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(2)  集団自決に関する文献等(143P)
 第2・2(5)記載の各事実に、証拠(甲B1、2、4ないし6、8ないし14、
16ないし24、26、27、31の1及び2、32、33、35ないし39、4
0の1ないし3、42ないし49、55、59ないし62、66、67、73、7
4、77、78、81、82の1ないし3、83、84、86ないし88、91、
92の1ないし3、94、98、100、乙2ないし13、
19、26、28ないし31、33、35の1及び2、41、44、45、47の
1及び2、49ないし55、62ないし65、66の1及び2、67、68、70の
1ないし3、71の1及び2、72、73、78ないし82、98、100、102、
105、114の1及び2、 皆本証人、知念証人、宮城証人、金城証人並びに控訴人
梅澤本人 ) を総合すれば、座間味島及び渡嘉敷島における住民の集団自決に関す
る文献等について、以下の事実が認めることができる。
座間味島について(144P)
(ア)  梅澤命令説について直接これを記載し、若しくはその存在を推認せしめる
文献等としては、以下の事実を認めることができる。
a 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社編集(144P)
(a)  「鉄の暴風」は、その「まえがき」にあるように、軍の作戦上の動き
をとらえることを目的とせず、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動
きに重点を置いた戦記である。そして、その第10版に掲載された「五
十年後のあとがき」には、その取材方法等について、「戦後も五年目」
で「資料らしい資料もなく、頼りになるのは、悲惨な載争を生き抜いて
きた、人々の体験談をきくのが唯一の仕事で、私・・牧港篤三のこと・・は
太田良博記者と『公用バス』と称する唯一の乗物機関(実はトラックを
改装したもの)を利用して国頭や中部を走り回ったことを憶えている。
語ってくれた人数も多いが、話の内容は水々しく、且つほっとであった。
もっと時間が経過すれば、人々の記憶もたしかさを喪っていたことであ
ろう。戦争体験は、昨日のように生まなましく、別の観念の這入りこむ
余地はなかった。」と記載されている。

(b)  「鉄の暴風」には、「座間味島駐屯の将兵は約一千人余、一九四四年
九月二十日に来島したもので、その中には、十二隻の舟艇を有する百人
近くの爆雷特幹隊がいて、隊長は梅沢少佐、守備隊長は東京出身の小沢
少佐だった。海上特攻用の舟艇は、座間味島に十二隻、阿嘉島に七、八
隻あったが、いずれも遂に出撃しなかった。その他に、島の青壮年百人
ばかりが防衛隊として守備にあたっていた。米軍上陸の前日、軍は忠魂
碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。しかし、住民が広場に集ま
ってきた、ちょうど、その時、附近に艦砲弾が落ちたので、みな退散し
てしまったが、村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほと
んど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。その数五十二人である。」
「この自決のほか、砲弾の犠牲になったり、スパイの嫌疑をかけられて
日本兵に殺されたりしたものを合せて、座間味島の犠牲者は約二百人で
ある。日本軍は、米兵が上陸した頃、二、三カ所で歩哨戦を演じたこと
はあったが、最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降した。」とし
て、控訴人梅澤が座間味島の忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じ
た旨の記述がある(甲B6及び乙2・41頁、なお、以下では同じ文献が
甲号証及び乙号証で提出されている場合には、便宜上一方の記載にとど
めることとする。)。

(c)  また、「鉄の暴風」には、本文の後に「沖縄戦日誌」と題して年表形
式で事実経緯がまとめられており、昭和20年3月28日の箇所に、座
間味島と渡嘉敷島で住民が集団自決したこと、厚生省の調査による両島
の自決者の合計人数が約700人であったことが記載されている。

b  「地方自治七周年記念誌」(昭和30年)沖縄市町村長会発行(145P)
 「地方自治七周年記念誌」は、戦後における沖縄の政治、経済、教育、
文化、社会その他の事情を総合して沖縄の全市町村の概要をまとめた記念
誌である。
 「地方自治七周年記念誌」には、「戦闘記梅択少佐(隊長)の率いる約
千五百名の日本陸軍部隊が初めて座間味村字座間味に本部を設置して離島
の阿嘉島および慶留間島の各部落まで駐屯したのが一九四四年九月十日で
あつた。」「一九四五年三月二十四日土の臭も鼻をつく中で一晩を過ごし
て目を覚す頃にはすでに敵機の来襲である」「心待ちに待った友軍機は
遂に姿を見せず、おまけに夕刻からは艦砲射撃まで加えて来た。昼夜を徹
しての艦砲射撃の連続であった。恐怖の一夜を明かした二十五日も朝から
艦砲と空からの攻撃に一刻も壕を出る事が出来ない。山に谷に畑に砲弾、
爆弾の炸裂する音は耳をつんざく程であった。相当数の艦船が港内に来て
いると云う事を聞かされ、何んとも言えぬ悪感に背筋が冷くなつた。」
「夕刻に至つて部隊長よりの命によつて住民は男女を問わず若い者は全員
軍の戦闘に参加して最後まで戦い、また老人子供は全員村の忠魂碑前に
おいて玉砕する様にとの事であつた。」「命令を受けた住民はそろって指
定の場所に集まつて来た。」「当日住民の内には米軍の上陸を知って自決
をはかり友軍の軍刀を借りて来て家族全員も刺殺した悲惨事もあり、天皇
陛下万歳を三唱して各自持参せる毒薬(アヒサン)小刀、カミソリ、手榴
弾で一挙に六十名も自決したのが内川山壕の惨事であった。その壕では米
軍の進撃によつてあわてふためいた住民に対し専ら慰撫激励に努めた村長
野村正次郎、助役宮里盛秀、収入役宮平正次郎の三役も妻子と共に自決に
参加したのであつた。」として、控訴人梅澤が老人・子供に対して忠魂碑
前での玉砕を命じた旨の記述がある(乙29・450、451頁)。

