| イ | 渡嘉敷島について(165P) | |||
| (ア) | 赤松命令説について直接これを記載し、若しくはその存在を推認せしめる 文献等としては、以下に記載するものがあげられる。 | |||
| a | 前記「鉄の暴風」 「鉄の暴風」には、「赤松大尉は、島の駐在巡査を通じて、部落民に対 し『住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから、すぐ西山A高 地の軍陣地に避難集結せよ』と、命令を発した。さらに、住民に対する赤 松大尉の伝言として『米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう』とい うことも駐在巡査から伝えられた。」「恩納河原に避難中の住民に対して、 思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。『こと、ここに至っては、 全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵 まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。こ の悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵 攻してから、わずかに五日目だった。」「住民には自決用として、三十二 発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加され た。」「恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査も一緒だったが、彼は、 『自分は住民の最期を見とどけて、軍に報告してから死ぬ』といって遂に 自決しなかった。日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高 地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたがその とき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦い たい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡 ゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばなら ぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』ということを 主張した。 これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、 軍籍のある身を痛嘆した。」として、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に対して自 決命令を出したとする記述がある(乙2・33ないし36頁)。 | |||
|
| ||||
| b | 前記「秘録 沖縄戦史」(166P) 「秘録 沖縄戦史」には、「三月二十七日―『住民は西山の軍陣地北方 の盆地に集結せよ』との命令が赤松大尉から駐在巡査安里喜順を通じて発 せられた。」「安全地帯は、もはや軍の壕陣地しかない。盆地に集合する ことは死線に身をさらすことになる。だが所詮軍命なのだ。」「西山の軍 陣地に辿りついてホッとするいとまもなく赤松大尉から『住民は陣地外に 去れ』との命令をうけて三月二十八日午前十時頃、泣くにも泣けない気持 ちで北方の盆地に移動集結したのであった。」「友軍は住民を砲弾の餌食 にさせて、何ら保護の措置を講じようとしないばかりか『住民は集団自決 せよ!』と赤松大尉から命令が発せられた。」「場所を求めて、友軍陣地 から三〇〇米の地点に約一五○○名が集結した。」「防衛隊員は二個ずつ 手榴弾を持っていたのでそれで死ぬことに決めた」「一個の手榴弾のま わりに二、三十名が丸くなった。」『天皇陛下バンザーイ』『バンザ…』」 「叫びが手榴弾の炸裂でかき消された。肉片がとび散り、谷間の流れが血 で彩られていった。」として、赤松大尉が住民に対して西山盆地への集合 ・軍陣地からの立ち去り・集団自決を命じたこと、防衛隊員が所持してい た手榴弾を用いた自決が発生したことなどの記述がある(乙4・217、218 頁)。 | |||
|
| ||||
| c | 前記「沖縄戦史」(166P) 「沖縄戦史」には、「大尉は」「西山A高地に部隊を集結し、さらに住 民にもそこに集合するよう命令を発した。住民にとって、いまや赤松部隊 は唯一無二の頼みであった。部隊の集結場所へ集合を命ぜられた住民はよ ろこんだ。日本軍が自分たちを守ってくれるものと信じ、西山A高地へ集 合したのである。しかし、赤松大尉は住民を守ってはくれなかった。『部 隊は、これから、米軍を迎えうつ。そして長期戦にはいる。だから住民は、 部隊の行動をさまたげないため、また、食糧を部隊に提供するため、いさ ぎよく自決せよ』とはなはだ無慈悲な命令を与えたのである。」「住民の 間に動揺がおこった。しかし、自分たちが死ぬことこそ国家に対する忠節 であるなら、死ぬよりほか仕方がないではないか。あまりに従順な住民た ちは、一家がひとかたまりになり、赤松部隊から与えられた手榴弾で集団 自決を遂げた。なかには、カミソリや斧、鍬、鎌などの鈍器で、愛する者 をたおした者もいた。住民が集団自決をとげた場所は渡嘉敷島名物の慶良 間鹿の水を飲む恩納河原である。ここで三百二十九名の住民がその生命を 断ったのである。」として、赤松大尉が住民に対して自決命令を出したと する記述がある(乙5・48、49頁)。 | |||
