを失念してか、第一次史料を改竄してまで、「南京大虐殺はなかった」といい張り、中国政府が堅持する「三十万人」や「四十万人」という象徴的数字をあげつらう心ない人々がいる。もしアメリカの反日団体が日本の教科書に出ている原爆の死者数が「多すぎる」とか、「まぼろし」だとキャンペーンを始めたら、被害者はどう感じるだろうか。数字の幅に諸論があるとはいえ、南京で日本軍による大量の「虐殺」と各種の非行事件が起きたことは動かせぬ事実であり、筆者も同じ日本人の一人として、中国国民に心からお詫びしたい。この認識なしに、今後の日中友好はありえない、と確信する」

 これは秦郁彦氏が書いた『南京事件』(1986年、中公新書)の「あとがき」の文章です。
 秦氏は、この書物の中で、実証的な研究成果として虐殺数四万人説を主張しています。
 秦氏は、2007年夏、21年ぶりに『日本近現代史』(増補版)を刊行しました。その中でも「不法殺害約4万人」説を主張しています。
*解説(秦郁彦氏は、保守の論客であっても、歴史修正主義者と違うのは、実証主義的という点です。富田メモも事実として保守の論客の中で認めています。
 ここで面白いのが、「アメリカの反日団体が日本の教科書に出ている原爆の死者数が「多すぎる」とか、「まぼろし」だとキャンペーンを始めたら、被害者はどう感じるだろうか」という相手を思う心であり、数の多少を論ずるのではなく、虐殺はあったのだから、「中国国民に心からお詫びしたい」。そこから「今後の日中友好」が始まるという確信です。
 実証主義者には、このような謙虚さがあるのですね)
11  次に、修正主義者が引用するパール判事のC主張に耳を傾けてみたい。
(1)本官はすでに曲説か誇張響かに関するある程度の疑惑を避けることのできないある実例について述べた。もしわれわれが、南京暴行事件に関する証拠を厳密に調べるならば、同様の疑惑はこの場合においても、避けられないのである(561P)。
(2)宣伝と誇張をできるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた、戦時俘虜にたいし犯したものであるという証拠は、圧倒的である(566P)。
(3)いずれにしても、本官がすでに考察したように、証拠にたいして悪くいうことのできることがらをすべて考慮に入れても、南京における日本兵の行動は凶暴であり、かつベイツ博士が証言したように、残虐はほとんど三週間にわたって惨烈なものであり、合計六週間にわたって、続いて深刻であったことは疑いない。事態に顕著な改善が見えたのは・ようやく二月六日あるいは七日すぎてからである。
 弁護側は、南京において残虐行為が行われたとの事実を否定しなかった。かれらはたんに誇張されていることを愁えているのであり、かつ退却中の中国兵が、相当数残虐を犯したことを暗示したのである(600P)。
*解説(パール判事は、南京虐殺事件は実際あったと判決書に書いています。
 しかし、日本人の戦犯全員に無罪を主張しました。一体これはどういうことなのでしょうか。凡人である私には中々理解できないことです。悪用されたパール判事の日本無罪論で検証していきます)
悪用されたパール判事の日本無罪論
 何故に、パール判事は日本無罪論を唱えたのか。日本の戦争行為をどう考えていたのか。
 パール判事の本当の願いは何だったのか。
 その多くを中島岳志氏の『パール判事』(2007年、白水社)に頼っています。彼の著作がなければ、この項は存在しなかったでしょう。
 是非、多くの人に読んでもらいたいと思います。
(1)戦争の範囲について、田中正明氏は、南京事件を除外するために「真珠湾攻撃から」を主張しています。
 しかし、パール判事は次の様に規定します。
 「本官は一九四五年九月二日の日本の降伏をもって終った中国との戦争は、一九三七年七月七日に盧溝橋事件をもって開始されたという主張には大した困難をともなわないと思う」(下513P)。
 「もし相手国が一国の武力行使にたいして武力をもって抵抗するならば、戦争は現に存在する。このように戦争とは一つの状態をいうのであり、この状態が、日華間においては、一九三七年七月七日以来存在し、継続したのである。その闘争は、まさに戦争の規模に達していた」(下514P)。