c  「自叙傳」(昭和31年)宮村盛永著(146P)
 「自叙傳」は、盛秀助役の父親である宮村盛永が著したとされる記録で
ある。
 「自叙傳」には、「二十五日」「丁度午後九時頃直が一人でやって来て
『お父さん敵は既に屋嘉比島に上陸した、明日は愈々座間味に上陸するか
ら村の近い処で軍と共に家族全員玉砕しようではないか。』と持ちか
けたので皆同意して早遠部落まで夜の道を急いだ。」「早速盛秀が来て家族の
事を尋ねた。その時、今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物
を着換へて集合しなさいとの事であった。」として、盛秀助役が父親であ
る宮村盛永に玉砕命令の予告をした旨の記述がある(乙28)。
 なお、宮村盛永の子である宮平春子も、後記nのとおり、前記状況につ
いて、陳述書に記載している。

d  「座間味戦記」(昭和32年ころ、「沖縄戦記」(座間味村渡嘉敷村戦
況報告書)所収)(147P)

 「座間味戦記」は、座間味村が援護法の適用を申請する際の資料として
当時の厚生省に提出したものである。
 「座間味戦記」には、「夕刻に至って梅沢部隊長よりの命に依って住民
は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又老人、
子供は全員村の忠魂碑の前に於いて玉砕する様にとの事であった。」とし
て、控訴人梅澤が住民に対して、若年者は最後まで戦い老人・子供は忠魂
碑前で玉砕するよう指示した旨の記述がある(乙3・7頁)。

e  「秘録 沖縄戦史」(昭和33年)山川泰邦著(147P)
 「秘録 沖縄戦史」は、沖縄戦当時警察官であり、その後琉球政府社会
局長となった山川泰邦が、自己の体験や、終戦の翌年沖縄警察部が行った
戦没警察官の調査の際に収集された数多くの人の体験談や報告、琉球政府
社会局長時代の援護業務のために広く集めた沖縄戦の資料などに基づいて
執筆したものである(乙4・6頁)。
 「秘録 沖縄戦史」には、「昭和二十年三月二十三日、座間味は米機の
攻撃を受け、部隊が全滅するほどの被害を蒙り、住民から二十三人の死者
を出した。村民たちは、焼跡に立って呆然とした。早速、避難の壕生活が
始まった。その翌日も朝から部隊や軍事施設に執拗な攻撃が加えられ、夕
刻から艦砲射撃が始まった。艦砲のあとは上陸だと、住民がおそれおのの
いているとき、梅沢少佐から突然、次のような命令が発せられた。『働き
得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は全員、村の忠魂
碑前で自決せよ』と。」「梅択少佐の自決命令を純朴な住民たちは、その
まま実行したのである。その日、七五名が自決し多くの未遂者を出し
た。」 として、控訴人梅澤が老人・子供に対して忠魂碑前で自決するよう
命じた旨の記述がある(乙4・229ないし231頁)。

f  「沖縄戦史」(昭和34年)上地一史著(148P)
 「沖縄戦史」は、沖縄タイムス社の編集局長であった上地一史が、時事
通信社沖縄特派員や琉球政府社会局職員らと共同で執筆したものであると
ころ、上地一史は、その「まえがき」に 「この記録は、時事通信社代表取
締役長谷川才次氏のすすめで、沖縄戦の正しい記録を一冊にまとめるつも
りである。したがって、日・米両軍および現地沖縄に保存されている最も
確実な資料に基づいて忠実な『沖縄戦史』とするように努力した。」 と
記載している。
 「沖縄戦史」には、「梅沢少佐は、『戦闘能力のある者は男女を問わず
戦列に加われ。老人子供は村の忠魂碑の前で自決せよ』 と命令した。」
「二十六日午前十時、掩護射撃の下にアメリカ軍の上陸がはじまった。日
本守備軍は『番所山』に集結、夜になって斬込みを敢行するといわれたが、
これは決行されず、斬込みの弾薬運搬のため先発した女子青年団員五名は、
予定の時間になっても斬込隊は来ず、周囲にアメリカ軍の気配を感じ、捕
虜になって恥をさらすより、死んで祖国を守ろうと、けなげにも、手榴弾
で自決をとげた。二十七日の未明であった。」「村役場の首脳の自決も、
二十七日であった。そのほか七十五名の純朴な住民たちが自決した。」
「その後、日本軍は生き残った住民に対し 『イモや野菜を許可なくして摘
むべからず』というおそろしい命令を出した。兵士にも、食糧についての
きびしいおきてが与えられ、それにそむいた者は、絶食か銃殺という命令
だった。このために三十名が生命を失ない、兵も住民もフキを食べて露命
をつないでいた。」として、控訴人梅澤が老人・子供に対して忠魂碑前で
自決するよう命じた旨の記述がある(乙5・51、52頁)。
 また、「沖縄戦史」には、本文の後に「沖縄戦日誌」と題して年表形式
で事実経緯がまとめられており、昭和20年3月28日の箇所に、座間味
村長、助役、収入役、住民175名が控訴人梅澤の命令により集団自決し
た旨記載されている(乙5・290頁)。
 なお、女子青年団員五名の手榴弾による自決は、「秘録 沖縄戦史」に
も同様の記載があるが、誤記であると認められる(乙9・702頁)。

