参加者がつくる(05) |
ローテンブルクからミュンヘンへ |
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写真(A)↑(拡大写真にリンク) |
ネルトリンゲン(Nordlingen)は、隕石が落下して出来たリース盆地にあります。聖ゲオルグ教会の90メートルの塔に登ると、中世の街並みを城壁が円形の街を囲んでいるのが分かります。 |
写真提供:アマデウスさん |
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写真(B)↑(拡大写真にリンク) |
ミュンヘンの中心地(市庁舎) |
写真提供:ヅカさん |
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アルテ・ピナコテーク美術館(ラファエロ・レオナルドら)←クリック |
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ニュンフェンブルク宮殿 |
写真提供:旅大好きさん |
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私たちが泊まったマリオット(Marriott)ホテルです。 ドイツでは、緑の豊かさに驚かされました。 |
写真提供:カノンさん |
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ヒトラーとミュンヘン一揆 |
ミュンヘンは、「ミュンヘン・サッポロ・ミルウオーキー」と言われるようにビールの本場です。白いウインナーソーセージでも有名です。私は、ビールも白いウインナーも飲み、食しました。うまかった! しかし、私が興味があるのは、ヒトラーとミュンヘンです。第二次世界大戦は、ミュンヘンで、第一ボタンがかけ間違ったことから発生したと思っています。 その背景と経過を検証しました。 |
1918年10月24日、ドイツ海軍の最高司令部は、ヴィルヘルムスハーフェン軍港の艦隊に出動命令を出しましたが、厭戦的気運と将校に対する不満をもっていた水兵たちは、これを拒否して反乱をおこした。これをキール軍港の水兵反乱といいます。これがきっかけで、反乱の火は各地に飛び火し、ドイツ帝国が崩壊しました。これをドイツ革命といいます。 1919年8月14日、ドイツ国憲法(通常ワイマール憲法)が発効し、ドイツ連邦共和国(通常ワイマール共和国)が誕生しました。 |
1920年3月13日の早朝、政治家ヴォルフガンク・カップの計画に従い、将軍ヴァルター・フォン・リュトヴィッツ指揮下のフライコール2個旅団12、000人が、ベルリン市内に突入し、占領する事件が発生しました。大統領エーベルトは、シュトットガルトに大統領府を移転させました。これをカップ一揆といいます。 3月17日、大統領エーベルトの命令を受けた労働組合のゼネストにより、カップ新政府は崩壊します。 フライコールの中心であった海軍中佐・エアハルト旅団は、王党派(右翼勢力)が政権を握っていたバイエルン州の首府ミュンヘンに移動しました。 |
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1923年1月11日、フランス軍とベルギー軍は、ドイツの債務不履行を宣言し、ライン川を越えてルール地方を占領しました。バイエルン州では、州総督カール政権(右翼)は、ドイツ国防軍司令長官ゼークトと結んで、ドイツに独裁政権樹立を企図して、ヒトラーらを実行部隊として利用していました。しかし、直前になって、カールがクーデタを延期しました。 1923年11月8日、後に引けないヒトラーは、第一次世界大戦の英雄ルーデンドルフの支持を取り付け、州総督カールらを監禁して、ゲーリングが率いるナチス突撃隊(SA)600人に、ミュンヘン最大のビアホール「ビュルガーブロイケラー」を襲撃させました。そして、そこで集会を持っていた州軍司令官ロッソウ・州警察長官ザイサーらをピストルで脅迫し、ベルリン進撃への協力を誓わせました。 