|
| ||||
| d | 前記「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(167P) 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」中の「沖縄作戦と座間味の戦い」の 章には、「赤松少佐は島の西北端の高地へ守備隊の移動を命じ、島民は自 決せよと命令した。谷底に追い込まれた住民達は『さあ、みんな、笑って 死のう』という古波蔵村長の悲壮な訣別の言葉が終わると、一発の手榴弾 の周囲に集まった。手榴弾はあちらこちらで炸裂し、男や女の肉を散らした。 死ねない者はお互いに根棒で殴り合い、カミソリで頭を切り、子を絞め、 鍬で頭を割り、谷川の水を血で染めつくした。そこへ迫撃弾が炸裂した。 思わず死をこわがり逃げ出す者も出て混乱が起こった。自決者三三〇、戦 死者三〇余名を除いて、三三六名が未遂に終わった。」として、赤松大尉 が住民に対して自決命令を出したとする記述がある(乙6・107頁)。 | |||
|
| ||||
| e | 前記「秘録 沖縄戦記」(168P) 「秘録 沖縄戦記」には、「秘録 沖縄戦史」同様の赤松大尉の集結命 令の記載のほか、「赤松隊は住民の保護どころか、無謀にも『住民は集団 自決せよ!』と命令する始末だった。住民はこの期におよんで、だれも命 など借しいとは思わなかった。敵弾に倒れ、醜い屍をさらすよりは、いさ ぎよく自決したほうがいいと思い立つと、最後の死に場所を求めて、友軍 陣地から三百メートルほどの地点に、約千五百人の島民が集まってきた。 防衛隊員が二個ずつ手榴弾を持っていたので、それで死ぬことに決めた。 一個の手榴弾の回りに、二、三十人の人々が集まった。『天皇陛下バンザ ーイ』の叫びが、手榴弾の炸裂音でかき消された。肉片が飛び散り、谷間 はたちまち血潮でいろどられた。なかには、クワやこん棒で互いに頭をな ぐりつけたり、かみそりで自分ののどをかき切って死んでいく者もあった。 こうして三月二十八日午後三時、三百二十九人にの 島民が悲惨な自決を遂げ た。村民はこの盆地をいまでも『玉砕場』と呼んでいる。」との記述があ り、赤松大尉が住民に対して自決命令を出したとする記述がある(乙7・ 148頁)。 | |||
|
| ||||
| f | 「戦闘概要」(昭和44年、新崎盛暉「ドキュメント沖縄闘争」所収)(168P) 「戦闘概要」は、昭和28年3月28日、太平洋戦争当時の渡嘉敷村村 長や役所職員、防衛隊長らの協力のもと、渡嘉敷村遺族会が編集したもの で、新崎盛暉「ドキュメント沖縄闘争」に転載、収録されている。 「戦闘概要」には、「同年三月二七日午後、赤松隊長より、当時の村長 と駐在巡査を通じて、住民は各自の壕を後にし、指定された西山の友軍陣 地北方に集合せよとの命令伝達されたので、各自の壕を後にし、指定され た西山軍陣地北方に集結した。同年三月二八日、午前一○時頃、部隊より 住民二○名に対し、一個ずつの手留弾が渡され、午後一時頃皇国の万才と 日本の必勝を祈り、一せいに玉砕した。」との記載のほか、「昭和二○年 三月二七日、夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の友軍陣 地北方の盆地へ集合命令が伝えられた。」「間もなく兵事主任新城真順を して住民の集結場所に連絡せしめたのであるが、赤松隊長は意外にも住民 は友軍陣地外へ撤退せよとの命令である。何のために住民を集結命令した のか、その意図は全く知らないままに恐怖の一夜を明かすことが出来た。 昭和二○年三月二八日午前一○時頃、住民は軍の指示に従い、友軍陣地北 方の盆地へ集ったが、島を占領した米軍は友軍陣地北方の約二、三百米の 高地に陣地を構え、完全に包囲態勢を整え、迫撃砲をもって赤松陣地に迫 り住民の集結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通 じて自決命令が下された。危機は刻々と迫りつつあり、事ここに至っては 如何ともし難く、全住民は陛下の万才と皇国の必勝を祈り笑って死のうと 悲壮の決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手留弾各々二個 が唯一の頼りとなった。各々親族が一かたまりになり、一発の手留弾に二、 三〇名が集った。瞬間手留弾がそこここに爆発したかと思うと轟然たる無 気味な音は谷間を埋め、瞬時にして老幼男女の肉は四散し阿修羅の如き阿 鼻叫喚の地獄が展開された。」「手榴弾不発で死をまぬかれた者は友軍陣 地へ救いを求めて押しよせた時、赤松隊長は壕の入口に立ちはだかり軍の 壕へは一歩も入ってはいけない、速かに軍陣地近郊を去れと激しく構え、 住民をにらみつけた。」として、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に対して部隊 陣地北方の盆地への集合・自決・軍の壕からの立ち去りを命じたとする記 述がある(乙10・12、13頁)。 赤松大尉が自決命令を出したとする「戦闘概要」の記述は、昭和45年 に発行された「週刊朝日」(甲B20)にも引用されている。 | |||