g  「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(昭和43年)下谷修久刊行(149P)
 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」は、座聞味島における戦闘で死亡し
た下谷勝治兵長の兄である下谷修久が、戦後、座間味島に赴き、
宮城初枝の昭和38年4月の「家の光」に掲載された手記(乙19)に接
し、これに加筆した「血ぬられた座間味―沖縄緒戦死闘の体験手記」を掲
載したほか、千代田印刷センターの編集者岩永克己、西岡亨が資料をとり
まとめて刊行した書籍である。
 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」には、出版当時の座間味村村長であ
る田中登の序文として「戦闘に協力できる村民は進んで祖国防衛の楯とし
て郷土の土を血で染めて散華し、作戦上足手まといになる老幼婦女子は軍
の命令により、祖国日本の勝利を念じつつ、悲壮にも集団自決を遂げたの
であります。」との記述があるほか、座間味村遺族会会長である宮里正太
郎の序文として「米軍の包囲戦に耐えかねた日本軍は遂に隊長命令により
村民の多数の者を集団自決に追いやった」との記述がある。また、本文中
の前記「血ぬられた座間味―沖縄緒戦死闘の体験手記」には「午後十時頃
梅沢部隊長から次の軍命令がもたらされました。『住民は男女を問わず軍
の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』」として、
控訴人梅澤が老人・子供に対して忠魂碑前に集合して玉砕するよう命じた
とする記述がある(乙6・7、9、39頁)。

h  「秘録 沖縄戦記」(昭和44年)山川泰邦著(149P)
 「秘録 沖縄戦記」は、山川泰邦が、前記「秘録 沖縄戦史」の内容を
再検討し、琉球政府の援護課や警察局の資料、米陸軍省戦史局の戦史等を
参考にして改訂したものである。
 「秘録 沖縄戦記」には、前記「秘録 沖縄戦史」同様、「艦砲のあと
は上陸だと、おそれおののいている村民に対し、梅択少佐からきびしい命
令が伝えられた。それは『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。
老人、子供は全員、村の忠魂碑前で自決せよ』というものだった。」「梅
沢少佐の自決命令を純朴な住民たちは素直に受け入れて実行したのだった。
十八日、七五人が自決、そのほか多くの未遂者を出した」として、控
訴人梅澤が老人・子供に対して忠魂碑前で自決するよう命じたとする記述
がある(乙7・156、158頁)。

i  「沖縄県史 第8巻」(昭和46年)琉球政府編集(150P)
 「沖縄県史 第8巻」は、昭和40年から沖縄の公式な歴史書として、
琉球政府及び沖縄県教育委員会が編集、発行した別巻を含め、全24巻中
の1巻(各論編7に当たり、沖縄戦通史とされる部分である。)で、昭和
46年4月28日に刊行されたものである。
 「沖縄県史 第8巻」には、「軍自らは」「現実とはうらはらの『大本
営発表』でもって県民に幻想を抱かしめる欺瞞的行為をしながら、県民が
作戦の邪魔になるからということで、安全保証も与えず県外や県内の山岳
地帯への疎開を強制したり、あるいは集団自決を強要したり、また無実の
県民をスパイ視したり、県民の住宅その他の建物の強制収用、食糧品の供
出強要、ひいては避難壕の軍へのあけ渡しを要求する、などのことをした
ものであった。」と記述され(乙30・48頁)、座間味島における集団自
決について、「翌日二十四日夕方から艦砲射撃を受けたが、梅沢少佐は、
まだアメリカ軍が上陸もして来ないうちに『働き得るものは全員男女を問
わず戦闘に参加し、老人子どもは、全員村の忠魂碑前で自決せよ』と命令
した。」「 (三月二十五日)、村長、助役、収入役をはじめ、村民七十五名
は梅沢少佐の命令を守って自決した。」と記述され、控訴人梅澤が老人・
子供に対して忠魂碑前で自決するよう命じた旨の記述がある(乙8・411、
412頁)。

j 「沖縄県史 第10巻」(昭和49年)琉球政府編集(151P)
(a)  「沖縄県史 第10巻」は、「沖縄県史 第8巻」と同様の沖縄の公
式な歴史書の一部であり、昭和49年3月31日に発行され、「沖縄戦
記録2」に当たる。
 沖縄県史の作成に関与した安仁屋政昭は、沖縄県史の資料価値等につ
いて「これは、客観性のある、極めて科学性のあるものだと思います。
それはどういうことかと言いますと、戦争体験者の証言を語ったとおり
に記載するという、そういう手法は採っておりません。私どもは、証言
の客観性を高めるために、行政記録、外交資料、軍事記録、報道記録、
第三者の証言などを突き合わせて、その客観性を高める努力をし、また
一つの事件についても一人から聞取りをするということだけでなくて、場
合によっては関係者の座談会などを開きまして、これを四方八方から光
を当ててその客観性を保証できる、そういう証言をつくってきたつも
りであります。」「で、多くの証言者―私自身について言いますと、お
そらく一万人近い証言に接しております。それは私の個人の話であり
まして、私のようなことをやっているのが」「百数十名、そういう努力
を重ねてきている、集団討議を重ねてきている、ということです。」と
語っている(乙11・28頁)