ヒトラーが席を外した時、監禁されていたカールら3人は、ルーデンドルフの許可を得て脱出に成功しました。ロッソウは、国防軍総司令官ゼークト大将に連絡できました。また、大戦中もルーデンドルフと不仲だったバイエルン旧王家の元バイエルン皇太子ループレヒト元帥は、反乱を鎮圧する命令を全軍に伝えました。 11月9日午前2時55分、カールら3人は、ラジオを通じて、「反乱を認めず」との声明を発表しました。 11月9日午後11時30分、ヒトラーは、デモ行進3000人を強行しました。デモ隊は、イザール川を渡り、市庁舎写真(B)を右折した。そこからレジデンツ通りを通り、オデオン広場(正面に将軍廟、左に慰霊碑)に向かいました。デモ隊がオデオン広場に来た時、警察隊とデモ隊の間で銃撃戦となり、最後にデモ隊は鎮圧されました。これをミュンヘン一揆といいます。オデオン広場の正面に将軍廟、左に慰霊碑があります。 11月11日、ヒトラーは、ハンフシュテーングルの友人の別荘で逮捕されました。 |
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1924年2月26日、ミュンヘン一揆の裁判が開かれました。ここでヒトラーは、「ベルサイユ体制に甘んじる国家こそが犯罪的存在ではないか!!」と名演説(?)を行いました。この演説により、反逆罪に問われたルーデンドルフは無罪、ヒトラーは禁固5年の刑を受けました。刑務所での待遇も特別扱いで、「貴方に仕える事ができて光栄です」と看守が挨拶したといいます。 獄中で、ヒトラーは、「わが闘争」を口述します。筆記したのは、後の副総統・ルドルフ=ヘスでした。ヒトラーは、その書で「相手が合法的手段で望む場合はこちらも合法的でなければならない・・」と書いています。ヒトラーは、クーデタによる権力奪取から議会で多数を獲得して権力奪取する「合法路線」への転換を決意したことを意味します。ミュンヘン一揆は、ナチズムを考える上で、重要な転換点であったことが分かります。 12月20日、ヒトラーは、4年の刑を残して、仮出獄しました。 1925年2月26日、ナチス党は、ミュンヘン一揆のあった「ビュルガーブロイケラー」で、新結成集会を開催しました。この集会には、ヒトラーの演説を聞くために、4000人の聴衆が集まりました。 バイエルン州政府は、今後2年間、ヒトラーの演説を禁止しています。 |
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ミュンヘン会談が行われた会議場(現ミュンヘン音楽・演劇大学) |
ヒトラーとミュンヘン会談 |
1938(昭和13)年9月12日、ヒトラーは、「ズデーテン地方のドイツ系住民が迫害を受けており、ズデーテン地方のドイツ人の民族自決権を援助する」との演説を行いました。 9月15日、平和的解決のために、イギリスの首相チェンバレンは、ミュンヘンでヒトラーと会談しました。ズデーテン地方はチェコとドイツの国境地帯あり、ヒトラーは「世界戦争も辞さない」と脅迫しながら、ドイツ系住民が多数住むズデーテン割譲を要求しました。チェンバレンはチェコスロヴァキアからズデーテン地方を分離することに同意しました。 9月18日、イギリスとフランスは、ロンドンで会談し、戦争を避けるために、チェコスロヴァキアに「ズデーテン地方をドイツに割譲する」という英仏共同提案を受諾させることを話し合いました。 9月19日、しかし、チェコスロヴァキア大統領のベネシュは、この共同提案を拒否しました。 9月21日深夜、英・仏の行使はベネシュ大統領を訪ね、チェコにドイツの要求受諾を強要しました。その結果、チェコにはその条件を受諾しました。 9月22日、ポーランドはチェコのテッシェン地方に、ハンガリーはチェコの南部スロバキアとルテニア地方に自民族が多数いたので、ドイツと同様の割譲を要求しました。 9月22日、チェコスロヴァキアのホッジャ内閣が総辞職しました。 9月24日、チェコ政府は、総動員令を発布して、戦争を覚悟する態度を表明しました。 