|
| ||||
| g | 前記「沖縄県史 第8巻」(170P) 「沖縄県史 第8巻」には、「昭和二十年(一九四四)三月二十七日夕 刻、駐在巡査安里喜順を通じ、住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の陣 地へ集合するように命じられた。その夜は物凄い豪雨で、住民たちは、ハ ブの棲む真暗な山道を豪雨と戦いつつ、老幼婦女子の全員が西山にたどり ついた。ところが赤松大尉は『住民は陣地外に立ち去れ』と命じアメリカ 軍の迫撃砲弾の炸裂する中を、さらに北方盆地に移動集結しなければなら なかった。いよいよ、敵の攻撃が熾烈になったころ、赤松大尉は『住民の 集団自決』を命じた。約千五百人の住民は、二、三十人が一発の手榴弾を 囲んで自決をはかった。互いに、クワや根棒で殺し合ったりした。あるいは剃 刀で喉を切った。ここに自決したもの、三二九人を数える。」として、赤 松大尉が住民に対して集団自決を命じたとする記述がある(乙8・410 頁)。 | |||
|
| ||||
| h | 前記「沖縄県史 第10巻」(170P) | |||
| (a) | 「沖縄県史 第10巻」には、「上陸に先立ち、赤松隊長は、『住民 は西山陣地北方の盆地に集合せよ』と、当時赴任したばかりの安里喜順 巡査を通じて命令した。安里巡査は防衛隊員の手を借りて、自家の壕に たてこもる村民を集めては、西山陣地に送り出していた。」「西山陣地 に村民はたどり着くと、赤松隊長は村民を陣地外に撤去するよう厳命し ていた。」「陣地に配備されていた防衛隊員二十数人が現われ、手榴弾 を配り出した。自決をしようというのである。」「村長、校長、兵事主 任ら村のリーダーらが集って、相談ごとをしていた。そこで誰云うとな しに『天皇陛下万才』を三唱したり、『海行かば』を斉唱したりして、そ れがこだまするのだが、すぐ砲撃にかき消されていた。その時、渡嘉敷 の人たちの間から炸裂音がした。それにつられて、村民らは一斉に手榴 弾のビンを抜いて、信管をパカパカたたいていた。肉片がとび散り、山 谷はたちまち血潮で彩どられていた。しかし、発火した手榴弾はそう多 くはなかった。生き残っては大変と、手榴弾を分解して、火薬を喰べて いる者もいた。とうとう、死ねない者たちは、鍬や棒でお互い同士なぐ り合い、殺し合っていた。男たちは、妻子や親を殺し、親戚の者にも手 をつけていた。そのために、男手のある家族の被害は一番大きい。身内 の者を片づけると、自分自身は立木に首を吊った。」との記述がある (乙9・689、690頁)。 | |||
|
| ||||
| (b) | 渡嘉敷村長であった米田惟好は、「沖縄県史 第10巻」に掲載され た「渡嘉敷村長の証言」に、「安里喜順巡査が恩納川原に来て、今着い たばかりの人たちに、赤松の命令で、村民は全員、直ちに、陣地の裏側 の盆地に集合するようにと、いうことであった。盆地はかん木に覆われ ていたが、身を隠す所ではないはずだと思ったが、命令とあらばと、 私は村民をせかせて、盆地へ行った。」「盆地へ着くと、村民はわいわ い騒いでいた。集団自決はその時始まった。防衛隊員の持って来た手榴 弾があちこちで爆発していた。安里喜順巡査は私たちから離れて、三〇 メートルくらいの所のくぼみから、私たちをじ一っと見ていた。『貴方 も一緒に… この際、生きられる見込みはなくなった』と私は誘った。 『いや、私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決は 出来ません』といっていた。私の意識は、はっきりしていた。」「二、 三○名の防衛隊員がどうして一度に持ち場を離れて、盆地に村民と合流 したか。集団脱走なのか。防衛隊員の持って来た手榴弾が、直接自決に むすびついているだけに、問題が残る。私自身手榴弾を、防衛隊員の手 から渡されていた。」と記載している(乙9・768、769頁)。 | |||
|
| ||||
| i | 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」(昭和63年、平成2 年安仁屋政昭編「裁かれた沖縄戦」所収)(172P) | |||