(b)  「沖縄県史 第10巻」には、「午後十時ごろ、梅沢隊長から軍命が
もたらされた。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し老人子供は村の
忠魂碑の前に集合、玉砕すべし』というものだった。役場の書記がこの
命令を各壕をまわって伝えた。」「ここでは部隊長から自決命令が出
されたことが多くの証言からほぼ確認できるのである。」との記述があ
る(乙9・698、699頁)。

(c)  「沖縄県史 第10巻」には、大城将保の記載として、初枝らの自決
について、前記「沖縄戦史」及び「秘録 沖縄戦史」に誤記があり、前
記「鉄の暴風」にも控訴人梅澤の死亡についての誤記があると指摘した
上で、「このように、慶良間諸島の戦争記録のなかには、渡嘉敷島の集
団自決の記述なども含めて、誤記と欠落が少なくない。本編の証言がそ
れらを訂正する資料ともなれば幸いである。」とし、後記 l のとおり、
集団自決の体験者の体験談が記載されている。

k  「米軍の慶良間列島作戦報告書」(昭和20年)(152P)
 米軍の「慶良間列島作戦報告書」は、米軍歩兵第77師団砲兵隊が慶良
間列島上陸後に作成したとされ、米国国立公文書館に保存されていた資料
であり、平成18年夏、関東学院大学の林教授によって発見された。林教
授によれば、この報告書には、「尋問された民間人たちは、三月二十一日
に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきた
ときは自決せよと命じたとくり返し語っている」との記述があり、座間
味村の状況について、「治療を施された外傷の多くは自傷によるものである。
明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように指導(勧告)
されていた。これらの自決の企ての多くが成し遂げられていたことが、後に発
見されている。」との記述がある・・(乙35の1及び2、乙114の1及び2 )。

l 体験者らの供述等(152P)
(a)  以上の文献のほか、「沖縄県史 第10巻」には、宮里とめ(乙9・
738、739頁)、宮里美恵子(乙9・741頁)、宮平初子(乙9・746頁)、
宮平カメ及び高良律子(乙9・753頁)など、座間味島の住民の体験談
が紹介されている。
 すなわち、宮里とめについては、「二十五日の晩、全員自決するから
忠魂碑前に集まるよう連絡を受けたため、一番いい服を取り出してきれ
いに身支度を整えてから、子供たちの手をひきながら忠魂碑に向かいま
した。」「近くにいた兵隊さんが、『こんなに小さな島に米兵が上陸す
ると、どんなに逃げても袋のねずみとかわらないし、どうせいつかはみ
んな死んでしまうもんだよ』といいました。それを聞くと、前に友軍か
ら、もし米兵が上陸してきたら、この剣で敵の首を斬ってから死ぬよう
に、ともらった剣を知り合いの男の人に、敵の首を斬るのは男がしか
(ママ)できないから、と上げてしまったのを非常に後悔してなりません
でした。」との体験談が掲載されている。
 宮里恵美子については、「二十三日から始まった戦闘は相変わらず衰
えることなく、二十五日晩の『全員自決するから忠魂碑の前に集まる
よう』連絡を受けた頃などは、艦砲射撃が激しく島全体を揺るがしてい
る感じです。『このような激しい戦闘では生きる望みもないから』とい
うことで、命令を受けると、みんなは一張らの服を取り出して身支度を
整えました。」との体験談が掲載されている。
 宮平初子については、「二十五日の晩、忠魂碑の前で玉砕するから集
まれ、との遵絡を受けたため、今日は最後の日だから、と豚を一頭をつ
ぶしみそ煮をして食べたが、なまにえであったにも拘らずひもじさも手
伝ってか、あの時の味は何とも言えないおいしさでした。食事を終えて
からきれいな着物をとりだし身づくろいをしてから、忠魂碑の前まで家
族で行ってみるとだれもいない。しようがないので部落民をさがして近
くの壕まで行ってみると、そこには部落民や兵隊らがいっぱいしている。
私達の家族まではいると、あふれる状態でした。それでもむりにつめて、
家族はまとまってすわれなかったが適当にあっちこちにすわることにし
た。中にいる兵隊が、『明日は上陸だから民間人を生かしておくわけに
はいかない。いざとなったらこれで死になさい』と手榴弾がわたされ
た。」との体験談が掲載されている。
 宮平カメ及び高良律子は、連名の体験談の中で、「二十五日の夜、母
は私と弟の二人を残して、空襲のスキをねらっては家に戻り、二人の姉
と妹をつれておにぎりをつくりに帰っていた。ちょうどその時、全員忠
魂碑前で玉砕するから集まるよう私達の壕に男の人が呼びにきたため、
小学校一年生である私は、母はいないしどうしていいものかわからない
ため、ただみんながむこうで死ぬのだというので、六歳の弟を連れて忠
魂碑へと歩いていった。」と記述している。なお、ここにいう私は、体
験談に記載された年齢から、高良律子(当時8歳)と思われる。