9月24日、英仏は、ソ連と交渉を開始しましたが、ソ連は対独強硬策を主張しました。 9月27日、イギリスは、軍の動員令を発布しました。 9月29日12時45分、イタリアの仲介で、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相・フランスのダラディエ首相・ドイツのアドルフ・ヒトラー総統・イタリアのベニト・ムッソリーニ首領は、ミュンヘン会談を開きました。 9月30日1時30分、ミュンヘン会談が終了しました。ヒトラーの強硬策に対して、戦争回避を望む英仏が屈服して、「もうこれ以上の領土要求はしない」というヒトラーの約束とチェコスロバキアの国家主権・領土保全を条件に、ズデーテン地方のナチスドイツへの割譲を決定しました。これをミュンヘン協定といいます。英仏の宥和政策ともいいます。 9月30日2時15分、チェンバレン首相は、隣室で待っていた当事国のチェコスロヴァキア代表に結果を報告しました。すると、その代表は涙を流したといいます。 9月30日12時、チェンバレン首相は、ヒトラーの私邸を訪ね、「平和確保のためのドイツ・イギリス関係の維持」というとの不可侵宣言を共同で発表しました。 10月1日、ドイツ軍は、ズデーテン地方に進軍しました。 11月26日、ソ連・ポーランド不可侵条約が更新されました。 12月6日、フランスのボネ外相とドイツのリッベントロープ外相は、独仏善隣協定(不可侵共同宣言)に調印しました。 |
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1939(昭和14)年3月15日、ドイツのヒトラーは、チェコスロヴァキア大統領のハーハをベルリンに呼びつけ、プラハを空襲すると脅迫しながら、ボヘミア・モラヴィア地方の割譲を強要しました。大統領ハーハが署名すると、ドイツ軍はボヘミア・モラビアに進駐しました。 3月21日、ヒトラーは、ポーランドにダンチヒ返還を要求しましたが、ポーランドは拒否しました。 4月6日、英仏は、対ポーランド相互援助条約を声明しました。 4月7日、イタリアは、アルバニアを占領・併合しました。 4月28日、ヒトラーは、ドイツ・ポーランド不可侵条約・英独海軍協定の廃棄を声明し、フランスによるアルザス・ロレーヌ領有を否認しました。 5月22日、独伊軍事同盟が調印され、ベルリン=ローマ枢軸が完成しました。 8月23日、モスクワで、独ソ不可侵条約が調印されました。 8月24日、英仏は、対ポーランド相互援助条約を調印しました。 8月29日、ヒトラーは、ダンチヒ・ポーランド回答の割譲を要求しました。 9月1日、ドイツ陸軍・空軍は、ポーランドに進撃しました。 9月3日、イギリスとフランスは、ドイツに宣戦を布告しました。第二次世界大戦が始まりました。 9月5日、アメリカは、欧州戦争に中立を宣言しました。 |
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巧言令色鮮矣仁(巧言令色鮮し仁) |
「こうおげんれいしょくすうなしじん」は、孔子の『論語』の「学而篇」に出てくる言葉です。 巧言とは、読んで字の如く、「巧みな言葉」という意味です。 令色の「令」とは、△印(おおいの下に集めることを示す)+人のひざまずく姿で、清らかな神のお告げのことです。 令色の「色」とは、かがんだ女性と、かがんでその上に乗った男性とがからだをすりよせて性交するさまを描いたもので、セックスには容色が関係することから、「顔」や「すがた」の意味になります。 つまり、令色は、相手に気に入られようと、にこやかな表情をすることです。 巧言令色とは、言葉が巧みな者や、外見で慕われる者には、人間としての仁に欠けている者が多いという意味です。あるいは、「誠実な人間はいない」とも解釈されます。 その反対を、孔子は『論語』の「子路篇」で、次のように表現しています。 剛毅木訥、仁に近し。(剛毅木訥近仁)。 意味は、「意志が強く、無欲で飾りけのないのは、そのまま道徳の理想である仁に近い」です。 |