| (a) | 金城証人は、渡嘉敷島の集団自決の体験者であり、東京地方裁判所昭 和59年(ワ)第348号損害賠償請求事件(以下「家永教科書検定第3次 訴訟第1審」という。)において、証人として渡嘉敷島の集団自決につ いて証言した。 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」には、「村の指導者 を通して、軍から命令が出たというふうな達しがありまして、配られた 手榴弾で自決を始めると、これが自決の始まりであります。」「実は、 当時の役場の担当者に電話で確認を取りましたら、集団自決が起こる大 体数日前ですね、日にちは何日ということはよくわかりませんけれども、 日本軍の多分兵器軍曹と言っていたのでしょうか、兵器係だと思います けれども、その人から役場に青年団員や職場の職員が集められて、箱ご と持って来て、手榴弾をもうすでに手渡していたようです。一人に二箇 ずつ、それはなぜ二箇かと申しますと、敵の捕虜になる危険性が生じた 時には、一箇は敵に投げ込んで、あと一箇で死になさいと。ですから、 やはり集団自決は最初から日本軍との係わりで予想されていたことだと いうことが分かるわけです。更に集団自決の現場では、それに追加され て、もう少し多く手榴弾が配られていると、しかし余り数は多くないも のですから、私ども家族にはありませんでした。」「当時の住民は軍か ら命令が出たというふうに伝えられておりまして、そのつもりで自決を 始めたわけであります。」「( 証人自身は、直接その自決の命令が出た という趣旨の話を直接聞かれたのですか)はい、直接聞きました。」と の記述がある(乙11・287、288頁)。 | |||
|
| ||||
| (b) | 安仁屋政昭編「裁かれた沖縄戦」には、金城証人の「意見書 軍国主 義的皇民化教育の末路としての『集団自決』」が掲載されているが、そ こには「一千名近くの住民が、一箇所に集められた。軍からの命令を待 つ為である。阿波連の住民の幾人かが身の危険を感じて『集団自決』の 惨事が起こる前にその現場を離れようとすると、駐在が刀を振り回して 自決場へ再び追い込まれるという現象も起こったのである。勿論これは 彼自身の意志に基づく行動ではなく、日本軍に仕組まれた計画の実践に 他ならなかった。この事も『集団自決』が軍隊に強いられたものであっ て、住民の自発的行動でなかったことを証拠立てるものである。」「死 刑囚が死刑執行の時を、不安と恐怖のうちに待つかのように、私共も自 決命令を待った。いよいよ軍から命令が出たとの情報が伝えられた。配 られた手榴弾で家族親戚同士が輪になって自決が行われたのである。」 「『集団自決』は様々な要素のからみで生起した惨事である。天皇や国の 為に死ぬことを教え込まれた国民的素地があったこと、捕虜になること への恐怖心と恥意識、孤島で戦闘に巻き込まれて逃げ場を失い、精神的 にも空間的にも追い詰められたという現実等が集団自決の要因となった のである。しかし何よりも日本軍が戦略的に住民を一箇所に集結せしめ た結果、敵軍に包囲された瞬間に必然的に『集団自決』へと追い込まれ たということは、重大な要因として挙げなければならない。赤松隊は戦 賂上島の住民を敵軍と接触させない等の理由から、一箇所に集結せしめ たのである。従って我々住民が西山陣地の近くへ集結したのは、自らの 自由意志によるものではなく、飽くまでも日本軍の意志によって強いら れたものであった。」「更に極めて重大な問題は、『集団自決』用の手 榴弾は誰が何時何所で住民に配ったかということである。」「村の当時 の担当者の話しによると、村の青年団員と役場の職員凡そ二〇名から三 〇名位が役場に集められて手榴弾を各自二個ずつ配られた。捕虜になる おそれのある時には一個は敵に投げ、他の一個で自決するようにと手渡 されたという。従って『集団自決』の為の手榴弾は予め日本軍によって 準備されたものである。手榴弾が予め手渡されたということは、軍によ って『集団自決』への道が事前に備えられていたと言うことができるの である。同様の目的で防衛隊員にも手榴弾が二個ずつ手渡されていた。 この事は住民が『集団自決』に追い込まれていく大きな原因となったの である。」といった記載がある(乙11・339、340、347、348頁)。 | |||
|
| ||||
| (c) | 金城証人の体験談は、「潮」(昭和46年11月号、甲B21。なお、 ここでは「渡嘉敷島でのいわゆる集団自決について、直接の指揮系統は 未だ明確ではなく、赤松大尉は直接命令を下さなかったという説もあ」 るとしている。)、「『集団自決』を心に刻んで」(甲B42)、平成 19年6月22日付け毎日新聞(甲B77)、平成19年4月4日付け 琉球新報(乙54)、「沖縄戦一県民の証言」(乙64)などにも掲載 され、本件訴訟においても、家永教科書検定第3次訴訟第1審における のと同様の証言をしている。 | |||
|
| ||||
| j | 「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」(安仁屋政昭編「裁 かれた沖縄戦」所収)(174P) 安仁屋政昭は、家永第3次教科書訴訟第1審における証言当時は沖縄国 際大学の歴史学の教授であり、沖縄史料編集所に勤務した経歴を持ち、渡 嘉敷村史の編集にも携わった者である。 『家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」には、「米軍の上陸 前に赤松部隊から渡嘉敷村の兵事主任に対して手榴弾が渡されておって、 いざというときにはこれで自決するようにという命令を受けていたと、そ れから、いわゆる集団的な殺し合いのときに、防衛隊員が手榴弾を持ち込 んでいると、集団的な殺し合いを促している事実があります。これは厳し い実証的な検証の中で証言を得ております。曽野綾子さんなどは、『ある 神話の背景』という作品の中でこれを否定しているようですけれども、兵 事主任が証言をしております。兵事主任の証言というのはかなり重要で あるということを強調しておきたいと思います。」「兵事主任という役割は、 大きな役割だと言いましたが、兵事主任の証言を得ているということは、 決定的であります。これは、赤松部隊から、米軍の上陸前に手榴弾を渡さ れて、いざというときには、これで自決しろ、と命令を出しているわけで すから、それが自決命令でないと言われるのであれば、これはもう言葉を もてあそんでいるとしか言いようがないわけです。命令は明らかに出て いるということですね。」との記述がある(乙11・54、69頁)。 また、安仁屋政昭は、陳述書においても、同趣旨の記載をしている(乙 68)。 | |||