 中島岳志氏は、パール判事が「日中戦争以降の時期を、東京裁判の管轄範囲」とした理由を次の様に書いています。
 「インド独立運動の中心であったガンディーは、日中戦争以降、日本の帝国主義的姿勢に対して厳しい批判を発し続けた。ガンディーは、日中戦争から第二次大戦に至る経緯をファシズムの一貫した流れとして捉えており、それに対して痛烈な批評を加えた。熱烈なガンディー主義者であったパールは、ガンディーの示した認識を共有していた可能性が極めて高い」
*解説(パール判事を理解し、パール判事の判決書を引用する場合、パール判事が崇拝するガンディーを理解しなければいけません。そのガンディーは、日中戦争以降の日本を帝国主義として、厳しく批判していました。その延長上に、パール判事もいたのです。パール判事の利用は「諸刃の剣」だったのです)
(2)次に事後法とパール判事の罪刑法定主義についてです。 
 「検察側が行われたと主張する諸行為に、犯罪性があるかないかは、それらの諸行為のなされた当時に存在した国際法の、諸規則に照らして決定しなければならない」(上257P)。
 「本法廷は一つの国際軍事裁判所として設置されたものである。…われわれが法律による裁判所として行動しかつ国際法の下に行動することにある」(上268P)。
 「勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行うことは敗戦者を即時殺戮した昔とわれわれの時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺するものである。かようにして定められた法律に照らして行われる裁判は、復讐の欲望を満たすために、法律的手続を踏んでいるようなふりをするものにほかならない。それはいやしくも正義の観念とは全然合致しないものである」(上268P)
 「本件において見るような裁判所の設立は、法律的事項というよりも、むしろ政治的事項…という感じを与えるかもしれないし、またそう解釈されても、しかし国際関係においては秩序と節度の再確立に実質的に寄与するものは、真の法律的手続きによる法の擁護以外にありえないのである」(上269P)。
 「戦勝国が任意に犯罪を定義した上で、その犯罪を犯した者を処罰することができると唱えることは、その昔戦勝国がその占領下の国を火と剣をもって揉潤し、その国内の財産は公私を問わずすべてこれを押収し、かつ住民を殺害し、あるいは捕虜として連れ去ることを許されていた時代に逆戻りするにはかならない」(上274P)。
 「国際裁判所はだれによって設置され、まただれによって構成されているとしても、かような征服者の意思表示によってなんら拘束されるものではないという意見をもっている」(上277P)。
*解説(「諸行為のなされた当時に存在した国際法の、諸規則に照らして決定」とは罪刑法定主義の主張で、諸行為を後に作った法律を事後法といいます。パール判事は事後法を否定しています。このことから、無罪判決を悪用する人々は、パール判事が「英米ら連合国を非難して、日本を擁護している」と錯覚します)
 中島岳志氏は、「いかに検察側の主張が戦勝国の政治方針に拘束されていようと、任命された裁判官たちが一人の法律家としての衿持を保ち、毅然として判決を下せば、罪刑法定主義という法の大原則を守ることができる。問題と責任の核心は、裁判を政治的意図に沿って進めさせようとする連合国の政治指導者にあるのではなく、裁判の政治的中立性を保つべき裁判官にこそあると、パールは認識していた。
 パールは、人類が歴史的に築いてきた「法の支配」という文明を、判事に選出された自分こそが死守しなければならないという使命感を強く抱いていた」
(3)どうして、「パール判事の日本無罪論」が日本の行動を擁護していると錯覚したのでしょうか。
 「満州における日本のとった行動は、世界はこれを是認しないであろうということはたしかである。同時にその行動を犯罪として非難することは困難であろう」(761P)。