(b)  また、「座間味村史 下巻」(乙50)や「沖縄の証言」(甲B4
5)にも、座間味島における集団自決の体験者の体験談が記載されてい
る。
 宮里育江は、「座間味村史 下巻」に「三月二五日のこと、伝令が、
敵の艦隊が安室島に上陸したことを伝えてきたのです。そしていよいよ、
特幹兵が出撃することになりました。それで『私たちも武装します
から、皆さんの洋服を貸してください。それを着ますので、一緒に連れ
ていって下さい』とせがんだのですが、『あなた方は民間人だし、足手
まといになるから連れて行くわけにはいかない』と断られました。そし
て、『これをあげるから、万一のことがあったら自決しなさい』と、手
榴弾を渡されました。」との体験談を寄せている。また、富里とめ、宮
里美恵子が「沖縄県史 第10巻」と同様の体験談を「座間味村史 下
巻」に寄せているほか、「住民は全員忠魂碑前に集まりなさいという連
絡がはいりました。忠魂碑前に集まるということは、暗黙のうちに『玉
砕』することだと認識していました」とする宮里米子や「二五日の晩、
激しい艦砲射撃のなかを、伝令がやってきて、忠魂碑前に集まるように
言うわけです。とうとう玉砕するのかと思いながら壕を出て行」ったと
する宮平ヨシ子らの体験談も記載されている。
 さらに、宮里美恵子の体験談が「沖縄の証言」(甲B45)にも掲載
されるなど、体験者の供述は様々な文献で紹介されている。

(c)  また、初枝の手記は、様々な形で残されているが、「座間味村史 下
巻」(乙50・17頁)に「午後九時頃のことです。部隊全員が斬・・込み
隊となって、夜襲を敢行することになったのです。その出発間際に、私
たちは斬込み隊長の内藤中尉に呼ばれて『今夜半、斬込み隊は座間味の
敵陣地を襲撃する。斬込み隊の生存者は稲崎山に集合することになって
いるので、お前たちは別働隊として、この弾薬を稲崎山の山頂まで運ん
でくれ。これで一緒に戦うんだ。」と弾薬箱を渡されました。また、木崎
軍曹からは『途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派
な死に方をしなさいよ』と手榴弾一個が渡されました。」と記載され
ているエピソードは、その他の手記(乙6・45頁、乙9・756頁、乙1
9等)にも記載されている。

m その他(155P)
(a)  沖縄タイムスは、昭和63年11月3日、座間味村に対し、座間味村
における集団自決についての認識を問うたところ(乙20)、座間味村
長宮里正太郎は、同月18日付けの回答書(乙21の1)で「部隊によ
る『自決命令』は要請された。自決者の援護処理で事件の真相を執筆し、
陳情書を作成された故宮村盛永氏、当時の産業組合長、元村長は部隊命
令だとはっきり要請され又、当時有力な村会議員であった故中村盛
久氏(初代村遺族会長)も厚生省ではっきりと部隊命令による自決と要
請された。その他多くの証言者も部隊命令又は、軍命令と言ってい
る。」「遺族補償のため玉砕命令を作為した事実はない。遺族補償請求
申請は生き残った者の証言に基き作成し、又村長の責任によって申請
したもので一人の援護主任が自分で勝手に作成できるものではな」いな
どとし、添付された県援護課等への回答書(乙21の2)には、宮里恵
美子ら証言者が15名記載されている。

(b)  「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」(昭和53年、
乙36) は、住民を援護法の適用対象とすることについて、昭和32年
までに政府の調査した事項として軍によって自決を強要された慶良間列
島のケースを挙げている。

n (a)  また、座間味島の集団自決については、本件訴訟を契機とした新たな
住民の供述や新聞報道等がある。

(b)  盛秀助役の妹である宮平春子は、陳述書に「昭和20年3月25日の
夜のことでしたが、盛秀が外から宮里家の壕に帰ってきて、父盛永に向
って、『軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われ
ている。まちがいなく上陸になる。国の命令だから、いさぎよく一緒に
自決しましょう。敵の手にとられるより自決したほうがいい。今夜11時
半に忠魂碑の前に集合することになっている』と言いました。そして、
皆で玉砕しようねということになり、私が最後のおにぎりを作って、皆
で食べ、晴れ着に着替え、身支度を整えました。」「座間味島の住民の
集団自決は、私の兄の盛秀が命令したものではなく、軍が命令したもの
であることは間違いありません。盛秀は、『軍の命令で玉砕するように
言われている』と、はっきり言っていました。軍の命令がなければ大変
可愛がっていた幼い子どもたちを死なせるようなことは決してなかった
はずです。」「なお、私は、昭和20年3月23日の空襲のあと、外を
歩いていたところ飛行機による爆撃があったので、爆撃から逃れるため、
たまたま近くにあった民間の壕に避難しましたが、その壕にいた日本の
兵隊から、『アメリカ軍が上陸しても絶対に捕まることなく、いさぎよ
く死になさい。捕まったら日本の恥だから、日本人らしく、日本の魂を
忘れないように』『捕まったら強姦され、残酷に殺されるから、自分で
死になさい』と言われました。日本軍の人たちは、米軍が上陸したら、
私たち住民を絶対に捕虜にさせないため、自決させなければならない
と思っていたようです。」と記載し、沖縄タイムスの取材に対しても盛
秀助役の言動等について同趣旨の供述をしている(乙51、71の1及
び2)。