|
| ||||
| k | 「渡嘉敷村史」(平成2年)渡嘉敷村史編集委員会編集(175P) | |||
| (a) | 「渡嘉敷村史」は、渡嘉敷村史編集委員会の編集により、渡嘉敷村役 場が発行したものである。 「渡嘉敷村史」には、「すでに米軍上陸前に、村の兵事主任を通じて 自決命令が出されていたのである。住民と軍との関係を知る最も重要な 立場にいたのは兵事主任である。兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場 職員であり、戦場においては、軍の命令を住民に伝える重要な役割を負 わされていた。渡嘉敷村の兵事主任であった新城真順氏(戦後改姓して 富山)は、日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言してい る。兵事主任の証言は次の通りである。@一九四五年三月二〇日、赤松 隊から伝令が来て兵事主任の新城真順氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役 場に集めるように命令した。新城真順氏は、軍の指示に従って『一七歳 未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。Aそのとき、兵器軍曹 と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹 は集まっ(ママ)二十数名の者に手榴弾を二個ずつ配り訓示をした。〈米 軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投 げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ。〉B三月 二七日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任に対して軍の命令が 伝えられた。その内容は、〈住民を軍の西山陣地近くに集結させよ〉と いうものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわ った。C三月二八日、恩納河原の上流フィジガーで、住民の〈集団死〉 事件が起きた。このとき、防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の自殺を 促した事実がある。手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器であ る。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことで ある。」「渡嘉敷島においては、赤松嘉次大尉が全権限を握り、村の行 政は軍の統制下に置かれていた。軍の命令が貫徹したのである。」とし て、赤松大尉が住民に対して自決命令を出したとする記述がある(乙1 3・197、198頁)。 | |||
|
| ||||
| (b) | 昭和63年6月16日の朝日新聞夕刊(乙12)によれば、富山真順 は、朝日新聞の取材に対して同趣旨の供述をし、そうした供述をしたこ とに関して「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕 が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは 夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一 人。知れきったことのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思 った。」と語ったとされる。 | |||
|
| ||||
| l | その他(176P) | |||
| (a) | そのほか、沖縄戦の研究者である石原昌家は、日本軍が、軍官民共生 共死の一体化の方針のもとで住民をスパイ視して直接殺害したほか、集 団自決を強制した旨の見解を主張している(乙31及び72)。 | |||
|
| ||||
| (b) | また、渡嘉敷島の集団自決については、本件訴訟を契機とした新たな 住民の供述や新聞報道等がある。 例えば、渡嘉敷村の役場職員であった吉川勇助は、陳述書に、軍の陣 地から防衛隊員が「伝令」と大声で叫びながら古波蔵村長のもとへやっ てきて、何事かを告げ、その後古波蔵村長が「天皇陛下万歳」と三唱し て自決が始まった旨記載し、沖縄タイムスの取材に対して、軍から離脱 した防衛隊員が軍の強要により自決した旨供述している(乙67、70 の1ないし3)。 | |||