 「満州の舞台において満州国という狂言を演ずる力も、また、満州の支配権を握る力も日本の「武力」によって獲得されていたのである。国際問題の評論中に述べてあるように、日本陸軍による満州の軍事的征服ならびに占領こそ、一九三二年における日本の満州における地位の真の基礎であった。そして全世界はこれが事実であることを知っていた。日本人はその不当に獲得した利得を保持するために、世界の輿論に抵抗し、かつ世界の不承認から生ずる結果の危険を冒す準備を明らかに整えていた」(上805P)。
 「これはある点では、西洋諸国のやり方を模倣したいという願望にその原因を求めうるということもあろうかと考えられる。この願望とは、明治時代の初期から日本人の心の中に一つの「固定観念」となっていたものである」
(上806P)。
 「日本人は「満州国」という狂言を演じたことについての弁明として、これらの西洋の先例を十分利用するにいたらなかったけれども、日本や西洋の先例が、この線に沿った政策を実際に日本人の心に示唆し、かつ奨励したと推察するのは不当ではないであろう」(上807P)
 「まず最初に、本官は一国が他国の領域内に利権を保有することを是と信ずるものではないといわなければならない。…国家というものは、その占有しようと望むところのものがなくては、とうてい生存しえないと容易に思い込むようになるものらしい。
 真に問題とするところは、はたして国際生活において、このような振舞いが異常なものとして非難されうるものであるかどうかということである。
 日本は、その生存にとって死活問題と考えた若干の「権益」を中国において獲得したのである。ほとんどすべての列強が、同様の利害関係を西半球の領域内において獲得したのであって、かような列強のすべては右の利権がその死活問題であると考えていたもののようである。本官はいまさらここでこれらの権益の獲得の方法を根源にさかのぼって考えてみても、正しい方法によったものはきわめて稀であるといっても過言ではないと思う。その方法がどのようなものであろうと、これらの利害関係は厳として存在したのであって、そして諸列強おいても、パリ条約に署名しながらも、同時にその自衛権の保留をかような権益の保護にまで拡張することは、十分に正当化されるものであると感じたのである。中国における日本の権益に関する権利も、すくなくともわれわれの当面の目的から言えば、右に述べたような標準によって評価されなければならない」(上858P)。
*解説(パール判事は、日本の行動を「是認しない」と言っています。同時に、「犯罪として非難することは困難」とも言っています。日本は、西洋列強の行動を模倣したのであって、西洋列強が、自分たちの行動を模倣した日本の行動は非難できないとパール判事が言っていることが、やっと理解できました)
 中島岳志氏は、日本無罪論について、次の様に表現しています。
 パールは、「本官は一国が他国の領域内に利権を保有することを是と信ずるものではない」と明言した上で、日本と西洋諸国が同じ穴の猪であることを強調する。パール日く、当時の日本は、満州を領有しなければ自国の生活が脅かされるという「妄想」を抱いていた。「どうしてもこれを獲得することができなければ、あたかも死と破壊とに直面するであろうという想像をたくましゅう」していた。そのため、日本は「その生存にとって死活問題と考えた若干の『権益』を中国において獲得した」。このような「妄想」に基く軍事的行為は、そもそも西洋諸国が長年にわたって大規模に繰り返したことであり、日本だけの問題ではない。「ほとんどすべての列強が、同様の利害関係を西半球の領域内において獲得したのであって、かような列強のすべては右の利権がその死活問題であると考えていた」のである。
 パールは、この点において、日本が満州事変を「自衛」と主張する「資格」を有していると論じる。当時の国際社会において、日本が中国における権益を拡大させたことを「自衛行為」であると主張するのは当然であり、それは西洋諸国の悪しき帝国主義の「模倣」に過ぎないとパールは主張したのである。
(4)パール判事は、日本の行動をどう見ているのでしょうか。
 まず南京事件についての判決書の内容です。