(c)  上洲幸子は、昭和60年に神戸新聞の取材で「米軍上陸後は奥地へ転
戦する日本軍とともに行動した。集団自決の命令はなかったが、上陸後、
四、五日たって日本兵の一人から『米軍に見つかったら舌をかみ切って
死になさい』と言われた」と述べていたが(甲B9)、その陳述書の中
に、赤崎のため池「に筒井という日本軍の中尉がやってきて、私たち島
民に集まるように言いました。私たちを含め10人くらいが筒井中尉の
ところに集まると、筒井中尉は、私たちに『アメリカ軍が上陸してい
るが、もし見つかったら、捕まるのは日本人として恥だ。捕まらな
いように、舌を噛みきってでも死になさい。』と指示しました。知恵が
遅れた男の人が死にたくないと泣き出したのを覚えています。」と記載
している(乙52)。

(d)  宮里育江は、その陳述書の中に、「『座間味村史』下巻61頁に、昭
和20年3月25日に特幹兵が出撃するときに、特幹兵から『自決し
なさい』といって私が手榴弾を渡されたことが書いてありますが、その
とおり間違いありません。特幹兵とは、第三中隊の壕にいた海上挺身戦
隊(梅澤戦隊長)の特別幹部候補生のことです。『栓を抜いてたたきつ
けると破裂するから、そうして自決しなさい』と教えられました。渡さ
れた場所は第三中隊の壕の前です。」「私の夫の妹の宮川スミ子の話で
は、昭和20年3月25日の夜、妹たち家族が玉砕のため忠魂碑前に集
まったときに、大坂伍長という人が、これで死になさいといって手榴弾
を渡そうとしたということです。」「座間味島の集団自決は、村の幹部
が軍の命令なしに勝手に行ったものでは決してないはずです。当時、村
の三役は軍の指示や命令なしに勝手に行動することは許されませんでし
た。集団自決の貢任は軍にあり、その隊長に責任がなかったとはいえな
いと思います。」と記載している(乙62)。
 また、「世界 臨時増刊 沖縄戦と『集団自決』」(平成20年1月、
乙102)中の國森康弘の「元日本兵は何を語ったか 沖縄戦の空白」
中には、「勤労奉仕で軍に協力した宮里育江氏(八三歳)は『(米軍上陸
に際して)一ヵ所に集まれと伝令が来たとき、それはもう皆で一緒に
『死ね』と軍から言われたものだと感じた』という。実際宮里氏は米軍
上陸の前日、陸軍船舶兵特別幹部侯補生(特幹)から『あなた方は足手
まといになる』『いざというときにはこれで自決しなさい』と手榴弾を手
渡されていた。爆破のさせ方も教わった。」との記載がある。

(e)  垣花武一作成の平成20年6月6日付け陳述書には、同人は昭和42年か
ら座間味村郵便局に勤務していたが、戦前から同村の郵便局長であった石
川重徳が「村の幹部は、米軍が上陸したら軍の足手まといにならぬよう住民
を玉砕させるよう、軍から命令されていた。昭和20年2月ころ、村の三役が
石川ら村の要職者を密かに集め、米軍が上陸した場合は住民を玉砕させる
よう軍から命令されていると打ち明けた。」と何度も話していたとの記載が
ある(乙105)。

(イ) 梅澤命令説について否定し、又はその存在の推認を妨げる文献等としては、
以下に記載するものがあげられる。
a  控訴人梅澤の陳述書等(158P)
 控訴人梅澤の陳述書には、「問題の日はその3月25日です。夜10時
頃、戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が5名来訪して来ました。助
役の宮里盛秀、収入役の宮平正次郎、校長の玉城政助、吏員の宮平恵達、
女子青年団長の宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です。その時の彼らの言葉
は今でも忘れることが出来ません。『いよいよ最後の時が来ました。お別
れの挨拶を申し上げます。』『老幼女子は、予ての決心の通り、軍の足
手纏いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。』『就きましては一思い
に死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さ
い。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下
さい。以上聞き届けて下さい。』その言葉を聞き、私は愕然としました。
この島の人々は戦国落城にも似た心底であったのかと。」「私は5人に、
毅然として答えました。『決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに
至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んで
あるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りま
しょう。』と。また、『弾薬、爆薬は渡せない。』と。折しも、艦砲射撃が
再開し、忠魂碑近くに落下したので、5人は帰って行きました。翌3月2
6日から3日間にわたり、先ず助役の宮里盛秀さんが率先自決し、ついで
村民が壕に集められ次女と悲惨な最後を遂げた由です。」との記載があり
(甲B1・2ないし3頁)、控訴人梅澤は、本人尋問において、同趣旨の
供述をしている。
 また、控訴人梅澤は、沖縄タイムスの牧志伸宏に対し、昭和60年、梅
澤命令説を否定して抗議している。