|
| ||||
| (イ) | 赤松命令説について否定し、又はその存在の推認を妨げる文献等としては、 以下に記載するものがあげられる。 | |||
| a | 赤松大尉の手記等(177P) 赤松大尉は、「潮」(甲B2、昭和46年)に「私は自決を命令してい ない」と題する手記を寄せているほか、「週刊新潮」(昭和43年、甲B 73)、昭和43年4月8日付けの琉球新報(乙26)の取材に応じた記 録が残っている。赤松大尉は、「潮」(甲B2、昭和46年)に寄せた手 記において、自決命令は出していない、特攻する覚悟であったため住民の 処置は頭になかった、部落の係員から住民の処置を聞かれ、部隊が西山の ほうに移動するから住民も集結するなら部隊の近くの谷がよいいであろうと示 唆した、これが軍命令を出し、自決命令を下したと曲解される原因だったか もしれないなどと供述し、赤松命令説を否定している。 | |||
|
| ||||
| b | 「沖縄方面陸軍作戦」(昭和43年)防衛庁防衛研修所戦史室(177P) 「沖縄方面陸軍作戦」は、慶良間列島における日本軍の作戦及び戦闘の 状況についてまとめた防衛庁の資料である。 「沖縄方面陸軍作戦」には、慶良間列島の集団自決について、「当時の 国民が一億総特攻の気持ちにあふれ、非戦闘員といえども敵に降伏するこ とを潔しとしない風潮がきわめて強かったことがその根本的理由であろ う。」として、住民が軍の命令によってではなく自発的に自決に至ったと するような記述がある(乙55・252頁)。 | |||
|
| ||||
| c | 「陣中日誌」(昭和45年)谷本小次郎著(177P) 「陣中日誌」は、第三戦隊の隊員であった谷本小次郎によって編集され たものである。 印刷された「陣中日誌」には、昭和20年3月28日の欄の終わりに「D 小雨の中敵弾激しく住民の叫び阿修羅のごとく陣地後方において自訣し始めた る模様」とある次の行に注として「 注 自訣は翌日判明したるものであ る。」との記述があり、その後次の行に「三月二十九日曇雨 悪夢の如き様 相が白日眼前に洒された昨夜より自訣したるもの約二百名(阿波連方面に 於いても百数十名自訣、後判明)首を縛った者、手榴弾で一団となって爆 死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頸部を切断したる者、戦いと は言え言葉に表し尽し得ない情景であった。」との記述があり、軍の命令 を示す記載はない(甲B19・13頁)。なお、Dの現在進行形の記述と注 にはずれが感じられるが、体裁からは、注が日誌自体に何時なぜ記載された かは不明であり、「後判明」とされる阿波連の自決者数の記載等についても同 様である。 | |||
|
| ||||
| d | 「ある神話の背景」(昭和48年)曽野綾子著(178P) 「ある神話の背景」は、作家の曽野綾子が、渡嘉敷島の住民や赤松大尉、 第三戦隊の元隊員らに取材して執筆したものである。 「ある神話の背景」には、軍の自決命令により座間味、渡嘉敷で集団自 決が行われたと最初に記載したのは「鉄の暴風」であるところ、「鉄の暴 風」は直接の体験者ではない山城安次郎と宮平栄治に対する取材に基づい て書かれたものであり、これを基に作成したのが「戦闘概要」であり、さ らにこれらを基に作成されたものが「戦争の様相」であるとの記述、「戦 争の様相」に「戦闘概要」にある自決命令の記載がないのは、「戦争の様 相」作成時には部隊長の自決命令がないことが確認できたから、記載から 外したものであるとの記述がある(甲B18・48頁)。また、「ある神話 の背景」は、前記3つの資料は、米軍上陸日が昭和20年3月27日であ るにもかかわらず、同月26日と間違って記載していると指摘している (甲B18・49頁)。 曽野綾子は、その後、「正論」(平成15年、甲B4)、「沈船検死」 (平成18年、甲B55)、「Voice」(平成19年、甲B49)、 平成19年10月23日付け産経新聞(甲B84)、「WILL」(平成 20年1月号、甲B94)においても、「ある神話の背景」に示した見解 を維持している。 | |||
|
| ||||
| e | 「花綵の海辺から」(平成2年)大江志乃夫著(179P) 「花綵の海辺から」は、戦史研究家である大江志乃夫が執筆したもので ある。 「花綵の海辺から」には、「赤松嘉次隊長が『自決命令』をださなかっ たのはたぶん事実であろう。西村市五郎大尉が指揮する基地隊が手榴弾を 村民にくばったのは、米軍の上陸まえである。挺進戦隊長として出撃して 死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がの こる。」として、赤松命令説を否定する記述がある(甲B36・27頁)。 | |||
|
| ||||
| f | 「沖縄県警察史 第2巻」(平成5年)沖縄県警本部発行(179P) | |||