 「本件において、提出された証拠にたいしいいうるすべてのことを念頭において、宣伝と誇張をできるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた、戦時停虜にたいし犯したものであるという証拠は、圧倒的である」(下566P)
 「証拠にたいして悪くいうことのできることがらをすべて考慮に入れても、南京における日本兵の行動は凶暴であり、かつベイツ博士が証言したように、残虐はほとんど三週間にわたって惨烈なものであり、合計六週間にわたって、続いて深刻であったことは疑いない」(下600P)。
 その他20箇所について、パール判決書はこのように記録しています。
 「主張された残虐行為の鬼畜のような性格は否定しえない。本官は事件の裏づけとして提出された証拠の性質を、各件ごとに列挙した。この証拠がいかに不満足なものであろうとも、これらの鬼畜行為の多くのものは、実際行われたのであるということは否定できない」(下600)。
*解説(私は、パール博士の原文を読んで、気分を悪くしました。余りにも日本軍の行動を非難しているからです。目を塞ぎたくなります。「凶暴」「鬼畜行為」などと列挙されています。
 今の教科書を自虐史観だと非難する人は、パール判事の指摘も抹殺したいでしょう。しかし、臭い物に蓋をして、新しい歴史を構築できません。日本無罪論は日本軍の行動とセットで考える必要があります)
(5)パール判事の判決書を読んで、彼の理想主義的な考えに接しました。彼は何を望んでいたのでしょうか。
 1952(昭和27)年に来日したパール博士は、10月29日に早稲田大学で、「平和への志向」と題して、次のような演説を行いました。
 「私はここにみなさんにはっきり申上げることのできるのは、この世の中にほんとうの平和を教えたのは、マハトマ・ガンデー一人であるということである。私は世界の指導者のなかで、平和にたいして信頼できる唯一者は聖雄ガンデーであると確信する」。
 10月30日、京都で「世界の恒久平和について」と題して、次のような演説を行いました。
 「私は平和的方法によって、いいかえれば武器に対しても無抵抗主義によってあたるという新しい実験を試みようと提唱する。…無抵抗主義は戦争より以上の勇気を必要とする。日本は武器をもって無類に勇敢だったが、平和憲法を守ることでも無類の勇気を世界に示して頂きたい。伝統的に無抵抗主義を守って来たインドと勇気をもって平和憲法を守る日本と手を握るなら平和の大きく高いカベを世界の中に打ち建てることができると信じる」。
 中島岳志氏は、パール判事の理想と日本の現状をこう分析します。
 「彼はここで、明確に日本の平和憲法を支持し、インドの非暴力主義と連繋することによって世界平和に貢献すべきことを訴えている。彼にとって憲法九条は、日本人が勇気をもって死守すべき重要なものであり、ガンディー主義を明文化した理想の宣言文であった」
 「パールは、アメリカに追随し主体性を喪失した日本人に、厳しい言葉を投げかけ続けた。彼は、当時の日本政府が進めようとしていた再軍備を厳しく批判し、非武装中立に徹するべきことを訴えた。また、日本は平和憲法を護持すべきことを強調し、ガンデイーの非暴力主義との連繋を模索した」。
 「近年、パールの言説を利用する右派論壇は、このようなパールの思想を一切無視している。彼が日本に対して発した渾身のメッセージから目を逸らし、都合のいい部分だけを切り取って流用している。
 パールは、日本人に対して真の自立と独立を訴え続けた。戦争が終わるや否やアメリカの覇権主義を全面的に擁護し、無批判に追随する日本人に対して「自分の眼、自分の頭でものごとを判断していただきたい」と訴えた」。
*解説(パール判事は、判決書を通じて、日本の平和主義とガンディーの非暴力主義を主張していたのです。このことを抜きにしては、日本無罪論は成り立たないということがよく分りました。
 中島氏は、右派論壇が改憲とパール判事の日本無罪論を主張するご都合主義を厳しく糾弾しています)
10 (6)1966(昭和41)年に来日したパール博士は、10月3日に帝国ホテルで、岸信介・賀屋興宣・荒木貞夫らと歓談
した時、次のような発言をしました。