b  昭和60年7月30日付け神戸新聞などの報道(159P)
 昭和60年7月30日付け神戸新聞は、「絶望の島民悲劇の決断」との
大見出し、「日本軍の命令はなかった 関係者の証言」との小見出しの下、
関係者らが生き残った島民や日本軍関係者に尋ねた結果として、「助役ら
とともに自決の前夜梅沢少佐を訪れた宮城初枝」「軍とともに生き延びた
上津幸子」「梅沢少佐の部下だった関根清」らの控訴人による自決命
令はなかったとする証言を掲載し、「これまで『駐留していた日本軍の命
令によるもの』とされていた」座間味島民の集団自決は、「米軍上陸後、
絶望のふちに立たされた島民たちが、追い詰められて集団自決の道を選ん
だものとわかった。」と報道し、初枝らのコメントを掲載した。
 昭和60年7月30日付け神戸新聞の記事を書いた中井和久は、初枝に
対する電話取材を複数回行い、その際の初枝のためらいや控訴人に対
する罪の意識が伝わってきたことを記憶していると述べている(甲B3
4)。
 そのほか、昭和61年6月6日付けの神戸新聞は、「沖縄県などが、通
史の誤りを認め、県史の本格的な見直し作業を始めた。」として、後記
「沖縄資料編集所紀要」 (甲B14)を取り上げ、控訴人による自決
命令がなかった旨の報道をした(甲B10)。

c  大城将保の見解(160P)
 大城将保は、「沖縄県史 第10巻」所収「沖縄戦記録2」の「座間味
村」の解説を執筆した者である。
 大城将保は、昭和60年10月、沖縄史料編集所の主任専門員として控
訴人に宛てた親書の中で、「沖縄県史 第10巻」が通史的な戦史や
戦記とは異なり、一種の資料集であり、記述されている事柄は沖縄県の公
式見解ではないこと、したがって、記述に事実誤認があれば修正すること
が可能であることを述べた(甲B25の1及び2)。
 そして、大城将保は、昭和61年発行の「沖縄史料編集所紀要」(甲B
14)で「座間味島集団自決に関する隊長手記」と題して、梅澤命令
説が従来の通説であったが、前記昭和60年7月30日付けの神戸新聞の
報道を契機として、控訴人や初枝に事実関係を確認するなどして史実
を検証したと述べ、控訴人の手記である「戦斗記録」を前記紀要に掲
載した(甲B14)。
 また、前記紀要には、「以上により座間味島の『軍命令による集団自
決』の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』
及び宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島の手記』が諸説の根源となって居
ることがわかる。現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言
明して居る。」との記述がある(甲B14・46頁)。
 さらに、昭和61年6月6日付けの神戸新聞に、大城将保の談話として
「宮城初枝さんらからも何度か、話を聞いているが、『隊長 命令説』は
なかったというのが真相のようだ。」「梅沢命令説については訂正するこ
とになるだろう。」との記載がある(甲B10)。

d  宮村幸延の「証言」(昭和62年)(161P)
 宮村幸延は、盛秀助役の弟であり、・・ 「証言」と題する親書(甲B
8)を作成し・・ている。
 この親書には、昭和62年3月28日付けで、「昭和二十年三月二六日
の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の
宮里盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ
得えず隊長命として申請した、ためのものであります 右当時援護係宮村
幸延」との記載がある。
e  「母の遺したもの」(平成12年)宮城証人著一応ここに挙げるが、同
書の全体的な評価は、後に述べるとおりである。

(a)  「母の遺したもの」は、座間味村の女子青年団員であった初枝の娘で
ある宮城証人が初枝からの告白を受けたとして執筆したものである。
(b)  「母の遺したもの」には、「沖縄敗戦秘録―悲劇の座間味島」に掲載
された初枝の手記の控訴人の集団自決命令について「母は…梅澤氏
に面会して 『あなたが命令したのではありません』と告白しました。」
との記載がある。(甲B5・8、9、250頁以下 262、263 )。

(c)  また、「母の遺したもの」には、概要、「そこで、盛秀が戦隊長を前
に発した言葉は、『もはや最期の時がきました。若者たちは軍に協力さ
せ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならないよう、忠魂稗前で玉
砕させようと思います。弾薬を下さい』ということだった。初枝は息
が詰まるほど驚いた。しばらく沈黙が続いた。垂直に立てた軍刀の柄の
部分にあごをのせ、片ひざを立ててじっと目を閉じて座っていた戦隊長
はやおら立ち上がり、『今晩は一応お帰りください。お帰りください』と、
五人を追い返すように声を荒げて言い、申し入れを断った。五人はあき
らめるより他なく、その場を引き上げていった。その帰り道、盛秀は突
然、防衛隊の部下でもある恵達に向かって『各壕を回ってみんなに忠魂
碑前に集合するように……』と言った。あとに続く言葉は初枝には聞
き取れなかったが、『玉砕』の伝令を命じた様子だった。そして盛秀は初
枝にも、役場の壕から重要書類を持ち出して忠魂碑前に違ぶよう命じた。
盛秀一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事
前に相談していたものと思われるが、真相はだれにもわからない。」と
の記述がある。

(d)  もっとも、第4・5(2)ア(ア)l(c)のように、「母の遺したもの」にも、
木崎軍曹からは「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立
派な死に方をしなさいよ」と手榴弾一個が渡されたとのエピソードも記
載されており(甲B5・46頁)、この点では、「母の遺したもの」にも、
座間味島での集団自決に軍が関係したことを窺わせる記述が存すること
が指摘されなければならない。