| (a) | 「沖縄県警察史 第2巻」は、沖縄県警本部が発行した沖縄県の警察 に関する資料である。 「沖縄県警察史第2巻」には、安里巡査の供述として、「私は赤松 隊長にあった。『これから戦争が始まるが、私たちにとっては初めての ことである。(中略)このままでは捕虜になってしまうので、どうした らいいのか』と相談した。すると赤松隊長は、『私たちも今から陣地構 築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないよう に、どこか静かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどう か』と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐ部落に 引き返した。」「私は住民の命を守るために赤松大尉とも相談して、住 民を誘導避難させたが、住民は平常心を失っていた。」「集まった防衛 隊員たちが、『もうこの戦争はだめだから、このまま敵の手にかかって 死ぬより潔く自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい』と言い出して、 村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。私 は住民を玉砕させる為にそこまで連れて来たのではないし、戦争は今始 まったばかりだから玉砕することを当局としては認めるわけにはいかな いと言った。しかし、当時の教育は、『生きて虜囚の辱めを受けず』だ ったので、言っても聞かなかった。そこで、『じゃあそれを決行するの はまだ早いから、一応部隊長のところに連絡を取ってからその返事を待 って、それからでも遅くはないのではないか』と言って部隊長の所へ伝 令を出した。だがその伝令が帰って来ないうちに住民が避難している近 くに迫撃砲か何かが落ちて、急に撃ち合いが激しくなった。そしたら住 民は友軍の総攻撃が始まったものと勘違いして、方々で『天皇陛下万歳、 天皇陛下万歳』と始まった。その時、防衛隊員は全員が敵に遭遇した時 の武器として、手榴弾を持っていたと思う。その手榴弾を使って玉砕し たが、幸か不幸かこの手榴弾は不発が多く玉砕する事ができない人たち がいた。玉砕できなかった人たちが集まって、友軍の陣地に行って機関 銃を借りて自決しょうと言うことになって、自分達で歩ける者は一緒 に友軍の陣地に行ったが、友軍はそれを貸すはずがない。そこでガヤガ ヤしているうちにまた迫撃砲か何かが撃ち込まれ、多くの人たちがやら れた。その時友軍に、『危険だから向こうに行け』と言われて、元の場 所に帰って来た。」との記述がある(甲B16・773ないし775頁)。 | |||
|
| ||||
| (b) | 安里巡査は、後記kのとおり、沖縄タイムス(甲B60)に赤松大尉 の直筆の手紙を紹介し、コメントした特(ママ)嵩力に宛てた昭和58年6月8 日付けの手紙(甲B61)でも、集団自決が軍命でも赤松大尉の命令で もないと記載するなどしている。 | |||
|
| ||||
| g | 「沖縄戦ショウダウン」(平成8年)上原正稔著(180P) 「沖縄戦ショウダウン」は、平成8年6月1日から13回にわたって沖 縄の地元紙である琉球新報に連載されていた上原正稔のコラムである。こ のコラムでは、米軍第77歩兵師団の兵士であったグレン・シアレスが語 ったものを上原正稔が翻訳して掲載しているほか、渡嘉敷島の集団自決に ついての上原正稔の見解が述べられている。 「沖縄戦ショウダウン」には、上原正稔の記載した注の中で、金城武徳 や大城良平、安里巡査が、赤松大尉について、立派な人だった、食料の半 分を住民に分けてくれた、村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいない などと語ったことを記載し、援護法が集団自決に適用されるためには軍の 自決命令が不可欠だったから赤松大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記 載している。取材源は明示していないものの、連載の5回目には、昭和2 0年3月28日の「夕刻、古波蔵村長が立ち上がり、宮城遥拝の儀式を始 めた。北に向かって一礼し、『これから天皇陛下のため、御国のため、潔 く死のう』と話した。『天身陛下万歳!』と皆、両手を上げて斉唱した」こ とが記述されている(甲B44)。 | |||
|
| ||||
| h | 知念証人及び皆本証人の各証言(181P) | |||
| (a) | 知念証人は、第三戦隊の小隊長として赤松大尉とともに渡嘉敷島を守 備していた者である。 知念証人は、陳述書に「私は、正式には小隊長という立場でしたが、 事実上の副官として常に赤松隊長の傍におり」と記載した上で、証人尋 問において、「沖縄県史 第10巻」の体験談に赤松大尉の自決命令は ない旨記載したことについて、正しい供述である旨証言し、「自決命令 はいただいておりません。」などと証言している(甲B67)。 知念証人は、琉球新報のコラムにおいても赤松大尉が自決命令を出し ていない旨途べている(甲B44)。 | |||
|
| ||||
| (b) | 皆本証人は、第三戦隊の中隊長として赤松大尉とともに渡嘉敷島を守 備していた者である。 皆本証人は、集団自決の起こった昭和20年3月28日の自らの行動 について、午前1時ころに主力部隊と合流した、同日午前3時ころに赤 松大尉の下に報告に行ったが、自決命令に関する話は一切なかった、翌 29日になって部下から集団自決が起きたとの報告を受けた、赤松大尉 とは親密に連絡を取っていたが、同年8月15日の終戦に至るまで赤松 大尉自身からも他の隊員からも、赤松大尉が住民に自決命令を出したと いう話は一切聞いていないなどと証言している。 皆本証人は、「WILL」(平成17年12月号、甲B86)に「中 隊長の見た現場」という論稿を寄せ、同趣旨を記載している。 | |||