 「あの戦争裁判で、私は日本は道徳的には責任はあっても法律的には責任はないという結論を下しました。法というものは、その適用すべき対象をあれこれと選ぶことが出来ないものです。あれを罰してこれを罰しないということは出来ません」(中島岳志『パール判事』)
11 (7)中島岳志氏は、インドを代表する新聞『インディアン・エクスプレス』紙の「父の名のもとに裏切られた息子」という記事(1998年6月6日付け)を紹介しています。
 「今、一本の映画が東京で上映されている。戦中の日本の総理大臣・東条英機の生涯とその時代を描いたものだ。そして、この映画が、六五歳のあるカルカッタ人の心を傷つけ、憤らせている」
 この息子はパール判事の長男プロサント・パール氏です。東京で上映中の映画とは、「プライドー運命の瞬間」のことです。
 映画関係者が「パール判事とその判決がメインの映画を作りたい」ということで、父の想いをじっくりと伝えました。
 しかし、出来上がった映画は、パール判事の判決が、東条英機の人生を肯定するための都合のいい「脇役」として利用されていました。日本側の窓口は田中正明氏でした。
 パール判事は、日本の戦争を擁護しようとしたのではなく、一法学者として「法の正義」を守ろうとしたのだということを、息子である彼は強く訴えたかったのです。パール判事が渾身の力を振りしぼってまとめ上げた判決書を、自分の政治的立場を補完する材料として利用する者への怒りは、極めて厳しかった。
*解説(確認はしていませんが、インディアン・エクスプレス社の日本支社はあるでしょう。あれば、当然、保守の星であり、「戦後レジームから脱却」して「美しい国」造りを提唱する安倍晋三首相がパール判事の息子を訪問するという情報は入っているでしょう)
12 (8)安倍首相率いる自民党は、7月29日の参院選で歴史的惨敗を喫っしました。8月27日に内閣改造をして失地回復を狙います。その前に、安倍首相は、中韓訪問で、人気を高めたことを教訓に、外遊を計画しました。特に、インドでは、日本無罪論を主張したパール判事の長男と面会することを、起死回生の作戦に据えました。
 8月23日の産経新聞のWEB版は次の様に面会の内容を伝えています。
 「安倍晋三首相は、極東国際軍事裁判(東京裁判)で判事を務めた故パール判事の長男、プロシャント・パール氏と面会し、東京裁判で被告全員の無罪を主張したパール判事の業績をたたえた。…首相には今回の面会を通じ、A級戦犯の合祀を理由に首相の靖国神社参拝を批判する中国とはまったく異なるインドの対応を際立たせることで、アジアには多様な歴史認識が存在することを浮き彫りにする狙いもあった」。
 しかし、この面会は、TVでもほとんど放映されませんでした。インド首相から核不拡散の例外扱いを求められ、安倍首相は「唯一の被爆国として核不拡散体制への影響を注意深く検討する」と答弁しました。フジテレビは、この発言を捉えて、キャスターの小倉智昭氏の「唯一の被爆国として毅然と反対して欲しかった」との発言を取り上げていました。
13 (9)1966(昭和41)年に来日したパール博士は、10月7日、京都を訪問しました。
 「彼は国際会館や大徳寺を見学、嵯峨野の景色を車中から眺めつつ 「出来たら余生をこういうところで送りたい」と漏らしたという。このエピソードが、後に京都霊山護国神社に「パール博士顕彰碑」が建立される発端となった」(中島岳志『パール判事』)。また、パール博士は車窓から日本の自然を見て「なんと美しい国だこと」とつぶやいたといいます。
 1997年11月、京都霊山護国神社は、「余生をこういうところで送りたい」という言葉を実現するため、顕彰碑を建立し、パールの長男夫妻を招いて除幕式を行いました。
 2005年6月、靖国神社では、パール博士の顕彰碑を建立しました。除幕式にはインド大使館のビー・エム・バリ駐日武官を含む関係者約40人が参加しました。
*解説(パール博士は、日本の平和憲法を高く評価する一方、日本の自然にも温かい視線を持っていました。作られた「美しい国」でなく、自然そのもの育んだ日本が「美しい国」だったのです。この考えに共鳴して建立された京都霊山護国神社の顕彰碑の序幕式には博士の長男夫婦が参加しました。