ヒトラーや、最近では、日本の小泉純一郎元首相が「巧言令色鮮矣仁」の代表です。 しかし、彼らにだけ責任があるわけではありません。大衆は、彼らの巧言令色を絶賛したのです。 大衆の支持を得て、ヒトラーはドイツを破滅に導き、小泉元首相は高齢者や労働者をいじめているのです。 |
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ミュンヘン協定・独ソ不可侵条約と第二次世界大戦←クリック |
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ロマンチック街道(ヴュルツブルク〜ミュンヘン〜フュッセン) |
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ツアーコンダクター美奈子さんの旅のメモです |
今日は朝9時にホテルを出発し、ロマンチック街道をドライブしてミュンヘンまで行きます。 日曜日ということで、道がとてもすいています。せっかくなので、ネルオリンゲンの街で散策しましょう。 |
ロマンチック街道(Romantische StraBe)は、フランクフルト東南約100qにあるヴュルツブルクからドイツ最南部にあるアルプス山麓のフュッセンまでを結ぶ約300qの街道。もとはローマへ続く通商路だったことからロマンチックの名がつきました。 |
ディンケルスビュール(Dinkelsbuhl)は、城壁で囲まれた中世の面影が残る小さな街。30年戦争の時、スウェーデン軍がこの街を破壊しようとした時、子供たちが将軍に哀願して街を救ったという話に基づいて7月には、子供祭りが催されます。 |
ネルトリンゲン(Nordlingen)は、リース盆地にあるかっての自由都市で、城壁が円形の街を囲み、中世の景観を残しています。 1500万年前に、隕石が落下して出来たリース盆地の中にあります。 聖ゲオルグ教会の90メートルの高い塔に皆様で登りましたね。 |
アウグスブルク手前から高速に入り、ミュンヘンまで約1時間。 ちょうど午後1時前でした。市庁舎のからくり時計にご案内しましたが、午後12時の次は、夕方5時だとか。皆さまの目の錯覚ではありません! 動いていなかったんです。 |
昼食は、Zum Spoeckmeierです。サラダ、ニンジン、いんげんとビーフで巻いて煮込んだ物、ムース。 |
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昼食後、ミュンヘンの観光です。 ミュンヘンは、人口約150万人。12世紀以来、バイエルン王国ヴィッテルスバッハ家800年の王城の地。 この王家には学問・芸術をこよなく愛した王たちが歴代、輩出し、そのためミュンヘンには彼らが建設した豪華な宮殿や美術品が残されています。第二次世界大戦では空爆を受けましたが、戦後見事に再建されました。 |
市庁舎のあるマリエン広場から、フラウエン教会へ行きました。 1468〜1488年にかけて建てられた南バイエルンの主教会。現在のローマ法王様が司教を務めた大聖堂があります。 |
フラウエン教会からバイエルン国立歌劇場に行きました。 ウィーン国立歌劇場(オーストリア)、ミラノのスカラ座(イタリア)と肩を並べる存在です。 1865年、ワグナー最初のオペラが初演されました。 |
バイエルン国立歌劇場からアルテ・ピナコテークに行きました。 中世からルネッサンス、バロックまでのヨーロッパ絵画を展示。 ティツィアーノ、デューラー、ルーベンス、エル・グレコ、レンブラント、ブリューゲル・・・。 |
アルテ・ピナコテークからニュンフェンブルク宮殿へ行きました。 バイエルン王家ヴィッテルスバッハ家の夏の離宮。 庭で写真ストップ。 |
ニュンフェンブルク宮殿から市庁舎のからくり時計。 ホテルに到着。夕食はホテル内レストランで。 |
夕食は、白トマトのスープ(コンソメスープ、言われるとトマトの風味もするかも)、すずきのグリル、ケーキ(ナッツが入ったチョコレートケーキ、ムース風ケーキ)。 同行の方の誕生日です。お祝いをしました。 |
マリオット(Marriott)ホテル泊。 |