|
| ||||
| i | 照屋昇雄の供述(182P) 照屋昇雄は、琉球政府社会局援護課の職員であった者である。 産経新聞の平成18年8月27日の夕刊は、照屋昇雄が昭和20年代後 半から琉球政府社会局援護課において援護法に基づく弔慰金等の支給対象 者の調査をした者であるとした上で、同人が渡嘉敷島での聞き取り調査に ついて、「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」ものの、 「軍命令とする住民は一人もいなかった」と語ったとし、赤松大尉に「命 令を出したことにしてほしい」と依頼して同意を得た上で、遺族たちに援 護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作 り、その書類を当時の厚生省に提出したとの趣旨を語ったとの記事を掲載 した(甲B35)。 照屋昇雄は、「正論」(平成18年11月号、甲B38) に掲載された 「日本文化チャンネル桜」の取材班の取材に対しても、同趣旨の供述をして いる。 | |||
|
| ||||
| j | 徳平秀雄らの供述(182P) | |||
| (a) | 徳平秀雄は、渡嘉敷島の郵便局長であった者である。 徳平秀雄は、「沖縄県史 第10巻」に寄せた体験談に「恩納川原に 着くと、そこは、阿波連の人、渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをね らって、艦砲、迫撃砲が撃ちこまれました。上空は飛行機が空を覆う ていました。そこへ防衛隊が現われ、わいわい騒ぎが起きました。砲撃 はいよいよ、そこに当っていました。そこでどうするか、村の有力者た ちが協議していました。村長、前村長、真喜屋先生に、現校長、防衛隊 の何名か、それに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろ うにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘 おうと、主張した人もいました。特に防衛隊は、闘うために、妻子を片 づけようではないかと、いっていました。防衛隊とは云っても、支那事 変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員 は、持って来た手榴弾を、配り始めていました。」「そういう状態でし たので、私には、誰かがどこかで操作して、村民をそういう心理状態に 持っていったとは考えられませんでした。」と記載した(乙9・765頁)。 | |||
|
| ||||
| (b) | 元第三戦隊第一中隊付防衛隊の大城良平は、「沖縄県史 第10巻」 に寄せた体験談に「赤松隊長が自決を命令したという説がありますが、 私はそうではないと思います。なにしろ、赤松は自分の部下さえ指揮で きない状態にきていたのです。私は自分の家内が自決したということを 聞いて、中隊長になぜ自決させたのかと迫ったことがありました。中隊 長は、そんなことは知らなかったと、いってました。ではなぜ自決し たか。それは当時の教育がそこにあてはまったからだと思います。くだ けて云えば、敵の捕虜になるより、いさぎよく死ぬべきだということで す。自発的にやったんだと思います。それに『はずみ』というものがあ ります。あの時、村の有志が『もう良い時分ではないか』といって、万 才を三唱させていたといいますから、それが『はずみ』になったのでは ないでしょうか。みんな喜んで手榴弾の信管を抜いたといいます。 その時、村の指導者の一人が、住民を殺すからと、機関銃を借りに来た といいます。そんなことは出来ないと、赤松隊長は追いやってと、彼自 身から聞きました。結局自決は住民みんなの自発的なものだということ になります。」と記載した(乙9・781頁)。 | |||
|
| ||||
| k | その他(184P) | |||
| (a) | 以上の文献等のほか、赤松大尉が集団自決に対する関与について「一 部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているよう なものでは決してありませんでした」とする手紙を紹介する報道(甲B 60)や、この報道を受けて、安里巡査が、昭和58年当時衆議院外務 委員会調査室に勤務していた徳嵩力に宛てて、渡嘉敷島の集団自決は軍 の命令、赤松大尉の命令のいずれによるものでもなかった旨記載した手 紙(甲B61)、その手紙に対する徳嵩力の返事(甲B62)など、赤 松命令説に消極的な報道、手紙等がある。 | |||
|
| ||||
| (b) | また、本件訴訟を契機とした供述や新聞報道等もある。 例えば、金城武徳は、 前期「正論」(平成18年11月号) に掲載さ れた現地取材において、渡嘉敷島の集団自決は軍の自決命令によるもの ではない旨供述している(甲B38、 甲B52の1、2 )。 | |||