 靖国神社の除幕式には、パール博士の長男の名前はありませんでした。既に亡くなっていたものと思い込んでいました(すみません)。しかし、2007年の8月に安倍首相はパール判事の長男と面会しています)
14  追記(2007年10月10日)
 この記事のアップは、2007年10月14日の予定ですが、この記事を完成したのは9月30日でした。
 最近(2007年10月5日)、正論11月号を購入しました。上智大学名誉教授の渡部昇一氏が「言論界に封殺されたパール判事の主張」と題して、次のような論を展開しました。
 詳細は、別項に譲るとして、興味深い記事を3点紹介したいと思います。
(1)「パール判事の主張については…戦後の言論界の主流にはならなかった。それは、戦後の日本では「敗戦で得をした人たち」が主流を占めたからである。…矢内原忠雄、南原繁(いずれも元東京大学総長)といった左派の学者たちが大学に戻ってきた。矢内原忠雄という人は戦前に、「神よ日本を滅ぼしたまえ」という論文を書いて、東京帝国大学を追放されていた人物である。京都帝国大学で無政府主義的刑法を教えた、滝川幸辰、ソ連のエージェントだった、一橋大学の都留重人などもそうだ」
*解説(渡部昇一氏は、矢内原忠雄氏を「敗戦で得をした人」と酷評しています。しかし、私が知っている矢内原氏は、軍国主義下の日本にあって、「国家が目的とすべき理想は正義であり、正義とは弱者の権利を強者の侵害圧迫から守ることであること、国家が正義に背反したときは国民の中から批判が出てこなければならない」という論文を発表し、東京大学教授を辞任に追い込まれても、なおかつ、キリスト教信仰に基づく平和主義を主張した、武士道精神をもった勇気ある人です。家族のため、自分の保身のために転向する人が多い中、犠牲を払ってまで、自分の信念を貫いた人を、悪罵するとは、武士道精神が泣くというものです。詳しくは「エピソード高校日本史248-01」をクリックして下さい)
(2)『ありもしない「南京大虐殺」をでっち上げたのだ。……当時の出征兵士は二、三年すると、日本に帰っていたが、誰一人として、「南京での虐殺行為」なるものを口にした人はいなかったからだ。私はその後、東京裁判の全記録を読み、「虐殺などなかったこと」を確信した』
(3)『最も危ないのは、犠牲者数を「四万人」だとか「数万人」だとか主張する人たちの説である。こうした説は一見、中庸・公平に見えながらも根拠はないのだ』
*解説(産経新聞が多用する秦郁彦氏は「四万人」、櫻井よしこ氏は「数万人」を主張しています。この2人も渡部氏から見ると、「中庸・公平に見えながらも根拠はない」と切って捨てられる存在です)
(4)「パール判事は、南京での出来事について、検察側から出された証言に疑問を呈しながらも、日本軍による残虐行為があったことを認定しているが、当時はまだ研究がそれほど進んでいなかった。パール判事が生きていれば、南京に関する最近の研究成果をぜひ、見て貰いたかったものである」
*解説(渡部氏は、パール判事が「日本軍による残虐行為があったことを認定している」とするが、それは、「研究がそれほど進んでいなかった」からだと、都合のいい時は、パール判事を引用し、都合が悪くなると、研究不足だと非難する。しかし、パール判決書には、松井石根氏が自分の無罪を主張するために為した証言が記録されています。
 「十二月十七日松井大将は南京に入城して、初めて、あれほど巌戒したのにかかわらず、軍規風紀違反のあったむねを報告によって知った。…松井大将が部下の参謀とともに上海に帰還した後、大将は南京において日本軍の不法行為があるむねの噂をふたたび聞いた」。
 それでも、渡部氏は『東京裁判の全記録を読み、「虐殺などなかったこと」を確信した』と主張する。パール判決書のどこを読んだのでしょうか。)
(5)以上指摘したように、渡部氏の文章は、歴史に少し詳しい人なら、噴飯物です。噴飯学者で紙面を糊塗する実情に寒さを覚えます。
 秦郁彦氏のような実証主義的な保守の論客を育てないと、産経新聞は読者に見放されますよ。

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