(e)  さらに「母の遺したもの」には、援護法の適用に関連して、次のよう
な記載がある。すなわち、「貧しいながらも住民の生活が落ちつきだし
た一九五七(昭和三二)年、厚生省引揚援護局の職員が『戦闘参加(協
力)者』調査のため座間味島を訪れたときのこと。母は島の長老から呼
び出され、『梅澤戦隊長から自決の命令があったことを証言するよう
に』と言われたそうである。」「母が梅澤戦隊長のもとへでかけた五人
…のうちの唯一の生き残りということで、その場に呼ばれたのである。
母はいったん断った。しかし、住民が『玉砕』命令を隊長からの指示と
信じていたこともあり、母は断れずに呼び出しに応じた。」「厚生省に
よる沖縄での調査がはじまったのが一九五七(昭和三二)年三月末で、
座間味村では、四月に実施された。役場の職員や島の長老とともに国の
役人の前に座った母は、自ら語ることはせず、投げかけられる質問の一
つひとつに 『はい、いいえ』で答えた。そして、『住民は隊長命令で自
決したといっているが、そうか』という内容の問いに、母は『はい』と答
えたという。」「座間味村役所…では、厚生省の調査を受けたあと、村
長を先頭に『集団自決』の犠牲者にも『援護法』を適用させるよう、琉球
政府社会局をとおして、厚生省に陳情運動を展開した。その時に提出し
た資料『座間味戦記』が私の手元にあるが、内容は一九四四(昭和一
九)年九月の日本軍駐屯にはじまり、翌敗戦の年の阿嘉島住民が投降し
てくる八月下旬まで、座間味村での戦闘の模様がタイプ文字およそ九千
五百字で綴られている。主語は省略されているが、明らかに私の母の行
動と思われる文章が数カ所に見られる。そしてこのなかに、『梅澤部隊
長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加し
て最後まで戦い、又老人、子供は全員村の忠魂碑前に於て玉砕する様に
との事であった』というくだりが含まれている。」「その後、前述した 
『援護法』の適用を申請するため作成された公文書が出されるが、個人
的に座間味島の『隊長命令説』を証言として書いたのが、実は私の母だ
った。一九六二(昭和三七)年、農家向けの月刊誌『家の光』で『体験実
話』の懸賞応募の記事を見つけた母は、さっそく、軍の弾薬運びや斬込
みの道案内をした体験を書いて応募した。日本本土はすでに高度成長に
入っていたが、沖縄はなお米軍の支配下にあり、教育・文化の復興は取
り残されていた。その沖縄の、さらに離島である座間味島に自由に入っ
てきた唯一の雑誌が、この『家の光』であった。隅から隅までむさぼる
ように『家の光』を読んでいたという母が、小さな囲み記事とはいえ募
集告知を見逃すはずはなかった。原稿をまとめるにあたり、『自決命
令』についてどう記述するか、母はずいぶん悩んだ。落選すれば問題は
ないが、万一入選した場合は雑誌に掲載されることになっている。『集
団自決』で傷害を負った人や遺族にはすでに国から年金や支給金が支給
されており、証言を覆すことはできなかった。悩みに悩んでの執筆だっ
たが、母の作品は入選し、翌年の『家の光』四月号に掲載された。その
なかには、『(三月二五日)夕刻、梅澤部隊長(少佐)から、住民は男
女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人子どもは全員、今夜忠魂碑前にお
いて玉砕すべし、という命令があった』と記述されている。村役所から
厚生省への陳情に使われた文書を引用したものだった。」「『集団自
決』を仕事として書くためにやってきた娘に、自分の発言がもとで『隊
長命令』という”ウソ”を書かせてはいけないと思ったのか、あるいは、
死者の弔いが『三十三回忌』で終わってしまうことを意識してか、慰霊祭
が終わった日の夜、母は私に、コトの成り行きの一部始終を一気に話し
出した。梅澤戦隊長のもとに『玉砕』の弾薬をもらいにいったが帰され
たこと、戦後の『援護法』の適用をめぐって結果的に事実と違うことを
証言したことなど。そして、『梅澤さんが元気な間に、一度会ってお詫び
したい』とも言った。」との記載がある。そのほか、同書には、初枝が昭和
55年12月に沖縄を訪れた控訴人梅澤に面会して、「住民を玉砕させるよう
お願いに行きましたが、梅澤隊長にそのまま帰されました。命令したのは梅
澤さんではありません。」と告白したことの記載や、娘である宮城証人に対し、
手記を記載したノートを託して、機会を見て発表するよう求めたので、晴美自
身の取材結果等とともに上記手記を収録した「母の遺したもの」を公にしたと
の記載もある。
(甲B5・ 8、9、 250ないし255、260 ないし263 頁)

f その他(164P)
(a)  前第3・4(2)ウ(ウ)fのとおり、控訴人らは、住民の手記には自決命令
の主体が記載されていないことをもって梅澤命令説を否定しているとこ
ろ、座聞味島の住民の供述を掲載する「潮だまりの魚たち」(平成16
年、甲B59)にも、控訴人梅澤が住民に対して自決命令を出したこと
を明言する供述はない。

(b)  「週刊新潮」(平成18年、甲B46)の櫻井よしこのコラムには、
座間味島の集団自決について、概ね控訴人梅澤の供述に沿う事実経緯が
記載され、梅澤命令説を否定する櫻井よしこの見解が記載されているが、
記載内容からして、控訴人梅澤に対する取材や前記神戸新聞の記事等に
基づく見解にとどまり、控訴人梅澤に対する取材を除き、櫻井よしこが
生き残った住民等からの聞き取りを行ったものとまでは認められない。

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